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ノイベルク城でのできごとは、口づてに伝わってゆきました。姿が変わったことについて、人々は、それは乙女が魔女だったからで、悪魔と秘密の交際をもったためだと噂しあい、そう考えることで事態を納得しようとしました。 (L・クレッツェンバッハー、『民衆バロックと郷土 南東アルプス文化史紀行』、河野眞訳)



けれども王さまはたいへんなお腹だちで、むすめを磔刑はりつけにしました。こんなわけで、処女おとめは聖者になりました。

(『完訳グリム童話集』、金田鬼一訳)


 ハインリヒとベゲモートを見送ったメフィは、城へと向かった。城の脇の通用門で威圧的に仕事に励む守備兵に、王女の名の入った命令書(文字は忌避されてはいたが、全く使われていないわけではない)を示せば、彼女は顔を布で覆ったままで入城を許された。

 小さな通用門を越えた先には、細長く薄暗い廊下が続いていた。いかにも非公式な、取り繕う必要もない実用の場と言った赴きである。

 黙々と歩き続けたメフィは、だがその先で足を止めた。長い廊下を抜けたすぐ先には、思いかけぬことに、高い天井を誇る空間が開けていたのだ。

 元から好奇心旺盛なこの悪魔のこと、興味に瞳を輝かせて念入りに周囲を窺ったのは当然であった。元は音楽の練習場としてでも使われていたのだろうか、壁一面にぐるりと貼られているのは、木目も美しい木材であった。その音響効果はなかなかのものだろう。しかしそれも、過去の栄光に過ぎない。今やこの場所は、ただ使用人たちが通り抜けるだけの、廊下に過ぎないのだから。

 微かに漂うかつての雰囲気に鼻を効かせながら、さらに悪魔は周囲を見渡した。その好奇心に見合うものは、すぐ傍にあった。一幅の絵だ。余りに大きいその全てを視野に入れるために、メフィは後ずさった。この絵も、と彼女は思う、この場所と同じく、本来ならばもっと良い扱いをうけるに値するものだろうに。

 だが数歩後退し、ようやく絵の全体を見据えることの出来たメフィは、合点したのであった。威容を誇るサイズのそれに描かれているのは、四人の人物だった。その中の一人はメフィにそっくり、否、メフィの方が似ているのだ。

 つまりメフィの目の前のそれは、ノイベルグ王家の肖像画なのであった。中央にいる中年の人物が王だろう。その隣には神経質そうな女、王妃、だ。豪華な衣装に身を包んでいる。二人から向かって右端に立つのがメフィ、否、キュマニスだ。絵の中の彼女の髪は長い。メフィと差が分からないほどだ。彼女も王妃に負けぬほどに、着飾っていた。

 そして、とメフィの目が最後の人物に移った、左端に描かれたのは王妃に似た男。これが問題の、キュマニスが殺したとされる彼女の兄、ヴァレンティン王子なのだった。

 胸を張ったその姿は、王太子としての、また次代の王としての誇りに満ち満ちている。

 だが今や彼はいないのだ。家族の数は四から減じてしまった。だからこそ、この絵はこんな場所に、追いやられてしまったのだろう。この絵の画家の落胆を想像すれば、メフィの唇は知らず知らずの内に歪むのだった。どこをとっても素晴らしい、ここまでの技量を持つ絵師など、そうはいないのに。

 けれどメフィはふと違和感を覚えた。ついと首を傾げる。絵の中の王女は王に、王子は王妃に似ている。だが王女と王妃、王子と王とはさっぱり似ていないのだ。

 疑問を解くべく、メフィが目を走らせる。絵の下に設置された金属プレートには、何やら説明文らしきものが彫り込まれているようだ。しかしその書体は、優美でありながらも同時にとてつもなく、読みにくい。恐らくは文字という「恐ろしいもの」を扱うにあたり、優美さでその恐怖を押さえようとしたのだろう。

 メフィは指でその凹凸をなぞった。読むために腰を折ったのだが、その行為はすぐに高い靴音によって中断させられる羽目となった。背後から誰かが、素早く近づいてくる。足音が響く。それはもはや疾走していた。

