一
ハインリヒは今日も額の汗を拭った。だがまるで焼け石に水だ。周囲に渦巻く空気は熱く、後から後から汗が流れて、顎から垂れていく。
正気を保つべく一つ頬を叩いて気合いを入れると、ハインリヒは窯の中で熱せられている坩堝の取り出しにかかった。強烈な熱に耐えながら、期待と希望に満ちた手つきで、耐熱床に中身を流し出す。
冷たい床と出会った融解ガラスが、悲鳴にも似た音を上げる。一気に吹き付けるのは、独特な臭いを含んだ熱風だ。どう考えても体によさそうには思えない。
ハインリヒは抵抗せずに身を引くと、遠くから溶けたガラスが冷えるのを見守ることにした。
彼の目の前で、最初は赤みを帯びていた粘土の高い液体が、徐々に透明度を増していく。ハインリヒの心が沸き立つが、しかし、それは長くは続かなかった。ハインリヒが息を詰めて見つめる前で、その高い透明度が見慣れたいつもの緑色に染められたからだ。
ハインリヒは肩を落とした。もう何度目かなど数えたくもないのだが、実験ノートに目を落とせば嫌でも分かってしまう。これで目出度く三百回目なのだった。実験に通し番号を付けた自分が、また同時にそれを律儀に守り続けている自分が、酷く惨めに思えた。
分厚くなり続けるノートを、ハインリヒは音を立てて閉じた。その僅かな動きにも、手の皮膚が引き攣れて彼に痛みをもたらした。どうやらまた、火傷が増えたらしい。
彼の手になるノートは、わざわざ羊の皮をなめして作られていた。彼にしか分からない文字が満載されたそれは、見つかれば異端審問行きを命じられても仕方がない代物だ。誰からも尊敬を受ける異端審問官と、誰からも唾を吐かれる異端者。
まるで光と闇のように、鮮やかなる対比。ハインリヒが果たしてどちらにより近いかと問えば、それは当然、後者なのであった。
元から彼は異端者なのだ。それをキュマニス王女の庇護のおかげで、今の今まで見逃されてきた。だがこのノートは致命的だ。けれども試行錯誤の跡は、残しておかなければならない。その思考自体が、この現代では異端そのものなのだと、ハインリヒも知ってはいたが。
そんな危険を冒してまで、ハインリヒはずっと透明ガラスの作製に夢を賭けてきた。――けれど。
ハインリヒは首を振ると、後ろ向きな気持ちを無理矢理に払いのけた。失敗などいつものことではないか。諦める気など欠片もないのだから、落ち込むだけ無駄だ。何の益にもなりはしない。己の慰めるために大きく息を吸えば、熱く臭い空気が彼の肺を焼いた。
いつまでも失敗作の緑のガラスを見詰めていても、仕方が無い。今日新たにこさえた火傷を擦りながら、ハインリヒは住処兼仕事場である書庫へと戻ることにした。
彼は信じていた。諦めずに挑戦を続けさえすれば、いつか求めるものを手に入れられると。努力に努力を重ねても、結局は力及ばず斃れ去る者もまた多いことを、彼はまだ知らなかったのだ。
「鐘が鳴る、ああ、これは十時の鐘。儂に残された時間は、残り二時間。止まれ、時間よ止まれ!」
突如聞こえた悲しげな歌に、ハインリヒの足が止まった。声の主は、と彼は大きく溜め息を吐いた、あの悪魔だ。
「鐘が鳴る、ああ、これは十時の鐘。夜遊びの時間だ、色男の出番だよ。止まれ、娘の親父に見つかるぞ!」
一転して今度は愉快な声音。余人ならば心惹かれずにはいられないほどの見事な歌いっぷりだが、ハインリヒは無視した。だが悲しいことに、その発生源は書庫の前にいたのである。
「鐘が鳴る、ああ、これは十一時の鐘。儂に残された時間は、もうあと一時間。止まれ、時間よ、今すぐ止まれ!」
書庫の前に生えた立派な木の上で、悪魔は楽しげに二つの人形を踊らせていた。一方は長い髭を蓄えた知識人風、もう片方は派手な身なりの、いかにもなお調子者だ。
「鐘が鳴る、ああ、これは十一時の鐘。素晴らしき今日は、もうあと一時間。ないか、思い残しはもうないか?」
無視したいのは山々だったのだが、それでもハインリヒは礼儀として口を挟んだ。
「――そこで何をしているのか、聞いてもいいか?」
にっこりと微笑むのは悪魔。そのキュマニスと同一の顔は、この下から見上げるアングルでも美しい。
「なんだ、今からがハイライトなのに」
「そりゃ悪かったな。だけど続きは他所でやってくれ。ここじゃなければ、俺も邪魔なんてしないし、それに観客がいた方が嬉しいんじゃないか」
ハインリヒはそれだけを言い捨てると、礼儀は果たしたとばかりに書庫に入ろうとした。
