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第八章 暗紅老仙 (9)




 生ぬるい雨粒が、ひっきりなしに屋根や地面をぱたぱたと叩いている。


 前日から降り続いている雨は一向にむ気配が無かった。夏の暑さはさかりを過ぎて一段落したが、ここ数日の天候はさながら天然の蒸し風呂一丁上がりといったところである。


 サザレは軒先の陰から雨空をしばらく見上げていた。やがて彼女は代わり映えのしない天気模様に小さくため息をついて背後の戸を開けた。

 薄暗い納屋の中には湿っぽい埃臭ほこりくささがどんよりと満ちていた。


 先ほどから途切れなく続いている、ごりごりという音の先をサザレが見る。

 壁際にあぐらをかいたイェンルゥが、白い小さな乳鉢で、乾燥させた種子らしきものを粉末に砕いているところだ。見た目よりも力のる作業なのか、蒸し暑さも手伝って彼女の額には玉のような汗が浮かんでいる。


 サザレは黙々と作業を続けるイェンルゥをちらちらと意識しながら、反対側の壁際に積み上げられたまきの山に腰を降ろした。白い外套マントや二本の刀は身から外して、道具袋と一緒に傍らにまとめて置いてある。そして、その隣にあるキュウタの荷物に手が付けられていないことを彼女は無意識に確認した。


 別にイェンルゥが何かをするなどと疑っているわけでは無い。だが、どうにもこの女を前にすると妙な居心地の悪さが胸にまとわりつくのだ。


 それはともかく彼女たちが今いるのは、とある商家の敷地の隅に建つ納屋である。この商家はイェンルゥが取り扱っている薬の卸し先の一つでもあった。しばらく雨が続きそうなあんばいもあり、一行いっこうは数日の宿をここに借りることにしていたのだ。


 なお、キュウタはその商家の主人に頼まれごとをされたとやらで母屋おもやのほうへ出向いている。戻るのは夕刻あたりになるだろう。


 サザレはイェンルゥの横に置かれた背負い型の道具箱に目をやった。大小の引出しによって内部が細かく区切られているそれはあちこち黒ずんだくすみが目立ち、常日頃から日光や風雨にさらされていることがうかがえる。持ち歩くための道具箱としてはかなり大きめだ。だが、女ひとりの日用品や仕事道具がすべて入っていると考えれば呆れるほどの小ささとも言えた。


 キュウタが老師ガン・ワンから聞いた話では、イェンルゥは一年かけてこの近辺の町や村を一巡する薬売りの生活を続けているらしい。移動のついでに季節ごとの薬草を各地で採集することもできるため、それが何かと都合が良いということだった。


 サザレは薪の山の上であぐらをかいた。


 イェンルゥが種子を乳鉢で丹念にすりつぶす音。それは不自然なほどに一定のリズムを保っている。ほつれるように垂れ下がったひとすじの髪が、下を向いたイェンルゥの頬に張り付き、彼女の端正な面立ちにほのかなつややかさを付け加えていた。


 すらりと伸びた手足、女性らしい起伏のある体、ときおり唇からこぼれるしっとりとした吐息。それらはいずれも今のサザレが持っていないものだ。えも言われぬ敗北感にサザレは唇をへの字に結ぶ。


 サザレは自分の体とイェンルゥのそれをちらちらと見比べる。

 自分の体だって同じ肉体年齢の世代標準からみれば、けっこうな女性らしさはあるにはある。だがやはり、イェンルゥのそれを前にしてはいささかの遅れがあるのは明らかだ。


 むうっ、と声にならない唸りが唇の隙間から漏れた。そしていやいや、落ち着けと自身に言い聞かせる。自分だってイェンルゥのように成熟した魅力ある体に育つ素質はきっとあるはずだ。根拠はないがそうに決まってる。


