三
ハインリヒは感動に打ち震えていた。アンブロシウス王子が用意してくれた部屋は、彼が今まで想像すらしたことがないほどに、豪華絢爛だったのだ。
ハインリヒは部屋を見回す。床には毛皮が敷かれており、踏むのに躊躇を覚えるほどであったし、壁も地味ながら丁寧な手仕事で絵が描かれており、何カ所かは変化を付けるためだろう、天井から床に達するほどに重厚な布が垂らされている。黒光りする机は、その素材すら彼には分からない。ベッドはこのまま永眠しても後悔しないほどに、快適だ。
そのベッドに横になりながら、ハインリヒは胸元から金属鏡を取り出した。裏に配されたキュマニスの百合の紋章をなぞる。あの王子は、とハインリヒは心から思う、本当に良い人なのだ。実に、キュマニスの夫に相応しい。
「良い人、ねぇ」。突如聞こえた耳慣れた声に、ハインリヒが飛び起きた。一体いつからいたのやら、ベッドの端には黒猫、ベゲモートが座っている。ならば近くにメフィもいるのかと、必死にハインリヒは目を凝らすが、どこにも見つからない。
「道化め」。ハインリヒは、驚きに飛び上がった。なんとメフィの声は、ベゲモートの口から出ているのだ。「ひっ」と思わず悲鳴が漏れる。
「どうなされました!」
彼の声に反応し、多数の兵士が一気に部屋へとなだれ込んだ。ハインリヒは必死に猫を隠そうとしたが(なにせ黒猫は悪魔ヴォランドの配下とされるのだ)、その必要はなかった。猫は既にどこぞへと、消え失せていたからだ。
数多の視線に晒されたハインリヒは、今度は言い訳を必要とする立場に陥っていた。必死に絞り出した理由は、「すいません。今突然、虫が落ちて来ちゃって……。ちょっとビックリしただけなんです。本当にすいません」。
そんなことで叫ぶなんて、と怒られることを覚悟したハインリヒだが、意外なことに兵士たちからは「そうでしたか。何もなくて安堵いたしました」との、平和この上ない返事が戻ってきたのだった。
礼儀正しく部屋から去っていく兵士を、ハインリヒが見送った直後、ベッドの下からごそごそと、しかし厳か極まりない表情で現れたベゲモートが、メフィの声音で言った。
「おやおや。貴様、どうやらあの兵士どもに監視されているようだな。来るのが早すぎる上に、あんな悲鳴一つで飛んでくるとは、なかなかの貴賓扱いじゃないか?」
「そんなこと、ないよ。俺に兵士を張り付ける理由なんてないし」
猫の喉を借りて語る悪魔と会話をするのは、何とも奇妙な気分であった。
「そうか? 悪魔のガラス鏡の最も重要な部分を生み出せる貴様だ、王子が見張りを命じるのも当然だろう。放っておいて一般人に被害が出ては困るからな」
「違う。王子は俺の話を聞いてくれた。俺のことを悪神の手下だと思っているはずがない。あの方はとても良い人だよ」
「良い人ねぇ」、メフィの声が、ベゲモートの喉から発せられるその声が、低くなった。猫の宝石の如き緑の瞳が細まる。「貴様があの王子のいったい何を知っているというのやら」。
コンコンとドアを叩くかのような微かな音は、金属鏡から。ベッドの上で裏返しになったままのそれをひっくり返したハインリヒは、再度悲鳴を上げそうになった。
小さな鏡の中には、聖なる金属鏡の中には、悪魔がいた。娘の姿をしたそれが意味ありげな視線を向ける先には壁、それを追いかけたハインリヒが見たのは、天井から床までを覆う布地だ。
「あれが良い人で貴様を信じてくれていると言うのならば、どうして貴様をこんな部屋に入れたのだろうな」
その言葉に不安に駆られたハインリヒが走りよったのは、悪魔が目線だけで示した壁を覆う布。近づけばそこから冷気が流れ出しているのが分かる。大きく息を吸い覚悟を決めたハインリヒは、一挙に重たい布を捲り上げた。
布の下に隠されていたのは、大きな窓であった。それはなんとも珍しく、かつ高価な色ガラスで、全面が覆われていた。大きな板ガラスが未だに製造されていない現在のこと、窓は複数の板を継ぎ合わせて埋められているのだが、その一枚一枚がどれも鮮やかな色である上に、組み合わせの妙が素晴らしいのだ。
だがその芸術がハインリヒの心を掴んだのも、僅かな時間だけであった。窓から滑り落ちる冷気が、彼を冷やした訳ではない。
