三
あの日から、ハインリヒはより一層、ガラス作りに打ち込んだ。元から自由時間のほぼ全てを費やしていたにも等しかったのだが、今度は睡眠時間すらも投入して、ひたすらに実験を繰り返した。
マンガン。メフィはそれが、緑ガラスを透明に変える秘密だと言った。そのマンガンなるものを求めて、ハインリヒは思いつくだけ様々な材料をガラス原料に加えた。
彼の異端ぶりを証明する実験ノートは、中に抱く文字を着実に増やしていた。日々日々書き足される黒いそれは、ハインリヒの努力そのものであった。
そして遂に、報われる日が来た。成功したのだ。ハインリヒが凝視する耐熱床の上には、固まったガラスの塊が。それは床が見えるほどに、透き通っている。
ハインリヒは恐る恐るそのガラスに触れた。温度の分かりにくいガラスのこと、実はまだ高温で、冷えるに従っていつもの緑色を呈するのではないかと彼は恐れたのだが、予想を心地よく裏切って、ガラスは既に人間の体温なみに冷えていた。
誰も居ない一人ぼっちの実験窯で、ハインリヒは心ゆくまで喜びの声を上げた。遂に、遂にだ、ようやっと、長い長い実験と失敗の繰り返しの末に、成功したのだ!
喜びから冷めぬまま、ハインリヒは道具箱からトンカチを取り出した。手が震えて、ちゃんと柄を握るのが大変だった。それから大きなガラス塊(透明だ!)に向かって、彼はトンカチを振り下ろした。塊のままでは大きすぎて運べない。だから、割るのだ。
耳障りな音を立てて、ガラス塊は割れた。物理的な衝撃にも、ガラスは色を変えなかった。ハインリヒは、ほっと胸を撫で下ろした。
割られた断面は、驚くほどに滑らかだった。磨いてもいないのに燦めくその平面は、ハインリヒの汗だくの顔を映していた。映し出されるその鏡像は、くすんだ金属鏡に比べてずっと綺麗だ。
ハインリヒは砕かれたガラス片たちを見遣った。
こうやって個数を増やせば、何人にも配ることが出来る。このガラスを分け与えて、協力を仰ごう。透明ガラスが完成した程度では、ガラス鏡まではまだまだ遠いのだ。今度はこれを磨き、裏面に光沢のある金属を薄く貼り付けなくてはならない。とてもではないが、自分一人の手には余る。
ハインリヒは最も大きくて立派なガラス片を取り上げると、大切に布に包んだ。これはいつかキュマニスに献上したいと思う。
次に大きな欠片を取り上げて、暑苦しい実験室から飛び出した。これは、とハインリヒは決めた、メフィにやろう。この成功は、あの悪魔なしには成し遂げられなかったのだから。
森を抜けて、ハインリヒは走る。光を遮る木々がなくなった今、ガラスは思う存分太陽光を弾き返して、実に魅力的に輝くのだった。
ガラスの煌めきが、ハインリヒの慢性的な睡眠不足の目には辛い。だがそれも報われた今となっては、笑い話だ。
彼は想像する。この透明なガラスを見たら、あの悪魔は何というだろうか? きっとこう言うに違いない。「我が輩と契約すれば、もっと偉大なことが出来るぞ」、と。
ハインリヒは笑った。実際にメフィがその台詞を口にする姿を、ありありと描くことが出来る。それほどまでに、彼はあの悪魔と長く付き合ってしまったのだ。
だが喜びに弾んでいたハインリヒの足が、ハタと止まった。悪魔からの連想で思い出したのだ。今日が何の日だったのか。
ハインリヒは慌てて太陽の高さを見遣った。ほぼ南中している。まずい、約束は昼だった。もう時間は僅かしかない。
ハインリヒは再び走り出した。だがその方向は違う。
彼が向かうのは異端審問の詰め所、通称「牢屋」だ。彼は今日、異端審問から書物を譲り受ける約束であったのだ。ここで言う引き渡される書物とは、異端審問が異端者から没収したもののことであった。
異端審問は、異端審査を行う権限を持つ唯一の機関だ。どの国の異端審問も聖教会の下に置かれてはいるが、通例としてその長は王子、たいていは王位を継ぐ王太子、である。
つまり、教会所属は形式だけのことに過ぎない。異端審問の実体は、王直下の治安維持部隊なのだ。
それでも形式上だけとは言え教会に属する以上、異端審問を形成する「僧」自体は、教会僧から選出されてはいる。だがその選考基準は通常とは異なり、王あるいは王子の意向が大きく物を言うのだ。
