第八章 暗紅老仙 (11)
都の空はのどかに晴れ、ところどころにのんびりとした雲が漂っている。
暑さもやわらぎ、そろそろ秋の訪れがはっきりとしてくる時期だ。
『皇城』の中央からわずかに外れた、質素な造りの建物の奥、広々とした中庭。
石畳の上に立つツィウ・ハー丞相は、ゆったりとした着物の長い袖口を合わせ、眼の前の光景をじっと観察していた。
軽装の十数人の若い男女が、わずかに腰を落とした姿勢で両手を前に構えたまま、微動だにせずいる。静寂のなか、等間隔に整列した彼らがまとう気配は不可視の圧力となり、この場に満ちていた。
やがてツィウ丞相は彼らの間を静かに歩きながら、一人ひとりに口頭での指示や相手の体に手を添えての『指導』を与えていく。
若者たちは皆、ツィウ丞相の教えに真摯な面持ちで向き合っていた。
その様子は政庁内での上下関係というよりは、もっと深い領域で結ばれた『師弟』という表現がふさわしい。
ツィウ・ハーは彼らの『経絡』を流れる『気』を観察しながら、自分が歩んできた道のりを思い出していた。
皇帝に取り入り、丞相としての地位を揺るぎないものにした。いまやリャオという国家において、人や財を動かすための最も強い権限を手にしたと言っていい。たとえば、この素質ある若者たちに官職をあてがい、その人生を技術の研鑽と次世代への継承に費やさせることも可能になった。
つまり、ツィウ・ハーの『野望』を実行する時期がようやく訪れたのだ。
いまツィウ・ハーの目の前にいる若者たちこそ、彼が胸の内に秘めてきた計画を担う重要な人材なのだ。
その計画は一つの『技術』が根幹となっている。
言うなれば、仙術が培ってきた『気』の制御法と『魔法学』を融合させた技術だ。
いくつかの点で魔法学とも仙術とも違う、独自性を有する技術だ。
仙術と魔法学の双方に知見を持つツィウ・ハーだからこそ、この着想を得られたと言ってもいい。
仙術に比べれば、特別な才能を求めない。
ゆえに多くの人間に門戸を開くことができる。それでも、注意深く調整された修練を長期間にわたり継続しなければ習得は不可能だ。
そして、その適度な習得難度は技術の秘匿性に貢献する。
これはリャオだけが所有する『独自の武器』になるのだ。
「今日はここまでとする」
ツィウ丞相の芯の通った声が響き、ゆっくりと構えを解いた若者たちは独特の呼吸とともに昂ぶった体を鎮めていく。
今は基礎的な修練を重ねる段階だ。慌てる必要などない。この技術が必要となるのはまだ先の時代だが、その時は必ずやってくる。
この技術は『魔法』に対抗するために使われるのだ。
魔法には大いなる可能性がある。
そして西方諸国に比べ、リャオは魔法学において著しく遅れを取っている。これはリャオ王朝、ひいてはこの土地に住む人々全ての未来に重大な影響をおよぼす問題だと、ツィウ丞相は確信していた。
リャオは力を蓄えねばならないのだ。進歩し続ける世界に押し流されないために。
ふと人の気配に気付き、そちらへ視線を向ける。
丞相の補佐を務めている役人が、うやうやしく膝をついて頭を垂れていた。ツィウ丞相は小さく片手を振って発言の許しを出す。
「何か」
「例の魔術士が閣下に面会を求めております」
ツィウ丞相は胸元まで伸びる長い髭をすっとなでおろして思索の光を黒い瞳に浮かべた。
◇
白い土塀に囲まれた庭園に人の気配はなく、植え込みの葉々がわずかに擦れあう囁きがするくらいだ。
大槻キュウタは池のほとりで水面をじっと見つめていた。
初めてここを訪れてから、真夏を挟む数ヶ月が経った。
深い秋に差し掛かりつつある庭園の草木の様子も心なしか色あせ、ほんの少し様変わりしているように思える。
砂利を踏む足音が背後に現れた。
だが、キュウタは特に反応することなくじっと佇んでいた。
丞相という立場の人間に対する態度としては、明らかに礼を欠いている。だが、ツィウ丞相は穏やかな眼差しのまま特段表情を変えることはなかった。
ツィウ丞相に背を向けたまま、キュウタが先に口を開いた。その声音にはどこか硬質的なものが混じっている。
「お尋ねしたいことがあります」
「何かね」
