二
「良いことを教えてやったのだから、我が輩、見返りが欲しいぞ」
メフィが先ほどの道化人形、確かカスペルとか言った、を突きつけながら言う台詞を、ハインリヒは不愛想に却下した。その頬にはまだ赤みが残っている。
「何が良いことだ。毎日のように来ようとも、契約を結んでやるつもりなどないね」
「これはこれは冷たいね。自分がおっぱい星人だと知らずに生きるよりも、自覚していた方が楽しいだろうに」
「お前、まだ言うか!」
ハインリヒが照れ隠しに振り回した本が、カスペルを飛ばした。吹っ飛ばされた哀れな人形は、そのまま本棚の下に転がり込んでしまった。
「我が輩のカスペルが!」
「いい気味だ」
メフィが必死に棚の下を覗き込む様子が、なんだか妙におかしくてハインリヒは馬鹿笑いした。恨めしげにこちらを見やる姿も面白い。相手は悪魔なのに、それなのに、こんなにも親しくなってしまった。
「貴様、ガラス作りが上手く行かないから、我が輩に八つ当たりしているのだろう」
「それこそ八つ当たりってもんだ」
「どうだか。そうだハインリヒ、我が輩、針子として働く中でもう一つ発見をしたぞ。
貴様が言っていた聖なる金属鏡だがな、城の連中は平気で聖なる用途以外にも使っているではないか」
「どういう意味だ?」
「貴様はいつか言っただろう。金属鏡は善神に捧げられたもの、だから実用には使わないと。だが貴族らはごく普通に身だしなみやら化粧やらに活躍させているぞ」
「そんな……」。ハインリヒは思わず絶句した。なんと罪深いことを。
だが悪魔には、その事実は全く違う意味に見えたのだった。
「だから確信したぞ。もしも貴様がガラス鏡の製造に成功した暁には、それは爆発的な人気を呼ぶに違いない。
金属鏡はすぐに表面が酸化して曇るにも関わらず、奴らは必死に磨いて使っている。その結果表面が歪み、自分の顔が悪鬼の如きになっても手放さない。手放せないと言ったほうが適切かもしれんな。つまりは己の顔が見たくて見たくて、仕方がないのだ」
そこに含まれる嘲りの色も、今の打ちのめされたハインリヒには届かない。そんなハインリヒの反応に、悪魔は「大げさだな」と小さく溜め息を吐いてみせた。
「なんにせよ、とっととガラス鏡を完成させることだな。金属鏡よりも自分の姿を見るのに便利なものがあれば、奴らも金属鏡をそんな邪な用途に使わなくなるだろうよ。まぁそう心配せずとも、我が輩と契約すれば、直ぐだぞ?」
「契約はしない」
間髪入れずに返された答えに、メフィは今度は大きな溜め息を一つ。
「本当に冷たいヤツめ。そんな態度を続けると、我が輩が王女付きになった時に後悔するぞ。ないことないことキュマニスに吹き込んでやる」
「王女付き!? お前、そんな予定があるのか?」
「いいや、まだだ。だが近い内に、王女が我が輩に会ってくださる予定なのだよ。そっくりさんがいるとの噂が、ようやく王女の耳にまで届いたらしくてな。
そこで気に入られれば、王女付きの侍女だって夢ではあるまい? 我が輩なら影武者としても使えるしな」
ハインリヒはメフィを見下ろした。この悪魔が王女付きになる。どこの馬の骨とも知れぬ娘に、そんな栄誉が与えられるとは普通は考えられない。だが目の前にいるのは、普通ではない相手なのだ。
ハインリヒは、メフィとの格差に目眩を覚えた。メフィは己の才覚だけで出世の階段をよじ登っていく、それなのに自分は? メフィの唇が、歪んだような気がした。
「おい、ハインリヒ! 邪魔するぞ」、「メフィちゃん、いるかい?」
押し黙ったハインリヒがもたらした静寂は、雑多な声に乱された。ハインリヒが、はっと顔を上げる。声の主たちは、いつの間に結成されたのやら、メフィの取り巻き連中なのであった。
