第八章 暗紅老仙 (13)
陽が落ちてからしばらく経っていたが、室内の空気には程よい暖かさが残っている。
ずんぐりとしたロウソクで照らせる範囲はあまり広くはない。だが今はそれで十分だ。
大槻キュウタは机の上をじっと見つめたまま、水の入った茶碗に口をつけて喉を潤した。
向かい側では司祭が薄いあごひげを弄びながら、キュウタと同じものを凝視し思考に集中している。
やがて、司祭が手を伸ばし、正方形の盤上に並ぶ木製の駒たち、その内の一つを注意深く移動させた。
リャオ王朝が成立する遥か以前からこの土地で親しまれている盤上遊戯である。数種類の駒を駆使して相手の王を捕らえることが勝利条件だ。
相手の指し手に少しだけ考え込んだキュウタが次の一手をぱちり、と応じた。
隙の少ない堅実な打ち筋の少年に、司祭は「ふーむ」と唸って長考に入る。
これは少し長引くかなと、キュウタは立ち上がり、細く開けられた窓から夜の屋外を何となしに眺める。
司祭が盤面を見つめながら、ぽつりとつぶやく。
「はあ、あの姉さんの按摩ともお別れか……」
いささか愚痴っぽい響きがこもった声音に、キュウタが含み笑いで返す。
「イェンルゥのことがよっぽど気に入ったんですね」
視線を盤面に固定したままの司祭が、キュウタに向けた人差し指をくるくると回した。
「歳を取ると、どうにもこうにも体中が錆びついてな。お前もそのうち分かるさ」
「……覚悟しておきます」
そう答えると、キュウタは壁に寄りかかり、外の気配に耳を傾ける。静かな夜だ。
明日の朝、手配した船が出る。
都から運河を経由し大河に出て、海沿いの港町を目指す。そこからは臨機応変に船を乗り継いでいく形になるだろう。道のりの終盤は大陸の狭隘地帯を陸路で縦断し、帝都カノンブルヌをとりあえずの目的地とするつもりだ。
キュウタも司祭も互いに口にはしない。
だが、キュウタたちが都を出立してしまえば、次に顔を合わせる機会が来るかどうかは疑わしい。
司祭はイリユヌス教を広めるためリャオに骨を埋める覚悟であるのだろうし、キュウタもこれから三、四十年は別の地域で活動する予定だ。帝国領とリャオは気軽に行き来できる距離ではない。
なんだかんだで一年近くをリャオで過ごした。
長い歴史のなか、世界を渡り歩き、多くの人々と出会い、別れを経験してきた。だが、多少なりとも暮らしを重ねた土地を離れるときは、いつも妙に切ない名残惜しさが生まれる。
この司祭のように、住み慣れた土地を遠く離れ、人生を費やして自身の信念を貫き通す。そんな生き方を選んだ人と語らい過ごせた日々は、キュウタにとって貴重な体験だ。勇気をもらったような気もしている。
ふと、椅子の背もたれに体を預けた司祭がこちらを見ていることに気づいた。穏やかさと真摯なものが相半ばする眼差しだった。
キュウタは寄りかかっていた壁から体を離し、居住まいを正す。
「なんですか?」
「いや、お前には色々世話になったと思ってな」
お決まりの社交辞令では無い、しみじみとした言葉だった。
キュウタが視線をそらして頭をかく。
「僕は仕事をしただけですよ。献上品の輸送任務は教会からの依頼です」
事実、報酬はそれなりに発生する。そして魔法学の普及拡大のためにも、リャオという土地に興味はあった。どれもこれもキュウタの個人的打算からなるものだ。司祭が少年にねぎらいの言葉を向けるのは見当違い、とまでは言わずとも、お人好しに近いものがあるだろう。
少年の居心地悪そうな仕草を見て、司祭が小さく苦笑する。
「お前は自分の内面をことさらに隠そうとするよな」
それが相手の言葉の正しさを認める振る舞いだと分かっていながら、キュウタは目を閉じてしまう。
「人目に晒すほどのものではありません」
「家族や故郷の話もすぐに、はぐらかす」