「丞相閣下が仙人をお探しになる『本当の』理由です」
ゆっくりとした足取りのツィウ丞相が、キュウタの隣に並んだ。
淡々としていながら威厳のある声が少年に向けられる。
「仙人は邪悪な存在だからだ」
ツィウ丞相はキュウタと同様に池の水面を見つめながら続けた。
「もう、君も気付いているのではないかね?」
黙したままのキュウタ。
ツィウ丞相は両手を後ろに組み、視線を青空へと投じた。
「この地で魔法学の発達を妨害してきたのが『仙人』だということに」
◇
丸壺は、ときおり意識がふっと霞むことがあった。思考の流れが緩やかになり、見えているはずの景色を把握することにも難儀するのだ。
その現象は、人間に例えれば『眠り』といって差し支えない。
そして、このぼんやりとした眠りの中で『夢』を見ることがままあった。この日、丸壺は夢のなかで過去の記憶を揺り起こされていた。
それは仙人ガン・ワンの過去の記憶だ。
おそらく二十年以上は昔の光景だろう。
夕暮れ迫る紫色の空の下。
荒涼とした岩山の頂に、ガン・ワンはぽつりと佇んでいる。
記憶のなかの風景はあくまでガン・ワンの視界だ。冷えた風が吹き渡る匂いに、着物のざらざらした肌触り。五感が知覚する世界はあまりにも生々しく、それが妄想などではない、紛れもなく事実として存在した体験であることを示している。
じゃりっ、と背後に足音が現れた。
ガン・ワンは山頂から見下ろす広い原野を眺めたままぽつりと言う。
「ツィウか。首尾はどうだった」
ガン・ワンの背中に向かって、片膝をついたツィウ・ハーの若く張りのある声が答える。
「今回は陸路と海路、総計で十五冊ほど、『魔法学』に関する書物の流入を確認しました。全て確保し、里に運び込んでおります」
「やはり増えているな」
「はい。海沿いの街を見て回りましたが、西との交易は盛んになる一方です」
ガン・ワンは胸元まである長い白髭をすうっと撫でてつぶやく。
「都に向かわせた者は、西方諸国との交易に制限をかけるよう朝廷へ工作させている。一定の効果は上がるだろう」
そして視線を前方へ投じるガン・ワン。髭の隙間に垣間見える口元は引き結ばれ、その中で巡らされている思索の複雑さが窺えた。
そんな師の様子に、ツィウ・ハーが意を決した面持ちになる。
「老師」
その声遣いから、ガン・ワンはこの若き聡明な弟子が言おうとしていることを容易に汲み取った。
「ツィウよ。またその話を蒸し返すつもりか」
地についた膝の上で、ツィウ・ハーの拳がきゅっと握られる。
「老師。『魔法学』の知識を人々の目から隠し通すことなど不可能です。やがては限界が訪れるでしょう」
ガン・ワンは身じろぎ一つせず、ツィウ・ハーに背を向けたままだ。
たるんだ瞼の奥でガン・ワンの瞳が暗い光を帯びる。
「やるのだ。里を守るためにな」
「そのためにいちいち里の者を駆り出していては、仙術の研鑽もままなりません。今の我々は仙人本来の意義を……『道』の追究を完全に放棄しております」
ガン・ワンは肩越しに振り返りツィウ・ハーを見る。その視線には老いた者特有の頑なな意志が現れていた。
「魔法学は、仙術に対抗しうる力を民草にも分け与えてしまう。これはわれわれ仙人にとって恐るべき事態だ」
地を見つめるツィウ・ハーの表情に苦い色がよぎる。
「老師。仙術で得てきた『利益』を失うのがそんなにまで惜しいのですか?」
「ああ、惜しいとも。それともお前は里が困窮し、皆がその日の衣食すら事欠くような有り様を望むか?」
ツィウ・ハーが唇をかんで黙り込む。やがて彼はゆっくりと立ち上がり、もと来た道へと足を向ける。
ガン・ワンはその背中を一瞥してから、再び彼方の原野へと目を戻した。
去り際に小さく呟いたツィウ・ハーの声は、ガン・ワンの胸にはっきりと重く届いた。
「我々は初めから間違っていたのです」
遠ざかっていくツィウ・ハーの足音。
それは互いの理想が決別していく印なのだと、ガン・ワンは思った。
そして記憶のなかの風景は突然に停止し、色あせ薄らいでいく。
入れ替わるように、遠くから自分に呼びかける聞き慣れた声が明瞭になっていき、丸壺は眠りから唐突に覚醒した。