 メフィが振り返るのと同時に、輝く刃がその顔を掠めた。だが切り裂かれたのは、メフィの顔と頭を覆っていた黒布のみ。一拍遅れて、メフィの長い金色の髪が、絵の中の王女と同じほどに長い髪が、肩から腰へと舞い落ちた。

 今や、同一の顔を持つ二人が対峙していた。片方は眉を顰め剣を手にしており、その髪は痛々しいまでに短く切り詰められている。だがもう一方は、微笑を浮かべ丸腰だ。彼女の美しさを長い髪が縁取っている。

 だがその状況も、長くは続かなかった。後者が実に恭しく、もう一方の前に躓く。

「お目にかかれて光栄でございます。此度の呼び出し、嬉しゅうございました」

「なるほど、お前がメフィ・ストラトスとやらか。確かに私に不気味なくらい似ている。しかしそれは後回しだ、今、お前はあの絵に何をしようとしていた?」

 他人に命令を下すことに慣れた人間独特の、威厳を有した声であった。余人ならば畏れに震えあがる厳しい口調にも、しかし悪魔は動じない。

「何も。ただ見ていただけでございます」

「そうか。私が指定した場所には来ず、ここで呆けていたというわけか、なるほど」

「申し訳ございません、キュマニス王女。ですが全ての罪は、この絵の素晴らしさにございます」

 そう言うとメフィは、件の絵に指を突きつけた。たいていの人間ならば恐縮して平謝りする場面で、この言い草である。キュマニスは、首を振ると剣を納めた。

「大した度胸だ。気に入ったぞ、私のそっくりさん」

「どういたしまして。わたくしも光栄でございました。『王家の足音』を聞くことが出来ましたもの。ですが、わたくしが献上したドレスを着ていてくださっていたのなら、喜びは何倍にもなりましたのに」

 その言葉をキュマニスが鼻で笑った。彼女の衣装はいっそ潔いほどに、素っ気がない。ドレスどころか、それは乗馬服なのであった。絵の中の着飾った王女とはほど遠い。王女が頭を振れば、なんの髪飾りも持たぬ短髪が揺れた。

「あの手の服は好かぬ。レースやら刺繍やら、あの一着だけにどれほどの手間と金が費やされていることか。しかもレースは、なぁ?」

 さっさと歩き始めようとしたキュマニスの前を、メフィが塞いだ。

「それではまるで、わたくしの仕事が不要だと言わんばかりではございませんか」

「程度問題だよ。別にお前たち針子を失業させるつもりはない」

 そしてキュマニスは再度歩きかけたのだが、それをもメフィは再度さりげなく止めた。苛立ったキュマニスが思わずメフィを睨みつけるが、当然のことながら、効果があるはずもない。

「姫様はどうやらこの場所がお嫌いのご様子。どうしてですか?」

 「そんなことは」、と否定する声には、しかし明らかな動揺が見える。

 悪魔の瞳が嬉しげに細められた。悪魔が愛するのは、完璧な人間ではない。それは天使の取り分だ。悪魔どもが欲するのは、不完全な者。その歪さこそが、彼らを生み出し、かつ彼らを養ってきたのだ。

「ありますよ。先ほどから一度も、あの絵を見ようとなさらないではありませんか。ただ前に立っているだけの人間を誰何するほどに、大事に思っているはずなのに」

 メフィは大げさな仕草を交えて、再度、態とらしく絵を見上げてみせた。

「この中の人たちは、誰もがみな幸せそう。キュマニス様は王女らしくお美しく着飾っておいでだし、ヴァレンティン王子もほれぼれとするほどの男らしさ。――そうはお思いになりませんか?」

 謳うようなメフィの言葉に、キュマニスは返事をしなかった。黙したその手が、一度は収めた剣の柄を強く握る。悪魔はその様に気が付きながらも、陽気な口調で続けるのだった。

「なにもかもが今とは違う。そうではありませんか、王女? 家族は減ってしまった。貴女はもはや着飾ることもない。髪だって伸ばさない」

 振り返ったメフィの長い髪が、嫌がらせのように優雅に翻った。薄暗い空間の僅かな光を集めて、輝く。それは豊かな実りに項垂れる、小麦の黄金。

「ここまで言っても、貴女は一向にこの絵をご覧になりませんね。ああ、『見ない』のではなく、『見られない』のですか。ですが、どうして?