「どちらも僕には無用のものです」
慇懃無礼が過ぎている自覚はある。
だがそれでいい、とも少年は思う。どれだけ心が欲しようと、他者と深く関わる理由など自分にはない。
歴史を改変し、世界を復讐のための単なる道具に貶めようとしているのだ。
自分の居場所は世界にはない。帰るべき場所など、とうの昔に失われた。
キュウタは再び壁に寄りかかり、足下に目を伏せた。
ロウソクの小さな灯りを見つめたままの司祭から、静かな声が向けられる。
「その若さで教会から仕事を任されるようなお前だ。表にできない事情もあるんだろう」
キュウタは気まずそうに口元を締めた。
そんな少年を見た司祭が、躊躇うようなわずかな間をおいてから、机の上で両手の指を絡め合わせる。
「お前が何を背負っているのかは知らんが……おそらく綺麗事で済む話ばかりではないはずだ。意に沿わぬ道を強いられたりもするだろう」
「何もかも自分で選んだ道です。相応の報いを受けるのも僕の役目です」
決意と信念を込めて返すキュウタに、司祭は頭を小さく横に振る。
「すべての人々は愛を分かち合える、と聖女イリユナは言った。ならば、罪や苦しみを分かち合うこともできるはずだ。でなければ筋が通らない」
「僕は、僕の業を無関係な誰かに肩代わりさせようとは思いません」
「分かっている。それでもな、私とお前の人生はすでに関わりを持っている。お前がどれだけ厭おうとも、それを無かったことにはできない。お前は私の人生に、私はお前の人生に『痕』を刻んだのだ。人が生きる、とはそういうことだ」
キュウタは返す言葉を見つけられずにいた。
司祭が視線をまっすぐに向けてくる。
「キュウタ。お前は一人じゃない。どんな人間であろうと、一人になることなど出来はしない」
司祭の言葉には不屈の確信があった。
沈黙のなか、キュウタが出会ってきた無数の人々の顔が心をよぎっていく。きっと司祭の言葉は正しいのだろう。やがて少年は観念するように小さくうなずいた。
「覚えておきます」
「忘れてもいいさ。坊主の説教なんぞ聞き流すくらいでちょうどいい」
キュウタの肩から力が抜け、呆れ笑いが思わず浮かぶ。
「少し羨ましいです。あなたのような人間になれればと思いますよ」
「その意気だ。目標は高ければ高いほどいい」
ニヤリと唇を綻ばせる司祭が盤面に視線を戻し、何かに気付いたように額を指で叩く。
「……お、うむ。これでどうだ」
渾身の一手と言わんばかりに、司祭が駒をぱちりと叩きつける。
「だと思ってました」
キュウタは待ち構えていたとばかりに自軍の駒を無造作にひょいと進めた。
司祭が何度かのまばたきをした後、その目が飛び出さんばかりに見開かれる。
「おぉっ!?」
突然の詰みに動転した司祭は身を乗り出し、盤に食い入るように顔を寄せる。
ぐぐぅと声にならない唸りとともに「ちょ、ま、待った」と見苦しく手のひらをぱたぱたとさせはじめた。
キュウタは司祭の嘆願を聞き流しながら、イェンルゥから荷造りの手伝いを頼まれたサザレのことを考えていた。
それほど手間はかからないと思っていたのだが、少しばかり帰りが遅い。ちょっと様子を見に行ってみようか、と思い始めていた。
◇
小さな唇から、可愛らしい欠伸がこぼれる。
サザレは襟元から中に挿し込んだ指でぽりぽりと肩のあたりをかきながら、むっつりした顔で言った。
「明日の朝に出発って、分かってる?」
「分かってるって。こっちも色々準備が要るんだよ」
気まずそうな調子で言い繕うイェンルゥが肩をすくめる。
明日には引き払う予定の宿の一部屋。
寝台と小ぶりな机と椅子が一揃いあるだけの手狭な間取りだ。だが、各部屋は中庭に面した側に引き戸が据え付けられた立派な個室であり、私的な空間としての用を満たしている。
