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第八章 暗紅老仙 (終)




 皇城と市街地を隔てる城壁。

 見上げるほどの高さと分厚い石組みは、その威容にたがわぬ防衛能力を持つ。それは厳然たる事実だ。


 だが、どれだけ強固な城壁と城門であろうと、その『上空』は完全なる無防備だった。


 夜空を背にした大槻キュウタは、周囲を警戒しながらゆっくりと城壁の上にり立った。


 城壁の上は幅五メートルほどの通路となっており、一定間隔で内部へと降りる階段と物見塔が設置されている。この時間帯、城壁の上へ見回りに来る人員はいないようだ。


 ここまでの侵入口はキュウタが『硬化』させた空気で形成した階段状の構造物を、城壁に沿わせたものである。


 体を低くし、城壁の陰から皇城の内部を見下ろし眺める。

 時間は惜しい。だが、人目につくのは可能な限り避けたい。騒ぎを起こせばそこで余計に手間を取られてしまうだろう。


 感覚を集中する。

 イェンルゥが行動を起こしているならば、その『気配』をつかめるはずだ。


 やがて、キュウタは皇城の一角へ、ぴくりと意識を向けた。たぶん、これだ。初めてイェンルゥに出会ったとき、彼女がまとっていたものと同じ種類の気配だ。


 ただ、どうにも位置があやふやだった。皇城の北部、本殿の向こうだろうか。おおよその見当をつけて、あとは臨機応変に行動するしかなさそうだ。


 キュウタは再び周囲の空気を『硬化』させ、城壁と同じ高さの空中に、皇城の内側へと伸びる道を形成する。ここを進めば地上の人間に目撃されたとしても、邪魔が入ることだけはない。


 小走りで空中を進む。気配が感じられる方向へ修正しながら道の形成を続ける。


 大きめの建物の屋根を二つほど通り過ぎたところで、キュウタの足がぴたりと止まる。

 瓦葺きの通廊、そして細い堀と橋が入り組んだ場所を見下ろした。


 鮮明な気配を感じる。

 皇帝の寝所というには辺鄙な位置だが、イェンルゥが目的地にたどり着くまえにキュウタが追いついた、という可能性も考えられる。


 少しためらったが、無視することもできない。眼下の、気配がある辺りに向かって、キュウタは空中の道からひらりと飛び降りた。


 十数メートルある落差だが、全身を硬化させたキュウタには何ら障害ではない。少年が着地した衝撃で石畳に亀裂ができる。


 その場で体を低くしてあたりを窺う。人影は見当たらない。やや離れた所にある篝火がちらちらとうごめいているだけだ。

 キュウタはゆっくりと体を起こした。


 唐突に、風を切るような小さく鋭い唸りがキュウタの背に迫る。


 少年はとっさに半身になり、『空気の盾』を展開した。


 暗がりのなか、軽装の若い男がキュウタの背後に出現していた。その動きは鋭く、迷いが無い。

 音もない踏み込みとともに、キュウタの腹部へ向かって『短刀』が突きこまれる。


 刃先が『空気の盾』に触れ、それは今までの歴史で幾度も繰り返されたように、あっさりとはじかれる、はずだった。


 だが、刃はわずかに速度が落ちただけで、ぬるりとした動きとともに『空気の盾』を貫通し、キュウタの脇腹へと迫る。

 反射的にキュウタは手のひらで刃の軌道を逸らすと、硬化させた掌底で相手の顔面を狙う。


 しかし、キュウタが攻撃を繰り出したときには、男はすでに軽やかな足さばきで間合いを取っていた。果断さと慎重さを併せ持つ、普通の兵とは一線を画した動きだ。


 突然の奇襲に乱された呼吸を整えながら、キュウタは細心の注意をもって男の次の動作に備える。


 それにしても、この男の雰囲気は、かつてイェンルゥと対峙したときのものに似ている。

 そして、キュウタの魔法にあっさりと対抗してみせるその『能力』も。


 キュウタは今しがた男の短刀をいなした右手をぐっと握り込む。

 鋼のごとく『硬化』させたはずのキュウタの手のひら。そこに入った傷口から血のしずくが地面へぽたりと落ちる。


 そして、キュウタは複数の視線が自分へ向けられていることに気づく。


 キュウタを取り囲むように五人の若い男女が闇のどこからか出現していた。

 共通するのは道着のようなものを身に着けたちと、片手にたずさえた短刀。


 城を守る兵士というよりは、手段を問わず標的を仕留める『刺客』と表現したほうがしっくりくるたたずまいだ。

 彼らは互いに声を交わすこともなく、不気味に沈黙したまま、じりじりと包囲をせばめてくる。


 キュウタに対して誰何すいかする様子もない。捕縛などはなから念頭にないらしい。当然の扱いだ。何しろ夜の皇城への無断侵入である。死刑執行の命令書に自分で署名するのと大差ないおこないなのだ。