ただ気が付いたのだ。色ガラス同士を繋ぐ為に使われている金属が、一般的な柔らかい鉛ではなく、強い鉄であることに。美しさで騙されてしまいそうになるが、これは華麗なる鉄格子なのであった。
「どうやら」、猫の喉で悪魔が囁く、「ここにはさぞかし高貴な囚人がいたようだな。その彼だか彼女だかのための部屋に通されるとは、貴様も出世したものだ」。
「そんな」、美しい窓の下に力無くへたり込んだハインリヒの前に、悪魔の黒猫が歩み寄った。咥えてきた鏡を落とす。その中からはメフィが楽しそうにハインリヒを見遣っていた。
「傷心の貴様に、我が輩からのささやかな贈りものをくれてやろう」
それだけ言うと、善神の象徴たる聖なる金属鏡の中の悪魔は、ハインリヒに向かって手を差し出した。
小さな鏡の全てが、悪魔の白い手で覆われた。怪訝な表情を浮かべたハインリヒだが、瞬く間に、鏡の周囲に紫の文様が浮かび上がって来たのだった。驚く暇もあればこそ。みるみると紋様は全面を覆い、全てが紫一色に塗りつぶされる。それが徐々に黒みを帯びたかと思えば、それもまた一瞬。後に鏡に映る像は、完全に切り替わった。
一体何の映像なのかと鏡を見詰め続けるハインリヒに提供されたのは、複数の人間たちの姿であった。その中に彼は白面の僧ロザリオと、アンブロシウス王子の姿を見つけた。
彼らが顔を寄せ合う中央に置かれているのは、ハインリヒが作った透明ガラスのようだ。その隣には既に完成したガラス鏡。ハインリヒには見慣れたそれは、シュトゥーベンベルグの異端審問が没収したガラス鏡だろう。
鏡の側に座った猫は、忠実に彼らの声までをハインリヒに届けてくれるのだった。
まず動いたのは、右端の人物であった。ガラスと鏡をともに取り上げると、嘆息した。
「見事だ。これほどの品が我が国でも作れたならば、どれほど高価な値が付くことか」
即座に反論の声を上げたのは、アンブロシウス。
「ですがこの鏡には悪魔の臭いがすると、ロザリオが言っております」
ハインリヒは、アンブロシウスの口調に驚いた。彼の言葉使いは、間違いなく上位の人間に対するものだ。つまり相手は王太子よりも地位の高い人間、即ち、シュトゥーベンベルグ王に他ならない。小さな鏡越しでは分かりにくいが、確かに二人は似ているように思える。
「悪魔の臭い、か」
王はどこか不満げに鼻を鳴らした。だが場の空気は、息子の方に分を上げていた。
「ええ。鏡は金属製しか認められません。金属鏡こそが、善神の化身たる太陽を模すものなのです。それ以外の鏡など、とんでもない」
「だが」、と王はまだ諦めきれないようであった、「このような見事なものを葬り去ってしまうのは、惜しい」。
「ですが、王」。今まで沈黙を保っていたロザリオが声を上げた。「このガラスが作られる様子を監視していたガラス職人に依りますと、燃料の消費が一般的なガラスと比べて断然多いのだそうです。既に我が国は燃料の不足に喘いでおりますのに、これ以上の負担など、耐えられません」。
「なるほど、ならば仕方がない。あの若者は今のまま捕らえておけ。アンブロシウスとキュマニスとの婚姻が成り、ノイベルグが手に入った暁には、黒の森の木々によって燃料の不足は解決されるだろう。
それまでは姉が、今やノイベルグ王妃であるザビーネが、ガラス鏡作りを妨害していてくれるさ。キュマニスとの婚姻が成るのもそう遠くはないしな」
「おやおや」、ハインリヒの耳元でベゲモートが、否、メフィが笑った。「どうやらこの部屋から追い出されることはなさそうだな。その上、結婚式まで見物出来るかもしれんぞ。何せここには立派な窓があるからな」。
鏡の中の映像はまだ続いていた。シュトゥーベンベルグ王の背中が見える。彼は部屋から出ていくところであった。場の全員が深く腰を折り、その後ろ姿を見送る。
だがそんな敬虔な姿勢も、長くは続かなかった。王が立ち去ったのが確認された途端に、彼への不満が噴出する。曰く、王は華美好み過ぎる。曰く、王は新奇なものを好み過ぎる。
アンブロシウスが手を挙げ、彼らの議論を止めた。「全くもってその通り。だが今問題なのは、このガラス鏡だ」。
「これは悪しき物でございます。悪魔の手になる物でございます。これを作り出したハインリヒとやらは、悪魔の眷属に違いありません」