異端審問僧は最高の栄誉職とされるが、そこに辿り着けるのは王家に気に入られるか、さもなくば教会からの多大な後押しを受けられる一部のみだ。そして当然のことながら、王家に押され選出された僧と、教会によって選出された僧の仲が良いはずもない。
ただし現在のノイベルグの異端審問は、他国とは大きくその趣を異としていた。先代の異端審問長であったヴァレンティン王子の死後、キュマニス王女が後を継ぐことが判明した時点で、王子の後援を受けていた僧が軒並みノイベルグ異端審問を去ったのだ。
理由は、キュマニスへの不審。キュマニスが兄であるヴァレンティンの死の一因とされたこと、また教会僧は男性のみと定められていることから、その長に女であるキュマニスを戴くことを、良しとしなかったのであった。
その結果、現在のノイベルグ異端審問は、教会が推した僧のみから成り立っていた。謂わば教会の傀儡と化していたのである。その点、王太子の強力なリーダーシップにより運営される隣国シュトゥーベンベルグの異端審問とは、その能力・士気共に、雲泥の差であった。
異端審問の仕事は異端審査である。善神ではなく悪神を崇める邪なる連中を発見し、彼らを更正(と言う名の終身刑)に導き、悪神を挫き善神を助けるのが勤めであった。
悪神の崇拝者と断定された連中の住処となるのが、件の通称「牢屋」であり、彼らの全財産が没収され納められるのも、同じ場所であった。そこには数多の書物も含まれる。
なにせ彼ら異端審問僧に引っ立てられる連中の多くが、富裕層あるいは知恵者と呼ばれる類であった(悪神とその取り巻きたちは、自己の勢力拡大のために富める者を狙った。また悪しき者どもは弁舌巧みであるが故に、学ぶ意欲、つまりは常に新しい知識を得たいと願う連中とも親和性が高かった)から、豊かさの象徴として、または知識欲から書物を所有している割合も高かった。
このせいで書物は悪しきものとの風説が生まれたが、そのことが一層好奇心旺盛な連中に書物を魅力的に見せたのだった。
今までノイベルグの異端審問は、没収した書物を朽ちるにまかせていた。だがキュマニスの命により、それらは今後全て、ハインリヒに引き渡されることとなった。その記念すべき第一回目の引き渡しが、今日なのであった。
ハインリヒは必死に駆けた。書物を扱う彼のこと、元々からして異端審問の覚えは目出度くはない。それが遅刻(それも最初の一回目から!)などしでかせば、近い内にこの牢屋で終身刑に服する囚人と化す羽目になるだろう。
ひたすらに走り続けていたハインリヒが顔を上げた、途端に絶望に震える。異端審問の詰め所までの道が、人混みで塞がれていたのだ。いつもは人通りも少ない道なのに、何故。
抜け道を探して必死に首を巡らせたハインリヒは、ここでようやく気が付いた。焦りのせいで今の今まで彼の耳には届いてはいなかったが、先ほどからずっと悲鳴が一つ、断続的に上がっていたのだ。それは人間ではない、獣の声だ。しかもそれを打ち消さんばかりに、周囲の人間たちが囃し立てている。
ハインリヒは困惑のまま、周囲に視線を走らせた。その先で一人、地面から石を拾った。投げつける。また悲鳴。
泣いている、否、鳴いているのは、猫だった。痛みに全身を仰け反らせるその生き物は、頭のてっぺんから尻尾の先まで黒一色。黒猫。その二文字が表す最も有名な存在は、悪神の側近ヴォランドの部下。
また一つ、石が投げられた。木に括りつけられ、抵抗も出来ない哀れな黒猫が、鳴く。それはまるで「どうしてこんな目に遭わされるのか分からない」と、泣き叫んでいるかのようだ。
ハインリヒは目の前の出来事に、硬直した。彼とて、黒猫が悪魔ヴォランドに関係していると言われていることぐらい、知っている。しかし同時に、それがただの言いがかりであることも知っているのだ。悪魔ヴォランドは黒猫の部下を持つが、黒猫全てが彼の部下であるわけではない。
――そんなことは、誰にだって分かるはずなのに。
見物人たちは猫が鳴く度に、けらけらと笑った。苦しみを長引かせるために、わざと小さな石を選んで投げつけているのだ。だがハインリヒの胸に沸き起こったのは、彼らとは全く異なる感情だった。