 決して成長することのない不老の体を少しばかり恨めしく思いながら、ぷいと顔をそらして細い格子窓の隙間から雨雲を見つめる。


 納屋の屋根をまんべんなく叩く雨音。イェンルゥが乳鉢で薬をすり潰す単調なリズム。

 それらはサザレの心をゆっくりと眠りの淵へと押しやりつつあった。だが、少女自身はそれをはっきり自覚することはできなかった。





 窓の隙間から見える空はあいも変わらぬ暗い灰色だ。

 だらだらと締まりなくり続ける雨は、青空の記憶さえうつろにさせる。

 

 大槻キュウタは小振りな木の椅子に腰掛け、やはり小ぢんまりとした机を前にしていた。


 ここは使用人が雑用を片付ける部屋らしく、狭いながらも小奇麗な、灰色の土壁と土間の単調な色合いが妙に心を落ち着かせる。キュウタがいつも身につけている白の外套マントは他の荷物とともに納屋に置いたままだ。この蒸し暑さではしばらく出番はないだろう。


 ふむ、とキュウタは息をついて机上の左寄りに置かれた書物のページをまた一枚めくった。記された文字列と前後の文脈を突き合わせてから、右手側に置かれた真新しい紙の上にすらすらと細身の筆を走らせる。


 上質な部類に入る手触りの紙に墨がほのかな匂いを漂わせながら、几帳面な筆跡を残していく。堂に入った手付きで書物の翻訳をこなしていくキュウタを、机の端から物珍しそうに見つめる『顔』があった。


 小さなガラスの丸壺に満たされた赤い液体。その陰影で作られた簡素な顔が、ぽつりと言葉を発する。


『キュウタよ。お前さんは面白い特技を持っとるな』

「よその言葉を覚えるのが得意なんです。下手な魔法よりずっと便利な力ですよ」


 丸壺ガン・ワンの呆れ気味な口調に、キュウタは茶目っ気のある微笑で応じる。最近はこの喋る丸壺とのやり取りにもすっかり慣れた。友情に通じるものを自覚する瞬間さえある。


 椅子の上で軽く伸びをして肩をほぐすキュウタ。

 商家の納屋に宿を借りる代金として、ここの主人が趣味で集めている異国の書物の翻訳を依頼されたのだ。どのみちこうも雨続きでは無理に次の目的地へ急ぐ理由もあるまいという判断もあり、キュウタはそれを快諾したのだった。


 かたわらに積まれた数冊の背表紙に目を向ける。フィロマ帝国やその周辺からリャオに持ち込まれたものが多い。ジャンルはさまざまだ。地域色の強い食材や料理についての本もある。


 実質タダ働きに近い翻訳仕事ではある。だが、普段見る機会のない書物に触れるというのも、キュウタ個人にとってそれなりに益がある話だ。

 丸壺の中でガン・ワンの顔がすっと回り、窓のほうに向く。


『ところでキュウタ。お前はどういう魂胆があってリャオの人間や土地を嗅ぎ回ってるんだ?』

「魂胆というか……ただの好奇心ですね。そんなに変ですか?」


 肩をすくめてからキュウタは再び翻訳作業に意識を向ける。

 ガン・ワンは窓の向こうの雨空を見ながら静かに言葉を続けた。


『昨日は民窯みんようの仕切り役、前の町では豚飼い。その前は詩が趣味の町役人だったか。とりとめのない世間話をつらつらとするだけだったな。いちいち酒だのさかなだの手土産に持っていくのもそこそこの出費だろうに』

