第二章 数を愛した男 (終)
王都を囲む白い城壁の外側。
日中は日陰になる方角の城壁沿いに、簡素なテントの列がずらりと並ぶ。ところどころからは炊事の煙がたなびき、それは多くの人々が宿営している証拠である。
数日後に催される一大行事。それを一目見ようと各地から詰めかけた大群衆の一部は、パンク寸前の王都内の宿に収容しきれなかったり、あるいは元々の経済的な事情によって野営を強いられているのだ。
そして人が集まる場所で考えることは皆同じなのだろう。
田舎者たちが持ち込んでいるはずの多少の小銭を目当てにした、目ざとい商人の一団。彼らは日用品や土産物、あるいは食糧を積んだ荷車を引きつつ、野営者らのテントの前で呼び込みの声を張り上げている。
一台の荷車の前で、とある二人組が足を止めた。
どちらも全身をローブのように覆う白い布を、小柄な体にまとっている。
二人組の片割れが商品の中の果物を一つ取り、手の中で確かめながら商人にコインを渡す。
成人になる手前の、少年らしい声が問いかけた。
「何かお祭りですか?」
商人が手元の木箱にコインを放り込みながら、禿げ上がった頭をつるりとなでた。
「あ? 知らねえのか、兄ちゃん」
アゴで西の地平線、小高い丘がならぶ辺りを指す。丘の向こうには奇妙に直線的な、山のような輪郭が見えている。
それが人工物であることは表面のきらめきからも一目瞭然だった。
「前王陛下のお墓が完成すんだよ。皆、その儀式を見に来てんだぜ」
「なるほど。立派なお墓のようですね」
顔を覆う布をちらりと持ち上げて眺める少年に、胸を張ってにやりと笑う商人。
「おう、俺がガキの頃から作っててなあ。ようやっと出来上がりっつうわけだ。実はな、俺もちょっと手伝ったんだぜ。ほれあの、真ん中らへんのピカピカしたとこ。分かる?」
この日の売り上げが予想以上の物だったのだろう、商人は何も聞かずとも上機嫌でぺらぺら教えてくれる。
「山ほど生贄も捧げるっつう話だな。派手なお祭りになるぜえ」
大槻キュウタはちらりと後ろを振り向き、同行者と視線を合わせる。
数瞬の瞑目をした少女が再び目を開き、キュウタに小さくうなずいた。その青い瞳には透き通るような光を浮かべている。
サザレの『未来視』魔法が、今こそ歴史の『分岐点』であることを示していた。
◇
『イムイブラの工房』と言っても、それはもはや名前だけでしかなく、実質的にはセネルケフが工房全体の指揮を取っている。
夕日が窓から切れ込むように差し入り、作業場の中を半分だけ赤く染めている。
片すみに置かれた王墓の模型。それは年月を経る内に少しずつすみに追いやられ、今ではうっかりすると道具置き場になりかねない程の扱いである。
テーブルの上には一枚の紙。セネルケフの若いころは結構な高級品である『紙』だったが、最近はそれほど贅沢な品物ではなくなっている。
彼は夕日を明かりにして、表面に記された文字を追う。
『殉葬者』。つまり平たく言えば生贄である。
主人の亡骸と共に墓の中へ生きたまま入り、外から土をかけられる。あるいは出口への扉を固く閉ざされるのだ。
高貴な人物が葬られる時にはごく普通の慣習である。選ばれるのはもっぱら近しい部下や側室、護衛を務めた兵士。主人が死の先にある新たな再生の日を迎えるまで、彼ら殉葬者は主人の亡骸に付き従い守る役目につくのだ。
殉葬者となること。それは決して罰でも恥辱でもなく、大いなる『名誉』である。
セネルケフはその名誉を、心の底から喜んで我が身に受けようとしている。
「貴方」
長年聞き慣れた声に、セネルケフが振り向く。
作業場の戸口に、妻が立っている。艷やかだった黒髪も幾筋か白いものが混じり始めている。そういえば妻とは、昔こうして作業場で向かい合ったことがあったなと思い出す。
お互いずいぶんと老け込んだものだ。一人息子は役人見習いとして忙しく働いており、最近は滅多に家にも顔を見せない。
いつものように穏やかな笑顔で、妻がセネルケフの前に立つ。
セネルケフは彼女の肩に優しく手を置いた。