「老師。老師ってば。聞いてんの?」
青空を背にしたイェンルゥが訝しい顔で覗きこんでいる。
少し離れたところからは、川をたっぷりと満たす莫大な水が重々しく流れ行く気配がする。
かつて里だった場所を出発してから一月ほど。道は少しずつ大きくなり、地元の住民やら行商人やらとすれ違う場面も増えてきた。またいつも通りの、町から町へと渡り歩く生活が始まろうとしている。
地に置かれたイェンルゥの道具箱の上で、丸壺は震えるようにまばたきしてから億劫そうに答えた。
『む……ああ、すまん。ぼんやりしていた』
「ったく。頼むよ、ホントに」
道ばたの手頃な岩に腰掛けていたイェンルゥがぶつぶつとぼやく。腰に下げていた竹筒を手に取り、中の生ぬるい水に口をつけた。
昼食後の小休止のつもりだったが、どうにも腰を上げる気にならなかった。
何の気なしに振り返って景色を眺めた。
数十メートルはある広々とした川幅の向こう岸に、鋭角な形の小高い岩山が林立している。いくつかの頂は薄い霞がたなびき、静まり返った風景に荘厳さをもたらしていた。
少し離れた大木の根元には白い外套姿のサザレが腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めている。
一見すると研ぎ澄まされた刃のようなこの少女は、あの少年がいないと心から色々なものがすっぽ抜けてしまうらしい。
そんなサザレを見ていると、イェンルゥはどこかほっとするような心持ちになり口元がゆるんでしまう瞬間があった。
他人に対してこんな気分を感じるのは久しぶりかもしれない。
人通りもまったくない静かな街道の傍らで、イェンルゥは物思いに沈んだ。
この道は、どこまでも伸びている。
そしてそれをはるかに進んだ先には、見たこともない世界が広がっているのだ。
自分がそこへ行く未来がありえるなど、考えたこともなかった。なぜ、自分は生きているのか。なんのために生きているのか。そんなことに頭を悩ませる必要などない人生のはずだった。
押し黙って考え込んでいるイェンルゥをじっと見つめていた丸壺が、ぽつりと口を開く。
『イェンルゥ。里の生活がどうやって成り立っていたか、不思議に思ったことは無いか?』
出し抜けに切り出された場違いな話題に、イェンルゥは目をぱちくりとさせてから、ぞんざいに頷いた。
「あん? ああ、自分で稼ぐようになってから、ずっと思ってたよ。あんなちっこい田畑と出稼ぎだけで里の皆を養えたわけないよな、ってのは」
どうせろくでもないことなんだろ、と彼女は冗談まじりに唇の端を小さく持ち上げた。
対照的に謹厳な面持ちの丸壺が、何かを思い返すように視線を伏せる。
『我々は『仙術』を使い、世界の裏から人々を虐げることで利益を得てきた。仙人は常に権力ある者に阿り、その護衛、政敵の暗殺、情報の窃盗。枚挙に暇がないほど、ありとあらゆる闇に手を染めた。それら『出稼ぎ』の代価として、仙人は富と後ろ盾を得た』
ぴたりと凍りついたイェンルゥの眉がひそめられ、自分の耳を疑うように首をゆっくりと傾げる。
「初耳だね」
『黙っているつもりだった。里が滅んだ頃は、お前もまだ幼かったからな』
普段のとぼけた調子とはまるで違う表情に、イェンルゥは相手の言葉を疑う余地すらないことを理解した。
ゆっくりとため息を吐いた彼女は、顔を両手で覆うように膝の上で頬杖をつき、指の隙間から丸壺を気怠げな視線で眺めた。
「あのとき……里が兵隊に襲われてみんなが殺されたのも、そのせいなの?」
『すべてはワシの浅慮が招いたことだ。里が滅んだのもワシの責任だ。あいつは……ツィウ・ハーは正しかった』
イェンルゥがわずかな苛立ち顔で髪をガリガリとかく。
「あの日、なにが起きていたのか正しく憶えてるわけじゃない。真夜中に叩き起こされたときは里のあちこちで火の手があがっていた。悲鳴もたくさん聞こえた」
『ツィウが国軍の一団を率いて里に攻め入ったそうだ。あの周到なツィウのやることだ、備える間も無く里の者は殺されていったに違いない。混乱のなか、ガン・ワンは丸壺を起動し、事の次第を告げると、イェンルゥを里から逃がせとワシに命じた』
