一
夏の暑さに負けぬほどの熱気が、その部屋には漲っていた。商品課のガラス窯は今や三倍以上の規模に拡大され、炉の数も増えた。それらの設備によって毎日毎日、透明なガラスが大量に生産されていた。
ハインリヒはその行程を担う職人たちを見守っていた。次はガラスを磨く職人たち(こちらは暑くはないが酷い音だ)を、さらにその次にはガラス裏に薄い銀薄を張り付ける職人たち(ここは臭いが酷い)を、最後に品質チェックを突破した完成品にキュマニスの紋章を施す技師をも監督していく。
火の熱と、磨き砂の発する騒音、金属加工の刺激臭。その全てが健康を害しかねない代物ではあったが、そんな事実をも覆い隠す程に、場は活気と希望とに充ち満ちていた。数多の職人たちとその下働きたちが忙しく立ち働いているが、その顔は一様に明るい。
今やガラス鏡は商品課の主力製品になろうとしていた。未だに歩溜まりは凄まじく悪く、完成品になるのは割合にしてほんの僅かではあったが。
そのせいで製品の製造コストは目を覆わんばかりの高価に留まり、それらが転嫁される販売価格は常識外ですらあった。
だがそんな悪条件を撥ねのけて、試験販売を行った小村(黒の森にほど近いそこは、シュトゥーベンベルグからの密輸品の主流ルートであった)では、大絶賛を受けた。つまりはシュトゥーベンベルグへと密輸されて行ったのだった。
これはノイベルグにとっては初めての出来事であった。今までは一方的に、シュトゥーベンベルグから輸入品が入ってくるばかりだったのだ。それが今、ノイベルグからシュトゥーベンベルグへと向かう流れが生まれた。
未だに試験販売止まりではあったが、ハインリヒは人生初の成功に、鼻高々であった。
「まだシュトゥーベンベルグへと流出する金の方が多いぞ。鼻を高くするには、早すぎるんじゃないか。今の歩溜まり率は悪い意味で驚愕の次元だしな。そこを解決して正規品にまでたどり着かないと、まだまだ。
だが我が輩と契約すれば、明日にも完成品を作らせてやるぞ?」
そう横から口を挟むメフィにも、ハインリヒは動じない。
「助けなんて要らないよ。今だって、もっと扱いやすいガラスの開発をしているしね。ああそうだ、俺の新しい実験室を見せてあげるよ!」
そう言うとハインリヒは、メフィを彼専用の工房へと誘った。黒の森の中で自費で購入した窯(それも最新鋭ではあったのだが、個人所有の小さなものでしかなかった)を使っていた頃とは、雲泥の差だ。
メフィは、彼ご自慢の設備に目を走らせた。悪魔にとっては残念なことに、文句をつけられるような瑕疵はなかった。むしろ完璧だと認めざるを得ない。
その悔しさにメフィは、「何という出世だろうな」と、過去との差を揶揄する意を込めて目線を送ったのだが、それも今や最高潮に機嫌の良いハインリヒは通じなかった。彼は今やどこまでも、ご満悦なのである。
ハインリヒは更なる自慢をしてやろうと、上着を脱いだ。炉の中で一定温度に保たれている坩堝に専用の金属棒を突っ込むと、ガラスを少し取り出した。妙に演技がかった仕草で耐熱床に落とせば、温度を奪われたそれは見る間に固まり、透明な固形物と化した。
「どうだいメフィ。なかなかの透明度だろう?」
言いながらもハインリヒは、その色と粘度を目で確認した後に、脇に置かれた実験ノートに記述していく。メフィが脇からそれを勝手に覗き込んだ。
「これがお前の努力の結晶か。これさえあれば再現が可能なのだな。……この文字とやらを嫌う連中の気持ちも分かるよ。知識が固定化されるだなんて、恐ろしいことだ」
だがメフィの言葉の後半はハインリヒの耳には届かなかった。今や彼は、腰をほぼ垂直に折った姿勢で、窯にくべられた燃料の様子を確認するのに忙しかったのだ。少し木材の位置をずらそうと大きく腕を上げた途端に、服の隙間から背中が、それとそこにある大きな痣が、メフィに見えた。