だがこの悪魔が素直に彼の言うことを聞くはずなどなかったのだ。枝の上から伸びたしなやかな長い腕が、むんずと彼の上着を捕まえて放さない。
「今のが何の歌だか聞かないのか? 聞くのが礼儀ってもんじゃないのか? ええ、ハインリヒ、お前はそんなだからモテないのだ」
「……別に興味ないし。俺がモテてもモテなくても、お前に関係ないだろう」
彼の上着が解放されるのと同時に、メフィが地面に降り立った。その優美な身のこなしは、猫そのもの。
彼女の纏う真っ黒な服と相俟って、ハインリヒは悪魔ヴォランドが使役しているとされる黒猫のことを思い出さずにはいられなかった。悪神の第一の手下であるヴォランドの、その手下である黒猫の名前は……ハインリヒには思い出せなかった。だがそのせいで黒猫、ただの黒い猫だ、までもが人間によって虐め殺されていることを、彼は知っている。
「これはある人形劇のラストシーンでな、道化カスペルの魅力が炸裂するんだ」と、未だに聞かれてもいないのに、悪魔は勝手に説明を始めていた。メフィはハインリヒに派手な方の人形を押しつけて、続ける。「己の命可愛さに嘆く博士との対比が見事だっただろう? 続きは、まぁ、その内に聞かせてやるよ」。
「別に要らない」
ハインリヒの手の中で、小振りな道化人形が転がった。端切れで作られたと覚しいそれは、こうして近くで見ると、とてつもなく精緻な細工が施されていることが分かった。ハインリヒは驚きに、目を見張る。
「そうだろう、そうだろう」
彼の胸の内を勝手に読んだらしきメフィが、誇らしげに人形を指差して笑った。その邪気のない笑顔は、悪魔のイメージとはほど遠い。ただの小娘にしか見えないのだ。
「余り布と糸を寄せ集めて作ったのだが、これはこれで斬新なデザインだろう?」
「もしかしてこれ、お前が作ったのかよ!?」
ハインリヒは素直に驚いた。確かにこの悪魔は老僧の一人に取り入り、王宮の針子職を手に入れていたが、だがまさか真っ当な裁縫技術を持っているとは、一度も想像したことがなかったのだ。
驚くハインリヒに、メフィはさらに得意満面の表情だ。
「我が輩の裁縫技術はなかなかのものでな、昨日完成したキュマニス王女のためのドレスなんて、最高の評価だったぞ。貴族たちからの追加注文も見込めそうだ」
だがその言葉に、ハインリヒの顔が強ばった。彼が熱い窯の前で失敗に失敗を重ねている間にも、一方のこの悪魔は着実に成功を重ねて己の足場を固めていたのだ。第三者には同じ異端者として見えるはずなのに、二人のこの違い。ハインリヒの心は、揺れる。
それでも平静を装ってハインリヒが顔を上げた瞬間、彼のその目に飛び込んだのは、にやにやと顔を崩した悪魔の姿であった。その不気味さに、ハインリヒは思わず後ずさる。
顔を緩めたまま、「いやーなるほどねー」と意味ありげに彼を見遣るメフィに「な、なんだよ!」と、ハインリヒが耐えきれずに声を上げた。だがそれこそ、この悪魔の待っていた展開なのであった。
メフィが姿勢を崩したハインリヒの腕をとった。そのままぴったりと体を彼に押しつければ、その胸がハインリヒの腕に当たる。キュマニスと同じ、緑の双方が彼を見上げる。
「我が輩、キュマニスのドレスを作っていて気がついたことがあってなぁー。我が輩のこの姿は、貴様の中にあるキュマニスのイメージを元に形成されているのだが、これが不気味なくらいに実物そっくりだそうだ」
「そんなこと、知ってる」
「だが一つ大きく違うところがあるのだよ。それも知っていたか?」
「? 髪の長さだろう?」
キュマニスが常に髪を短く切り揃えているのに対して、目の前のメフィの髪は腰まで達する長さだ。メフィの今の発言「我が輩のこの姿は、貴様の中にあるキュマニスのイメージを元に形成されている」から考えて、この髪の長さの差は、無意識に自分が「王女は髪は長い方が良いのに」と感じていたことの反映なのだろうと、ハインリヒは解した。
「髪など伸ばすも切るも簡単だ。違うのはもっと差が出るところだよ」
「違う? でも他は殆ど同じだよ」
「違うぞ。ほら」。そう言いながらメフィが、更に露骨に体を押しつける。体の凸の部分が強くハインリヒに当たった。「分かったか? この部分だよ。貴様の想い人は我が輩に比べれば全然出っ張っていないぞ。この変態め!」
ははは、と心底楽しげに笑いながらメフィが書庫の奥へと走り去って行った。おい、と叫びながら追うハインリヒの顔は、夕日よりも赤い。




