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 窓から突き落とされるだなんて、滅多にない経験を積んだばかりのハインリヒは、床にへたり込んだまま、動かない。いっそ気絶してしまえば良かった、と彼は思う。意識があったが故に、急落下だけではなく悪魔に背中を捕まれたまま大滑空なんて経験まで重ねてしまった。

 必死に肩で息をしながら、記憶を振り落とす。悪魔を睨みつけてやれば、「恩知らずめ」と満面の笑みで返された。

「我が輩、貴様が借りてきた馬までちゃんと返してきてやったのだぞ。まぁ実際に返しに行ったのはベゲモートだが」

 「それに」、とメフィはその美しい指をハインリヒに突き付けた。「我が輩は止めただろう? それを振り切ってシュトゥーベンベルグまでわざわざ出向いたのだぞ、貴様は。ご丁寧に透明ガラスの実演までして手の内を全て明かし、その見返しに監禁されるとは、実に面白い大冒険だったな」。

 全く持ってその通りなのであった。ハインリヒは押し黙った。拳を握ろうとして、ようやっと気がついたのだ。今、自分がへたりこんでいる床が、見慣れぬものであることに。書庫とは全く違う、細やかな細工が施されたそれは、どこか城壁に似ていた。

 恐る恐る視線を上げたハインリヒの目に映ったのは、二人の娘。鏡に映った像のように、そっくりだ。だが表情は大きく異なる。彼に指を突きつけている娘は満面の笑み、奥で腕組みをする娘は眉を寄せている。

 ここまで似ているのに、違う。鏡に映った像が、本物とは左右を違えているように。実像と鏡像は同一のようでいて、その実、異なるのだ。キュマニスによく似たメフィ、人間とよく似た悪魔。だがそれは、全く別の個なのだ。

 「メフィの言うとおりだ」。キュマニスが口を開いた。「なんて無謀なことを。けれど」、その口調が緩んだ、「おまえにここまでさせてしまったのは、私なのだ。ガラス鏡の販売なんて欲を見せたから、罰せられたのだろうな。やはり金属鏡以外の鏡など、善神には認められないのかもしれない」。

 「そうだろうな」。意外なメフィの言葉に、ハインリヒは思わず目をしばたかせた。「善神の怒りを買ったに違いない。しかもガラス鏡にはキュマニス、おまえの紋章が入っているのだぞ。シュトゥーベンベルグ異端審問は、おまえの責任を追及するだろうよ」。

 ガラス鏡にキュマニスの紋章である百合を配そうと言い出したのは、この悪魔であった。

 だが「違う」、と声を上げたのはハインリヒ。確かに全てはメフィ、悪魔が仕組んだものなのかもしれない。けれど、「ガラス鏡が不敬なものだから、善神に罰されたんじゃない。邪魔をしたのは善神でも悪神でもなくて、人間だ」。

 ガラス鏡は確かに彼自身の手によって作られたのだ。だから彼は信じた。自分の力を、人間自身の力を、――そして人間の悪意を。

 黒猫を虐げるのは悪神ではなかった。人間であった。全ては神ではなく、人間に備わっているものなのだ。

 ハインリヒの発言に、悪魔は愉しげに笑った。だが場の人間たちは誰もその事実に気が付かない。悪魔は手で笑みを隠しながら、言葉を継いだ。

「どちらにしろ事態は変わらぬよ」

「そんなことはない! 相手は善神、逆らうことの出来ない相手なんかじゃない。ただの人間だ。だから希望はある。抗える」

「抗える、ねぇ」

 メフィの眉が跳ね上がった。そのくせ、手の下では、笑みが深まるばかりなのであった。「相手は人間とは言えど、ノイベルグよりも強大なシュトゥーベンベルグの異端審問だぞ。

 彼らはガラス鏡の製法そのものの破壊を目論んでいるのだ。当然、技術者を差し出せと言い出すだろうな。さて、果たしてそれをノイベルグは拒めるのやら」

 「ハインリヒの言うことは、正しい」。キュマニスが口を挟んだ。沈んでいた表情に、覇気が戻っている。「相手は確かに、単なる他国の異端審問だ。ヤツらがなにを要求しようとも、全て撥ね付けてやろう。私は一人たりとも引き渡したりはしない」。