そしていま、そこは床一面、足の踏み場も無いほどに物で溢れかえっていた。
無秩序一歩手前の様相で置き散らされているのは、薬の調合に使う器具やら、小さな容器たちに分けられた薬材、裁縫や筆記具などの日用品、わずかな衣服の替えなどだ。
床の上にあぐらをかいたイェンルゥは先ほどからそれらの物品を一つずつ順繰りに検めている。
ううむ、と唸りながらイェンルゥが腕組みをした。先ほどからずっとこの調子である。
数ヶ月の逗留とはいえ、しょせんは宿の一部屋である。荷造りに深刻さを求められるほどの私物の量などなかったはずなのだが。サザレにはてんで見当もつかないが、イェンルゥには彼女なりのこだわりがあるのだろうか。
細々とためいきを吐き出したサザレ。
手持ち無沙汰な気分のおもむくまま、壁ぎわにある小さな書き物机に積み重ねられた紙束をぱらぱらと指先でめくる。そこには薬の製法のようなものの羅列がとりとめなく記されていた。
同じく机の上に置かれていた丸壺がサザレを見上げる。
『ほれ、イェンルゥが手伝いに行っていた例の医者がいただろ。そこで餞別代わりに写させてもらったそうだ』
「はぁ」
大して興味も惹かれないサザレが目をぱちぱちとさせる。
そんな少女の心情が伝わったのか、イェンルゥがサザレに目を向けた。
「座って待ってな」
あごで指し示された寝台に、サザレがちょこんと腰をかけた。腰帯に差していた二刀も膝の上にのせ、両手を添えて支える。
やれやれ。いつまでかかるのやらと、少々げんなりした気分が込み上がってきた。
まあ、こうして荷造りの進捗を監視するのが正解かもしれない、とサザレは思う。
さすがに明朝の出発時刻に遅れるようなことがあっては問題だ。こうなったら徹夜仕事になろうとも、イェンルゥの尻を叩きに叩いて荷造りを済ませるように仕向けるのが良さそうに思えてきた。
ふと、床に座っているイェンルゥの後ろ姿に意識が向く。
動きが止まっている。何か別のものに心を奪われているような気配。
サザレが眉をひそめる。ぼんやりせずに仕事を続けろ、と注意しようとした少女の感覚が、ふっと違和感を捉える。
イェンルゥの背中から、先ほどとは違う雰囲気が漂っていた。
かすれるような、ささやき声。サザレの聴覚でもその詳細を聞き取ることができないほどのもの。
それがイェンルゥの口から発せられた瞬間。
部屋の床、壁、柱、いくつもの場所に、青い光条で描かれた幾何学文様が一斉に浮かび上がり、魔法に似た『何か』が発動した。
異変を察知したサザレが超人的な反応速度で立ち上がろうとした、そのとき。
サザレは自分の体がぴくりとも動かなくなっていることに気づかされた。
文字通り、指一本動かせない。
力ずくで無理やり押さえつけられているのとは違う。
体の全ての機能が外部の意思によって掌握されているとでも形容すべきか。
呼吸をするタイミングすら制御されているような、名状しがたい喪失感がサザレの全身を被覆している。
サザレは、かろうじて動く唇から言葉を絞り出した。
「これ、は……」
イェンルゥがゆらりと立ち上がり、寝台に座ったまま身動きできないサザレに振り向く。
「悪いね。この『暗示』が効くってことは、あんたがあたしに心を開いてた証拠でもある」
すっと歩み寄り、イェンルゥはサザレの頬に手を当てて、術の効き具合を確かめるように少女のあごをくいっと持ち上げる。
されるがままのサザレに向かって、イェンルゥが言う。
「刀を下に置きな」
サザレは自分の手が勝手に動き、二刀が床に転がされるのを愕然と見送った。
イェンルゥの言葉に『抗えない』、という確信。それが、心と身体のあいだを断絶する絶対的な『壁』となり立ちふさがっている。
あっけにとられていた丸壺が、ようやく事態を理解してイェンルゥに顔を向けた。
