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 馬上のハインリヒは、一人黒の森を駆けた。この森は彼が育った森であり、また彼を世間から隔てていた森でもあった。だが今や彼は森から出され、偏見の中で一人、歯を食い縛って生きているのであった。

 それも全て、とハインリヒは手綱を引き馬を止めた、振り返る。空に顔を見せた月は真円。いつぞやとは違い、断崖の上に立つノイベルグ城を見ることが出来た。そこには彼の生きる理由であるキュマニスが、暮らしているのだ。

 ハインリヒは微かに笑った。思い出したのだ。もう何ヶ月も前、そうだ確か春の祭りの夜だった、に彼は悪魔を呼び出さんがために、この森を訪れたのだ。

 その結果、彼の世界に「メフィ」なる悪魔が登場した。傍若無人で、けれども魅力的なその存在は、ハインリヒを大いに掻き乱している。

 ハインリヒは首を振り、馬に先を急がせた。木々の間をすり抜けるたびに、枝が彼を打つ。それでも怯まずに最短距離で森の終端へと辿り着いた。その先はシュトゥーベンベルグだ。もっとも彼らの目論見の通り事が運べば、ノイベルグ国全てがシュトゥーベンベルグの一地域と堕すことになるのだが。

 兵士が携帯している灯りを頼りに、ハインリヒはタイミングを見計らった。そしてうっかり見つかってしまったという態で、敢えて無様に武装した兵士の前に躍り出た。彼は怪しまれない程度に適当に嘆き、悲しんでみせたが、抵抗らしい抵抗もせずにあっさりと捕まえられたのであった。

 兵士のハインリヒに対する扱いは、手慣れたものであった。ノイベルグからの亡命者は多く、国境守備兵士にとっては普段の任務に過ぎないのだ。

 だがその空気も、兵士がガラス鏡を発見するまでであった。途端にハインリヒは両手を荒縄で括られる特別待遇を受けることとなり、そのまま手早くかつ手荒に、異端審問に引き渡された。

 ハインリヒを迎えたシュトゥーベンベルグの異端審問僧たちの顔は、かつて彼が見たノイベルグの僧以上に険しかった。引っ捕らえたままの彼は引き摺られるようにして、異端審問の詰め所(ノイベルグで言うところの「牢屋」である。これがシュトゥーベンベルグでも同名の諱を有していることをハインリヒは知らない)の奥深くに連れ込まれたのだった。

 そこで彼が見たのは、大きな松明であった。聖なる善神の火だ。それもまたノイベルグの牢屋で彼が目撃したものと、全くの同一形式。これは僧たちが国を越えて交流を持つことの、一つの雄弁な証左でもあった。

 昨日のメフィの言葉が、ハインリヒの脳裏に甦った。「ノイベルグの異端審問を追われた僧が、友人であるシュトゥーベンベルク異端審問僧に泣きついたのだろう。そしておまえのガラス鏡を邪魔すべく、手を回したのだろう」。

 その時のハインリヒは、メフィの言葉を信じきれなかった。だが今こうやって同一の形で祀られる聖火を見てしまえば、その信憑性は確かなものだと思えた。敵地。そうも悪魔は言ったが、確かにその通りなのだ。ハインリヒは今更ながらに気を引き締めた。

 彼を取り囲んでいた僧たちが突如、動いた。軋む音と共にドアが開かれる。部屋に入って来たのは、新たな僧たち。ノイベルグ異端審問僧が紛れていないか気になったハインリヒの視線が動く。だが彼の知った顔はない。

 ただ分かったのは、どうやら新しく登場した僧の方が位階が高いようだ、との一点のみであった。先からいた僧たちが揃って頭を下げている。

 最も遅れて部屋に入ってきた新来の僧に、ハインリヒの目は突如釘付けとなった。堂々たる体躯の僧が多くを占める中で、その一人だけが小さく細い。まだ若いのだろう。だが最も目を引くのは、その顔であった。彼の顔は、全面が白い仮面で覆われていたのだ。

 「このガラス鏡はおまえの荷物から没収したものだが」、白い仮面の僧に気を取られていたハインリヒに、別の僧が話しかけた。彼の手にはそのガラス鏡が握られている。「おまえはこのシュトゥーベンベルグに密売目的でやって来たのか?」

