二
夜が白々と明けていく。悪神の化身たる闇が払われ、善神の太陽が姿を見せ始めていた。
その中で取り残されたかのように蟠る黒は森、それからそれを見下ろす悪魔とその使いの黒猫だけだ。
「首尾は上々だな。我が輩、多少なりとも体力を回復出来たぞ。おかげで最近は、少しくらいの『不思議』ならばやってのけられるようになった」
そう言いながら腕を伸ばすのは、黒衣のメフィだ。側では猫のベゲモートが、ぐるぐると幸福そうに喉を鳴らしていた。
メフィは満足していた。悪魔の介入により、キュマニスの運命は大きく変わった。彼女は兄の影に隠れるのではなく、兄の影響と戦うことを選んだ。
その決意が成るにしろ破れるにしろ、それはこの国全ての行く末をも変化させるだろう。その波紋は隣国であるシュトゥーベンベルグをも巻き込むに違いない。大国の変動となれば、波及範囲はどこまでも拡大される。
それに、と悪魔は舌なめずりをする。なによりもコレ、だ。
黒衣の彼女が投げ上げたのは、一枚のコイン並の大きさのもの。太陽を反射して、目映く輝く。鏡、だ。それも古代の鏡だ。
メフィは覚えていた。かつての人間たちがこの鏡を巡り、どれほどの策略を巡らしたのか。彼らはより素晴らしいガラス鏡の製法を求めて、国を挙げての間諜合戦に勤しんだのだ。一体どれほどの死人が出たであろうか。どれほどの金が消えただろうか。それほどまでにこの存在は、人の心を魅了して来たのである。
さらに鏡の力は、心理的なものだけに止まらない。この技術が様々な機器・機械を可能にせしめたのだ。望遠鏡など、その一つに過ぎない。
「楽しみだな」。くつくつと悪魔の笑い声が広がっていく。「今でも十分にこれは大きな歪みを生もうとしている。その歪みのエネルギーがやつらを目も眩む高みに連れていくのか、はたまた力で押しつぶし崩壊させてしまうのか、実に楽しみだ。どちらにしろ……我が輩に損はない」。
高く投げられた鏡が一層強く、太陽光を反射した。途端にガラス鏡は砕け、全ては悪魔の羽へと変化する。後から後から、止まることを知らぬげに降り注ぐそれらは、一つ一つが光を反射させたかと思えば、即座に切り替わり、ある場面を映し出した。
ベゲモートが覗き込んだ先、そこで繰り広げられていたのは、昨晩のキュマニスを巡る一連の出来事の再放送なのであった。
最初に映し出されたのは、メフィと同一の顔をした娘であった。短く切り落とされた髪に、動きやすそうな簡素な服。彼女の側に立つ両親、また後ろに控える貴族たちが豪華な衣装なだけに、彼女の異彩が際立つ。
彼ら三人の前に跪くのは、白面の僧。ハインリヒが出会ったアンブロシウス王太子の側近、ロザリオであった。
彼が恭しく挨拶を述べようとするのを、キュマニスが手を振って止めさせた。
「キュマニス、失礼ではないの。このロザリオは、シュトゥーベンベルグ王太子の代理として来られたのよ」
「失礼なのはそちらでしょう」
ザビーネ王妃の言葉にもキュマニスは動じない。今までは従順だった継子の変貌ぶりに、王妃は眉を潜めた。威圧するかのように、背筋を伸ばす。だがキュマニスは、気にもしなかった。
「国境を越えるには、まずはこちらの許可を得るのが道理。それが勝手に城まで押し掛けて来ておいて、丁寧なご挨拶だなんて馬鹿げている。形だけ取り繕うな。お前たちの胸の内など、お前が今ここにいることだけで十分に示されている。即刻、去れ」
「失礼ながらザビーネ様、どうやら子育てに失敗なされたようですね」
深く頭を下げていたロザリオが、おもむろに立ち上がった。豪華な僧衣が露わになる。白と赤はシュトゥーベンベルグの異端審問僧の証。彼はキュマニスを睨み付けて、続けた。
「わたしは王太子の代理でございますよ。そんなわたしに対しての、この仕打ち」
はっ、キュマニスが失笑した。その声に場に大きな動揺が走る。
今までノイベルグがここまでシュトゥーベンベルグに楯突いたことなど、断じてなかったのである。穏便に、波風立てぬように相手の体面を慮って、その上でなんとか自分の言い分だけは死守するべく努める。それがノイベルグの「戦い方」であった。
その結果が、現状なのであった。シュトゥーベンベルグから流れ込む密輸品は止められず、黒い森を巡る国境問題は緊張の度合いを高めるばかり。金も評判も、シュトゥーベンベルグへと流れ続けている。
「おまえがアンブロシウス王子そのものだとしても、私の対応は変わらないよ。ノイベルグはシュトゥーベンベルグの属国ではないのだ。勝手に国境を侵入した以上、私が発する言葉は一つ、即刻立ち去れ、のみだ」