悪魔がそれを、壁に掛かっていた金属棒でつついた。集中していたハインリヒが、思わぬ邪魔に声を上げる。
「何だよ!」
当然ながら、その程度の抗議で動揺する悪魔ではない。
「痣だ」。長く白い指がハインリヒの背中を指していた。「随分と大きなのを背負っているのだな」。
「うん? ああ、生まれつきみたいなんだ」
「知っているか、ハインリヒ?」
言いながらメフィは彼の痣を棒で痛打する。悲鳴。悪魔の声が楽しげに弾む。
「痣に痛覚がなければ魔女だと判定された時代があるのだぞ。悪魔との契約者の特徴としては他にも、毛の生えた黒子なんてのもあったかな」
「そんなの……持ってる人は持ってるよ」
「その通り。またそれらを持っていない魔女もいる。それを見破るために、水に漬ける方法も開発された。水に投げ込んで浮かべば水、つまりは自然だ、に拒まれた者即ち魔女とされ、沈めば人間と判定出来るのだ。が、水に沈んだ陸上の生き物がどうなるかは、まぁ、自明だな」
ハインリヒが顔を顰めた。思い出したのだ、数ヶ月前の恐怖を。異端審問とは今も昔も、変わらないものなのかもしれない。
だが、とハインリヒは思った。もうこの国には酷い異端審問は存在しないのだ。キュマニスがその大半を解雇してしまったからだ。今残っているのは清く正しい者のみ。今後選ばれる僧も同様だろう。
「貴様は甘いな、本当に」
メフィの緑の瞳が、ハインリヒを真っ直ぐに見ていた。その表情には冷ややかな態度が見て取れる。
「何だよメフィ。お前、単に俺やキュマニス様が上手くやってるのが気に食わないんだろう? 何せ悪魔は、悪意や害意を喰うのだものな」
「喜びだって喰えるぞ」。あっさりとメフィは言い放った。「言っただろう? 我が輩は、神が善と悪とに分かたれる前に生まれた存在なのだ。悪魔とて、必ずしも悪とは限らぬ。我が輩なぞ、かつては天使だったのだからな」。
「天使? お前が? 善神に仕える天使だったってのか?」
予想外の答えに、ハインリヒは混乱した。彼にとっては神が善と悪に別たれているのと同じように、悪魔は生まれながらに悪魔であり、天使は生まれた瞬間から天使であった。それは変質など不可能な、絶対的に「変わらない」ものだったのだ。
「我が輩が仕えていたのは、神であって善神ではなかったがな。数多の天使の中でも、我が輩はなかなかに有力であった。神の顔を拝める程度にはな」
メフィの言葉を信じるならば、と彼は考えた、天使は変転して悪魔と化すことがあるようだ。だが次に生まれたのは、強烈な「どうしてそこから転落したんだ?」との疑問であった。悪魔なんぞよりも天使であった方が、幸福だっただろうに。
ハインリヒの問いかけに、メフィはなんとも複雑な笑みを浮かべた。全てを諦めたような、幼子をあやすかのような、また同時に全てを受け入れるかのような、大人びた微笑みであった。
「自由意志のせいだよ。我が輩は神に背く自由を行使したのだ」
「どうしてそんなことを」
「やってみたかったから、だな。そしてそれが、我が輩の望みだったからだ」
望み。ハインリヒは驚いた。悪魔は常に言っていた。望みを叶えてやると。だがこの悪魔にもまた、自分自身の望みがあるのだ。
ハインリヒの胸の内を知ってか知らずか、メフィの好奇心は部屋に置かれていた試作品のガラス鏡の一つへと移ってしまったようだった。不完全な鏡を矯めつ眇めつ眺めるメフィ自身の姿が、様々の歪みを伴い鏡に映る。
それを見やりながらハインリヒは、鏡とメフィがよく似ていることに気が付いた。鏡に映る像が自由自在な変化を見せるのと同様に、この悪魔も複雑な表情を見せる。
彼が思い出すメフィの羽は黒く、白く、そしてあらゆる色を含んでいた。この悪魔は、自由なのだ。何者にも縛られず、何者にも服従させられない。
黒は全てを塗り潰す色だと、ハインリヒはずっと思っていた。だがそれは違うのかもしれないと、彼は今初めて考えていた。塗り潰したのではなく、黒は……。
