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 夕暮れの下、いつもの布と針の仕事を終えたメフィが書庫を覗けば、そこには呆けた顔のハインリヒが座り込んでいた。どうやら昨日の衝撃のあまり、今日という日を丸々ここで座って過ごしたようだった。

 一つ溜め息を吐いたメフィは、またしても山羊のチーズを取り出すとそれを火で炙り、物置から発見した古いパンを牛乳で戻してスープを拵えた。

 芳しい匂いを発するそれらを盆に載せて、ハインリヒに差し出したものの、メフィの行為は冷たく打ち落とされた。だがそのまま床に落ちるはずの食事は、不思議に重力に逆らって、元通りにメフィの手元に戻ったのだった。

 「悪魔め」。ハインリヒの言葉に、メフィは肩を竦めてみせた。「今頃になって何を言うのやら」。

 炙ったチーズは自分で、牛乳に浸されたパンは猫のベゲモートにやりながら、未だに立ったままのメフィが、座り込んだハインリヒを見下ろした。ハインリヒも負けずと、彼女を睨みつけるのだった。

「昨日どうして王妃は突然怒ったんだ? あれもおまえの差し金なんじゃないのか」

 難癖だとは、ハインリヒ自身にも分かっていた。だが全てを賭けたガラス鏡を奪われてしまった今、誰かに八つ当たりしなくては彼は心の平安を保てなかったのだ。その点、この悪魔ならば、怒鳴りつけたところで良心が痛まないという一点に置いて、誰にも勝る相手であった。

 甘えている、と彼は思う。この悪魔と出会ってから、自分はすっかり変わってしまった。それが好ましいことなのか、悪魔の手の上で無様に踊らされているだけなのか、彼には判断が付かない。

 「我が輩は何も知らんよ」。ハインリヒの心の内などお見通しなのだろう、メフィの言葉には苛立ちも怒りもない。平静そのものだ。「ただ考えられるのは、ガラス鏡で見た自分の顔が、あまりにもくっきりはっきりしていたのがショックだったんじゃないのかね」。

「ショック? はっきり見えることの何がショックなんだ?」

「あの王妃様はな、何でも若い頃は美貌で鳴らしたお方だそうでな。今でも娘のキュマニス王女と十分張り合えると思っているなんて噂すら、我らが針子の間では出回っているほどなのだぞ。それがガラス鏡に『現実』を突きつけられ、その衝撃が怒りに変わったんじゃないかと我が輩は思うね」

 茶目っけたっぷりに片目を瞑って見せたメフィに、ハインリヒが脱力した。

「でも、それは……、鏡のせいじゃないよ」

「そんなこと王妃様だってご存じさ。それでも八つ当たりせざるを得ないほどに、ショックだったんだろう」

 どうしようもない事実にぶつかったときに、誰かに当たり散らしたくなる気持ちは分かる、とハインリヒは思った。現に彼だって今、この苛立ちをメフィにぶつけたのだから。

 「それに」、とメフィは平然と言葉を継いだ。この悪魔にとっては、ハインリヒの八つ当たり程度のこと、気にするに値すらしないのだ。

「あの王妃はシュトゥーベンベルグの姫として生まれ、美貌の誉れも高かったのだ。それがノイベルグなんて小国に嫁がされたのが、今でも不満のようだな」

 ちっちと指を振るメフィを、夕陽が赤く照らしていた。彼女が開け放したままのドアから、夕日が書庫へと入り込んでいたのだ。それがあちこちに置かれた試供品のガラス鏡に反射して、揺れる。

 その赤色をベゲモートが追いかけ始めた。揺れる光を狙って飛ぶ。跳ねる。流石は猫だ。足音一つ立てはしない。

 その様子を眺めながら、ハインリヒは考えていた。先ほどまでの苛立ちは、嘘のように消え失せていた。それは目の前の悪魔のふてぶてしさに依るところが大きい。

 それに本当に今やるべきなのは、八つ当たりなどではなく、自分に何が出来るか考えることだと、彼は理解していた。

 鏡は王妃によって封じられてしまった。妃の決定には、王も姫も口出しは不可能のようであった。その決定の原因となったのは、シュトゥーベンベルグの異端審問僧。影にはノイベルグの僧の入れ知恵が。そしてシュトゥーベンベルグ異端審問の最高責任者は、アンブロシウス王子だ。

 出てくる人物は誰も彼もが皆、ハインリヒには雲の上の人である。だがそれでも何かがしたかった。自分の全てを賭けたガラス鏡のために。そしてそれ以上に、信じてくれたキュマニスのために。手伝ってくれた職人たち、全てのために。

 夕陽が追い出されていく。密かに闇の気配が漂い始めていた。悪神の、悪魔の時間はもうすぐだ。

 突如、ハインリヒが立ち上がった。手持ちの中から最も丈夫な鞄を引きずり出すと、そこにガラス作りの道具やら原料やらを放り込み始めた。

 メフィとベゲモートは、思わず顔を見合わせた。彼らの視線に答えて、ハインリヒが口を開いた。それは自分自身に宣言しているようでもあった。

「シュトゥーベンベルグの異端審問に行くんだ。今回の全ての原因は、シュトゥーベンベルグ異端審問がガラス鏡を『悪しき物』として認定したことにある。王妃の否定の根拠はそこだ。

 でもそれはつまり、その前提を崩してしまえば、王妃だってガラス鏡を悪しき物だなんて、言えなくなるってことだろう?」

 ノイベルグとシュトゥーベンベルグの間に横たわる黒い森のせいで、国境侵犯は容易となっていた。だがそれでも両国共に兵士を配してはいる。彼らに捕まった犯罪者の内、特に怪しいものは即座に異端審問に引き渡されることとなっていた。