 キュウタの体の奥に、ぞくりと撫で上げられるような感覚が走る。

『経絡』と『気』を観ることで、彼らはキュウタの脅威度を見極めようとしているのだろう。


 剣や弓で武装した相手ならば、たとえ数百人の軍団であろうと同時に相手取る自信がキュウタにはある。


 だが、これは。

 少年は、自身が劣勢に陥りつつあることを認識する。

 彼らは『空気の盾』や、キュウタの肉体に施した『硬化』の防御力を貫く能力を持っている。


 おそらくツィウ・ハー丞相の息がかかった人間たちだろう。イェンルゥが使っていた『仙術』に似た技だが、あれとはおもむきが少し異なるようにも思える。

 彼らの技は『魔術士』を倒すことに特化している、という感触があった。


 一人ひとりの危険性で語るならば、イェンルゥのそれには及ばないように感じる。『影鱗』が発現している様子もない。

 だが、複数人で連携を取った攻撃を繰り出されたならば、キュウタといえども無事では済むまい。あるいはもっと悪い結果でさえも。


 自分は戦いに来たわけではない、と説明して引き下がってもらえると期待するのもさすがに図々しすぎる。


 釈明している暇はない。おとなしく逃してくれるはずもない。『硬化』させた空気での拘束が通用するとも考えにくい。ついでに言えば、こちらも人死にを出すのは本意ではない。まったく、ないないづくしの八方塞がりもいいところだ。


 それでも、互いの能力を見積もる限り、彼らを殺すつもりでのぞむのがちょうどいい按配あんばいかもしれない。そうキュウタは腹をくくることにした。





 漆黒の『影鱗えいりん』はイェンルゥの肌を覆い、流れる水面に張った油膜のように揺らいでいる。


 イェンルゥは皇帝が横たわる寝台を背に、ツィウ・ハー丞相と向き合った。

 およそ二メートルほどの間合い、重く張り詰めた空気が満ちている。


 指を軽く開いた両手を中段に構えるツィウ丞相。だらりと両手を下ろした自然体のイェンルゥ。彼らの姿は対照的だ。


 沈黙の対峙のなか、相手の一挙手一投足を細大漏らさず捉える互いの眼差し。そこに慈悲の色は無い。


 一瞬、場の空気がかすかに揺らぐ。


 イェンルゥの右肘みぎひじから先を振り子のように使った小さく鋭い動作。スナップを()かせ投擲とうてきされた金属分銅が風を切って飛翔する。


 高速で顔面へ迫るそれを、ツィウ丞相はわずかに上体をらしてかわす。


 分銅がツィウ丞相の耳をかすめて通り過ぎた刹那、イェンルゥが右腕を螺旋回転させつつ後方に引き戻す。

 急制動させられた分銅。それに繋がれた黒糸が伸び切る。


 イェンルゥの唇から「ふっ」と短い呼気が発せられ、彼女の肌の上の影鱗が鋸歯のこばを思わせる鋭角的な輪郭へ変化する。

 しなやかな右手中指から黒糸へ急激に流し込まれた強い『気』をツィウ丞相は感知した。


 針金でも通されたように、宙でぴんと張り詰めて硬直する黒糸。その先端に繋がれた分銅が空中で静止するさまは、時間が凍りついたかのような異常な光景だ。


 素材の分子構造へ干渉した『気』によって、黒糸に付与された『剛性』がなせる技。それをもってイェンルゥは、糸に自在な挙動を生じさせていた。


 指先を揃えたイェンルゥの右手が、水をかくようにひねられる。


 その動作に呼応した糸を通じ、水平方向のモーメントを与えられた分銅が、ツィウ丞相の周囲を凄まじい速度で周回する。

 反射的に両手で防御姿勢をとるツィウ丞相。だが黒糸はお構いなしに幾重にも巻き絡み、彼の体を両腕ごと拘束しながら縛り上げていく。


 間髪入れず、黒糸から耳障みみざわりな高周波音が発せられる。

 かつて、キュウタの『硬化』した皮膚すらものともしなかった『切断』作用が糸を通じて発現する。


 黒糸が食い込んだ部分の布地が容易たやすく切り裂かれ、こまかな繊維が飛散する。さらにその奥の肉体をも断ち切るべく、糸の締め付けが増していく。


 そのとき、音と音がぶつかりあう不協和音が室内を揺るがし、床や壁を震わせた。


 不意に訪れた静寂。


 イェンルゥの目が見開かれた。


 からん、と床に転がる金属分銅。

 その基部の金具に繋がれていた黒糸は切断され、ほんの数センチほどしか残っていない。


 ツィウ丞相の体を切り刻むはずだった黒糸が、逆に散り散りに切り刻まれ、煤煙すすけむりのように宙をひらひらとただよっていた。


『銀の糸』がツィウ丞相の両の袖口そでぐち、それぞれの縫い込みから出現していた。


 それらは彼の体の前でゆるやかな曲線をえがき交差している。右の袖から伸びる糸を左手が掴み、左の袖から伸びる糸を右手が掴んでいた。


 彼の両手のなめらかな動作。

 それを受けた銀の糸がきらめくように舞い、張り詰めたげんこするような音が発せられる。その音は、イェンルゥの黒糸から発せられるものよりも遥かに安定した高音が美しく多重する和音のつらなりであった。