「そこはまあ、見ず知らずの相手をたずねるのに手ぶらってのもちょっとアレなんで」


 キュウタが暇つぶしの話相手として持ち歩いていた丸壺ガン・ワンには、少年の行動がよっぽど奇異に映ったらしい。

 小さな欠伸あくびを噛み殺しながらキュウタが筆の軸でこめかみをぽりぽりとかく。


「特にこれ、という目的があるわけじゃないんです。リャオの土地に根付いている空気というか、文化というか。それを自分の目で確かめておきたいんですよ」

『妙な趣味だな』


 くすりと笑うキュウタ。


リャオここはとても興味深い土地なんです。大きな可能性がある。ただ、どうしても説明のつかない疑問もあるんです」

『疑問? リャオに?』


 胡散臭そうに目を細めるガン・ワンの問いかけに、キュウタは黙ったまま曖昧なうなずきで返す。


「西方諸国で生まれた『魔法学』は、リャオの人々の関心を得ることができませんでした。その理由が気になるんですよ。一介の魔術士としては、ね」


 数百年を経ても、魔法が『学問』として根付くことのなかったこの土地に対する違和感。それは未だにキュウタの心からぬぐいさられていない。


 きっと、どれだけ調べたところで本当のところは分からないだろう。

 長い時の積み重ねのなかで、無数の出来事が気まぐれにくっついたり離れたりをした結果でしかないのだ。そんな事例は今までもたっぷり見聞きしてきたではないか。


 それでも、納得のいく『答え』を見つけておきたかった。真実はどうあれ、自分自身が納得できる答えを手にしたかった。


 キュウタは思考に沈んだまま筆を止めていた自分に気づき、小さく首を横に振った。考えていても仕方がない。まずは目の前の仕事を片付けよう。翻訳作業を再開しようとしたそのとき、ぽつりとした言葉がキュウタの耳に届いた。


『お前は本当に変わったやつだな』


 丸壺ガン・ワンの視線がキュウタを見上げていた。赤い液体で形作られた、表情というにはあまりにも単純化された造形なのは相変わらずだ。だが、キュウタはそこに確かな『想い』を見て取った。


 その『想い』の正体を捉えきれないままキュウタは肩をすくめる。


「そういう印象を与えてしまうのは、僕の人生が旅ばかりで、どこの土地や文化にも属していないからでしょうね。中途半端が服を着て歩いてるようなものですよ」


 自嘲するような微笑で天井を見上げたキュウタ。その注意を引き戻すようにガン・ワンが言う。


『根無し草はワシとイェンルゥも似たようなもんだ。そのワシの目から見ても、どの人間とも違う『何か』をお前から感じる』


 かすかなため息がキュウタの口からもれる。

 こんなやり取りは初めてでは無い。色々な時代でうんざりするほど交わしてきた。明らかな見当違いだ。


 百歩譲って、もしそんな『何か』が自分にあるとすれば、ただの偶然や巡り合わせの結果であり、決してそれ以上のものではない。キュウタはそれを知っている。


 無言の少年が向ける非難混じりの視線を受け流しながら、丸壺のなかでガン・ワンが首をかしげる。


『そもそも『キュウタ』という名も妙な響きよな。何かの意味や由来があるのか?』

「そんな大層なものじゃありませんよ。この土地で使われている字をあてるなら……こうですかね」


 キュウタは自分の手のひらにさらさらと筆を走らせ、それをガン・ワンに向ける。


 それをまじまじと見つめたガン・ワンがうなずくようにその顔を上下させた。


『なるほど。そういうことか』

「こんどは姓名判断ですか? 仙人もなかなか多芸ですね」


 茶化すキュウタに応じることなく、丸壺ガン・ワンがまっすぐな視線を向けてくる。


『……『賭け』を覚えているか?』


 唐突すぎる話題の転換に、キュウタが目を二度三度ぱちくりさせた。筆の軸を唇で軽く噛んで記憶を少しずつ呼び戻す。やがて少年は頭をかいて口をぽかんと開ける。


「ああ……すっかり忘れてました。まだ続いてたんですか、あの話」


 キュウタがその人並み外れた『魔力』をいかにして手に入れたか。その謎をガン・ワンが解き明かせるか否か、という他愛もない勝負。


 正直なところ、キュウタにとっては勝とうが負けようがまったくどうでも良い話であり、その存在すら失念していた。はて、賭けに勝った方は何がもらえるんだっけ、とぼんやりした記憶をキュウタが引っ張り出そうとしたとき。


