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 夏にも関わらず、妙に寒い夜であった。ハインリヒは黙々と城へと歩みを進めていた。その表情は暗い。

 彼は今日、商品課の責任者に呼び出されたのだ。指定された場所が城の謁見室であった以上、責任者はただの仲介者に過ぎず、その実は王そのものに指名されたと考えてほぼ間違いはない。

 ハインリヒは一つ息を吐いた。横を見れば、何故かメフィ。頼んでもいないのに、ハインリヒに付いてきたのだった。

 視線を感じたのだろう、黒布で顔を隠した娘が微笑んだ。

 「なんでも我が輩がキュマニスそっくりだとの噂が広まっているそうでな、きっと王もその取り巻きも、我が輩を見たいと思うのだ」。勝手な理由だ、とハインリヒは思う。だがその後にメフィは付け加えた。「それに、一人では不安だろう?」

 ハインリヒは驚いた。だが素直になれない彼は、口を尖らせてさも迷惑そうに言い放つ。「付き添いが悪魔だなんて、不吉すぎる」。その癖に、隣に誰かがいることに安堵を感じるのも、確かなのだった。

 城へはまもなく着いた。いつかメフィが入ったのとは違う通用口から通された。待ち構えていた商品課の課長に連れられて大きな部屋に踏み込んだ途端、ハインリヒはその眩さにまるで金縛りにあったかの如く、阿呆のように立ち竦んでしまった。

 天井から吊された複数のシャンデリアにも、壁に取り付けられた幾つもの燭台にも、数え切れないほどの蝋燭が灯されていた。その輝きが赤い絨毯を、魅力的に照らす。

 居並ぶのは僧。黒と赤のその衣装は異端審問所属だ。「牢屋」での出来事を思い出し、ハインリヒは咄嗟に身構えたが、そこに見知った顔はなかった。さらに遠くに居並ぶのは豪華なドレスに身を飾った男女、恐らくは貴族、なのだった。

 場の全ての視線を一身に浴びながらも、ハインリヒはほっと息を吐いた。

 害意を向けられることに慣れた彼のこと、単に晒し者になる程度ならば平気なのだった。その代わりに、これほどまでに美しい調度を見られるならば、充分にお釣りが来る。

 だがそんなハインリヒの安寧も、メフィの言葉一つで砕かれた。「何を安堵しているのやら、貴様やられたぞ」、そんな耳元への囁きに、彼の視線が周囲から自己へと強制的に移行させられる。

 「見知った顔がいない? 当然だろう。奴らは追放されたのだから。だからと言って、影響力を完全に失ったわけではない。これは復讐劇だぞ。貴様の言う『見知らぬ顔の』僧どもからも、貴様への悪意を感じる」。他人の不幸は蜜の味。それを地で行く悪魔は、どこまでも機嫌が良い。「きっとキュマニスに追い出された連中は、シュトゥーベンベルグに渡ったのだろうな。そしてシュトゥーベンベルグ異端審問を、あの村まで案内した。その上でノイベルグの王の耳に何かしらの情報を入れたと見える。奴らは妙に自信満々だ」。

 ハインリヒの視線が自然と、異端審問僧へと向けられた。メフィの言う通りに、彼らは実に自信ありげな顔をしているような気がしてきた。

 人間とはいつだって、物事を正しく見られないものである。全ての見解には、その人間の抱く思い込みや偏見、あるいは先入観、もしくは教育が影を落とす。そんなことはハインリヒにだって、分かっていた。

 だが、否、だからだろうか、たかが十年と半分程度しか生きていない彼には、長い年月を生き抜いてきたこの悪魔の言うことが正しいのか、あるいは根拠のない単なる嫌がらせに過ぎないのか、判断を付けられなかった。けれども、この悪魔は今まで一度も誤らなかったのだ。ならば信じるべきだと、彼の心は告げていた。

 ハインリヒは絶望した。悪い異端審問僧は一掃され、これでノイベルグ異端審問は綺麗になるのだと信じた自分の幼さが、恥ずかしい。「悪い」だとか「綺麗」だとか、そんなに簡単な問題ではないのだ。この悪魔が善悪の単純な区分を嘲笑う気持ちが、初めて分かった気がした。

「我が輩のこの予想が当たっていたならば、貴様、かなり不利だぞ。歴史も権力もあるシュトゥーベンベルグの異端審問と、常々異端の疑いをかけられるどこの馬の骨とも分からぬ貴様とでは、その信頼性では勝負になるまい」

 絶望的な内容を告げながらも楽しげな気配を漂わせるメフィを、ハインリヒは睨んだ。全く悪魔というのは、気楽で羨ましい。人の心を揺るがせて、それでお仕舞いなのだ。その後の尻ぬぐいまで依頼されれば、万々歳と言ったところか。