だが彼は無力であった。だから一人、立ち竦んだ。
ハインリヒは自問自答した。一体自分に、何が出来るだろうか? あの猫を救ってやりたいのは山々だ。だが木に飛びついて猫を解放してやる? そんなこは無理だ。それに成功したところで、黒猫はすぐに再度捕まり、今度こそ殺されるだろう。なにせ多勢に無勢なのだ。そして自分は牢屋行きだ。
けれど、と彼は歯噛みした、このまま見て見ぬ振りをすることは、彼には耐えられなかった。
だからせめて……、ハインリヒは真っ直ぐに黒猫を見た。今や全身の毛皮を自身の血で染め上げた哀れな生き物。ここまで深い傷を負ってしまったのだ、きっともう助からない。ならばせめて、苦しみを短くしてやりたい。
だがハインリヒのその決意は、行動に移されることはなかった。彼が勇気を持って一歩踏み出した瞬間に、何者かが大げさに驚く声が聞こえた。「なんて残忍な」、とそれは言ったのだった。この状況でのその恐れ知らずの発言に、場にいる全ての人間の注目が、一斉に声の主に向けられる。
人垣が割れた。そのただ中から現れたのは、頭を黒い布で覆った娘。ハインリヒには一目で分かった。メフィ、悪魔、だ。
ハインリヒの脳裏にいつかの会話が蘇る。メフィは言った、自分がいる場所こそが地獄だと。確かにこの地は地獄だとハインリヒは思う。だがそれは、メフィがいるからではない。
いくつもの目に見つめられながら、その悪魔、余人にはごく普通の娘、は態とらしく口に手を当てて、再度繰り返した。「なんて残忍な」。
途端に上がる、苛立ちの声。
「残忍? 黒猫はヴォランドの部下なんだぞ!」
そこには残酷な楽しみを取り上げられた苛立ちが色濃く表れていたが、しかしこの娘はその程度で怯んだりはしないのだ。
「ええ、知っています。でもそれはこの猫ではありません。これはただの猫であって、それ以外ではなあり得ません」
ただの小娘にしか見えないが、その実、古から存在する悪魔は、そう言うとにっこりと微笑んだ。
「ここはノイベルグ。正しき人たちが住む国。だから悪神の眷属など、ここにいるわけがない」
ふわりと笑むその表情は、あまりに堂々としていた。確信に充ち満ちたとしか形容出来ないその姿に、場に動揺が走る。人の感情を喰らって生きてきた化け物は、彼らの揺らぎを逃さない。畳みかけるように、続けた。
「こうやって無実な猫に憎しみを募らせることこそが、悪魔の狙いなのです。悪魔は善良なる人を、いつだって狙っています」
動揺が場に走った。黒猫への虐待は、今が初めてではないのだ。何度も繰り返して来た、そしてそれに疑問を感じたこともない連中にとっては、メフィの提起した疑問は降って湧いたかのような衝撃なのであった。
だが動物虐待に楽しみを見いだしていた人々ばかりではない。黒猫はヴォランドの手下だからとずっと正当化されて来たが故に、今まで後ろ暗さを表明出来なかった連中もいたのであった。
後者の人々はこうして、「善良な」などと持ち上げられると、途端に居心地が悪くなった。だが誉められている以上、否定するのも憚られる。
一方の前者は、楽しみにしていた黒猫虐待を取り上げられることに不満を抱いた。しかし、その楽しみ自体が悪魔の企みだと言われてしまえば、無理にゴリ押しすることも出来ない。
数多の目が、視線を交わす。「たしかに」と肯定の方向に傾く者も多いが、「でも」と戸惑う気配もまだ残っている。
一歩前に進んだメフィが、周囲の人間をゆっくりと見回した。顔を覆う黒い布の隙間から、緑の双眸が輝く。
「悪魔はいつだって、わたくしたちに罪を犯させようと企んでいます。そうやって、自分たちの影響下に置こうとしているのです。ですが、悪魔を過度に恐れる必要はありません。彼らは正しい者には無害なのですから。
わたくしたちが行うべきは、黒猫の殺害ではありません。それは、例えこの猫が悪魔の手下だとしても、同じことです」
滔々と悪魔の手口を述べるこの存在こそが、悪魔だ。だがそれを知っているのは、ハインリヒただ一人のみ。彼には、メフィの楽しげに歪んだ口元までが、見える気がした。
「わたくしたちが行うべきは、ただひたすらに善神を信じ、善神を敬うことだけ。そして罪を犯さぬように、清く生きるのです。