 ツィウ丞相の体にまとわりついていた黒糸の残滓が、銀の糸によってあっさりと切り払われる。


 技量の差をまざまざとの当たりにさせられ、イェンルゥの顔がぴくりと引きつる。

 肩に残る黒い糸くずをつまらなそうに払いのけながら、ツィウ丞相が淡々と言う。


「糸を得手えてとしているのはお前だけではない」

「この……」


 イェンルゥが言葉を返そうとした隙をツィウ丞相は見逃さずに、一気に踏み込み間合いを詰めた。


 虚をかれ、遅れつつも反応したイェンルゥが右手に隠した小刀こがたなで迎え撃つ。


 だがそれをゆらりと受け流したツィウ丞相。半身に回りながら彼は自分のひじをイェンルゥの右肩へ叩き込む。


 小刀を取り落したイェンルゥの顔がゆがみ、動きが止まる。

 鎖骨を砕かれた衝撃をこらえながら、イェンルゥは絞り出した気迫とともに左の拳を果敢に放つ。


 しかし、場の流れはすでにツィウ丞相の制御下にあった。


 彼は両手で掴み取ったイェンルゥの左手首を力点に、彼女を払腰に似た動きで床に叩きつけ、そのまま逆にめた左肘ひだりひじに全体重をかけ一息にった。


 ぼきり、という不愉快な音。

 衝撃で肺から押し出された空気が、言葉にならない叫びをイェンルゥの唇からほとばしらせる。


 大柄なツィウ丞相の体重をかけて床の上で抑え込まれたイェンルゥ。もはや身動きの一つすらできない。


 この攻防でツィウ丞相は女の力をほぼ見極めていた。

 気の充実度、また仙人としての素質で言えば、この女が圧倒的に上だろう。おそらくは仙人の数千年の歴史において限りなく頂点に近い逸材のはずだ。


 だが、ツィウ丞相が長年の研究と試行錯誤をて作り上げた『銀の糸』、それを効率的、実践的に取り扱うための『気』のめぐらせかた、加えて仙術と格闘術の連携と練度。

 自分に比べれば、この女のそれは児戯にも劣る。修行を積むどころか、ろくな師もいなかったのだろう。


 わずかに憐憫の情が浮かんでくる。

 ツィウ丞相は抑え込んでいた手を離し、数歩後ろに下がった。それが自分の甘さであることを自覚しながら、彼は静かに宣告する。


「お前の負けだ。私が数十年に渡り積み重ねてきたものは、お前の才能を上回っている」


 拘束を解かれ、床の上で膝立ちになったイェンルゥ。

 荒い呼吸と振り乱した黒い長髪の隙間から血走った目がのぞく。肌を覆う影鱗が震えるように揺らいでいる。


 イェンルゥが歯を食いしばり、よろめきながら立ち上がった。使い物にならなくなった両腕がだらりと無様ぶざまに下げられている。


 ツィウ丞相は冷たい眼差しでそれを見ていた。どんな言葉ももう届かないのだろう、と感じる。


 己を奮い立てるように息を吸い込んだイェンルゥが、はじけるような動きで前方へ跳ぶ。

 ツィウ丞相は構えすら取らず、ただ相手を穏やかに見ていた。


 なんの小細工もなしに、イェンルゥは上段蹴りを渾身の力ではなつ。


 だがそれは、動作を完全に見切ったツィウ丞相の鼻先をかすめただけだ。攻撃をかわされ、体勢を崩したイェンルゥが無防備な背中をさらしてしまう。


 ツィウ丞相が振りかざした両手の袖から銀の糸が伸び、イェンルゥの首にくるりと巻き付いた。


 終わりだ。

 ツィウ丞相は心のなかでつぶやき、糸に気を込めた。


 そして、その間合いこそが、イェンルゥの『狙い』だった。


 イェンルゥの長い『黒髪』の一本一本が突如ぶわっと逆立ち、触手のごとき挙動でツィウ丞相の銀の糸に素早く絡みつく。


 意表を突かれたツィウ丞相の表情が変わる。とっさに後方へ飛びすさろうとするが、銀の糸を掴んだイェンルゥの毛髪がそれを許さない。


 糸を捕食するように巻き込んだ毛髪から、耳をつんざく凄まじい高周波音が絶叫じみた響きでかき鳴らされる。

 何の抵抗もなく切断された銀の糸が宙で無力に波打つ。


 ツィウ丞相は糸を介しての感触から、『これ』がこの女の奥の手であることを理解した。


 仙人として心身ともにたぐいまれな素質を持つイェンルゥ。

 彼女の体の一部である『毛髪』と、それに込められた彼女自身の『気』。それらの相乗効果は黒糸はもちろんのこと、ツィウ丞相の銀の糸さえ圧倒する強靭さと切断能力を有していた。


