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音が聞こえた。彼にしか聞こえない、音が。その証拠に、空気は揺れていない。
誰もいない空間で、彼にしか聞こえない音が、響き続ける。徐々に大きくなってくるそれは靴音、だ。それもごく僅かな者にしか許されていない、数少ない靴だけが立てることが出来る、独特の音だ。
地面に蹲っていた彼が、ゆっくりと体を起こした。惨めだ、と彼は思う。こんなにも忌避してきたのに、結局はその力に縋ってしまうだなんて。苦く、その分だけ甘美な感情が、彼の痛めた掌に沁みた。
かつかつと大理石の床を蹴りつける如く、甲高い靴音が確実に近づいて来る。彼は許しを乞うように、あるいは絶望から目を逸らすかのように、ただ地面を見つめ続けた。
そんな彼を嘲笑うかのように、彼の視線を掠めた色。それは鮮やかな赤。血の色だ。豪華な刺繍を施されたそれは、彼が求めて止まなかったもの。
彼は嘆息する。今、目の前にいるのは、彼が心から愛する人、守りたい人、生きる意味を与えてくれた人、だ。
思わず目を上げた彼が見たのは、赤ではなかった。
高らかな足音は、いつからか消え失せていた。全てはやはり、単なる幻聴だったのである。彼の見た立派なマントも、同じく幻。彼が見上げるのは、彼の思い人などではなく、巧みに彼女に偽装した紛い物でしかない。
彼の前に立つのは、全身を黒い衣で覆った悪魔なのだ。その癖に、いやそれ故にだろうか、悪魔の新緑に輝く瞳は、命に、欲望に、充ち満ちている。
全てを理解してはいても、もはや彼は視線を逸らすことが出来なかった。
一度折れてしまった心を立て直すことは、難しいものだ。一度、魔の魅力に魅入られてしまえば、そこから逃れるのもまた困難だ。彼もまた凡百の犠牲者と同じく、ただその瞬間が来るのを、呆けた顔で待つことしか出来なかった。
既に数えるのも馬鹿らしいほどに多くの人間を喰らってきた悪魔は、ただ静かに新たな獲物を見据えていた。その唇が優美な弧を描いていく。どこまでも楽しそうな、笑み。ゆっくりとそれが開かれた。
「なんだ何度も呼んで。我が輩は我が輩を求める者の前には、いつだって参上仕るぞ。いつかの貴様の杜撰な儀式でも、ちゃんと現れ出てやっただろう?
――なぁ、恩知らずのファウストよ」
犠牲者を見下ろす鮮やかな緑の片方が、その色を深く落としていく。