かつて共に日々を過ごした人々の笑顔がイェンルゥの脳裏にフラッシュバックする。
「……あたしを、じゃなくて、あたしだけを、だろ」
『ツィウは里全体を見渡せる場所で、指揮官として周辺の『気』を読み、逃亡しようとする者を見つけ、抜かり無く兵に追わせ殺したはずだ。だからお前は生き残ることができた。もしお前に同行者がいれば、お前も捕まり殺されていただろう』
『気』を完全に絶つことがどれほど困難な技なのかも、当時の里でそれを可能だったのが自分とガン・ワンだけであることも、イェンルゥは知っていた。
「ガン・ワン老師は、あたしに丸壺の置き場所を伝えてから、ツィウ・ハーらしき男とサシで戦った。あたしはそれを物陰に隠れて見ていた。『影鱗』を纏った老師を、ツィウ・ハーは何かの術を使って一撃で倒した。たったの一撃で。あの場面だけは今でもよく憶えてる」
『当然の結果だ。ツィウは知勇に優れた掛け値なしの強者だ。仙人としては凡庸であったが、敵に回せばあいつ以上に恐ろしい者はおらんだろう』
話の舳先があまり愉快でない方へ向かっているのをイェンルゥは敏感に感じていた。
「つまり、ツィウ・ハーが敵に回るようなことを里がした……んだね」
『我々は、あいつの妻子を殺した』
丸壺は淡々としつつどこか陰鬱とした声で続けた。
『お互い、いろいろと考えの違いがあってな。あいつはある日、家族を連れて里を抜けた。ワシはおそらくそうなるだろうと思っていたし、放って置くつもりだった。だがそう思わなかった連中もいた』
イェンルゥは自分が住み始めるより過去の里について、誰からもほとんど聞いたことがなかった。その不自然さの理由の一部が『これ』なのだろうと気づき始めていた。
丸壺がイェンルゥの内心を読んだように小さくうなずく。
『ツィウのことを、仙術の秘密を外へ持ち出す裏切り者だと考えた連中がいたのだ。そして、そやつらはツィウの後を追った。遅れて事情を聞き及んだワシが森で彼らを見つけたとき、そこには死体だけがあった。里の連中とツィウの妻子、双方のな。酷い有様だった。だが、ツィウ本人の姿はどこにもなかった』
ことの経緯を飲み込んだイェンルゥが丸壺の言葉を先回りする。
「そして十年前のあの日、ツィウ・ハーは里に戻ってきた。軍を率いて」
丸壺の無言は肯定の証だった。
イェンルゥは自分の感情がそれほど大きく揺り動かされていないのを意外に思った。理不尽なことなど何一つないように感じる。すべては起きるべくして起きた出来事なのだ。
『ワシを……仙人を軽蔑したか? イェンルゥ』
ゆっくりと立ち上がったイェンルゥが一歩前に進んで川の流れを見つめる。
「別に。なんで今さらそんな昔話をするのか、不思議に思っただけだよ」
『けじめだ。あの日、森の中でお前と出会い、お前の才能を見いだした。お前こそが『道』に至るにふさわしい者だと信じた』
「ふうん。ご期待に応えられずに申し訳なかったね」
つまらなそうな顔で混ぜっ返すイェンルゥにも、丸壺は真剣な眼差しを崩さなかった。
『謝るのはワシのほうだ。ワシはお前に何もしてやれなかった。結局のところ、お前は里で新しい家族と家を得て、それを失っただけだった。だが、あいつなら……キュウタならば、お前に道を示すことができる。そう思えるのだ』
「だから、あたしにリャオの外へ出ろ、外の世界を見に行けって?」
『過去に縛られてはならん。重荷であれば、里の思い出も仙術も捨ててしまえ。人は誰しも……もちろんお前にも、進むべき道がある』
この丸壺がこんなふうに感情を吐露する姿を、イェンルゥはかつて見たことがなかった。
彼女は両手を腰に添え、推し量るような視線を足元に落とした。
「それは丸壺の考えなの? あたしが知ってたガン・ワン老師はもっとそっけない人だったよ」
『分からん。ワシはガン・ワンの紛い物でしかないからな。だがな、イェンルゥ。人としての姿を失った今のワシは、仙人でも里の長でもない。だからこそ、なんの柵に囚われることなく、ガン・ワンの心を偽り無くお前に伝えられるのではないか、とも思うのだ』