 「なるほどなるほど」。メフィは自身の声に喜びが漏れ出さないようにするのに、苦労した。その努力を、誰も知らない。

「だがそれも時間稼ぎにしかならぬよ、キュマニス。お前がシュトゥーベンベルグ王太子であるアンブロシウスと結婚してしまえば、ノイベルグも彼の支配下になるのだからな。

 基本的に女に王位継承権はない。王の特別な許可があれば別だが、お前は未だに単なる『王女』に過ぎず、王位継承者のみが着られるマントを与えられてもいないのだろう?

 つまりは今、ノイベルグには王を継ぐ子はいないということだ。ならば王女が結婚すれば、義理の息子となる王女の夫、つまりこの場合はアンブロシウスだ、にノイベルグの継承権が与えられるさ。そうなればガラス鏡の製法も何もかもが、シュトゥーベンベルグのものだ」

 だから、とメフィはキュマニスの瞳を覗き込んだ。同色の四つの目が交差する。

「おまえが本当に抗うつもりならば、アンブロシウスとの婚姻を破棄するしかないぞ。そして父王から、王太子ならぬ王太女としてお前を認めさせなければ」

「だが婚約破棄などした日には、全面戦争になりかねない」

 しっかりとメフィを見返しながら、キュマニスが言った。どちらにも引く気などないのだ。悪魔がキュマニスに顔を近づける。触れんばかりの距離で、実像と虚像のようによく似た、それでいて全く別個の二人の視線が交わる。

「今更、対立を避けられると思うのか? 現に今、貴様らは国境問題で揺れている。シュトゥーベンベルグの燃料問題は深刻だ。森を巡る問題は悪化しこそすれ、改善されることなどないぞ。

 それに加えて密輸。あれを止められぬ限り、ノイベルグからの金の流出は続く。しかも流入する贅沢品のおかげで、シュトゥーベンベルグへの憧れは強まるばかりだ。

 シュトゥーベンベルグは密輸によりノイベルグからは金を得、代わりにシュトゥーベンベルグの優位を刷り込み、そしてその金とイメージで国境問題を優位に進めるつもりだ。

 さてさて、それでも姫様は指を咥えてお眺めになられるか?」

「そんなことは分かっている」

「本当に? そもそもからして、この婚姻自体がおかしいのだ。今となってはノイベルグが得るものなどないぞ。――だがこれは、シュトゥーベンベルグも同様か。重婚が認められぬ現在、大国の王太子の妃選びは重要だ。確かにおまえと結婚すればシュトゥーベンベルグは黒の森を得られはするだろうが、だがその程度、今のままでも力で得られる。

 いや今度の鏡の件を切っ掛けに、やつらがそれをたくらんでいても不思議ではないよ。なにせガラス鏡は悪魔の仕業だと、彼らは結論付けたのだからな。悪魔を打ち砕き、悪神にダメージを与えるためならば、異端審問というのは何だってやらかすものなのだろう?」

 睨み合う二人の前で、ハインリヒは途方に暮れていた。自分のせいでこんな大問題を引き起こしてしまっただなんて、身の置き所がない。一体自分に何が出来るだろうか。何かキュマニスのために、出来ることがあるだろうか。

 そんな彼の視線に気が付いたのか、キュマニスが薄く微笑んだ。

「お前が気にすることなど、何もない。ガラス鏡は私の指示によって作られたのだ。お前のせいでは決してない。それに、メフィの言うことは確かに正しいのだ。いつかシュトゥーベンベルグとは敵対せざるを得ないのだよ」

 「ほぉ」、悪魔が意味ありげに首を傾げた。「姫は覚悟を決められたのか?」

 だが悪魔の揶揄に、キュマニスは爽やかに笑って返した。

「ああ、私に何が出来るのかは、分からない。私にその力があるのかも。でも、ノイベルグの名を継ぐのは、継げるのは、私だけだ。今となってはな。だから抗ってみようと思う」