「工房の事は、皆が上手くやってくれるから心配しなくていい」
「はい」
妻はにっこりと微笑む。
死は終末ではない。新たな再生への始まりなのだ。そこに恐れるものなど微塵もない。
心安らかな思いが、セネルケフの中を満たしていく。
「また君に会える日を、楽しみにしているよ」
「私も……いつまでもお待ちしています」
そっと体を寄せる妻を、セネルケフはずっと抱き締めていた。
◇
ラメス前王の遺体を王墓に納める儀式は、厳粛かつ盛大に取り行われた。
王の棺を運ぶ行列は千人を超える神官によって構成され、その道行きは舞い散る花びらや、ふんだんな香油によって現世とは隔絶した風景を織り成している。
七日間に渡り続けられる儀式には、他国からの来賓も顔を連ね、その豪勢さを存分に見せつけている。
セネルケフは殉葬者としてはかなり上位の役割を仰せ付かった。王墓設計を担った中心人物にはふさわしいと、多くの人間が納得し、褒めそやしたものである。
王墓の基底部中央、死者の魂が神の裁きを受けるための通廊に、セネルケフは『葬られる』ことになっている。
神官による浄めの儀式を受けてから、セネルケフは自らの足で王墓の奥、通廊の中央部へと進み入った。
通廊の中は遥か遠くの入り口から漏れ来るささやかな光によって、薄ぼんやりとした闇に包まれている。
彼は今までの人生で触れる機会すらないような上等な衣服を着せられていた。それはあちこち花や宝石で飾り付けられ、まるで自分が貴族にでもなったような誇らしい気分である。
セネルケフは石造りの床にひざまずき、その時を待つ。
遠くから、楽器の音が響きだし、銅鑼がゆったりとリズムを刻んでいく。その打ち鳴らす間隔が徐々に狭まり、やがては激しく打ち鳴らされる連続音に変わった。
セネルケフの体に小さな震動が伝わる。通廊と外界を隔てる分厚い『石扉』が閉じられる音である。寸分の狂いもない形状で切りだされた石扉は、一度ぴたりと閉じられれば二度と開けることは出来ない。
そして通廊に差し込んでいた最後の光が、重々しい響きとともに掻き消える。
完全な暗闇と静寂が彼の周囲を満たす。
セネルケフは自分が設計した墓の中に葬られたのだ。
◇
石床にひざまずいたまま、どれくらいが過ぎたのだろう。
何も見えない闇の中では、時間を計ることも出来ない。
空腹感が徐々に忍び寄ってくる中、彼はそっと目を閉じた。闇の中であるが、そうした方が思索にふけるには都合が良さそうに思えたのである。
そして彼の心の中に浮かぶ物。それは『石板』であった。
若い頃から体の一部のように馴染んだ石板。そこに書き殴った『数』に対する熱い想い。
頭の中で数に関する論理が歯車のように噛み合い、無数の考察が湧き上がる。手元に紙や石板がないのが残念で仕方がない。
子供たちが自分を『学者さん』とおどけて呼んだ声が幻のように思い返される。あの頃のように、ただひたすらに『数』に向き合える時間がどれだけ貴い物なのか、今なら良く分かる。
次の生では、もっと『数』を愛せるだろうか。
妻や子や、仕事を愛したように。
そう嘆ずるような想いが心を駆けた瞬間。
突き上げるような『振動』が、彼の体を揺らす。
気のせいだと思った。平衡感覚すらあやふやな暗闇の中で、ちょっとした眩みが大きく感じられるだけだろうと。
再び周囲を揺るがす振動。違う、錯覚などではない。これは現実の感覚である。
ひょっとしたら冥界からの迎えであろうか。果たして神はどんな裁きを自分に下すのだろう。誠実に生きてきたつもりの人生である、是非とも寛大な判断を頂きたいものであると、ひざまずいたまま深く頭を下げる。
何か硬質な物体を切り割る大きな音。がらがらと石が崩れるような気配が闇の向こうに生まれる。そして何かが歩み寄ってきた。
何者だろう。本物の神的存在が地下深くから現れたのだろうか、とセネルケフが呆然と顔を上げたその時。
ぱっと闇の中に松明の炎が出現する。
眩しさに思わず目を閉じた。やがて恐る恐る目を開けた彼の前に、懐かしい顔があった。
「申し訳ありません。貴方には、まだ少しだけ生きて頂きます」