『イェンルゥ。まさか……お前、はじめからこうするつもりで』
「今回ばかりは丸壺の出る幕じゃない。黙っててもらえるかい」
椅子にどっかりと腰を下ろして腕組みしたイェンルゥ。どこかふてぶてしい声がサザレに向けられる。
「さて、洗いざらい喋ってもらうよ。まずは……そうだね、あんたとあの坊やの正体から行ってみようか」
何のつもりだ、と応じようとしたサザレ。
だが、その意思とはまったく別の言葉が少女の唇から発せられた。
「……私とキュウタが出会ったのは約二十万年前、現在の西方諸国地域の西端に位置する丘陵森林地帯。当時は二、三十名程度の血縁集団による、狩猟と採集を主とした共同生活が営まれ……」
いままで、何人に対しても厳重に秘匿してきた情報。
それが、他でもない自分自身の口から止めどなく流れ出しはじめるのを、サザレは戦慄とともに傍観することしかできなかった。
◇
夜も深まりはじめ、そよ風にも冷たさが混じりつつある。
白い外套姿のキュウタが宿の門をくぐった。
広めの敷地のなかは、中央の井戸と中庭を囲むように木造の平屋建てが三棟ほど。合計で十五部屋かそこらの個室がある勘定だ。
以前、宿の主人から聞いた話によれば、リャオ内外からの比較的裕福な長期滞在者が主な客らしい。確かにこの時代の基準からすれば、かなり上質な宿屋である。いずれの部屋も入り口は中庭に面しており、簡素ではあるがしっかりした造りの引き戸が据え付けられていた。
キュウタはイェンルゥが数ヶ月滞在している部屋の前に立ち、戸に手を伸ばす。
指が戸に触れる寸前、キュウタの動きがぴたりと止まった。
室内から感じられる『魔力』とそれ以外の奇妙な何かが混じりあった気配。
戸の前で立ち止まり思案する少年の表情が険しくなる。反射的に周囲に視線を巡らせた。屋外にこれといった異常は見られない。
ふと目についた戸の脇の壁。そこに、一枚の紙が針で留められている。便箋ほどの大きさの紙片に墨書きされた伝言だった。
じっと目を凝らしたキュウタが不機嫌そうな顔になり、ぐっと唇を結んで紙をやや乱暴に引き剥がす。
キュウタはためらうことなく戸を開き、室内へと足を踏み入れた。
ぼんやりとした青い光の幾何学文様が、部屋の壁や柱に浮かび上がっている。
壁際の寝台にはサザレが腰をかけている。
入室したキュウタに反応することもなく、彫像のごとく微動だにしない少女の姿は明らかな違和感を伴っていた。
部屋全体に描かれた術式は現在も活性状態を維持しているのだろう。
そして不可解なことに、サザレの意思とは無関係に彼女自身の魔力が注ぎ込まれているようにも感じられた。
寝台に腰掛けたままのサザレが、視線だけをキュウタへ向ける。どこかぎこちなく、見えない鎖に全身を絡め取られているかのようだった。
抑揚の欠けた声と能面のような無表情が今のサザレの異状をはっきりと示している。
「キュウタ。気をつけて下さい。うかつに近づくと、あなたも『暗示』に取り込まれるかもしれない」
キュウタはサザレの警告が聞こえていないかのように部屋を見回してから、ある一点へ右手の人差し指を向けた。左手に持った紙片の文面を確認しながら、『力の矢』をごく低出力で発動する。
じゃりっ、と柱の表面から木屑が舞い散り、そこに刻まれていた『暗示』術式の一部が削り取られる。
途端、部屋を満たしていた青い光は消失し、寝台の上のサザレの体が拘束から解き放たれたがごとく一気に脱力する。
背を丸めてうつむいたサザレが大きく息を吐き出す。足元に向けられた目は動揺に見開かれ、彼女が今まで陥っていた状況の異常性をありありと物語っていた。
ともかく、これで『暗示』は解除されたはずだ。
キュウタは紙片に目を落とし、自分に宛てられた伝言を読み返した。