 もしや、この絵の中の王子が怖いのでしょうか? 自身の罪に潰されそうになる? どうして、髪をお切りになったのです? どうして、豪華な衣装に背を向けられるので? かつての貴女は確かに長い髪と美しい衣装に誇りを抱いていらっしゃったのに、何故ここまで変わってしまったのでしょう。それは、もしや」、悪魔の口調に喜びが滲む。キュマニスから発散される感情が、メフィには美味しくて可笑しくてたまらない。人の不幸は蜜の味なのである。少なくとも、悪魔にとっては。「――王子のための喪なのですか? あるいは自身への罰?」

 黙したままのキュマニスは、やはり今度も応えを返さなかった。その代わりに態度で示した。

 キュマニスは踏み出した一歩で、一気にメフィとの距離を詰めた。その間に抜かれた剣が、下からメフィを狙う。狙いは正確。迷いはない。空気が凍り付く。誰もいない広間を、静寂が支配する。狩る者と狩られる者との立場は、絶対に思えた。

 だがそれを破ったのは笑い声であった。悪魔の嗤い声であった。

 狩られる者が、楽しげに嬌声を発していた。キュマニスが抜き放った凶器は、メフィの首から僅かに髪の毛一本離れたところで、震えて止まっていたのだ。

 「気に入ったぞ、か。それは我が輩も同様だよ、キュマニス王女」。今や仮面を脱ぎ捨てた悪魔が、愉快そうに微笑んでいた。それは絵の中のかつてのキュマニスよりも、圧倒的に美しくおぞましい。「本当に貴様らは面白い。お前が真実殺したいのは我が輩ではなく、自分自身なのだろう? だから済んでのところで、踏みとどまった。殺したいのは我が輩ではないと、貴様は分かっていたからだ」。

 キュマニスの唇が強く引き結ばれた。大きく見開かれた瞳に映るのは、驚き。悪魔の嬌笑にも臆せぬその度胸に、メフィはますます上機嫌だ。

「我が輩、長らく貴様らと付き合ってきたがな、未だに不思議だよ。自死を欲する生き物は、貴様ら人間だけだ。生物とは本来、『生きる』ためだけに存在するはずなのだがな。定められた死に向かって、何の理由も意義もなく生きる無為な存在のはずなのに、貴様らときたら全く、……深く考えすぎる。だがそれが故に、我が輩は生まれたのだ。

 ああ。貴様らがもっと物を考えずに、ただただ生きていれば、貴様らの生きる世界はもっともっと単純かつ明快であっただろうに!」

「…………お前は、お前は一体、――『何』だ!」

 「誰」ではなく「何」。己が対している相手が尋常ならざる者だと分かってもなお、キュマニスは真っ正面に踏みとどまっていた。刃の切っ先が、メフィの首筋から動かない。

「言っただろう、我が輩、お前が気に入ったと。だから特別に教えてやる。大判振る舞いだ」

 メフィが大きな羽根を広げた。最初は漆黒。それから目を聾さんばかりに、純白。

「我が輩はメフィストフェレス。善神よりも、悪神よりも、古き悪魔だ」

 「悪魔? でも」、キュマニスは動揺する。手から剣が零れ落ちた。床に落ちたそれが耳障りな音を立てたが、今の彼女には届かない。

 ただキュマニスは、目の前に立つ己にそっくりな存在を見詰めていた。これは今、自身のことを悪魔だと言った。けれども、それは彼女の知る悪魔の定義に当てはまらないのだ。悪魔とはただ黒く恐ろしいもののはずなのに、これは美しく眩い。

 その混乱を見て取ったのだろう、メフィが翼を打ち降ろした。無数の羽根が舞い落ちる。

 視覚を刺し殺すほどの光から、今度は眼差しを奪う闇へ。だがそれも長くは続かない。徐々に回復した目が、次に目撃するのは色の洪水だ。思わず口を開けたキュマニスの中に、数多の羽根が進入する。