 イェンルゥの執念がまさに形となった攻撃。並々ならない危険性を感じ取ったツィウ丞相が、反射的に退路を探す。

 銀の糸は切断されたが、それはツィウ丞相の動きが自由になったことも同時に意味している。イェンルゥが勝負を決めようとするならばこれが最後の機会だろう。


 彼女もそれを理解していた。

 なりふり構わぬ全力の踏み込みで、ツィウ丞相に考える暇さえ与えず一気に肉薄する。


 しまった、とツィウ丞相は自分が壁際に追い込まれたことに気づく。左右にも逃げ場はない。

 全身全霊を振り絞るイェンルゥの表情が眼前に迫っていた。


 互いの息遣いさえはっきり届く間合い。イェンルゥの黒い長髪が放射状に広がり、高周波音を響かせながらツィウ丞相の顔面を貫くように襲いかかる。


 ぶつん、という音が聞こえた。


 そしてイェンルゥの視界を満たすのは、黒い雪が舞い上がるような光景。

 それが自分の毛髪だった物のこまかな欠片かけらだと、数瞬遅れて彼女は認識する。


 ここまでか。

 イェンルゥの心を、白く乾いた感情が満たしていった。


 ツィウ丞相が大上段に構えた右手の周囲の空間に、小片に切り刻まれたイェンルゥの黒髪の残骸が吹き散らされている。彼は腕のたった一振りで、イェンルゥの最後の渾身の攻撃をも完全に打ち砕き、しのいでみせたのだ。


 ツィウ丞相の右手のなかに、一枚の『ふだ』が隠し持たれていた。


 その『呪符じゅふ』に描かれた『術式』から発現する力の気配が、ツィウ丞相の全身を循環している。

 それは禍々まがまがしいほどに機能的な『死』の匂いだった。


 いま、全力の気をはなったイェンルゥの体がおちいっている一瞬の硬直状態。それはツィウ丞相が必殺の間合いへと詰め寄るには十分すぎるほどの隙である。


 呪符を挟んだ手のひらがイェンルゥの胸にぴたりと添えられる。心臓がある位置だ。


 ツィウ丞相の口が小さく開く。

 ぽつりと唱えられる『呪文』は短く、それでいて抗しがたい力が宿っていた。


『破邪、刎影』


 その瞬間、イェンルゥの全身、その経絡けいらくに注ぎ込まれる『気』の奔流ほんりゅう


 一拍の静止と静寂。


 そして、絶後の衝撃が、イェンルゥの全身を揺さぶる。


 五感がもたらす苦痛のどれとも違う。

 息が詰まり、肉体が硬直する。


 びくんと、ひときわ激しい筋痙攣がイェンルゥを大きくらせ、背骨の数ヶ所に亀裂を作る。

 同時に彼女の肌を覆っていた『影鱗』のいたるところがめくれ上がり、真っ赤な血が噴き出た。


 小さくうめきながら、イェンルゥがよろめき後ずさる。次いで喉を込み上げる感触の直後、きこんだ途端に鮮血が口から溢れ出す。

 かろうじて踏みとどまり視線を前に戻した彼女の正面。そこにはツィウ丞相が術をはなった姿勢のまま、じっとイェンルゥを観察している。


 小刻みに震えながら唇を開くイェンルゥだったが、もはや体を支えることすらままならない。崩れるように膝をつく。

 頭が軽く揺れたあと、彼女はあおむけにどさりと倒れた。


 しばしその様子を見守ってから、ツィウ丞相はようやく構えを解き、両手をゆっくりと下ろした。

 右手に持った『破邪はじゃ』の呪符が袖に隠れる。深い息を長々と吐き出す。正直、きわどい攻防だった。よもや破邪これを使わされるとは思っていなかった。


「やはり復讐など、くだらん行為だな」


 なかば自分に向けたツィウ丞相の言葉。

 だが、倒れたままのイェンルゥがそれにぴくりと反応する。


 イェンルゥの頭が震えながらツィウ丞相の顔を見つめた。


 ツィウ丞相が眉をひそめる。

 ときおりきこみつつ喀血かっけつするイェンルゥの、まぶたを開けておくことすら困難そうな様相。その顔に浮かんでいた『やわらかさ』は、何かを成しとげた者が見せるもののように思えたのだ。