先ほどまでサザレに施されていた『暗示』術式の概要と、その無効化の手順。そしてそっけない謝罪の言葉。
彼女らしいやり方だと、キュウタは思った。
キュウタは寝台に座ったままのサザレの前に膝をついて、少女の様子を確認した。
額にはうっすらと汗が浮かび、呼吸も速い。もう一度イェンルゥが書いた伝言に目を通す。いまのサザレが感じている体の異常は『暗示』の副作用のようなもので、数日もすれば元の調子を取り戻すようだ。
「わ、私……」
「喋らなくていい。少し横になったほうが良さそうだ」
気遣うように肩に当てられたキュウタの手を、サザレが弱々しい力で押し止める。
「私、すべて話してしまった……私たちのこと、未来のこと、何もかも……」
「それはどうでもいい。今はゆっくり休むことだけを考えるんだ」
サザレの指が力無くキュウタの袖をつかむ。
想いのこみ上げる表情と声が、キュウタにすがりつくように向けられる。
「イェンルゥは、私に『未来視』を使わせました」
キュウタの眼差しが険しくなった。
『暗示』とやらがそれほどまでの強制力を持つことは驚きであった。だが、それ以上に、今のサザレの取り乱しかたが、キュウタに事の重大性をひしひしと訴えかけていたのだ。
荒い息を整えもせず、サザレは無理やりに言葉を押し出す。
「イェンルゥは……未来を正確に、認識していた。私よりも、ずっと、正確に。どうするのが、『最善』なのかを」
「サザレ……」
「私が見なければならなかったのは……イェンルゥの未来ではなかった」
膝をついていたキュウタが思わず腰を浮かせる。何が起きようとしているのか、おぼろげながら理解できはじめた。
キュウタの注意深い声が向けられる。
「イェンルゥは、どこに……?」
「皇城、です。あれは、皇帝の寝所……そして、たぶん……『ツィウ・ハー丞相』」
口元をぐっと結んだ少年が立ち上がった。壁の先、皇城がある方向を見つめる。
少女の口ぶりからするに、あまり時間の猶予は無さそうだ。
「キュウタ」
サザレが、か弱く震える声を懸命に絞り出した。
「私……イェンルゥを死なせたくない」
青い瞳が潤む。
サザレが『未来視』で何を見たのかを悟り、キュウタはうなずいた。
キュウタがサザレの足元に手をかざして『硬化』を発動させる素振りを見せる。サザレを外界から隔離するように『空気の壁』を形成して、この部屋に一人置き去りにされる彼女を不測の事態から守るためだ。
その寸前にサザレがキュウタの手を押し戻す。
「待っ、て。私も、あとから、行きます」
不規則な呼吸を繰り返す少女の体やその声からは、力の一片すら感じられない。だがその瞳には強い意思が込められている。
キュウタは小さくうなずいた。
いまの彼女がまともに立って動けるような状態とは思えない。
だが、サザレが「行く」と言うのであれば、必ず彼女はそうする。この人はそういう人なのだとキュウタは知っている。
「僕は先に行って、道を開けておく」
そう言い残して、キュウタは部屋の外へ去った。走りはじめた少年の足音が遠ざかっていく。
一人になったサザレは数度の深呼吸をしてから、ぐっと歯を食いしばる。身じろぎするのも並々ならぬ努力が必要だった。
少女は寝台から滑り落ちるようによろよろと床に膝をつき、足元に転がっていた二刀へ震える手を伸ばす。
鞘に触れた指が、痙攣するようにわななく。掴み損ねた刀が、床の上で少女をあざ笑うように転がっていった。『暗示』の影響が全身の感覚をかき乱しているのだろう、思うように力が入らない。
歯噛みしたサザレは床に肘をつき、這いずるように再び刀へ手を伸ばす。ようやく掴んだ刀を杖代わりの支えにして、ふらつきながらも立ち上がった。サザレの本来の身のこなしからは見る影もない有り様だ。
まっすぐ歩くことさえおぼつかない。
それでも、行かなくては。