 それは例えるならば、内側から喰われるかの如く。体の隅々までを、脳の端々までを、全て覗かれる。彼の悪魔の前では、秘密など無意味なのだと、教えられる。


 突然現れた羽根は、突然消えた。キュマニスが膝をつく。その前に立つメフィは満面の笑みだが、しかし肩は震えていた。

 長らく人間に忘れられていた悪魔は力を失い、ただ人間の中を覗くだけの作業ですら、大きな負担となってのし掛かるのだ。しかも今の彼女では、全ての情報を得ることは出来ない。手に入れられるのは一部。かつての栄光を思えば、あまりにもあまりな零落であった。

 だがそれでもメフィは笑っていた。この悪魔は、過去を振り返るのがいかに無意味かを、よく知っていた。それにどうやら、支払った労力以上の成果を手に入れたようだ。

「成る程お前、王妃の子ではないのか。王と愛人の間に出来た子供なのだな。だからずっと、異母兄である王子に引け目を感じ続けてきたのか。けれどその兄が、自分の馬、それも無理矢理貸した、のせいで死んだのだから、成る程成る程、罪悪感は底なしか。

 お前は今、兄になろうとしているのだな。自分の空けた穴を塞ごうとして、また同時に罪滅ぼしのために。だから髪を切った。だから豪華なドレスではなく、乗馬服を着る」

 キュマニスはただ項垂れた。自分の胸の内など、自分自身ですらなかなか意識しないものだ。それをこうして目の前で言語化されるのは、立派な拷問であった。

「ああ、常々感じていた疑問も解けたぞ! 我が輩ずっと、どうしてハインリヒがあれほど自身の研究に金を使えるのか気になっていたのだ。

 全てはお前の贖罪だったのだな。あやつに『ハインリヒ』などと兄のミドルネームを与え、その上に給与を弾んだのは、あれがお前の兄に似ていたからか!」

 「贖罪なんかじゃない」。ようやっとキュマニスが口を開いた。「ただの自己満足だ」。

 「本当にお前は」、対するメフィの眼差しが緩んだ。いっそ優しいとまで、形容出来そうだ。「聡い娘だ」。

 だから、と悪魔は続けた、一つ、良いことを教えてやろう。

「お前の名前、『キュマニス』だがな、それの語源の意味は『苦しみ』なのだ」

「お母様が、私を育ててくれた王妃が、私にくれた名だ。実に私に相応しい」。そう皮肉気に顔を歪めたキュマニスに、しかしメフィは「それは本当に王妃が考えた名なのか? 一度聞いてみるといい」と肩を竦めてみせた。

「貴様らが生まれるよりもずっと以前、未だに善神も悪神もいなかった時代にあっては、『キュマニス』は聖女だったのだぞ。ある地の領主の娘だった彼女は望まぬ結婚を拒否し、その結果、策略により魔女に仕立て上げられた。最期は火炙りだ。しかし村人に愛されていた彼女は、彼らによって死後祀られたのだ。

 お前が嫌っている長ったらしいミドルネームの『ヴィルゲフォルティス』も同じ聖女を指すのだぞ。意味は『力ある乙女』」

「力ある……?」

「そうだ。お前もかつてのキュマニスと同じように、強いられた結婚を拒絶するつもりか?」

 はっ、と短くキュマニスが息を吐いた。

 シュトゥーベンベルグが仕掛けた、ノイベルグの再分家化計画。その全てはノイベルグ王家の一人娘である彼女と、シュトゥーベンベルグ王太子の結婚により完成するのだ。

「そんなことをすれば、火刑に処せられるのは私ではなく、この国そのものになるだろう。

 なにせ母はそのためだけに、ノイベルグなんぞに嫁いできたのだから。母は若い頃は美貌で知られていたのだとさ。ただでさえシュトゥーベンベルグの王女なのだ、妻にと望む者は多かった。それがこの田舎国の王妃だぞ。