イェンルゥはすっと首を回し、背後に置かれた丸壺と肩越しに視線を合わせる。
玻璃壺のなか、満たされた血の濃淡が造る簡素な顔。そこには間違いなく意志と呼べるものが宿っていた。
やりきれない思いを眉間に表し、ふっと息をついたイェンルゥが、右手を小さく動かす。原初魔法の発動とともに、鈴を鳴らすような鋭く小気味良い『音』が響いた。
木の根元で先ほどと変わらずぼんやりと空を見上げていたサザレがぴくりと反応し、音の主であるイェンルゥに視線を振る。にやりと笑ってちょいちょい、と手招きするイェンルゥ。
首を傾げ、立ち上がって白い外套から草を払ったサザレが不審げな顔でてくてくと歩み寄り、イェンルゥを見上げる。
イェンルゥは何も言わずに右手をサザレの頭に乗せて茶色混じりの黒髪をわしゃわしゃと撫で回した。
予想外の行動にサザレが肩を縮こまらせて眉をしかめる。
「ちょっ……」
前触れ無く、あからさまに子供扱いされて不服そうな少女の顔などお構いなしに、寂しげな笑みを浮かべたイェンルゥは無造作で無遠慮な手付きをしばらくのあいだ緩めなかった。
◇
静まり返った庭園のなか、空を見上げていたツィウ・ハー丞相が、ゆっくりとキュウタへ視線を戻した。
そして少年に向けられた声は力強くあったが、険しさは不思議と感じられない。
「君はどう思ったかね? 仙人たちがこの地で重ねてきた行為について」
何気ない口調で尋ねるツィウ丞相。まるでキュウタが仙人について何をどこまで探り出したのか、一から十まで把握しているような口振りだった。
何を知っているか、しらを切り通すのは簡単だ。だがあまり意味は無いだろうともキュウタは思う。結局、彼は率直な考えを口にした。
「どんな形であれ、自分の能力を活用して生きることは『自然な選択』です。他人から見ればそれが悪や罪になるとしても」
「だが、必ずしも『賢明な選択』ではない」
「かもしれません。他に道があったかは疑問ですが」
淡々と答えるキュウタ。それをじろりと見るツィウ丞相の声には、語り尽くせぬ思いの片鱗が込められていた。
「道はいくらでもあった。仙人たちは古い生き方にさっさと見切りをつけるべきだったのだよ。あんなやり方がいつまでも通用するわけがない。なぜ彼らはそんな簡単なことも分からなかったのか」
「多くの人にとって、生き方を変えるというのは口で言うほど易しいものではないでしょうね」
まるで若輩者に諭すような気配のキュウタ。
ツィウ丞相の面持ちに冷笑じみた色が浮かぶ。
「だから、上に立つ者が正しき道を示してやらねばならんのだ。たとえそれが傲慢や独善と見なされようともな」
軽く張り詰めた沈黙のなか、互いの視線が交錯する。
やがてキュウタが釈然としない感情を口元に表した。
「僕の質問への答がまだですね。なぜ、僕に仙人を……とっくの昔にあなたが殺した仙人を探せ、などという命令を?」
ツィウ丞相が着物の長い袖を胸の前で合わせて腕組みをした。
「仙人の里には生き残りがいるはずだ。その所在を知りたい。君なら必ず見つけ出せると思った」
キュウタの意識に、自身の内部を覗き込まれるような感覚が走る。はじめてツィウ丞相に会った日も、イェンルゥと出会った日にも、これと同じものを感じた。そしてその正体にも今は気付いている。
少年の経絡を流れる莫大な『気』。
それを観ながら、ツィウ丞相は相手の反応をじっと観察していた。
キュウタが呆れようにため息をもらす。
別に駆け引きや腹の探り合いをする気分でもなかった。
「ようするに僕は、仙人を釣り上げる『餌』にされたわけですね」
その言葉から少年が期待通りの結果を出したことを知り、ツィウ丞相は満足げな顔でうなずく。
「そう不機嫌な顔をするな。結果に見合う対価は払う。それで、その仙人をいつ引き渡してもらえるかね?」
「お断りします」
あっさり一蹴するキュウタ。
わずかに首を傾げたツィウ丞相がゆっくりと目を眇めてキュウタを見下ろした。
「理由を聞かせてもらえるかな」
「『賭け』に負けたからです」
どこか煙に巻くような答に、ツィウ丞相は長い黒髭を思案げに撫でる。彼の声は穏やかであったが、瞳に映る色はどこか重苦しい輝きだ。