そう主張するロザリオに、誰も反論する者はいなかった。ハインリヒの見守る前で、彼の命運は決したのだ。
「ならば王には発覚しない方法で、あの若者には死んで貰うこととしよう。透明ガラスを作れるのは彼だけだそうだからな。そうすればもうこれ以上、この悪しきガラス鏡が産み出される恐れもない」
「おやおや」、楽しげに笑うのは悪魔、金属鏡の表面には再度紫の文様が浮かび上がり始めていた。映像を塗りつぶしていく。「どうやらもう二度と、貴様には会えぬようだな」。
その言葉が終わるか終わらないかの間に、鏡にはまたメフィの手のひらが見えてきた。彼女が手を引けば、そこにはにやにやと緩い表情を湛える姿が。
その途端、ハインリヒの覚悟は決まった。立ち上がると、その拍子に悪魔を映す聖なる金属鏡が遊家に転げ落ちた。
足下の小さな悪魔を見下ろしたハインリヒは、啖呵を切るために口を開いた。彼は思い出していたのだ。いつかこの悪魔が自分にした「手札」の話を。
確かに自分が持っている札は少ない。だがそれはこの悪魔も同様なのだ。彼女は契約者を欲している。そしてその条件を満たしているのは、今のところどうやら自分一人のようなのだ。利用しない手はない。
「俺は契約なんて、しない。でも良いのかメフィ、俺が死ねばおまえも困るんじゃないのか? このまま俺を見殺しにして、それでお前は平気なのか」
兵士の乱入を恐れて、それは顰められた音量であった。だがその真っ直ぐに伸ばされ金属鏡につきつけられた人差し指には、彼の決意がありありと現れている。
悪魔の眉が顰められた。ハインリヒは臆することなく、メフィを睨み付ける。
彼はまだ死にたくはないのだ。悪魔と契約するのも、お断りであった。そんなことをキュマニスは望まないからだ。彼はキュマニスの役に立ちたいと願っていた。ただし、彼女の意に添う方法で。
彼の命はキュマニスのもの、端的に言えばキュマニスの持ち物とも等しいのだと彼自身が思っていた。持ち物が持ち主の意に逆らうわけはない。けれども、とハインリヒは唇を噛んだ、今のままでは自分は絵に描いたようなお荷物だ。役に立つどころか、彼女の足を引っ張っているだけだ。あまつさえ、彼女に対する糾弾の材料にされている。
そんな現状を変えるために、ハインリヒはキュマニスと同一の顔を持つ悪魔を脅迫した。
「悪魔を脅すとは、いい覚悟じゃないか、ハインリヒ。我が輩、その手の感情は――大好きだぞ」
今度の声は、猫の喉を借りたものではなかった。鏡の向こうからでもなかった。驚いたハインリヒが振り返る間もあればこそ、その頭蓋骨が上から細い指で力強く握りしめられた。メフィだ、頭上に、いた。
どこから現れたのやら。まるで猫のように体を丸めて着地したメフィは、眼を丸めるハインリヒの鼻を指で弾いた。悪戯っぽい笑みを浮かべて、のたまう。
「我が輩、早さ比べでは負け知らずでな。ほれ、とっとと行くぞ」
鼻を押さえたまま未だに呆然としているハインリヒに、彼の荷物と金属鏡とを投げつけると、メフィはさっさと豪奢な鉄格子へと手を伸ばした。触れる。ただそれだけで、鮮やかな色ガラスともども、格子は粉砕されてしまった。音も無く、無数のガラス片が降り注ぐ。蝋燭の光を反射して輝くその下に佇むのは、黒尽くめの悪魔が一人、否、一匹。
煌めきながら舞い落ちる数多の色ガラスは、まるでメフィの羽のようだった。いや違う、とハインリヒは首を振る、それはメフィそのものなのだ。美しくて、危険な。彼の足下に、砕かれた鉄棒の欠片が突き刺さった。
メフィが振り返った。どこか好奇心旺盛な子供のように、愛嬌のある瞳が踊っている。
だがただ一つ、付き合いの長くなってきたハインリヒすら知らないことがあった。この目をした悪魔は、碌な事をしない。
「ほら」。メフィはハインリヒの腕を引くと、そのまま壊れた窓から蹴り落とした。突然の自然落下に、ハインリヒは矢も盾も堪らずに絶叫した。
その声に慌てて踏み込んだ兵士たちに向かって、悪魔が笑いながら手を一つ叩いた。その合図に従い、ベゲモートが入り口付近の燭台を倒す。恐るべき早さで、火が回っていく。
「悪魔だ!」
そんな複数の叫び声は、果たして落下中のハインリヒに届いただろうか。