 「いいえ」。ハインリヒは質問者に正面から向き合った。「俺はこれの作り方を教えに来たんだ。このガラス鏡が決して悪魔の仕業ではないことを、証明しに来たんだ」。

 意気込む彼に冷ややかな言葉を投げかけたのは、件の白面の僧であった。

「おまえには悪魔の臭いがする。硫黄の臭いだ」

 白面の僧のその発言に、ハインリヒはどきりとした。メフィの姿がありありと蘇る。けれども、と彼は気を取り直した、悪魔から貰ったのは助言だけ、全ては自分の力で成し遂げたのだ。後ろめたさを感じる必要など、ない。

 白面の僧は疑わしそうに、とは言え仮面のせいで表情はよく分からないのだが、ハインリヒを眺めていた。周囲の僧は、彼の判断を待っているようで、誰もが押し黙っている。

 どうやら、とハインリヒは思った、このまだ年若そうな僧が、この中で最も強い影響力を持っているらしい。いつか聞いた、アンブロシウス王子の忠実な部下の話が思い出されていた。

 確か彼の名前は、「ロザリオ様」、脇から白面の僧に声が掛けられた。そうだ、確かそんな名前であった、とハインリヒは一人納得する。ならば、とハインリヒは彼を見上げた、この人物さえ説得出来れば、全ては丸く収まるのではないだろうか。

 ロザリオと呼ばれた僧は周囲の僧と話を始めたが、その内容まではハインリヒには聞こえなかった。しばしの時間の後に話を終えたロザリオは、ハインリヒに向かい大きく頷いて見せた。

「いいだろう、わたしを説得してみろ。それが出来るのならば、だが」

「ならば私の荷物の返還をお願いいたします。それがなくば、私には何も出来ません。それと」

「設備ならば心配は不要。どうぞこちらに」

 白面の僧ロザリオにハインリヒが案内されたのは、何の不備も無い、それどころか彼が今までに一度も見たことすらないほどに、立派なガラス窯設備であった。

 窯や炉の様子を確認するハインリヒの一方で、厳つい男たちが好奇心と嫌悪が綯い交ぜになった表情で、彼を遠巻きに見守っていた。

 彼らはシュトゥーベンベルグ異端審問を示す白と赤の衣服を身に付けてはいない。それどころか剥き出しになった腕には痛々しい火傷の跡が見える。つまりは彼らはシュトゥーベンベルグのガラス職人なのであった。ハインリヒの行いを監視するために、呼ばれたのだろう。

 数多の視線に晒されながらも、設備に納得のいったハインリヒは振り返り、ロザリオに頷いてみせた。それをスタートの合図として、ここで僧とガラス職人に監視されながら、ハインリヒの透明ガラス作りが開始されたのだった。

 だがハインリヒは、ここで疑問に思うべきだったのだ。彼が己の胸の内を言葉にせずとも、ロザリオがそれを理解していたという事実に。

 だが他のことに気を取られていたハインリヒは、最後までそのことに気が付かないままであった。それに彼は、同じようなことを行える悪魔に慣れすぎていた。


 ハインリヒのガラス作りは、数日で終わった。それは彼の持ち込んだ荷物に不備がなかったことと、設備が万全であったことの二つのおかげであった。

 完成した透明ガラスは、僧とガラス職人により検分され、それに全く不審な点がないことが確認された。ハインリヒは胸を撫で下ろした。

 一番の難敵と見ていた白面の僧ロザリオも、黙したままだ。その沈黙を、文句の付けようがないからだと解したハインリヒは、思わず笑みまで零してしまった。

「これはまだ単なるガラスです。これを長方形に切り落とし、更に砂で磨き、裏面に薄い銀を張れば、晴れてガラス鏡となりますが、それらはシュトゥーベンベルグの職人たちにお任せしますよ」

「なるほど、見事なものだ」

 突如背後から聞こえた耳慣れぬ声に、ハインリヒは反射的に振り返った。そこにはいつからいたのやら、魅力的な青年の姿があった。歳はハインリヒより僅かに上、恐らくはキュマニスとほぼ同等、だ。彼がハインリヒに近付けば、その靴は独特な音を立てた。王家の人間のみに許される音だ。

 青年はロザリオに顎で指示をした。その意を受けてロザリオが、ハインリヒの作ったガラスを鏡にすべく手配を始める。

 その様子でハインリヒは全てを理解した。目の前の青年はロザリオの上司であり、王族の人間だ。――つまりは彼が、彼こそが、シュトゥーベンベルグの王太子アンブロシウス、キュマニスの婚約者、なのだ。