「口の悪い姫様だ」。仮面でも防げないほどに烈しい怒りが、ロザリオに漂う。「ノイベルグの立場を考えるべきですよ、キュマニス姫。シュトゥーベンベルグはその気になれは、この国くらい簡単に滅ぼせるのです。もっとも、森林資源以外に欲しいものもございませんがね」。
「口が悪い、ね。その言葉そっくりそのままお返しするよ。ロザリオだったか? お前のような僧が王子の側近にまで出世が出来るとは、シュトゥーベンベルグの異端審問は相当な人材不足と見える」
ロザリオは堪らずノイベルグ王を仰いだ。だが彼の期待とは違い、王は娘を咎める気はないようだった。重々しく開かれた唇が紡いだ言葉は、「して、わざわざここまで来られた用件とは何かな? ロザリオ殿」のみ。
ロザリオは周囲をぐるりと見回した。仮面の向こうに垣間見える瞳に燃える憎悪は、再放送にも関わらず、メフィを喜ばせるには十分であった。
王を見据えて、僧は言った。
「引き渡しを。ハインリヒと言う名のガラス職人です」。ひゅう、とメフィが一人、口笛を吹いた。「彼は善神のための金属鏡の紛い物を製造・販売している。彼は善神を貶める者、悪神の手下です。現にハインリヒは、我らが城から悪魔の手を借りて逃げ出したのですから!」
「まぁ、なんてこと」。最初に反応したのは、王妃。「あの小物、まさかシュトゥーベンベルグまで行っていただなんて」。
「彼がノイベルグの人間であることは、分かっています。キュマニス姫、あなたの庇護の元で暮らしていることも」
ロザリオが懐から取り出したのはガラス鏡。シュトゥーベンベルグが国境で没収した物だ。
本来ならば証拠品として王に献上されるはずだったであろうガラス鏡は、怒りに燃えるロザリオにより、投げ捨てられた。床と劇的な出会いを果たしたガラス鏡が、大きな騒音を立てる。砕けたその一部で、キュマニスの紋章が鮮やかに輝いた。
「即刻の引き渡しを」
耳障りな音にも、ただキュマニス一人は動じない。
「どうしてお前に、引き渡さなければならないのだ? もしもあれが悪神の手下であったとしても、それを裁くのは我らがノイベルグ異端審問だ。お前らではない」
「何を言うのです!」 ロザリオよりも早く、王妃が反応した。「今のノイベルグ異端審問に何が出来ます? さっさと渡しておしまい。後はシュトゥーベンベルグがなんとかしてくれるでしょう」。
「お母様、ハインリヒはノイベルグの国民です。例えどこの馬の骨か分からずとも、彼はノイベルグで暮らし、ノイベルグのために働く、立派な国民です。それを『さっさと渡せ』とは。お言葉ですね。あなたにはノイベルグ王妃の誇りがないのですか」
「誇り!」 継子の初めての反抗に激昂した王妃が叫ぶ。「そんなものだけでは、生きてなどゆけません」。
「確かに。けれどもそれがなくとも、生きてはいけませんでしょう? それは貴女が一番ご存じのはず。あなたはこのノイベルグに無理矢理に嫁がされ、誇りを失った。違いますか?」
「おまえは!」
王妃の手がキュマニスの頬を打った。あまりの激しさに床に転げてもなお、キュマニスの瞳は死なない。動揺しているのは、王妃の方だ。その事実こそが、キュマニスの言葉が真実を突いていることを、雄弁に示していた。
「キュマニス、おまえはどうしたいのだ」
静かに王が口を開いた。床に倒れたまま、それでも姫は言う。
「私はもう、卑屈に生きるのは嫌なのです。シュトゥーベンベルグは確かに大国です。けれど、だからといって、彼の国の顔色ばかりを伺って、一体何になるのでしょう。私たちは今まで、それで何かを得たでしょうか?」
王がキュマニスの前に膝を付いた。床から助け起こしてやった娘が立ち上がるのを、見守る。キュマニスは静かに父を見下ろす形となった。
いつもいつも大きいと思っていた父が、彼女には今、とても小さく見えた。いつの間に、こんなに老いてしまったのだろう、と思う。毎日顔を付き合わせているのに、今の今まで気が付かなかった。
対する父親の思いは、鮮やかなまでに娘と反対であった。王の瞳が柔らかく緩む。
「おまえはもう、こんなにも立派になったのだな。私は今までずっと、シュトゥーベンベルグの意のままになって来た。それがこの国のためだと、信じてきたのだ。けれども確かに、私は何も成し遂げなかった。問題を先延ばしにしただけではない、より複雑にした。
老兵は去ろう。若いおまえならば、新しい時代を拓けるのやもしれない。どちらにしろ、今のままではどうにもならぬ。だから、やってごらん。私はおまえの味方になろう」