 そしてハインリヒが持ち込もうとしている道具は、どこまでも怪しかった。彼ならば、捕らえられれば間違いなく異端審問行きだろう。

 「だが」、とメフィが口を挟んだ。「貴様にそんなことが出来るのか? 書物を受け取りに『牢屋』に行っただけで殺されかけたお前が?」

「出来る、出来ないじゃない。やるんだ! 昨日おまえがやって見せたチーズの手品のように、ガラス鏡を作って見せるんだ。そうすれば、それが種も仕掛けもある技術だと、きっと分かってもらえる。魔術ではなくて単なる技術だって」

「我が輩は昨日、失敗したのだぞ。それもシュトゥーベンベルグの異端審問なんて、完全なる敵地でとは――分が悪すぎる」

 案惨たる内容を語るメフィは、しかし、どこまでも楽しげだ。そんな彼女に向かい合って、ハインリヒはきっぱりと言い切った。

「他に方法なんてない」

 メフィの瞳が輝いた、が、ハインリヒは先手を打って宣言した。

「契約なんて、しない。自分の力でやり遂げるんだ。それをキュマニス姫だって望んでいる」

「やれやれ、もう我が輩面倒見切れんよ」

 ひらひらと大げさに手を振りながらメフィ、とついでにベゲモートも、が書庫を後にした。

 一人残されたハインリヒは、一人必死に荷造りに励んだ。メフィの立ち去った寂しさを押し殺すように。大きな荷物を抱えて書庫から出ると、次に彼は馬を借りに走った。馬主から慎重に話を聞いた彼が選んだのは、そう早くはないが頑丈な馬だった。

 不慣れな様子でようやっと馬の背によじ登り、黒の森へと向かって走り去る。その後を追うのは、複数の男たち。彼らも馬主から強引に馬を借りると、ハインリヒの後を追いかけ始めた。彼らの腰に見えるのは、物騒な長剣であった。

 黒の森はノイベルグとシュトゥーベンベルグを隔てる自然の障害であると同時に、闇深き魔境であった。そこで何が起ころうとも、不思議はないのだ。


 だが彼らの行為は成し遂げられはしなかった。何故なら、彼らの獲物なるハインリヒには悪魔がついていたからだ。

 黒い森の入り口で彼らを待っていたのは、黒衣の娘であった。それでも馬の勢いを殺そうとはしなかった彼らは、娘の背から突如伸びた羽によって打ち倒された。

 ここは黒の森。何が起ころうとも、不思議ではない。その通りであった。

 書庫を立ち去ったメフィではあったが、だがハインリヒを見捨てたわけではなかった。彼女とその使い魔は書庫近くの大木の上で、彼の挙動を監視していたのである。

 メフィは地面に伸びる男の一人の胸元を漁った。出て来たのは王家の紋様を付した命令書であった。その主は、王妃だ。

「やはりあの女の差し金か。知らぬとは幸福なことだな、ハインリヒよ。本当に手間のかかるやつだ。その癖に見返りは渋いしな、全く割に合わぬ。

 ……だが、やってみるがいい。我らはそれを見物させていただくとしようか。なぁ、ベゲモート?」

 名前を呼ばれた黒猫は、しかし悪魔の意に逆らい、不満げにメフィを見上げていた。猫は尋ねているのだ、どうしてここまでハインリヒに甘いのか、と。

「我が輩、これでも感謝しておるのだよ」

 ベゲモートが苛立ちも露わに、尻尾を振り回した。メフィはやれやれと、首を振る。

「分かった分かった。おまえに誤魔化しは効かないのだな。実のところ、全てはこのガラス鏡のためだよ」

 メフィは取り出したガラス鏡、ハインリヒが作り出したまだまだ不十分な品質のもの、を太陽に掲げた。善神の化身たる太陽は、まだ地平線にしがみつき血のような赤を垂れ流していた。夕焼けの最後の残滓がガラス鏡に反射され、枯れた下草の上に集中する。

「全ての発明は、生み出されるべき時に生み出されるのだ。だがこのガラス鏡は、我が輩の関与によって無理矢理に今、このタイミングで日の目を見た。

 この存在は摩擦を生むだろう。現に常に虐げられてきたハインリヒは、これにより自信を持ち、今やシュトゥーベンベルグの異端審問僧どもの心を変えるがために旅立った。一方のノイベルグは異端審問の構成僧の多くを失い、さらにはこの鏡により、シュトゥーベンベルグとの問題をも捻れさせようとしている。

 本来は在るはずのないものの実在は、人間どもそれぞれに、様々な影を落とし、数多の感情を抱かせる。それは憎しみ、或いは悲しみ、怒り、嫉妬……あるいはそれ以外の名前で呼ばれるものだ。その全てが、我が輩の力となる」

 メフィの言葉に納得したのだろう、黒猫は一つメフィに目線を寄越すと、即座に黒の森方向に消えたハインリヒを追い始めた。

 それを見送ったメフィの近くで、枯れ草がぽっと小さな音を立てた。火が生じたのだ。鏡、それもガラス鏡だ、が火を生み出した瞬間であった。

 「どうして」、メフィは一人、天に向かって問いかける、「人間は大したことのない物を崇め奉り、盲目的に信じるのだろうな」。

 笑う悪魔は、けれども夕焼けの後に訪れた闇に呑まれて、誰にも見えなくなった。ただガラス鏡が生み出した火だけが、小さく小さく燃えていた。

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