「なるほど。ついに決めたのだな。おまえこそがこの国の後継者だと、みなに認めさせてみせろ。ヴァレンティン王子、おまえが殺したおまえの兄だ、の残した影を、その手できれいさっぱり葬り去り、そこにおまえがのさばるのだ」

「何て言い種だ!」

 ハインリヒの激怒を、キュマニスは静かに制した。

「私はずっと、兄の影に怯えていたよ。いいや、今だって怯えている。兄ではなく私が死ねば良かったと思ってきた。どうして私は生きているのだろうか、と感じて来たのだ。

 メフィ、私はいつかお前を殺しかけたな。だがその時にお前は言った。『本当に殺したいのはお前自身なのだろう』と。その通りだ。――ハインリヒ」

 視線を向けられたハインリヒは、知らず背筋を伸ばした。キュマニスの萌え出でる緑の双眸が、彼を真っ直ぐに見ている。

「おまえは私に深い恩義を感じていてくれるようだが、そんな必要はないんだよ。私がおまえを助けたのは、おまえがどこか兄に似ていたからだ。おまえを助けることで、私は兄に贖罪をしたつもりになっていたのだ。私のおまえへの親切は、全てそのためだったとすら言えるのかもしれない」

 ハインリヒは沈黙した。意外なその言葉に、どんな表情をしていいのかすら分からないのだ。

「おまえにやった名前は、知っての通り兄のミドルネームだ。全ては私の自己満足なのだよ。だから私に感謝なんて、しなくていい。その名前だって、重荷ならば捨ててくれて構わないんだ」

 沈黙が落ちた。キュマニスもハインリヒも、ただ静かに俯いている。メフィも口を詰むんだ。

 静寂を破ったのは、キュマニスであった。彼女の視線が、ハインリヒからメフィに転じる。その声は微かに、震えていた。

「なぁ、悪魔よ。お前があの時に教えてくれた、私の名前の話を覚えているよ。キュマニスも、ヴィルゲフォルティスも、ともに聖女の名前だとお前は言った。ヴィルゲフォルティスの意味は、『力ある乙女』。父親から強制された結婚を拒絶し、魔女として火炙りにされるも、死後、祀られた聖女だと。

 私には彼女ほどの名声はないよ。だからきっと、魔女として死ぬだろう。私の死骸は忌まわしいものとして投げ捨てられ、振り返る人もいない。それで良い。けれど私は、この国のために何かをしたい。兄ならきっと、成し遂げただろうことを」

「あれほど死にたがっていたくせに、現金なやつめ。だが我が輩、その手の逞しさは嫌いじゃない。――だがただ一つ、忘れるな。お前はお前だ。兄にはなれない。兄になど、ならなくて良い」

 メフィの言葉に、キュマニスが笑った。それは今まで彼女が見せた中で最も肩肘の張らない、素直なものであった。応ずるメフィの笑みにも、邪悪さは微塵もない。まるで天使の如く、透明だ。

 メフィが手を伸ばす。その上に一枚、二枚、と降り落ちるのは、羽根。漆黒かと思いきや純白に、赤かと思えば青に、色を自在に変えながら、舞う。

「死ぬことは生きることだ。生きることは死ぬことだ。お前が立ち止まろうとも、時は飛び去っていく、誰も逃げられはしない」

「お前の言うことは、全て正しいよ。悪魔は嘘を吐かないのだな」

 微笑み合う二人は、まるで実像と鏡像のように相似。だがそれは、決して同一ではない。

「私は今年で兄の歳に追いつく。これからは兄を追い抜いていくのだ。どう足掻いても時は止まらないし、戻らない。

 いつだって比べられるのが嫌だった。兄に劣る私に、みなが落胆した。それが嫌で嫌で堪らなかった。私は自分に自信が持てずに、殻に閉じこもったのだ。

 でもそれでは駄目なのだ。もう兄はいないのだから。ノイベルグの名を継ぐのは、私だ」

「おまえはたった一人でこの国を変えようと言うのだな。シュトゥーベンベルグとの偽の平和に微睡むこの国を叩き起こし、圧倒的な力を誇る隣国と対峙しようと言うのだな」

 「そうだ」。断言するその言葉には、もう迷いは見えない。「私はずっと私自身を殺したかった。けれど私に死は許されていない。だから死を願うのと同じだけの強さで、今度は生を求めてやろう。私の死への希求は激しいぞ。それと同等の過激さで、生を要求してやる。私の望まぬことは、全て拒絶してくれよう」。