片手に松明をかざしたキュウタが、セネルケフにもう一方の手を差し出している。
ほんのりと照らされる通廊の一角、石床に人が通れる程度の四角い穴が開いている。その穴は石積みを崩したのではなく、『石を切断』して開けた物だということにセネルケフは気付いた。その切断面は鏡のように滑らかだ。
石をそんな風に切ってみせる技術など聞いたこともない。一体どういうカラクリを使ったのだろう、とセネルケフは一種の職業病的な思考を巡らせた。
その時、穴からひょこっと頭を出したサザレ。彼女が肩に担いだ刀がきらりと輝く。
落ち着き払った少女の顔がキュウタに向く。
「急いで下さい。出口が人に見つかると面倒です」
何が起きているのかまるで理解できない。キュウタに手を引かれるがまま、うろたえる暇もなくセネルケフは立ち上がった。
◇
白い城壁の周囲に並んでいたテントは、少しずつ数を減らしていく。
城壁の正面門からは、出て行く人数が昨日辺りから少しずつ増えている。まだ野営場所に残っている連中は、王都で物味遊山でもするつもりなのだろう。
ラメス王の遺体を王墓に納める儀式は全て無事終了した。
いや、『全て』というのは間違いであろう。たった一つだけ取り除かれてしまった要素がある。
それは、とある小さなテントの中にいた。
外部から見えないようにテントの入り口に布を下ろし、キュウタは砂の地面に座り込んだ。サザレは念を入れて外で周囲を警戒している。
地味な旅姿に着替えさせられたセネルケフは、あぐらをかいて考え込んでいる。
キュウタが差し出した皮袋を受け取って、中の水に口をつけた。水も食い物も、二度と口にすることなどないと思っていた。だが体は正直に水分を貪欲に取り込んでいく。
セネルケフは、考えをまとめる必要があった。
「質問していいかな」
「どうぞ」
肩をすくめるキュウタの仕草は、二十年前に見た物と全く同じだ。
「君は何者だ? キュウタ君の子供か?」
「まあ、そんなところです」
じっと少年の目を見つめる。それは嘘だとセネルケフは直感した。だが彼がキュウタであるはずもない。仮にキュウタ本人だとすれば、今頃は四十近い歳のはずなのだから。
そこはかとない無力感を抱き、セネルケフは脱ぎ捨てさせられた殉葬用の衣服に目を落とす。今から皆の前に戻ったらどんな顔をされるだろうかと途方に暮れる。
「なぜ私を連れ出した。殉葬者に選ばれた名誉を、私から奪うだけの理由があるのか?」
「詳しくは言えません。ただ、多くの人の命がかかっています」
何だそれは、と一笑に付そうとしたが、少年の真剣な眼差しにセネルケフは押し黙る。嘘や冗談で、王墓の下に通路を掘るような罰当たりなことをする人物には思えない。
セネルケフは両手で自分の顔をごしごしと擦り、頭を切り替える。いいだろう、こうなったらこのたわ言に付き合ってやろうじゃないかと。
「私に何かをさせようというのか?」
キュウタはかたわらの袋を引き寄せて、中身を探り始めた。
「貴方を連れ出すための地下道を掘る前に、工房の作業場で王墓模型の内部構造を調べていたんです。その時、貴方の机の上で見つけました」
彼は『石板』を取り出し、セネルケフに差し出した。
セネルケフは雷に打たれたような顔になる。
キュウタが差し出した石板の表面には、紛れもなく自分の筆跡が残っている。幾度も書いては消し、書いては消した『数』への考察。
それは『数』に捧げた『愛』の証である。
震える指でその石板を受け取り、胸の前で抱きしめる。セネルケフは知らず知らずの内に自分の目から涙があふれていることに気付いていなかった。
「貴方には、まだやり残した事があるはずです」
キュウタの言葉はセネルケフの心に深く突き刺さった。
◇
王都から徒歩で一ヶ月ほど要する港町。
その町外れにある小さな住居の中、初老の男性が机に向かっている。朝から晩まで、彼は『数』に対する考察を続けていた。壁際の棚には、それらの考察が記された紙を筒状に巻いた物が無数に放り込まれている。