彼らは暇さえあれば、メフィを追い回していた。メフィもメフィでかなり便利に連中を利用しているようだが、しかし常に追いかけ回される身としては、「金魚の糞どもめ」との今のハインリヒにしか聞こえなかった囁きが、本音でもあるようだ。そんな彼らが、ついにこの書庫にまでやってきた。
その中には以前ハインリヒを叩き起こしに来た、商品課のフープマイヤーとシャッペラーの姿も見える。両手に花束を抱きしめた二人は、なんとかメフィとお近づきにならんがために場所争いに勤しんでいた。メフィの弟とされるハインリヒに、二人揃って意味ありげな視線を投げて寄越す有様だ。
ハインリヒは思わず一人、頭を抱えた。この悪魔を呼び出してからと言うもの、碌なことがない。今までこの書庫に、これほど多くの人間が来ることなど、まずなかったのだ。なにせ書物は、悪神の影響下にあるとして嫌われているのだから。
誰かがうっかり本を落としたりしないかが心配で、ハインリヒはどうにも落ち着かない。ここにある本はハインリヒに管理が委託されているだけで、その実はキュマニス王女、いやノイベルグ王家にこそ属しているのだ。
そんなハインリヒの心の内を読み取ったのだろう悪魔は、彼ら向かって声を張り上げる。
「みなさん、端にお願いします。本に不幸があってはいけませんから」
にっこりと微笑むメフィの姿は、慈愛に満ちた女神の如しだ。つい先刻までの悪辣な口調は、いっそ見事と誉め称えられそうなほどに綺麗さっぱり、姿を隠し遂せている。
メフィの言葉に素直に従い、書庫の広く空いているスペースに移動した連中は、「メフィちゃん、どうして今日はここにいるの?」だの「メフィちゃん、山羊のチーズ持ってきたんだけど、どうかな?」だのと口々に話しかけながらも、自分の有能さと趣味の良さを証明せんがために忙しく立ち働いていた。
あっと言う間もあればこそ。ハインリヒの住処で、ハインリヒを除け者に、勝手に宴会の準備が整っていく。食べ物に加えて、楽しみのために様々なカードゲームまでもが持ち込まれていた。
自ずといくつかのチームに分かれてのゲームが始まる。誰も彼もがメフィの参加を乞うのだが、彼女はその全てを丁寧に退けた。
メフィは取り巻きの誰かが持ってきた、山羊の乳から作られたチーズがいたく気に入ったらしく、見た目は上品に、けれどもその実がめつく全てを掻っ攫った。その上で、一人ぼつねんと離れて座るハインリヒの隣までわざわざやってくると、それを自慢げに見せびらかすのであった。
「見ろよこのチーズ、とんでもなく柔らかいぞ。こうして押せば」、とメフィはほどよいサイズに切られたチーズのそれぞれの端に、指で力をかけてみせた、「ほら、引っ付いた! まるで最初から切れてなどいなかったかのようだ。さらにこうすると」と今度は真上から押しつける、「元通りに別れたぞ」。
「そりゃ良かったな」
妙にうれしそうなメフィの態度が全く理解できないハインリヒは、手抜きの相槌を打った。彼の目はずっとカードゲームに囚われている。一度もやったことがない、だからこそやってみたいのだ。
その眼差しに気が付いたメフィの瞳が輝く。
「貴様も仲間に入れてもらいたいのか? もしも貴様が我が輩と契約を結びさえすれば、すぐに叶えてやるぞ」
「馬鹿馬鹿しい。たかだかカードゲームに参加するために、悪魔と契約する人間がいるか」
「だが、やってみたいんだろう?」
ハインリヒは答えなかった。その沈黙をどう取ったのか、メフィが勝手にその隣に座る。
「ふぅん、どうやら場に最も強いカードを出した者が、場にあるカード全てを総取りするようだな。ゲーム終了時に最も多くのカードを持っていた者が勝ち、と。場に出すのは手札から一枚だから、手持ちからどのカードをどのタイミングで出すかが重要だな」