 負け惜しみや強がりなどとは、何かが違う。ツィウ丞相の胸にざわりとした不安がよぎる。


 床に倒れたまま、イェンルゥの血まみれの両手がゆっくりと持ち上がる。

 わずかに動かすだけでも激痛が走るほどの損傷を与えられていた。にも関わらず、イェンルゥはその手を少しずつ伸ばしていく。


 警戒をゆるめぬツィウ丞相が一歩さがる。

 右手の袖の中で、『破邪』の呪符の手触りを確認する。


 み切った『音』が室内に響き渡った。


 何かを捧げ持つようにかかげられたイェンルゥの両手から発動した原初魔法。鈴を鳴らすような音が、どこまでも涼やかに、こだましていった。


 そして徐々に薄れていく音とともに、イェンルゥの体をめぐる『気』も急速に薄らいでいく。掲げられた両手から力が失われ、糸が切れたように床に落ちた。


 しんと静まり返る寝所。

 目をしばたかせたツィウ丞相が、戸惑うように首を小さくかしげた。


 この女は死んだ。


『気』の欠片かけらすら感じられない。

 完全に決着はついた。もはや何の脅威も無い。だが、今のは一体。


 女が最後の力で奏でた、幻のような音の意味。その推察に彼が意識を一瞬、ほんの一瞬そらされたとき。


 彼方かなたからこの寝所へ尋常ならざる速度でせまる一つの気配。

 それに気づくのがわずかに遅れた。


 ツィウ丞相がはっと振り向くと同時に、暴風のように寝所へと飛び込んできた、小さな人影。


 人をはるかに凌駕する脚力を持て余したか、よろめき倒れかけた体をぐっと両足を踏みしめて持ちこたえる。

 茶色がかった長い黒髪がふわりと広がり、汗のしずくが舞い散った。髪のあいだから、焦燥に見開かれた青く大きな瞳がのぞく。


 年端もいかぬ少女だ。

 彼女の一瞥いちべつが、床の上に倒れた血まみれのイェンルゥをとらえる。

 そして少女の体から、わずかに力が抜けた。


 突如現れた新たな侵入者に、ツィウ丞相の胸中をいくつもの思考が駆ける。

 とてつもない『気』を身に秘めた少女。もしやキュウタと何らかの関わりがあるのか。なぜこの場に現れたのか。他に仲間はいるのか。


 およそ考えられる仮定をあまねく網羅し明晰に働く頭脳。だが、その明晰さこそが一瞬の隙を作ってしまう。


 寝台に横たわる皇帝のかたわらから『声』が発せられた。


『ツィウの右手だ』


 その瞬間、ツィウ丞相はすべてを悟った。


 この仙人の目的は復讐などではなかった。


 一連の行動の何もかもが、この瞬間のためだけに張り巡らされた周到な『罠』だったのだ。


 ツィウ丞相は右手に持っていた『呪符』をぐしゃりと握り潰し、それを飲み込むべく口元へ素早く持っていく。

 今すぐ呪符これを『処分』しなければ。


 稲妻のような白い一閃が、ツィウ丞相の視界を横切った。


 そして、彼の右手を襲う熱い感覚。

 切り飛ばされた『右手首』が宙を舞う。その指には呪符が握られたままだ。


 衝撃でバランスを崩し、倒れ込むツィウ丞相。


「ぐっ……」


 激痛と溢れ出す血の生々しい感触をこらえ、ツィウ丞相は床の上で、切り離された自分の右手の行方を追う。

 呪符あれを他人に渡すわけにはいかない。


 視界のすみで、少女が力を使い果たしたかのように床へ体を投げ出している。抜身ぬきみの刀がツィウ丞相のそばに無造作に転がっていた。


 人の領域を明らかに超えた少女の動きが、ツィウ丞相の全身に怖気おぞけを走らせる。

 視認すらできない、鬼神と見紛みまがうほどの鋭い踏み込みと斬撃だった。


 まともにやりあえば万に一つも勝ち目はないと確信できる。だが、いまの少女は荒々しい呼吸をおさめる余裕もなく、ひじを支えに上体を床から起こすのがやっとの様子だ。


 理由は分からないが、体に相当な無理をさせているようだ。わずかながら時間の猶予を望めるかもしれない。


 這いずりながら床を進み、ツィウ丞相がようやく自分の右手にたどり着き呪符を掴む。その直後、彼の視界の外から現れた何者かの指が、呪符を無情に造作なくつまみ奪いとってしまう。


 額に脂汗をにじませたツィウ丞相がその人物を見上げる。


 キュウタが立っていた。


 衣服や白い外套マントのあちこちは切り裂かれ、少年自身の顔や手足にも細かな裂傷がいくつも刻まれ、血がにじんでいる。

 キュウタは丸められた呪符を広げ、そこに描かれた術式を見つめていた。


 ツィウ丞相はキュウタの姿を見て、少年がこの場に来るまでの経緯を見て取った。


「それは……誰と戦った傷だ」


 キュウタが疲れぎみの顔でツィウ丞相をちらりと見下ろす。


「なかなか手こずりましたよ。あなたの部下ですよね?」

「違う。彼らは……『弟子』だ。きみは、彼らに、何を」


 その言葉に込められた動揺を察し、キュウタは答えてやる。


「殺してはいない……はずです。戦いが終わったあとも、魔力に似た『あの気配』は最初の人数と同じだけ残っていましたから」


 気まずさと申し訳無さが入り交じるキュウタ。

 結局のところ、勝つには勝った。力任せの、芸のないやり方ではあったが。


『力の矢』で石畳を砕いて散弾のように飛ばした攻撃も、わざとキュウタを追い込ませた先で通廊の柱を破壊し、彼らを屋根の下敷きにしたのも、同じ相手に二度は通用しない戦法だろう。


 だがそんなことよりも、とキュウタはツィウ丞相から取り上げた呪符を再度見つめる。キュウタが知る『魔法学』の術式文法から大きく逸脱した構造だった。これの詳細を理解するには、専門家の手を借りる必要がありそうだ。


 乱れた息の下からツィウ丞相が手を伸ばす。


「それを……返せ」


 執着を隠さぬツィウ丞相の姿にキュウタが戸惑う。

 この術式に一体どれほどの意味が。『これ』がイェンルゥの目的だったというのだろうか。


 考え込むキュウタの背後から、何者かの声がかけられる。


『それは仙人を……『影鱗』をまとった者を殺すための術だ。ツィウが唱えた呪文でそれがはっきりした』


 キュウタが振り返る。

 寝台の上、皇帝の体に隠れるように置かれたガラス製の小さな丸壺。その内部で老師ガン・ワンが重苦しい表情をしていた。


『覚えているか、キュウタ。影鱗とは、世界のことわりからおのれを解き放つ技だ。もし、お前の『敵』が影鱗のごとき肌を持ち、この世界の理に縛られぬ力を持つとすれば……』