 それなのに、私の縁組みを蹴れば、シュトゥーベンベルグの顔に泥を塗るに等しい」

「果たしてそれだけかな」

 悪魔が見上げる先には、ノイベルグ王家四人を描いた絵が。彼女が真っ直ぐに見詰めるのは、今は亡きヴァレンティン王子の姿。彼は王妃には似ているが、王には似ていない。

「何が言いたい?」

「今は何も」

「はっきりと言ったらどうだ。どうせお前には、全てが分かっているんだろう」

 キュマニスの言葉に、メフィは大きく肩を竦めてみせた。

「残念ながら、王女様。現在の我が輩は凄まじく弱体化していてな、普通の人間程度にしか知恵が働かぬのだ。力も殆ど貴様らと変わらない」

「さっきの羽は普通ではなかっただろうが」

「おかげで我が輩、死にそうだ」

「悪魔も死ぬのか? 人間のように?」

 態とらしく床に崩れ落ちてみせるメフィの姿に、キュマニスは自然と笑っていた。怖ろしいはずの悪魔が、ただの小娘にしか思えなくなっていた。自分と同じ姿をした、自分と同じように無力な悪魔。

 キュマニスの肩から力が抜けていく。普段から王女としての重責に苛まれる彼女にとっては、この悪魔は体面を気にしなくてもよい滅多にない相手でもあったのだ。

 何せ、メフィは彼女が庇護すべき国民ではないどころか、人間ですらないのだから。だから、馬鹿にされても間抜けなところを見せても、平気なのだ。

「それでお前はこのまま嫁に行くつもりなのか? そうすればノイベルグは再度シュトゥーベンベルグの一地方に成り下がるだろうが、それもまた時代の流れかもしれぬ。もうお前の兄はいないのだ、全てを諦めてしまっても良いのではないか」

 余りにも悪魔らしいその甘い誘いに、思わずキュマニスは声を上げて笑い出した。普段ならば、こんな内容を口にした相手には、その罪を死をもって償わせたであろうに。

 一旦ほぐれてしまった彼女の心は、今までに溜め込んでいた感情を勝手に排出し続ける。

「私はノイベルグの王女だ。最後の一人だ。だからシュトゥーベンベルグの人間になるつもりは、ない。

 ――いつもはそう言っている。だが正直なところ、もう分からないんだ。私が一人意地を張ったところで、どうしてシュトゥーベンベルグに立ち向かえる? 相手は大国、こちらは小国だぞ」

 それはキュマニスが初めて零す、素直な心境であった。

「兄の代わりになるのではないのか? なりたいのではないのか?」

「なりたいとは思う。でも私は優秀な兄とは違う。力ある乙女キュマニスとも違う。進むべき道など、分からない。何が正解なのかも、分からないんだ」

 「べきだとか正しいだとか、くだらぬ」。悪魔の緑の瞳が光る。「お前が欲することを成せ。人間どもは己の欲望を叫んでこそ、だ。でないと我が輩は、お飯の食い上げになってしまう」。

「勝手だな!」

 キュマニスは思わず吹き出した。それから沈黙した。欲するところ、自分が。それがもう彼女には、「分からない」。

「ただ一つ分かるのは、私はノイベルグの王女になど、生まれたくなかったということだけだ。だがそれはもはや、どうしようもない」

「ならば逃げるか? 逃げて他国で普通の娘として生きるのか」

「出来ることならばそうしたい。だがそれはもう無理なのだよ。私はもう王女だ。ノイベルグの最後の王女だ。そうなってしまった。ノイベルグと無縁の自分など想像も出来ない。

 だから、だから……逃げ出すならば生ではなく、死の方面なのだ。私は解放されたい。そうだ、なにも考えたくないのだ」

 キュマニスは笑い続ける。床にぺったりと座り、恥も外聞も投げ捨てて笑い、泣く。

 彼女はこれほどまでに全てをさらけ出した経験など、今までに一度もなかった。生まれてからずっと義母の抑圧下で育ち、自身の存在そのものに罪悪感を抱き続けてきた。そしてそれは、兄の死後に大きくなった。