 そう思って見れば、彼はノイベルグの王妃に良く似ていた。二人は叔母と甥の関係にあるのだから、当然だ。その一方でハインリヒは、ノイベルグ王妃と王女が全く似ていないことに疑問を感じたことすら、ないのだが。

 アンブロシウス王子の目線一つで、周囲の人間は彼の命令を読みとった。全員が静かに部屋から出ていく。残ったのは彼と、ハインリヒの二人のみ。じわりとハインリヒの背に緊張が忍び寄る。

 対するアンブロシウスは、柔らかく笑んだ。

「そんなに怖がらなくて良いよ。僕はただ少し、聞きたいだけなんだ。ロザリオ、白面の僧のことだよ、が君になにやら酷いことをしなかったか、ってね」

「……いいえ、何も」

「本当に? なら良かった。彼は忠実だけれど少し行き過ぎているところがあってね、僕の敵対者には遠慮がないんだ。君はキュマニスと仲が良いと聞いていたから、ロザリオが要らない気を回したんじゃないかと、心配していたんだよ」

 キュマニス。この人には、そう呼び捨てにすることが許されているのだ。そう思うとハインリヒの胸が焦げる。

「それともう一つ言っておこうと思ってね。あのロザリオの白面だけれど、悪くとらないで欲しい。なにせ彼は子供の頃に顔に大きな火傷を負ったそうで、誰にも見せたくないと言い張っているんだ。

 つまり、あの仮面はただの傷隠しであって、誰かを威圧する意図はないんだよ。僕もあんな真っ白ではなくて、もっと地味な色にすればいいのにとは思っているけれどね。どうやらポリシーがあるらしい」

「そんなに酷い火傷なのですか?」

 おずおずとハインリヒが質問したが、アンブロシウスは別段、機嫌を損ねた様子もなかった。これがノイベルグの王妃、彼からすれば伯母だ、ならば、質問者はどんな目に遭わされるかなど分かったものではない。

「そうらしいよ。実のところ知らないんだよ。一度も見たことがないからね。そもそも顔の火傷なんて、気にする人間はここにはいないのに、男心は複雑だね」

 にっこりと微笑むアンブロシウスに、ハインリヒは好意を抱いた。顔を頑なに見せない人間を信用し、側近にまで取り立てるだなんて、なかなか出来ることではない。

 これならば、こんなにも立派な彼が夫ならキュマニスはきっと幸福に暮らせるだろうと、無理矢理に自分を納得させられるかもしれない。そうハインリヒは感じた。

 「ところで君は」、アンブロシウスが唐突に、ハインリヒの目をのぞき込んだ。思わずハインリヒは一歩下がる。「シュトゥーベンベルグへの移住を望んで、透明ガラス作りの技術を持ってやって来たのかい?」

 ハインリヒは驚いた。驚愕そのままに、強く首を振る。

 「いいえ、全くそんな意図はありません。私はただガラス鏡が悪魔の仕業などではないことを、人間の技術に過ぎないことを証明しに来たのです」。そうだ、とハインリヒは思い出した。目の前にいるアンブロシウス王子は、シュトゥーベンベルグの異端審問の責任者なのだ。ロザリオよりも彼を説得する方が大切だ。「ですから、ガラス鏡への取り締まりを解除して頂きたいのです。私はこの鏡を広めたい。どうか力を貸してください」。

 元はシュトゥーベンベルグへ密輸することで稼ぐために、ガラス鏡を作り出したのだった。けれども今となっては、そんなことは二の次であった。

 今やハインリヒの願いはただ一つ。この鏡はキュマニスによってこの世に生まれたのだ。だから何としてでも異端の誹りを退けたかった。そしてこのガラス鏡を作り続けたいのだ。

 「考えておくよ」。柔らかな微笑はそのままで、アンブロシウスは応じた。「それよりも先に、君には休息が必要だね。ここ数日、寝ていないんだろう? 部屋を用意したから、ゆっくり休むと良いよ」。

 王子は手を高く叩いた。彼の呼び出しに応じて、愛想の良い侍女たちが三人現れた。彼女たちは営業スマイルと、意外に強い腕力で、ハインリヒを用意された部屋へと強引に案内してくれたのだった。

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