 丸壺ガン・ワンが言葉を切る。そこから先は言うまでもなかった。

 キュウタの顔がゆっくりと上がる。情報のピースが収まるべきところへ収まっていく。


 キュウタの心に、かつて少年兵として戦っていた頃の記憶が蘇る。

『魔族』の肌を彩っていた黒。それは『影鱗』の黒とまったく同じものだった。

 そして魔族の力は、人類の科学のことごとくを凌駕していた。物理法則、すなわち世界のことわりを超越しているといってもいいほどに。


 もし、魔族の力と『影鱗』のあいだに何かの関連性があるのならば、この呪符に描かれた術式は強力な『切り札』になるかもしれないのだ。


 キュウタは視線を横に向けた。


 冷たくなりつつあるイェンルゥの亡骸なきがら

 そのそばで膝をつき、じっとうなだれているサザレの背中。


 キュウタは唇をかみ、呪符に視線を戻す。

 このために、イェンルゥは自分の命を引き換えにしたというのか。彼女がここまでしなければならない理由などあったのだろうか。


 この術式をツィウ丞相からるのが目的なら、その手段をキュウタはいくらでも思いつく。言葉でも、力づくでも、金銭でも、あるいはもっと卑劣な方法でさえも。


 だが、おそらく、これが最も確実で『最善』の手段だったのだ。


 ツィウ・ハーという人物は、技術の価値とその情報を管理することの意義を認識している。

 彼の様子を見るに、この術式はとりわけ厳重に隠匿されるべきものに違いない。まっとうな手段で、この術式と発動呪文を手に入れることは至難のわざなのだろう。だからイェンルゥはサザレの『未来視』を使って、この結論を導き出したのだ。


 キュウタが呪符をふところにしまった。

 この術式は帝国フィロマに持ち帰り、専門的な知識を持った者に構造を解析してもらわねばならない。ひょっとしたら、これが魔族との戦争の行方を左右する鍵になるかもしれないのだ。


 歯噛みしたツィウ丞相の目が血走り、キュウタの外套マントを掴む。

 その手をこともなげにほどいたキュウタはツィウ丞相のそばに膝をつき、腰から短いナイフを抜いた。


 はっと息を呑んだツィウ丞相が、その鈍い輝きの刃先を凝視する。キュウタが首を小さく横に振った。


「失礼します」


 ツィウ丞相の右袖みぎそでに切り込みを入れて破り取り、現れた傷口の様子を見る。

切断面に比べて出血が不自然に少ない。


 丸壺ガン・ワンがキュウタに教える。


『自らの血肉をぎょするのも仙術のうちだ。仙人がその程度の傷で死ぬことは無い』


 それは何よりだと安心したキュウタ。

 手近な布切れで止血してやりながら、ツィウ丞相を寝台にもたれかかるように座らせる。ついでに傷口が肩近くの高さに上がるよう姿勢を整えてやった。これで多少は楽になるだろう。


 キュウタが落ちていたサザレの刀を拾い、鞘に納める。


 顔を上げた彼の視線の先にある、サザレの後ろ姿。

 彼女はイェンルゥの前にぽつりと膝をついていた。ただ静かに。涙も、なげきも、いきどおりも、何も無かった。目の前に横たわる現実を受け入れる代償として遮断された一切の感情。