 彼女は自分のことが、信じられなかった。けれど、全てを投げ出すほどに無責任にもなれなかった。

「きっと私が魔女と認定され火炙りになっても、聖女として祀るどころか、誰も悲しんですらくれないのだろうな」

 「そんなことはないぞ」、メフィは確かな口調で言った、「我が輩、一人知っている。お前を崇めて止まない馬鹿をな」。

 それが誰のことだが、キュマニスには分かった。だからただ、瞳を閉じた。

「それだって、事実を知れば終わりだよ」

「いいや。今やアレの生きている理由が、お前そのものなのだ。否定したくても出来ないだろうよ」

 メフィはおもむろに、どこからともなく何かを取り出した。軽く擦ると、キュマニスに渡す。それを覗き込んだキュマニスは、驚きに思わず悲鳴を上げて、取り落とした。

 からからと音を立てて床を転がるのは、透明なガラス、いや今や磨かれ裏に銀箔を張られたガラス鏡だった。

 メフィが指を鳴らした。たった一つしか存在しなかったガラス鏡が、いくつもいくつも複製され場を埋め尽くしていく。キュマニスがどちらを向いても向いても、自身の顔、顔、顔。自分と同じ顔をした別人であるメフィとは違う。それは情けない自分自身そのものだ。

 キュマニスは静かに自分と対峙した。その眉間に深い皺が寄る。彼女が逃げ出したい、生まれたくなかったと願う彼女自身の姿が幾重にも連なる。

「せっかくの美貌なのに、勿体ないことだ」

 そう言葉の上だけで嘆いて、メフィが再度指を鳴らした。ガラス鏡の幻想は消え失せ、床に落ちるのは、今やただの透明ガラス一枚と化した。

 それを取り上げると、もう一度メフィはキュマニスに渡した。それはもはや、先ほどのようには明白に彼女を映したりはしない。ただ美しく輝くだけだ。

「王女様は、人間にとって最も興味があることが何か、ご存じだろうか。それは自分自身だよ。何せ貴様らは自身からは逃げられないのだからな。

 お前の先ほどの狼狽ぶりと同じくらい必死に、自分自身を見ようと欲する連中がいる。そいつらならば、先のガラス鏡にいくらでも出すよ。シュトゥーベンベルグのレースなど目ではない」

 メフィの言葉に、キュマニスが敏感に反応した。そこにいたのは、己の出自に苦悩する小娘ではなく、ノイベルクの王女様であった。メフィの笑みが深くなる。

「賭けてみる気はないか? 密輸には密輸でお返しだ」

「だが、これはまだガラスでしかない。この透明度は驚きだがな。鏡はどこに?」

「まだ存在してはいない。だがお前が全面的に協力してくれるのならば、我らが愛しきハインリヒが命に代えてでも完成させてくれるさ。

 欲しいのは設備と技術。透明ガラスの量産化に従事する技術者、ガラスを磨き平面にする人夫、それから裏面に薄い銀を貼れる職人」

「商品課にはガラス業に従事している者が相当数いる。ただ緑のガラスしか作れないが、それでも使えるか?」

「問題ない」

「分かった。その他の手配もしてやろう。お前の好きにやってみると良い」

「違う。我が輩ではない。指揮を執るのはハインリヒだよ。透明ガラスの発明者はアレなのだから」

「好きにしろと言っただろう」

「御意に。王女の寛大な配慮に感謝して、ガラス鏡が完成した暁には、裏面にお前の紋章である百合を配することにしよう」

「そんなことはどうでもいい。とっととハインリヒを呼び出して仕事にかかれ」

 仰せの通りに、とメフィが言いかけた途端に、無人だった広間に動くものが現れた。黒い影のようなそれは、ベゲモートだった。一声鳴く。

 その姿に気が付いたキュマニスが、驚きの声を上げた。

「黒猫! まだ生き残っていただなんて。全ていびり殺されたものだとばかり」

「生き物は本来しぶといものなのだよ、死にたがりの王女様よ。だがどうやらアレはなかなか面白いことになっているようだぞ」

「アレ?」

「分かりきっていることだろう。ハインリヒだよ。あやつ、書物の受け渡しだとかで、異端審問の詰め所、通称で言うところの『牢屋』に出頭しているのだが、それがな」

 くすくすと、悪魔が笑った。その髪と顔は、先ほどキュマニスに切り捨てられたはずの黒衣で再度覆われていた。

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