『賭けはワシの勝ちだ』


 丸壺ガン・ワンが確信に満ちた声で告げる。


『キュウタ。お前、不老だな』





 サザレは夢を見ていた。


 それは、ずっと昔の光景だった。

 いくつもの季節をさかのぼった遥かな太古。文明のきざしどころか、ヒトと動物の境界も曖昧だったあの頃。


 そこは、仲間たちとささやかな暮らしを営んでいた洞窟の片隅だ。


 幼いサザレは<姉>の膝を枕にしていた。薄い闇と湿った土の匂いが強烈な臨場感を伴って少女の記憶のなかで蘇る。


 <姉>の膝の上で身じろぎすれば、やわらかい感触と、落ち着くような匂いに包まれる。いつまでも、このやすらぎのなかで微睡まどろんでいたいと思った。


 そのとき、はっと我に返ったサザレの目が見開かれる。


「ふがっ?」


 間の抜けた声が自分の口から漏れたと同時に意識が一気に覚醒する。

 がばっと跳ね起きた少女は口元のよだれを手の甲でぬぐった。


 納屋の中は相変わらずの薄暗さと蒸し暑さで、埃っぽい空気で淀んでいる。

 跳ね起きた姿勢で体を硬直させたまま、ここがどこなのかの認識を取り戻すのに数瞬を要した。


 そんなサザレの背後から、くすっと息をもらす気配、そして優しさとからかいの中間の声音が向けられた。


「まだめしには早いから寝てなよ」


 サザレの耳と頬にほんのりと朱が差していく。錆びついた歯車のような動きで振り向くと、地べたに座ったイェンルゥが薪の山にもたれかかり、愉快そうな顔で自分を見つめている。


 サザレは顔を赤くしたまま口をへの字に曲げた。

 イェンルゥが薬を作る作業を眺めながらうつらうつらし始めたところまでは記憶がある。

 なんたる不覚。キュウタの前でさえここまで隙を見せてしまった記憶はほとんど無い。


 頬に残るほんのりとしたあたたかみに思わず手をあてる。

 敵視とまではいかずとも、警戒を要する相手と認識していたはずだ。だらしない寝姿をさらすだけならいざしらず、その膝まで呑気のんきに枕にしてしまっていたとは。


 イェンルゥの白い下衣の裾に自分のよだれが小さくシミを作っているのを、サザレは居心地悪そうに横目で見た。

 それを何かと勘違いしたのか、イェンルゥがやれやれといった表情で立ち上がりながら言う。


「なにも悪戯いたずらしてないから安心しな」

「そ、そうじゃなくて、あの……」


 なにか言うべきことがあると感じるが、それを言葉にすることができない。

 そんなサザレをよそにイェンルゥが壁際に歩み寄り、「よっ」と背伸びして高い窓の隙間から雨空を見つめる。


「あんた、疲れてるんじゃないのかい」


 ぽつりと向けられた言葉にサザレが口をつぐむ。

 少女はイェンルゥから距離を取るように、納屋の反対側の壁に背中をあずけて座り込んだ。

 イェンルゥが言葉を続ける。


「体のなかを流れる『気』ってのは正直なもんでね。本人の口よりもずっと正しく体の調子を語ってくれるのさ」


 イェンルゥの言葉に含まれたものにぴくりと反応したサザレが、自身の体や五感を確認する。

 異常は見当たらなかった。だが『仙術』という得体の知れない代物への疑念が思わず口を開かせる。


「私になにか……」


 窓の外を見つめるイェンルゥが背を向けたまま答える。


「何もしてやしないさ。ただ、あんたもあの坊やも、外から見たらとんでもなくデカい気をかかえてるからね。少しでも仙術をかじった奴なら簡単に気を読まれちまうよ。こんな感じに」


 そうイェンルゥが言った刹那、サザレの体の内側に今まで経験したことのない、ぞくり、としたものが走る。

 直接なにかをされているわけでは無い、というのは理解できた。言うなれば、明らかな意図から発せられた『視線』に体の奥を覗き込まれている感覚。


 サザレの瞳に鋭い光が宿る。

 警戒度が一気に高まり神経が研ぎ澄まされていく。視界の隅、自分たちの荷物と一緒に置かれている刀の位置を無意識に確認した。


 だが、イェンルゥはいたって物静かなたたずまいで、背を向けたまま肩をすくめる。


「今のは分かりやすくやってみせたけど、あたしや老師なら、もっと『静か』に『素早く』読むこともできる。普段から医者の真似事なんかやってると、人の体をつい読んじゃうんだよ」