一人暮らしのこの男は定職についていないものの、生活に困窮したことはない。
町の商店や医者のもとを年に一度、二人組の少年少女が訪れる。そして彼らは、男が必要とするであろう一年分の筆記具や食糧の代金、また万一の時の治療代を気前よく現金で前払いしていくのだ。
この少年少女の事は町の伝説のようにも噂され、それの庇護を受けている男もまた奇妙な畏敬の念を受けている。
いつも机に向かって書き物をしている男を、周囲の人間はいつしか『学者さん』と呼ぶようになっていた。
男は子供たちからの人気が高かったと言われている。時折、彼は気分転換に散歩をしつつ、子供たちにせがまれては『数』の話を面白おかしく聞かせたりするのだ。
その分かりやすさは評判を呼び、多くの親が男に頭を下げて子供たちを学ばせに通わせたという逸話もある。
ある日、長年離れて暮らしていた男の妻がこの町を訪れ、それからは人生を全うするまで二人仲睦まじく過ごしたという噂がある。
だが、その真偽は定かで無い。
◇
緑に富んだ農村地帯に、雨がしとしとと降り注ぐ。
それは、温暖湿潤気候に特有のじっとりとした初夏の空気に、黴びた匂いを含ませている。
一匹のカエルが田にぽちゃりと飛び込み、すいすいと稲の間を泳いでいった。
整然と植えられた稲はまだみずみずしく、緑の葉が雨粒を弾き返している。
田を見下ろす土手を、二頭の牛に引かせた木製の荷車がのんびりと進んでいた。そこに積まれている大きな木箱には、水濡れを防ぐためにゴザが被せてある。
荷車の前部に腰掛けた少年が牛を御している。後部には少女が木箱にもたれかかって座り、退屈そうに雨空を眺めて足をぶらぶらさせていた。二人は藁で編んだ笠と蓑で雨を防ぎながら、目的の場所へと向かっている。
丸二日掛けて政庁に辿り着いた彼らは、顔なじみの役人に声をかけた。
役人は見た目で言えば少年より一つ二つ上の歳頃である。彼はナマズのようなヒゲを撫でながら、着物の懐に手をつっこんでポリポリと腹をかきむしっていた。
その姿に内心ため息をついた少年に、役人がにっと笑顔を見せる。
「よう。久しぶりだな、キュウタ」
悪い男ではない。だが、どうしてこんな態度の人間が重要施設の管理を任されているのか、キュウタには不思議でならなかった。
役人に促されて荷車を『書庫』の前へと移動させる。荷車から降ろした箱の中身を、書庫の中にいた下級役人が数人がかりで屋内へと運びはじめる。
竹を細く割り、それらを紐ですだれのようにまとめた品物。各々の竹にはこの国で使われている表意文字が、墨と筆で縦書きにされていた。それらの文字の形は、キュウタがかつて生まれ育ったミズホ皇国で使われていた物と相通じる物がある。
キュウタと共に室内に入った役人が、その中の一つを手に取る。パタパタと竹の束を広げて中身にざっと目を通す。
「相変わらず多いなあ。こんなに翻訳するのも手間だろ?」
「まあね」
肩をすくめたキュウタ。外の荷車の上で雨雲を眺めているサザレは、男たちのやり取りにあまり興味が無い様子である。
やがて役人が一つの表題に目を止めた。
「せねる……け、ふ? はー、西の国には変わった名前が多いのな」
「向こうからすりゃ、君らの名前も妙ちくりんに聞こえるさ」
「むふふ、そりゃそうだな……ふうむ。何の書だ、こりゃ?」
窓の外では、少しずつ晴れ間が広がりだした空から、陽が差し込みだしている。
キュウタは水の入ったひょうたんに口をつけ、役人の隣に立つ。
「『数』の学問だよ。三千年くらい前に書かれたものだね」
「数? 何の役に立つんだ、それ?」
「さあね。分かる人が見れば、分かるさ。大事に保管しといてよ」
「それはまあ、仕事だからな。大丈夫だ、信用しろよ」
ひっひっひ、と笑う役人に若干の不安を抱きながらキュウタは外に出た。
サザレが荷車の上で横になって寝息を立てている。不用心すぎるだろう、と呆れたキュウタの頭の上では、雲がどんどん流れて青空が広がりだしている。
さて次はどこに行こうか、と腕組みをするキュウタの上には太陽が数日ぶりに顔をのぞかせていた。