 キュマニスは笑った。晴れやかに。ひらりと身を躱した悪魔の羽根が、漆黒から純白へと色を変えた。

「魔女と糾弾されようが、兄殺しめと罵られようが、もう心動かされたりはしない。私は魔女で兄殺しだ。その罪を背負って生きていく」

 「ああ」。嘆息するのは悪魔。「我が輩はお前が好きだよ。お前のような連中の絶望が、希望が、願望が、勇気が、我が輩を産み出し、育んできたのだ」。

「希望が悪魔を?」

「そうだ。悪と善とは渾然一体であり、分けることなど不可能なのだよ。何事も全くの善ではあり得ず、悪も時として創造性を孕むのだ。それを分離出来ると考えるのは、貴様らの思い上がりだよ。

 認めるが良い。心の中に生まれる良い感情も、悪い感情も、全てをあるがままに認めるのだ。それが罪だとしても、それらこそが貴様自身なのだ。認めろ。それが喜劇に化けるか悲劇に落ちるかなぞ、誰にも分からぬ。だが逃げられやしないのだ。

 ならばせめて、胸を張れ。笑え、泣け、大声で」

「言われなくとも、そうするつもりだ」

 にっこりと笑むキュマニスは、悪魔と同じくらいにふてぶてしく、堂々として見えた。


 だがそんな笑みも、長くは続かなかった。真っ黒い猫ベゲモートが、自身の色にも負けぬほど不吉な知らせを持って現れたからだ。その内容は、シュトゥーベンベルグ異端審問の突然のノイベルグ城訪問であった。それもキュマニスに会いに来たと述べているらしい。

 キュマニスの表情が、苛立ちに取って変わられた。

 異端審問はその仕事内容こそ、「善神に仕え悪神を挫く」壮大なものとされてはいるが、その実は王家直下の組織に過ぎない。国を越えての行動は、許されていないのだ。それにも関わらず、連中は再度勝手に国境たる黒の森を越えて、勝手にやって来たのだった。

 ベゲモートのもたらした情報が真実であることは、直ぐに判明した。キュマニスの元に真っ青な顔をした侍女が走り込んできたのだ。

 キュマニスは無言のままで立ち上がった。その背中に向かいメフィが問いかける。「覚悟に揺らぎはないのか」と。答えは早く、短かった。「当然だ」。

 それから彼女は振り返った。ハインリヒを見て、言う。先から彼は一言も発していないのであった。

「お前が気にすることは、何一つない。私が全ての責任をとると言っただろう?」

 堂々と胸を張り部屋を後をするその姿に、ハインリヒは心を打たれていた。黒猫がそっとキュマニスの後を追う。扉が重々しく、閉められた。その後にもたらされるのは、静寂。

「勘違いするな」

 ハインリヒに向けられたメフィの声は冷ややかだ。

「あの小娘は恐れを知らぬ勇者などではない。あれだって怖いし、不安なのだ。だから勝手に神格化してくれるな。

 貴様ら人間どもは、いや我が輩をも含む生物は、常に変わっていかねばならぬ。生きることは変わることと同義なのだからな。生は一瞬の泡のようなもの。すぐに弾けて、死と呼ばれる無生物に我らは戻る。生ある一日が、一分毎が、一秒一秒が博打なのだ。負ければ即、終わり、だ」

 「あの娘は」、メフィの視線がハインリヒを射る、「今、多大な勇気を持って、大きな選択をしたよ。それが吉と出るか凶と出るかは、未来だけが知っている。

 それで貴様はどうするのだ? このまま震えて、あの娘の庇護に頼るのか?」

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