「仙人は自らの利益のため、仙術の知識を秘匿し、魔法学の普及を妨害してきた。逆に言えば、仙人は利益のためなら仙術の知識をリャオの『外』に躊躇いなく売り渡すだろう。それはリャオにとっての重大な損失につながるのだよ」
「だから、すべての仙人を殺すと?」
「そうだ。仙術は今のリャオにとって貴重な独占技術なのだ。おいそれと諸外国に漏らす道理はない」
「それはかつて仙人たちがしてきたことと同じですね」
「君は手段と目的を混同しているな。私は、リャオに住まう人々の利益を念頭に置いた上で、仙人を殺すと決めたのだ」
ツィウ丞相の言い分は為政者として至極まっとうなものだ。であると同時に、本来ならばキュウタのような他所者にぺらぺら話していい内容でもない。明らかな国家機密のはずだ。
「閣下は僕が帝国の人間であることをお忘れのようですが」
「私が国に忠を尽くす手合に見えるかね」
キュウタは、ツィウ・ハーがあくまで一個人として自分と話をしようとしていることに気付いた。ツィウ丞相と初めて会ったときの会話が頭をよぎる。
「あなたは国ではなく、人の『自由』を重んじている」
「いかにも」
「だから、僕が仙人を見つけ出すと予想していながら、監視も尾行もつけなかった」
「仮にそうしたところで、君に逆手に取られるのが関の山だったろう?」
その通りだ。自分たちの周囲を不審な人物がうろついていればサザレがまっさきに気付く。
これは勝手な言い分だと自覚しながら、キュウタはツィウ丞相を見つめた。
「僕の考えでは、その仙人は悪意をもって仙術を利用する人ではありません」
「だから見逃せ、と?」
「はい」
「私が本気になれば、ありとあらゆる手段を用いてその仙人を捕らえることができる」
「分かっています」
ツィウ丞相が目を閉じて、困惑するように額に指を当てる。
しばらくの黙考のあと、いかなる偽りも許さぬ眼光がキュウタを捉える。
「キュウタ。きみの目から見て、その仙人は『善』の側にいるのだな?」
「少なくとも、あなたと同じ側にいるように思います」
きっとそのはずなのだ。
イェンルゥもツィウ・ハーもかけがえないものを失った。同じ絶望を味わった。それでも、この二人は世界を見限ったりしていない。それぞれのやり方で世界と向き合っている。
不意にツィウ丞相がぐっと唇を結び、うつむきがちに視線を外す。わずかに深まる息継ぎは、彼の葛藤の現れにも思えた。
キュウタはもう伝えるべきことは伝えたという意思表示として軽く一礼する。そして少年はツィウ丞相の横をすれ違い、庭園の出口へと歩き出した。
これからツィウ丞相が仙人についてどんな判断をするのかは分からない。それに対してキュウタ自身がどう応じるかも、その時になってみないと分からないだろう。
サザレの未来視による度重なる検証でも、仙術が魔法発展の歴史に及ぼす影響は確認できなかった。
収穫らしい収穫といえば、キュウタがこのリャオの地に抱いていた違和感の原因と、それがすでに歴史から消え去ったという事実くらいだ。
まったく、徒労にもほどがある。
立ち去ろうとするキュウタの背中にツィウ丞相が声をかける。
「私は間違っていたと思うか?」
キュウタは歩みを止めず、背を向けたまま答える。
「間違っていたのは仙人たちのほうです」
キュウタは確信をもってそう断言できる。
そして、それはキュウタ自身の間違いを認めるのと同じだとも気付いていた。
なぜなら、仙人たちの行いはキュウタが重ねてきた罪と同じものだからだ。
自分の目的のために、多くの他人の運命を捻じ曲げ、歴史を弄り回してきたのだ。
そんな自分が正しいはずもない。
仙人の過去を知って以来、キュウタの胸の奥にわだかまっていた苛立ちの正体はそれだった。
自分の間違いを確信していても、心の底ではそれを受け入れることができていない。
どれだけ長い年月を重ねようが、結局自分は何の覚悟もできていない子供のままなのだと気付かされてしまうのだ。
いつか、自分がその葛藤を乗り越える強さを持つことができるのだろうか。いくら自問してみても、答は出そうになかった。