 縫い止められたように動かない少女の小さな背中に、キュウタの胸が締め付けられる。

 こらえきれずキュウタは目をそむけ、寝台の上から丸壺ガン・ワンを拾い上げた。


 ツィウ丞相が複雑な表情で壺を見つめる。

 それはずっと昔、彼が魔法と仙術の融合に興味を持っていた時期に里で試作したものだった。まさかそれに足元をすくわれるとは、一体なんの因果なのだろうか。


「お久しぶりですな、老師。それは、とっくに捨てられたものと思っていました」

『どうにも踏ん切りがつかなかったらしい。ガン・ワンは、お前への未練が残っていたのだろう。だが……』


 丸壺ガン・ワンが言葉をにごす。

 ツィウ丞相は、かつて師と仰いだ者の写し身を寂しげに見た。


「私はもう、あなたの弟子を名乗ることはできません。目指すべき『タオ』は、とうの昔に見失いました」

『見失ったのではない。ワシがお前から奪ったのだ』


 ふっと天井を見上げたツィウ丞相。その口元に自嘲の笑みが浮かぶ。


「十年前、私があなたを殺したときも、あなたは同じことをおっしゃった」

『……そうか』


 ツィウ丞相は自分の右手に巻かれた即席の止血帯を眺めた。里の仲間を皆殺しにしたむくいが腕一本か。ずいぶんと軽い沙汰だ。

 深々とした吐息が口をつく。ようやく辺りをじっくり眺める余裕も生まれ、彼本来の深い洞察力が働き始めていた。

 やはり気になるのはキュウタや、彼の連れとおぼしき少女のことだ。彼らの先ほどからの様子にいだいていた違和感を、ツィウ丞相は口にした。


きみたちは、あの仙人を……彼女を止めるために、ここへ来たのか?」


 キュウタは答えられなかった。

 未来のために『正しい選択』をしたのはイェンルゥだ。もし彼女を制止できたとしても、それは人類にとって取り返しのつかない敗着の一手なのかもしれないのだ。


 止められなくて正解だった。

 だが、感情はその事実を強くこばむ。


 ツィウ丞相の問いに肯定も否定もできない自分はどうしようもなく無力で卑怯だ。


 黙りこくるキュウタの姿は、ツィウ丞相が少年に抱いていた印象とは少しそぐわない。いぶかしむツィウ丞相がさらに問いを重ねようとしたとき。


『ツィウ。この世界の未来には『滅び』が待っている』


 丸壺ガン・ワンがキュウタの手の上から、そう告げた。少年のとがめるような視線にじろりと一睨みで返した丸壺ガン・ワンがツィウ丞相の反応を見る。


 ツィウ丞相は二人の無言のやり取りの意味を考えながら、着物の襟をゆるめた。


「古来の思想にありましたな。世の万物はやがてえ、また再び始まる、と」

『違う。れっきとした形ある現実だ。看過すれば人の世すべてが灰燼かいじんすほどの脅威だ』


 ツィウ丞相は唇を結び、その言葉を胸のなかであらためてみる。

 あざむきの意図が無いことは直感できる。だがどうにも大言たいげんだ。証拠もなく無条件に信じることなどできない。


『お前が信じないことは分かっている。だからイェンルゥはこの方法を選んだ。お前の呪符は、その滅びを回避するための希望なのだ』


 心内こころうちを先読みするような丸壺ガン・ワンと、突拍子もない雲行きの話に、ツィウ丞相は眉をひそめる。不審感は増すばかりだ。

 だが、一蹴するのを躊躇ためらう自分の心がある。


 だから、確かめておかなければならない。

 ツィウ丞相が、呪符をしまったキュウタのふところして問う。


「キュウタ。きみは『破邪それ』をどうするつもりだ」


 短い問いかけに込められた、いくつもの意味。自分自身のりかた、その『すべて』をキュウタは問われているような気がした。

 少年は床に横たわるイェンルゥを、おそらくは世界最後の仙人の姿を見つめた。彼女が何を思ってこの道を選んだのか、正確に知るすべはもう無い。

 自分にできるのは、ありのままの心に従うこと、それだけだ。


「すべての人の未来のために使います」


 そうしたい、とキュウタは思った。


 まっすぐな視線を交わすキュウタとツィウ丞相。

 ツィウ丞相は『経絡』や『気』などのうわつらではない、少年の人間としてのうつわを見定めようとしているようだった。


 不意に、喧騒の気配が、寝所の入り口の向こうから近づいてきた。足音から察するに十人かそこらは下らないだろう。


 長槍と鎧で武装した屈強な兵士たちが続々と現れ、なだれ込んでくる。


 室内のありさまを目にした彼らの形相が殺気立ち、キュウタたちを取り囲んで槍を突きつけ声高に早口でわめき立てる。

 大して内容の無い言葉の羅列であったが、相手の気勢を削ぎ、判断力を鈍らせるためには有効な手段でもある。とはいえ、互いの実力に圧倒的な差がある場合は何の意味もなさないのだが。


 消沈するような溜息ためいきがキュウタの口からこぼれる。

 いい加減、付き合いきれなくなってきた。もう『力の矢』で全員なぎ払って終わりにしようか。

 キュウタが指環ゆびわをはめた右手を上げようとしたとき。


みな、静まれいっ!」


 ツィウ丞相の大音声だいおんじょうがこだまする。

 怪我人とは思えぬ迫力だった。


 寝所は途端に静まり返り、全員の視線がツィウ丞相に集まる。


「丞相の名をもって命ずる。彼らへの手出し、まかりならん」


 有無を言わせぬ丞相の口調。毒気を抜かれた兵士たちは言葉を失い、互いに戸惑いの視線を交わす。


 ツィウ丞相がキュウタを見据える。


「老師の話、にわかには信じられん。だが、きみの言葉は信じよう。決してたがえるな」


 彼の目に浮かぶ色に、完全な納得は無かった。譲れない信念と、託したいという願いがぶつかり合う、内なる葛藤が垣間見える。

 キュウタはただ小さく、そしてはっきりとうなずいてみせた。


 ざわっ、と兵士たちが息を呑む気配が生まれた。キュウタがそちらに目を向ける。


 サザレが、イェンルゥの亡骸を抱き上げて立っていた。


 影鱗もすでに消滅し、完全に普段の姿に戻った血まみれのイェンルゥ。

 その背と膝に両手を差し込み支え持ち上げたサザレが、肩に寄りかかる穏やかな死顔を間近で見つめている。


 まるで、赤子を胸のなかであやす母のような立ち姿だった。

 そこには、少女を見る者すべての心をすくませる、おかすべからざる静謐せいひつさがあった。


 サザレがゆっくりと、足を引きずるように一歩を踏み出す。


 だらりとぶら下がるイェンルゥの手足からつたい落ちる血が、ぽたりと床に点を描く。


 サザレの伏せられた顔は長い髪に隠れ、その表情をうかがい知ることはできない。

『暗示』の影響は肉体にいまだ残っている。普段の万全な力には程遠い。だが、イェンルゥを連れて帰る仕事だけは、他の誰の手にも任せたくなかった。


 そしてまた一歩、少女は進む。


 長槍を突き付け包囲していた兵士らの表情に動揺が生まれる。非武装の小柄な少女のぎこちない歩みが、隆々とした男たちの集団をひるませていた。一人、そしてまた一人と兵が後ずさっていき、やがて少女の前に道が開く。