 イェンルゥの声に害意は無かった。そう感じたサザレが静かに息を吐いて視線をなにもない宙空へそらす。力を抜いた体を抱え込むように丸まって、少女は小さくつぶやいた。


「ご心配には及びません。自分の面倒くらい自分で見られます」

「そうかもね。でも、あんたを見てると弟を思い出すんだよ」

「わたし、女ですけど」


 むっとして視線を足元に落としたサザレ。その気配に構うことなくイェンルゥが続ける。


「血はつながってなかったけど、本当の家族だった。『里』にいたみんなが、あたしの家族だった」


 淡々とした口調に込められた、おざなりでは無い何かに、そっぽを向いていたサザレの視線が引き戻される。

 イェンルゥの後ろ姿は相変わらず窓の外を向いたままだ。


 沈黙が漂う。

 納屋の屋根を叩く雨音が少し優しくなった。


 くるりと振り返ったイェンルゥが、唇に柔らかい微笑を浮かべてサザレを見下ろす。

 ふたりの眼差まなざしは、互いをそっととらえていながら、相手の姿を通してどこか遠い風景を思い出しているようでもあった。


 薄暗い納屋のなか、窓から差すほのかな光を背にしたイェンルゥ。ごくごく自然体の立ち姿が、飾り気のない美しさでえている。


 唐突に<姉>の姿が、サザレの心を貫くようにフラッシュバックした。


 歳、背格好、人種、なにもかも違う。それなのに、<姉>の面影が今のイェンルゥにどうしようもなく重なって仕方がない。


 サザレは、イェンルゥに感じていた居心地の悪さの正体にようやく気がついた。


 だとしても、胸のなかのもやもやとしたものが消えるわけではない。ぎゅっと抱え込んだ膝頭に、むすっとした顔をうずめる。


 イェンルゥがまた、くすっと笑いを漏らした。


「まったく、あんたは不思議な子だね。妙に構いたくなるっていうか」


 静かに歩み寄ったイェンルゥが少しだけ前かがみになり、サザレの頭に手を差し伸べる。サザレは身動きもせず、じっと黙ったまま相手の手を見つめていた。

 わざわざ振り払う気にもならなかった。心のなかでぐるぐる回る思考を持て余し、面倒になっていたというのもあったのだが。


 イェンルゥはサザレの髪に触れるかどうか、というところで手を止めた。笑みにかすかな困惑が混じったかと思うと、彼女は小さなため息をついて、ゆっくりとサザレから一歩離れた。


 怪訝な目で見つめるサザレに、イェンルゥがふっと視線をそらす。整った横顔には相変わらず微笑が浮かんでいたが、なにかひとすじのかげのようなものが差したようにサザレには思えた。


 そのとき不意に、納屋の扉ががらりと開かれた。

 サザレとイェンルゥの視線がそちらに向く。


 キュウタが肩についた雨滴あめしずくを手で払いながら中に入ってきた。少年の顔にはどことなくいぶかしさが現れている。こんな表情のキュウタは珍しい。思わずサザレがたずねる。


「どうかしましたか、キュウタ?」


 向かい合っているサザレとイェンルゥに目をぱちくりとさせてから、キュウタは「ああ、いや」と口ごもった。


 頭をぽりぽりとかきながら、キュウタが腰に下げた袋からガラスの丸壺を取り出す。内部の赤い液体に浮かんでいるガン・ワンの顔がイェンルゥに向く。


『イェンルゥ、予定変更だ』


 どうにも釈然としない、という表情のキュウタの手のひらの上で丸壺ガン・ワンが宣言した。


『久しぶりに『里』に行くぞ』




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