――それとも、もしかしてみなさま、己の正しさに自信がないのですか? あるいは、この虐待劇を楽しんでいらしたのですか?」
悪魔は周囲に集う一人一人を見回しながら、切実に語った。その迷いのない口振りに、一人二人と、そしてついにはそそくさと、加害者どもが立ち去って行く。メフィが黒猫を括りつける紐を切り落としても、もはや止めようとする者などいなかった。
ハインリヒは黙ってその光景を見続けた。先ほどまで猫に石を投げつけては笑い転げていた人間たちが、ばらばらに散っていく。猫に謝るでもなく、怪我の処置をするでもなく。
その中で悪魔だけが、優しく黒猫を撫でてやっていた。
醜悪な人間と、清らかな悪魔。何という対比だろうか。ハインリヒは目眩に襲われた。地獄。それは、悪魔がいる場所ではない、人間がいる場所なのだ。
「なんだ貴様、いたのか」
もはやハインリヒしかいないと見て取るや、悪魔はさっさといつもの意地悪い口調に戻ってしまった。
だがこのふてぶてしい口ぶりの方が、先ほどの聖人ぶった話ぶりよりはずっと良い。そうハインリヒは思う。悪魔の方が人間よりもずっと美しいだなんて、そんな現実を彼は見たくなかった。
「貴様らは昔も今も変わらず、弱いもの虐めが好きだな」
「そんなことは……」、応じるハインリヒの声には、いつもと違い元気がない。
「あるよ」、悪魔が続きを引き取った。
「我が輩は知っておるよ。貴様らの非道さを、骨の髄まで知っている。なにせ我が輩は貴様らによって生み出されてからずっと、貴様らの抱く悪意と共に生きてきたのだから。
何よりも恐ろしいのはお前、人間だよ。悪魔は人間とは違い、少なくとも約束だけは守る、だが貴様らときたら、一体何度悪魔を裏切ったことか。なぁ、ファウストよ?」
人間は悪魔よりも恐ろしい。ハインリヒは己の根幹が大きく揺らぐのを、感じずにはいられなかった。確かに人間は綺麗な存在ではない。けれど、そこまで悪しき存在だとも、思いたくはないのだ。
だが彼の目の前では、今にも倒れそうなほどに弱った体を押して、黒猫が悪魔に頭を擦りつけては、心からの感謝の意を示しているのだ。ハインリヒには、何がなにやら分からない。彼が信じたいものと、彼が見るものには大きな差があった。
だがそれでも彼はまだ、諦めたくはなかった。
だから「確かに」と、彼は口を開いた、自分でも何を言うつもりなのか分からないまま、それでも真っ直ぐにメフィと向き合って続けた。
「俺たちは弱いもの虐めが好きかもしれない。でも、それだけじゃないと思いたいんだ。だって俺は、孤児の俺は、なんだかんだと陰口を叩かれながらも、こうやって生きているから。人間だってそう捨てたもんじゃないって、そう信じたいんだ」
「貴様は甘ちゃんだな。だが我が輩は、貴様がそのままでいられることを願うよ」
悪魔の口元に浮かぶのは、なんとも形容し難い微笑。決してハインリヒを馬鹿にするだけではない、複雑な。
「人間とはなハインリヒ、絶えず変わっていくものなのだよ。悪魔とは違い、貴様らは自動的に成長し、望まずとも老いてゆく。変わらずにいる為には、常に変わっていかなくてはならないのだ。それには強い信念と意志が必要だ。
貴様にそれらが備わっていることを、我が輩、祈ってやろう」
黒猫が悪魔に向かって、弱々しく鳴いた。二人の視線がそちらへと逸れる。力尽きつつある猫の、恐らくは最後となるだろう声だった。ガラス玉によく似た瞳が、悪魔を切なく見詰める。黒猫は悪魔に願いごとをしたのだ。
メフィは肩を竦めて言う。「我が輩、犬派なのだがな。だが今や悪魔の筆頭となられたヴォランド猊下に敬意を表して、猫を友にするのも良いかもしれぬ」。その声は仕草を裏切って、優しげな色を帯びていた。
悪魔は地面に片膝を折ると、片手を差し出した。猫は崩れるように、その手に頭を預ける。
「お前に契約書は不要だ。約束を反故にするのは人間だけだからな」、悪魔は笑う、「通常の契約は二十四年、だが猫には長すぎる。だから契約期間はお前の死ぬまでとしよう。魂を持たぬお前には、我が輩を下僕にすることは出来ない。だが対等の相手として、あるいは命の恩人として、お前を遇しよう」。悪魔の白い手が、ゆっくりと猫の黒い体を撫でた。その動きに合わせて傷口が塞がっていく。ただ死を待つばかりだった生き物に、生気が漲っていく。「契約が成った記念に、お前に名前をやろう。……ベゲモート。今日からお前は、ベゲモートだよ」。