 密かな話し声が、二人の耳に聞こえてきた。ハインリヒとその連れを黙って眺めていた貴族たちが、どうやら沈黙に飽きたようであった。

 整然と並んでいた彼らが、今や列を乱し、こちらに視線を向けては何かしら密やかに囁き交わしている。僧たちの咎める気配にも、動じる気配はない。

 それに気が付いたメフィが、優雅な足取りで彼らに近づいた。一人残されるのが嫌さに、思わずハインリヒも後を追う。場の全ての視線が、メフィに集中する。

 それを十分に知る彼女は、貴族から少し離れた場所で突如立ち止まった。視線が疑問に取って変わったその瞬間を見計らい、この手慣れた悪魔は、一気に顔と頭を覆う布を脱ぎ捨てて見せた。

 長い髪がゆっくりと落ちる。露わになったその美貌に、貴族連中が騒然となった。彼らの内の一人が何かを質問しようとしたようだが、それは後ろから響いてきた特徴的な足音、王家独特のそれ、に踏み殺されたのだった。


 音が空間を支配する。場の全員が床に膝を付き面を伏せる。周囲の人々に従い、ハインリヒも同じように跪いた。隣にメフィが滑り込んだ。

 沈黙を、ただただ高い足音だけが切り裂いていく。王家の人間だけに許される音。だがその多さに、ハインリヒは動揺した。どう考えても、複数いる。王だけなら、あるいは姫だけならまだしも、そんな。

「顔を上げよ」

 最も上位を占めていた貴族の声が、重々しく響いた。ハインリヒは恐る恐る、窮屈な姿勢を解いた。彼が見たのは、美しいキュマニスとその両親、堂々たる体躯の王と、神経質そうな王妃なのであった。

 だが彼ら二人の視線はハインリヒではなく、その隣へと向けられていた。メフィ、だ。

 その際に王妃の顔に現れた強烈な憎悪。それは僅か一瞬のことではあったが、ハインリヒの脳裏に一生刻み込まれるには充分であった。

 当のメフィはと言えば、彼らの強い視線を弾き飛ばし、優美に微笑んだのだった。誰の許可も得ずに勝手に立ち上がると、王の膝元に膝を折る。その動きのあまりの自然さ故に、彼女を止めるという選択肢など、誰の頭にも思い浮かびすらしなかった。

「わたくしはメフィ、メフィ・ストラトスと申します。そこのハインリヒの姉、まぁおそらくは血は繋がっておりませんけれど、でございます。今晩我らが呼び出されたのは」

 悪魔は意味ありげに言葉を切った、そもそも呼び出されたのはハインリヒ一人だという事実は、綺麗さっぱり忘れ去られたものらしい。

 メフィは袖の下から小さな何かを取り出すと、王に差し出した。王に直接物を手渡すのは禁忌、必ず臣下の手を経なくてはならないという規律すら、この悪魔は簡単に無力化して憚らない。

「これのせいなのでしょう?」

 「そうだ」、王の手の中で蝋燭の光を跳ね返しているのは、ガラス鏡、けれどもそれはハインリヒが作ったものではなく、隠者の望遠鏡から取り出した古の物だ。

 「これは」、王の視線がメフィからハインリヒへと動いた、緊張が走る、王が鏡を掲げる、「悪魔が生み出した悪しき物ではないのか?」

 王から直接言葉を賜ったハインリヒは、固まった。だが静かに歩み寄ったメフィが、その手を彼の肩に乗せれば、冗談のように簡単にハインリヒの体から緊張が抜けた。

 触れられている肩がとても暖かく、この悪魔が傍に控えているという事実が、彼を勇気づけた。この悪魔ならば、何とかしてくれる。そんな根拠のない信頼が、彼の胸に根を張っていた。

 「それは」、まっすぐに王を見上げて、ハインリヒは言葉を紡いだ「王がお持ちなのは、私が作ったものではなく、古の遺物なのです。私はそれを復元したに過ぎません」。

 「本当に?」 疑り深い眼差しは王妃、その視線はメフィを射抜かんばかり。「メフィとか言いましたか、あなたはあまりにもキュマニスに似ている。まるで化けたみたいで気味が悪い」。

 悪意に充ち満ちたその眼差しに晒されたメフィは、静かにその微笑みを深めた。この悪魔にとって強い感情はご馳走なのだ。そう知ってはいても、これほどまでに緊張が満ちる場で堂々と微笑んでみせる姿に、ハインリヒは驚嘆を覚えてしまう。

 「もしもわたくしが悪魔ならば、この国で最もお美しいキュマニス様に化けたいと思うでしょうが」、この時点で王妃が悔しそうに顔を顰める、対照的に悪魔の笑みがいっそう優雅に広がる、「けれども全ては、単なる偶然なのです。それにみなさま、大袈裟なのですわ。わたくしはただ少しだけ、キュマニス様に似ているに過ぎません」。