「これはまるで」、とメフィはどこか楽しげに言葉を継ぐ、「人生そっくりだ」。
「あのゲームが人生なら」、とハインリヒはチーズを頬張るメフィに差し向かった、「お前の手札はさぞ強いカードばかりなのだろうな」。
「買いかぶって貰っては困る。何度も言うが、我が輩、これでも死にかけなのだぞ。手持ちは少なく、その上、貧相だ。
現実を見てみろ。契約者として可能性があるのは貴様一人、この賭けに失敗すれば我が輩に次はない。だがそれでも、我が輩は諦めたりはしない。死んでも諦めたりはせぬよ。嘘ハッタリを駆使してでも、勝利を引き寄せてみせるさ」
薄暗い書庫でもなお、メフィの緑の瞳は輝く。ハインリヒはその煌めきを直視していた。
「さて、貴様の手札はどうなのだ?」
「俺は」
手札。ハインリヒの手元にあるのは、ただ「少しだけ古代語の読み書きが出来る」という特技とも呼びにくいものだけだ。ああ、もう一枚あった、それは目の前のこの美しい悪魔だ。
「そうだ」、メフィが囁く、「貴様さえその気になれば、全てを叶えられるぞ」。
「断る」。冷たくハインリヒは言い捨てた。それは嘘ハッタリなどとは次元の違う、禁じ手だ。悪魔に頼るのは悪神を崇めることと同義だ。そんな恐ろしいことは、出来ない。
「お前は俺の手札なんかじゃない」
悪魔が大げさに肩を竦めてみせた。どこか芝居がかった仕草だ。
「やれやれ、頑固だな。そこまで頑なな貴様を称えて、我が輩から一つプレゼントをくれてやろう。
――ガラスの緑色の原因は、原料に含まれる鉄だ。今の技術でも鉄の除去は可能だが、鉄以外に必要な成分をも失うぞ。そうすると今度は、強度と耐候性に問題がある欠陥ガラスになる」
「欠陥ガラスになる」。この言葉が、ハインリヒを一気に追いつめた。積みかさねてきた実験の数々が、彼の脳裏に甦る。その全てが、意味の無いことだったとしたら? とてもではないが、耐えられない。
「それはつまり無理ってことかよ! どうせそれも嘘なんだろう!? 嘘だと言えよ! 俺を契約に追い込みたいだけなんだろう!?」
だが、対する悪魔は冷静だ。
「嘘ではない。だが無理だと言う意味でもない。
鉄を除去する以外にも対処法はあるのだ。緑を抜くことが出来ないのならば、それを打ち消すものを入れれば良い。最もよく使われていたのはマンガンだが、現在は……」。勿体ぶって悪魔はそこで言葉を切った。その上で契約をちらつかせる予定であったのだが、それは「ありがとう!」との素直な言葉に打ち砕かれた。
ハインリヒは、感動の余りメフィの両手をとっていた。不意をつかれた彼女の手からチーズが転げ落ちた。
マンガンなるものが何なのか、ハインリヒは知らなかった。だがそれでも、緑を打ち消す「何か」を足せば良いとの方向性が示されただけで、嬉しくてならなかったのだ。
ハインリヒの顔が喜びに輝く。今までメフィが見た中で、最も清々しい表情であった。
ハインリヒは乱暴とも言えるほど烈しくメフィの手を振ると、そのまま彼女に背を向けて黒の森へと、彼の秘密の実験室へと駆け出していった。
その真っ直ぐさに、メフィは目を細めた。メフィの脳裏に甦るのは、懐かしい「好奇心は猫を殺す」との諺。この諺は果たして今も生き延びているのだろうか。彼女は知らない。
「なんだアイツ? メフィちゃん、何かあったの?」
ハインリヒの発した大声と、その後の疾走は、注目の的となるに充分に過ぎた。一斉に視線を向けてくる「親衛隊」に向かい、メフィは静かに微笑んで見せた。
「さぁ? どうやら何か思いついたようですね」