 サザレとイェンルゥの間にあったものをおぼろげに察したツィウ丞相の表情が曇る。


 キュウタの横で立ち止まったサザレが、目を伏せたまま静かに言う。


「……帰りましょう、キュウタ」






 遠い東の地からフィロマ帝国へと伝えられた一つの術式がある。


 それはいわゆる『魔法学』の常識からは大きくかけ離れた方向へ枝を伸ばした技術である。帝国の優秀な魔法学者らの努力でさえ、その一部を解析するのが精一杯だった。


 それでも、そこから得られた知見は、人々に貴重な情報を与えるものであった。


 この術式が効果を及ぼしうる対象は、おそらくこの世界において自然には発生しえない生命と思われた。

 そしてそこから逆説的に導き出されるのは、やがて人類が対峙することになるであろう『魔族』についての仮説そのものだ。


 仮説は所詮しょせん、仮説でしかない。

 だが、これは大きな前進だ。


 魔族の生態や能力、それらへの対抗手段などの検討が少しずつではあるが、帝国の魔法研究機関で始まる。

 この努力が未来の人類の助けになるかどうかは、その時が来なければ確かめることはできない。しかし、未知の敵にどう備えればいいのか見当すらつかなかった今までに比べれば、これは歴史的に重要な転換点といっていいだろう。


 人類は、暗中模索の守勢から脱し、一縷いちるの光に導かれた攻勢への一歩を踏み出したのだ。


 また、余談ではあるが、前述の術式の解析作業を含めた、魔法学者らにとっては完全な未知の領域。それらの研究過程において、『ロウシ』と呼ばれる来歴不明の人物の協力があったと言われている。


 人前に姿を現すことをかたくなに避け、とある一人の魔術士を代理発言者としていたその人物の詳細は、後世においても一切が謎に包まれている。





 晴れ渡った青い空は、不思議なほど静かな大地を見下ろしていた。


 かつて仙人の『里』であった土地をすこしはずれた場所。


 春も深まりつつある時期だが、ここは草花よりは荒土あらつちのほうが目立つ、寂しげな風景だった。


 そこに、おそらく百かそこらの数、三十センチほどの高さの不揃いな形の『石』たちが、整然と立ち並んでいる。

 それらは簡素ではあるが紛れもない『墓』であり、かつて里で暮らしていた人々が静かな眠りについているしるしなのだ。


 サザレはとある一つの墓の前で、膝を抱えて座っていた。

 つまらなさと、退屈さが入り混じったような顔を膝頭ひざがしらうずめ、少女は墓をじっと見つめていた。


 その墓は、百年ほど前にサザレが建てたものだ。


 といっても、まわりにある他の墓と特段違いがあるわけではない。形がほどほどに整った石を見つくろってやった程度の話である。あまりに仰々ぎょうぎょうしい墓標はきっとあの人も気に入らないだろう。


『あれ』から十数年に一度の間隔で、サザレはここにかよっている。


 言葉にできる理由があるわけでもない。何が変わるわけでもない。それでも、ここを思い出の彼方かなたに置き去りにする気にはだなれそうもない。


 ふと、墓のかたわらに咲く、小さな白い野花に目が行く。


 人の死は、たくさん見てきた。

 それどころか、自分が殺した数さえ、とっくの昔に忘れた。


 それでも、たった一人の死をこうして特別なものとしてとらえてしまっている。


 人間とは、つくづく不条理で身勝手な生き物なのだとサザレは思った。そして、人間が身勝手な存在であるのなら、その人生を二十万年近くかさねてきた自分は誰よりも身勝手な人間に違いない。


 野花を微風そよかぜが優しく揺らす。

 それをきっかけに、サザレはゆっくりと立ち上がり、白い外套マントを羽織りなおした。


 少し離れた痩せた木の根元に座っていたキュウタも立ち上がる。

 静かに歩み寄ってきたサザレが、はにかむような微笑ほほえみで小さくうなずいた。


 そして彼女はしっかりとした足取りで、街道に続く方へ歩きはじめた。先を進む少女の背中を見つめたまま、その場で立ち止まるキュウタは木の下でひとり思いに沈んでいた。


 キュウタは思う。

 今まで、サザレはキュウタのあとに付き従い、彼の背を支えてきてくれた。だが、今は少し何かが変わっていた。

 サザレの歩みに彼女自身の明確な『意志』を感じるのだ。


 キュウタは最後の仙人の墓標へ、うれい混じりの眼差しをとうじ、見比べるようにサザレの背中へ視線を戻す。


 あの時、サザレは『戦う理由』を見つけたのかもしれない、と思うことがある。


 だが、この人にそんなものを見つけてほしくは無かった。


 戦う理由も、それが生む罪も、その先にあるむくいも、全てキュウタ自身が背負うべきものであってほしかった。


 それはきっと未熟な自分の我侭わがままなのだろう、と思いながら、少年は少女の背中を追って歩きはじめた。




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