心と体を蝕む重圧を堪えながら、サザレは一歩を踏み出した。
◇
夜の皇城。
敷地の全体を石畳で舗装されたなか、ところどころに立つ篝火の明かりが揺らめいている。
リャオ王朝の中枢を担う場所といえど、夜にその活動が鳴りを潜めることに市井との違いはない。
だが、今の静けさは少しばかり行き過ぎていた。
皇城の中央からやや北寄りの位置、赤い瓦葺きの通廊で囲まれた一角。
ツィウ・ハー丞相は皇帝の『寝宮』の前に立っていた。
長身の体を包む紺の着物はいつものゆったりとした長い袖と裾だ。同じく紺色の冠に施された金箔の細工が遠くの篝火の光を鈍く反射している。
ツィウ丞相の視線がわずかに見上げられ、寝宮の外観を丹念に観察していた。
黒く長い髭の下で、唇が真一文字に結ばれている。
いま、彼がここに足を運んでいたのは単なる気まぐれ、としかいえなかった。
こんな夜更けに突然の謁見などできるわけもないし、老齢の皇帝はすでに床に入っているはずだ。
だが今、ツィウ丞相は自分の気まぐれに何かの運命じみたものを感じていた。
昼夜を問わず、この寝宮は常に厳重な警戒が敷かれている。
だが、いまその任にあたっているはずの者の姿はない。
これは明らかな異常事態だ。
耳を澄まして周囲の様子に神経を向ける。万一、賊の集団の闖入などであれば、何がしかの喧騒の気配くらいはあってもいいだろう。だが、やはり相変わらず辺りの空気は不可解なまでの静寂に支配されている。
人を呼ぶかどうかツィウ丞相は迷う。だが、彼は再び自分の気まぐれに従うことにした。
ツィウ丞相は単身、油断のない足取りで寝宮の中へと進む。
一つ目の通廊を横切り、やや広さのある中庭へ入ってすぐ、ツィウ丞相の目に彼らの姿が映った。
数名の警護兵たちがあちこちの地面に倒れ伏している。
彼らは皆、本来の持ち場からほとんど動くことなく意識を失ったようだ。傍目にはこれといった外傷は見受けられない。
寝宮の常駐警護にあてられる人物は、王朝に対する忠誠心を重視した人選であり、強者ぞろいとはお世辞にも言えない。
だが、相互監視状態でもある彼らが、抜刀する暇さえ与えられずに無力化されたとあれば、ここで侵入者の技量を過小評価することは早計だろう。
ツィウ丞相が石畳に膝をついて、警護兵の体に触れる。
死んではいない。
だが『気』を用いた衝撃を『経絡』に加えられた形跡がある。半日かそこらは意識が戻るまい。これは明らかに『仙術』の業だ。そしてツィウ丞相は弟子たちにこのような技術を教えていない。
つまり、『仙人』がこの場にいるのだ。
人を呼ばなかった自分の判断は正しかったようだ。この場の収拾は自らの手でつけるほうが都合が良い。
立ち上がったツィウ丞相は迷いのない足取りで寝宮の奥へと進む。
寝宮の内部もやはり静まり返っている。
通廊のところどころで意識を失った警護兵や侍女が倒れている。ツィウ丞相は彼らの安否をすべて無視し、一直線に皇帝の寝所へと向かった。
皇帝の寝所は、寝宮の最奥部に設けられた広々とした空間の中央、大きな寝台の四方を太い柱と垂れ幕で囲んだものだ。
ツィウ丞相は寝台の正面へと進んだ。
その『女』は皇帝の寝台の端に傲岸な態度で腰をかけていた。
黒い長髪と白い生地の着物のコントラストが薄暗い部屋のなかで存在感を放っている。丈の短い下衣から伸びる足は無造作に組まれ、彼女には逃走の意図など無いことを暗に示していた。右手に黒い布製の手甲を装着してはいるが、特に武器を持っている様子は無い。
女はツィウ丞相を真正面から睨め上げると、どこか楽しげにつぶやいた。
「マジで一人で来やがった。あの子の力は本物だ」
ツィウ丞相は女の肩越しに寝台の中央を見た。