 その言い分は少し、いやかなり苦しい。そう思ったのはけれども、ハインリヒ一人に過ぎなかったようだった。場の空気は着実に、メフィに親しい方向へと傾いていく。

 メフィがどこからともなく、山羊の柔らかいチーズを取り出した。いつぞや彼女が卑しくも独り占めしていたのと同じ種類のものだ。

 妙に優美な仕草でチーズを高く掲げると、それが一つの塊であることを示した上で、メフィはその上に白い布を掛けた。手で上から押し潰す。そしてその後に、曰くありげに布を外せば、そこには綺麗に切られたチーズが鎮座していた。

「驚きましたか? けれどもこれはただの手品。実は最初から切られていたのです。余りに柔らかいがためにそれぞれが接着し、一塊に見えていただけ。それを押したことによって、切り目から外れたのです」

 メフィは再度チーズに布を掛けると、今度は包み込むように横から押した。布を外した下には、今度は一塊に戻ったチーズが姿を見せた。その実、チーズはなんら変化していないのだ。

 「種も仕掛けもあるこの手品は、魔術とは呼ばれません。それはこの鏡も同じ」。メフィが新たに取り出したのは、ハインリヒが作ったガラス鏡。「これは弟が寝る時間を削り、食費を削り、試行錯誤の末に作り上げたものなのです。それは魔術ではなく、技術と呼ばれるものなのでは? そこには悪魔も天使も、無縁でございましょう。あるのはただただ、人間の努力だけ」。

 ハインリヒの目の前で、メフィはどこからともなく複数のガラス鏡を取り出してみせた。

 それなのにその不自然さには、誰も気が付かない。

 先ほどのチーズが消え失せていることにも、何の疑問も抱かせてはいないのだ。ハインリヒは胸の内で独りごちた。やはりこれは悪魔、なのだ。だがそうなると、と彼の疑問は自分自身に向けられた、悪魔に庇われている自分は、一体何なのだろう? 悪魔が側に居ることに安堵を覚える、自分は。

 メフィはガラス鏡の一枚を王妃に差し出した。嫌そうに受け取った王妃は鏡を覗き込むやいなや即座に目を背けたが、それから一転して吸い込まれそうなほどの熱意を持って鏡面を見つめ続けた。

 その様子にメフィは満面の笑みだ。「金属鏡よりも一層良く、顔が映るでしょう?」と言いながら、次は王へと手渡す。後ろに控える貴族たちも、メフィから鏡を貰えないものかとやきもきしながら、彼らの様子を窺っている。

「人間とは誰だって、自分のことを知りたいもの。この鏡があれば、今までよりもずっと詳しくご自身を見ることが出来ますよ」

 「だが」、王が口を開く。彼の右手には古代の鏡が、左手にはハインリヒの鏡が載っていた。「彼の鏡はこの古の鏡よりも劣っているようだ。いつかこれを越えられるのか?」

 痛いところを突かれた、とハインリヒは思う。確かにガラスの均質性・反射率共に、ハインリヒのものにはまだまだ改善点は多い。

 けれど。「きっと」。ハインリヒは胸を張って言った。真っ直ぐにキュマニスを見据えて、言い直す。「いいえ、必ずや。私の命はキュマニス様のもの。キュマニス様が望むことならば、私は何でも致しましょう」。

 ハインリヒの視界の隅で、メフィが深く笑むのが分かった。彼は今、確かに望みを抱いたのだ。悪魔が欲する希望を。

 キュマニスが何かを言いかけたが、それは王妃のヒステリックな叫びに塗りつぶされた。「認めない」。王妃の手で、ガラス鏡が床へと叩きつけられる。床と鏡が甲高い悲鳴を上げた。

 「わたくしは認めません。これは」、王妃が指さすのは粉々になったガラス鏡「だった」もの、「悪魔の所業です。これは偽物の鏡。聖なる金属鏡を貶めるものに、他なりません。シュトゥーベンベルグの異端審問に没収されるのも道理です」。

 「ですが」、王妃に対峙したのはキュマニスだ、「もしもこの鏡が悪しきものだとしても、その仕事はノイベルグの異端審問が行うべきもの。隣国の異端審問からの干渉を受ける謂われはありません」。

 「そんなもの」、王妃の唇に侮蔑の表情が浮かぶ、「当然でしょう? 何せこの国にはもう、まともな異端審問はないのだから。おまえが壊してしまった」。

 更に反論を加えようとしたキュマニスに、王妃は容赦なく言葉を続けた。

「おまえはまさか、わたくしの故郷を貶すつもりではないだろうね?」

「どうやらあの王妃にとっては、嫁ぎ先ではなく生まれ国の方が大切なようだな。ノイベルグの子を二人も産んでいるはずなのに」

 メフィの囁き声は、王妃の耳にまで届いたようだった。王妃の剣呑な視線が、メフィとハインリヒに向けられる。

「わたくしはこのガラス鏡を認めません。今後の製造は一切禁止。既に製造された鏡は没収し、封印することと致します」

 その言葉で全ては決してしまった。王女どころか王ですら、彼女の言葉を覆せないのだ。そこにこの一家の力関係を見たメフィは、一人、目を細めた。

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