「ああアイツ、趣味でガラスの研究をしてるんだよ。腕に酷い火傷があっただろう?」と情報を補足したのは、商品課所属の誰か、「趣味で? なんて酔狂なヤツなんだ」、「なんでも透明なガラスを作って、ええっとそれで鏡を作るんだとか」、「ガラスで鏡? 意味が分かんねぇよ」、「わざわざ自前で窯まで買ったんだぜ」、「へぇ、趣味に無駄金を使うねぇ」、「まぁ給料自体は悪くないようだしな。一応は王女直属だし」云々とハインリヒの無謀さを嗤う言葉が一同に広がっていく。
だが一人だけ彼を否定しない人物がいた。メフィだ。
「仕事でもないことに必死になれるだなんて、とても素敵なことではありませんか?」
場の空気に逆らうその鋭利な言葉に、誰もが沈黙した。戸惑いが空気を支配する。
その隙をついて、メフィは手際よく自身の取り巻き連中を書庫から追い出しにかかった。ハインリヒをからかうくらいにしか使い用のない奴らなのだ。ハインリヒ自身がいない以上、なんの価値もない。
一人残った書庫で、メフィは天井を仰ぐ。追い出された連中の文句が、壁の向こうから届いた。
ああ、と悪魔は微笑む。必死に努力する人間を嘲笑う奴らの、なんと平凡なことか。そこに含まれる悪意と羨ましさの、なんと甘美なことか。
「哀れな凡人どもめ」
何の根拠もなく他人を見下し、何の根拠もなく嫌悪する彼ら愚か者たちのことを、この悪魔は心底嘲り、また同時に心底溺愛してもいた。彼らのその粘つく感情こそが、この悪魔を生みだし、この悪魔を育んで来たのだから。
「我が輩は貴様らの影であり鏡像であり、そして何よりも貴様らそのものなのだ。愛おしくて厭わしい、救い難き聖なる愚者どもよ」
メフィはどこからともなく、知識人風の人形を取り出していた。これもまた、彼女の手作りなのであった。長いヒゲが印象的な、こちらも見事な細工の逸品だ。とは言え、凄いと言ってくれるハインリヒは今はいないのだが。
メフィは、カスペル人形が失踪したあたりの本棚に視線を投げた。
あのカスペルは、とメフィはほくそ笑む、阿呆の道化であるが故に、悪魔との契約を手玉に取ることが出来た。彼にとって言葉は軽く、意味の無いことだったからこそ、無事に逃げ果せたのだ。
対するファウストは、知識を称え知識に従事する者であったがために、悪魔との契約を破棄出来なかった。彼にとっては言葉は重く、それを裏切ることは自分自身を否定することに等しかったからだ。だから彼は座したまま、契約満了日を迎える。
「鐘が鳴る、ああ、これは十二時の鐘。儂に残された時間はもうない! 止まれ、儂のために時間よ止まれ!
鐘が鳴る、ああ、これは十二時の鐘。俺の仕事の時間はもう終わり! さあさ、明日のために眠るとするか!」
メフィの操る小さな人形が、頭を抱えて蹲った。メフィはそれを投げ捨てる。落ちた先にはどこから出て来たものやら、愉快な道化人形がいた。二人仲良く、床の上に並んでいる。だがその一方は死んでおり、もう片方は幸福な安眠の中なのだ。
さてさて、とメフィは唇を舌で舐めた。あのハインリヒは、果たしてどちらなのやら?
笑む悪魔は、両腕を天に向かってまっすぐに伸ばした。その動きに呼応するように、瀬背中から大き羽が伸びる。書庫いっぱいに広げられた翼を悪魔が打ち下ろせば、夥しい数の羽根が飛び散った。だがそれも一瞬、全ては真っ赤な薔薇の花弁へと姿を変えてしまった。数多の花びらが、ゆるやかに舞い落ちる。
その赤に、メフィが大きく唇を歪めた。
「時よ止まれ、お前は美しい……なぁ?」
体を降り曲げて、メフィは一人、ひたすらに哄笑し続ける。まるで血のように降り注ぐ真っ赤な花は、しかし、床に落ちる前に全てが無に溶け去って行く。何も残りはしない。
それはまるで、無為な生そのもののようでもあった。