「王!」 鋭い叱責は、王妃だ。「そのおつもりならば、私はシュトゥーベンベルグに帰らせて頂きます。それがどんな結果を生むか」、だが王妃の言葉は遮られた。
「やってみるが良い。そもそもおまえが帰れるならば、だがな。私が何も知らぬ無能だと思わぬことだ、ザビーネ。私は決めたのだ。キュマニスを王太女にする。私の死後、ノイベルグを継ぐのはキュマニスだ」
その言葉で王妃は意識を失った。突如訪れたのは、沈黙。
貴族たちはただ目を交わしあう。キュマニスが王太女。ノイベルグの次期女王。今までずっと問題とされていた次期ノイベルグ国王が誰かは決まった。だが同時に一つ、新たな問題が出現したのだ。それは。
「ノイベルグ王。キュマニス姫とアンブロシウス王子との婚姻は、どうなさるおつもりですか? 姫にシュトゥーベンベルグ王妃とノイベルグ女王を兼任させるおつもりですか」
「シュトゥーベンベルグ王妃の座は他の娘に差し出すがよい」
「なるほど、それがノイベルグ王のお答えなのですね。シュトゥーベンベルグは長年ノイベルグを特別に優遇してきたというのに、この仕打ちですか」
「おまえの国では『特別な優遇』と言うのは、国境侵犯のことを指すのか? 斬新だな」
キュマニスの揶揄混じりの台詞に、ロザリオの憎悪が滾る。
「姫、あなたには悪魔の臭いがいたしますよ。あのハインリヒに憑いているのと同じ臭いが」
「悪魔ね。もしも私が悪魔ならば、今すぐにノイベルグを救えるのにな」
「罰当たりめ。そんな態だから、善神の火付けの儀式に失敗するのだ。呪われるがよい」
「人を呪うのは悪魔だけだ、ロザリオ。語るに落ちたな」。瞳に憎しみを漲らせるロザリオとは対照的に、キュマニスはどこかすっきりとした表情だ。「私はただの人間にすぎない。だからまずは、私に出来ることをしようと思う。私は国民を守りたい。つまり、お前にハインリヒを引き渡すつもりは、ない」。
「なるほど、ノイベルグ王太女はシュトゥーベンベルグ王太子の求めを拒絶するのだな」
「ああ。王太子の要求は正当ではないからな。却下だ。帰って伝えろ、ノイベルグの王太女がガラス鏡の引き渡しを要求しているとな。今後一切、我らの活動を邪魔するな。現在の我らは、おまえらの密輸を妨げたりしていないだろう?」
「分かった、伝えてやろう。結果何が起ころうとも、それはお前のせいだ」
「当然だ」。キュマニスが綺麗に微笑んだ。「既に夜も更けた。今晩はロザリオ、お前もゆっくりと泊まっていくが良い。我らは慈悲深いからな、国境侵犯のお前だが、明日の朝までは客として扱ってやる。だが明日以降は覚悟しておけ」。
早速案内に現れた侍女に従って、ロザリオは謁見室を後にした。最後に優雅に一礼し感謝を示しはしたが、その胸の中は悪意に満ちているのだった。
「シュトゥーベンベルグに逆らう悪神の手下、ヴォランドの同業者よ、すぐに償いをさせてやる」
そう呟いた彼の言葉は、メフィだけが聞き取った。
散らばっていた羽たちがより集まり、一つの形を取った。からり、と音を立てて悪魔の手のひらに落ちる。メフィはそれを指で弄んだ。彼女が触れる度にそれ、ガラス鏡、はきらりきらりと太陽光を反射させて輝くのだった。
「見たか、ベゲモート。いやおまえはあの場にいたのだったな。実に羨ましい。あの場に充満した感情は、さぞや美味だったことだろう」
だが、と悪魔の視線が地上へと落ちた。城から着飾った男女が何人か、密やかに出てくる様が見える。彼らは一様に、大きな手荷物を抱えているのだった。
「それはこれからも味わえそうだ。キュマニスが王位継承者となった事実は、ノイベルグがシュトゥーベンベルグの言いなりから脱することを意味しているからな。それは一部の連中には、自殺行為以外の何者にも見えんだろうさ。その言い分も、あながち間違ってもいないから、救えない。
まだ早朝だからこそ、この程度で済んではいるが、昼になれば城下町では先の出来事を知らぬ者はいなくなるだろう。今晩はさぞや亡命者で溢れることとなるのだろうな。黒の森が黒い木ではなく、人間で満たされることになるやもしれんぞ」
くつくつと悪魔が笑う。強い風に、メフィの髪が大きく乱された。豊かに実る小麦を思わせる、目にも鮮やかな金色が光る。
「何事も強いものには逆らえぬのが道理。我が輩、あの無謀な姫様は好きだがな、その前途は暗いぞ。だが一つだけ起死回生の希望がある。それは、なぁ、ファウスト?」
メフィの手の中のガラスが、再度強く輝いた。それは先ほどまでの古代のガラス鏡ではなく、不完全で気泡の多い、ハインリヒのガラス鏡に変わっていた。