老皇帝が高級な縫製の寝具の上に横たわっている。穏やかに眠っているように見えた。だが、その首や手足には黒い『糸』が幾重にも巻き絡みついている。
糸を使って対象を拘束したり傷つけたりする仙術はそれほど珍しいものではない。
そして、女の経絡から感じられる『気』。それはツィウ丞相が知る仙人の基準からして、質と量においてかなりの上位に位置している。
腕組みをしたツィウ丞相が冷ややかな声を向ける。
「陛下を人質にでも取ったつもりかね」
女が無言で右手をくいっと捻る。手甲の中指から伸びる黒糸にテンションがかかり、皇帝の首の皮膚にぎゅっと食い込む。
目を据わらせた女が、からかうような微笑を口元に浮かべる。
「このジジイがあんたにとって大した価値が無いのは知ってる」
心を先読みされているような違和感だった。
ツィウ丞相が女を見つめたままわずかに頭をかしげる。
「見覚えの無い顔だな」
「だろうね」
「私が去った後で『里』に移り住んだ者がいるだろうとは思っていた」
女は微笑を保ったまま、ツィウ丞相の言葉を黙って待っている。
相手の能力、目的について、いくつかの仮定を心のなかで検討しながら、ツィウ丞相が探りを入れる。
「私がここに来ることをどうやって知った? 私自身ですら、つい先ほど心を決めたばかりなのだが」
「さて、なんでだろうねえ」
「……何が目的だ」
「自分の胸に聞いてみな」
女の声にわずかににじんだ感情をツィウ丞相は見逃さなかった。仙人といえど、感情に抗えないのは普通の人間と変わらない。しょせん、仙人とはその程度の存在なのだ。
ツィウ丞相が小さく首を左右に振る。
「復讐か。愚かな行為だ」
わずかに上体を前にのめらせる女。
「あんたがやったことは復讐じゃないのかい」
「違うな。あれは正義だ。欺瞞と強欲に凝り固まった邪悪を滅ぼしたのだ」
ツィウ丞相の言葉を聞いた女の目が暗く染まる。同時に、『黒い斑』が女の顔や露出した手足の表面に浮き上がった。
ゆらりと立ち上がった女が右手を振る。
皇帝の首や手足から解かれた黒糸の末端の小さな金属分銅。それが、蛇の頭のような動きで女の掌の中へと収まる。
先ほどの言葉通り、女は皇帝の命を取引材料にするつもりなどなかったようだ。
ささくれだった視線はツィウ・ハーという男だけを刺していた。
女の肌を彩る無数の黒い斑は、彼女の感情に呼応するように不気味に脈動している。
ツィウ丞相は自身に向けられる激情をはっきりと感じた。
だが彼が動じる様子はない。淡々とした口調は、あくまでも相手を格下扱いしている者のそれである。
「その若さで『影鱗』を会得したか。かなりの才能だな。実に惜しい。私の下にいれば力の正しい使い方を教えてやれたのだが」
「命乞いのつもりかい?」
「仙術で私を倒すことは不可能だ」
「試してやるよ」
軽く前傾した女の体勢に、ツィウ丞相はどこか歪なものを感じた。
里で仙術を学んだ者ならば必ず共通する構えの『型』のようなものが一切見られない。あるいはこの女、仙人としての正式な修行を積んでいないのでは、という想像がよぎる。だが、それが手加減をする理由にはならない。この場に至って、もはや選択肢はないのだ。
女は自分と決着をつけるためにここにいるのだろうし、それならばこちらも受けて立つのみだ。
ただ、自分が一目置く魔術士。あの少年の望みから大きく離れた結末がこの先にある。その事実が気分を少し滅入らせた。
「キュウタに免じて見逃してやるつもりだったが……お前はみずから自由を手放そうとしているのだぞ」
「言ってろ、タコ」
言葉を吐き捨てる女。
ツィウ丞相は腕組みを解き、紺の冠を外して足元に落とし、着物の袖を軽くまくった。
「名を聞いておこうか」
「あんたは里の皆を殺すときにいちいち名乗ったのか?」
それもそうだな、と納得したツィウ丞相はゆらりと構えを取った。