ハインリヒの思考など放置して、メフィは鏡を手にしたまま唐突に黙って部屋から出た。
思わずハインリヒもその後を追う。彼が追いついたのは、商品課の建物裏。そこに積まれた薪に向かって、メフィが鏡を掲げていた。反射した光が鋭く、薪に当たる。
「そんなことをしても、火なんて出ないよ。太陽光から火を取り出せるのは、聖なる金属鏡だけだ」
「どうして?」
メフィのシンプルな問いかけに、ハインリヒは口籠もった。理由など、考えたことなどなかったのだ。ただそういうものだと、思っていた。
だからもしかして、と彼は今初めて考える、もしかしたらこのガラス鏡でも火を得られるのだろうか。この悪魔がかつて天使であったように、思いも掛けない事実が日を見るかもしれない。
だからハインリヒは黙ってメフィの実験を見守ることにしたのだが、しかしそれは、外的な要因により妨げられた。商品課の連中がハインリヒを探す声が届いたのだ。
声の主は、件の小村にガラス鏡を卸しに行った連中であった。彼らがもたらした情報は、ハインリヒを始めとして一同を大きく動揺させた。
なんと彼らはその小村で、ガラス鏡を没収されたのだった。それもシュトゥーベンベルグの異端審問に。完全なる国境侵犯だ。
「ノイベルグからシュトゥーベンベルグに入ってくるガラス鏡が余程目障りだったのでしょうね」。最初に口を開いたのはメフィ。すっかり猫を被っている。「今後、ガラス鏡の密輸を進めるつもりならば、彼らを排除しなければ」。
「でも」、ハインリヒが口を開く、「異端審問が越境してくるだなんて、とても信じられない」。
「俺の報告を疑うのかよ」。鏡を実際に没収された一人が、不満げに声を上げた。「白に赤はシュトゥーベンベルグの異端審問の特徴だろうが」。
「ハインリヒの疑問も当然。けれど、先日のノイベルグの異端審問僧の大半が解雇された一件を忘れてはなりません。
僧たちは国境を越えた繋がりを持っておりますから、今回の件は復讐なのやもしれませんよ。この鏡は王女肝煎りの事業ですもの」
メフィの言葉に、ハインリヒは大きく項垂れた。
確かにあの時に解雇された異端審問僧の多くは、ノイベルグを去ったと聞く。彼らの行き先が隣国のシュトゥーベンベルグではないなどと、誰が断定出来るだろう。さらに彼らがかつての学友に泣きつかなかったなど、誰に分かるだろうか。
ハインリヒが思い出すのは、黒猫のこと。猫よりも圧倒的に強い人間たちは、猫が黒いからという理不尽な理由で、その生き物に石を投げつけた。シュトゥーベンベルグも同じだ。力あるものはいつだって、弱者に対して横暴なのだ。
「まずはキュマニス王女に報告を。その後のことはまた考えましょう」
そのメフィの言葉で、一同は解散した。だがその口々からは、不満と不安の声が漏れている。
ハインリヒは一人、太陽を見上げた。強すぎる光が眼球を白く焼く。ようやく、と彼は独りごちる、キュマニスに恩返しが出来るかもしれないと、思ったのに。彼女の優しさと親切に報いたいのに。それなのに、自分はまだ何も出来てはいない。
太陽から目を逸らしたが、彼の視界には真っ黒い穴が残されたままだ。眼を焼くほどに鮮やかな白、そして一転しての闇。僅かしか残っていない視野の端に、メフィの姿が見えた。
悪魔。魂と引き替えに、どんな希望をも叶えてくれる。あの悪魔ならば、確かにどんな望みも賄ってくれることだろう。そう信じられるほどに、今のハインリヒは彼の悪魔を信頼しているのだった。
だが深く深く息を吐いて、ハインリヒは踵を返した。
悪魔との契約など、彼には出来ないのだ。元々、古代文字を読む能力を持つが故に、異端視されている彼のこと、これ以上は絶対に駄目なのだ。キュマニスだって望まないだろう。――ハインリヒの行動基準は、全てがキュマニスなのだった。
そのことを知る彼の悪魔は、静かに微笑みながら彼の背中を見送っていた。