悪魔の手下だと疑われ殺されかけた黒猫は、今や本当に悪魔の手下として蘇った。
「ベゲモートは自身の命で、願いを叶えた。だが貴様は、努力で願いを叶えたようだな」
猫に向けられていた緑の双眼が、ハインリヒへとシフトした。そのの手には、一体いつ取ったのやら、ハインリヒが今日ようやく完成させた透明なガラスが握られていたるのだった。驚くハインリヒのことなど全く気にせず、メフィは太陽光にそれを透かして満足げである。
「あんな助言だけを手がかりに、成し遂げるとはな。本当に貴様らは救い難い」。メフィは器用にガラス片を手の中で弄ぶ。その度に、キラキラと乱反射する光。「貴様らの底知れぬ欲望こそが、貴様らの技術を磨くのだ。だがいつか肥大した技術が、欲望もろとも貴様らそのものを呑み込むだろう」。
「それは予言なのか?」
「いいや、ただの過去だよ」
深い悲しみがメフィの顔を覆ったが、それもほんの一瞬のこと。ハインリヒは、いやそれどころかメフィ本人さえも、気が付かなかった。
「何事も思っているだけではどうにもならない。けれど踏み出しただけでも、足りない。成功を掴みとるためには、力が必要だ。そして貴様は一つ成功させた。胸を張ると良い。
このガラスは、貴様の野望であるガラス鏡への第一歩だ。『全ては大切なキュマニスのためだ』といつか貴様は言ったな。その言葉が変わらぬことを、我が輩は願っているよ。貴様が変わらないことを。立ち止まることの出来ぬ生き物である、貴様がな」
「俺の気持ちは変わらないよ」
「そうか。そうだな」、メフィの瞳がすっと細まった、ガラスとは違う光がその中で跳ねる、「変わらないのではなく、変われないのだな。だが変わらずにいることなど、不可能なのだよ」。
ハインリヒにはさっぱり意味の分からない単語たちを言い捨てると、メフィは「さてと」と言いながら腕を伸ばした。
「仕事に戻るかな。我が輩、今日やっと、件のキュマニス姫に会えるのだ。あの姫様はなかなかにお忙しいらしくてな、ようやくだぞ」
それは羨ましい、と言いかけてハインリヒは固まった。
「やばい! 昼に異端審問の詰め所に行かなくちゃならないのに、また忘れてた!!」
「異端審問に? なんだ貴様、ついに連中に捕まるのか。今生の別れだな。我が輩、悲しいぞ」
「違う! 本当に時間がないから、行くよ」。メフィの茶化しを顔を顰めただけで躱し、ハインリヒは走りだそうとしたのだが、だがその前に猫、ベゲモート、が立ち塞がった。長い尻尾、それも真っ黒だ、をしなやかに揺らす。
「近道を教えてくれるとさ、ほら、とっとと行け」
「そうだったのか、ありがとう。頼むよ」
ベゲモートは誇らしげに、ハインリヒの前に立って走り始めた。その影よりも黒い姿を追おうとして、ハインリヒは足を止めた。メフィを振り返る。彼女の白い手の中で、ガラス片が輝いていた。
「それはお前にやるよ。透明なガラスを作れたのは、お前のおかげだから。でもそれだけだ。契約はしない。俺は最後まで、自分の力だけで成し遂げてみせる」
相手の反応など見もせずに、くるりと体の向きを変えると、そのままハインリヒはベゲモートの後を追って走り出した。残念ながらすでに前を向いてしまっていた彼には、メフィの満面の笑みは見えなかった。
小さくなる彼らの背中を見送りながら、メフィは一人楽しげに囁いた。
「理想を掲げそれに向かい努力をするのは人間だけだ。その姿は美しい。
だが、掲げた理想と現実との落差は、大きなエネルギーを生み出す。それは時により激しい感情に化け、そして故に悪魔を養うのだ」
――誰も聞くことのない、その言葉。
羽が一枚どこからともなく舞い落ちた。最初は黒一色に見えたそれは、ゆっくりと回転する間に様々な色を見せる。
「黒は」、メフィの腕が羽に伸ばされた、「全ての色を内包する色だ。そこから目的の色を引き出せるかどうかは、人間の側に委ねられているのだ」。




