第八章 暗紅老仙 (6)
イェンルゥは編み笠の端をくっと持ち上げて、ふうと息をついた。
ここ数日蒸し暑い日々が続いている。
強い陽射しが地面に落とす自分の影ははっきりとした輪郭だ。
周囲に広がる緑まぶしい水田は、斜面を利用して水を引いている。それぞれの田は盛り土で作られた等高線のような有機的な曲線を持つ境界で区切られていた。
水田のあいだを抜ければすぐ目的の集落だった。頬ににじむ汗を手の甲でぬぐい、イェンルゥは背負った道具箱をとある民家の前で降ろす。
「おっちゃーん。あたし。入るよー」
日除けがわりに戸口に吊るされた筵の横から家の中をひょいと覗き込む。
簡素な竈が設けられた土間から上がった先は方形の板張りのスペースがあるだけだ。食事も就寝もすべてこの板の間ですませる、ごく一般的な農家の間取りだ。
板の間で鎌の手入れをしていた恰幅の良い三十歳ほどの男が顔を上げる。男にもたれかかり昼寝している五歳くらいの男児がもごもごと寝言をつぶやいた。
男は前歯の一本欠けた笑顔でイェンルゥを迎える。
「あんれ、イェンルゥちゃんけえ。もうそんな季節じゃったかい」
「おっちゃん、久しぶり。元気してた? 婆ちゃんはどうしてる?」
「お袋は朝から田んぼに出ちゅうよ。最近はだいぶ具合も良うなった言うてな」
イェンルゥが困ったような微笑で腕組みをする。
「ああ……そうなんだ」
「無理ばせんでいいっちゅうとるんだがね。やっぱ仕事しとらんと落ちつかんみたいだわ」
寝こけている男児の頭を撫でながら男が笑った。
その様子に目を細めて、イェンルゥは声をそっと低くする。
「んじゃ、あたしちょっと婆ちゃん見てくるね。あとで薬も持ってくるからさ」
◇
老婆はすぐに見つかった。
この暑い中、野良仕事に精を出すのは働き盛りの男連中でも億劫なことだ。だがその老婆は遠目に見てもてきぱきとした身のこなしである。体に染み付き熟練した動作はたとえ老人であっても侮りがたいようだ。
自分の顔を見た途端に破顔した老婆に手を振って、イェンルゥは田の外を指差した。
田から少し離れた涼しい木陰で、イェンルゥは老婆を座らせる。後ろに回って正座したイェンルゥが老婆の背に両の掌をぴたりと当てた。
心地よさそうに長々と息を吐き出した老婆が皺だらけの顔でしみじみと言う。
「アンタの薬はホントに良く効くねえ。足も腰も若いころみたいだあね」
「無理しちゃダメよ。おっちゃんも心配してんだから」
諭すイェンルゥに老婆が声を張ってみせる。
「あんのバカ息子の言うことなんぞ聞いちゃおれんね。まだまだあたしがシッカリせんと」
「年寄りがあんまり元気だと、見てるほうは不安になるのよ」
呆れ顔で微笑むイェンルゥ。
「仕事もいいけどさ、ちゃんと薬飲んでね」
「あいよ。まあアンタも、うちみたいな貧乏んとこによく来なさんねえ。あんな安い薬じゃ大して儲からんじゃろに。もっと大っきい町で腰据えて商売したら良かんね?」
「好きでやってんだからいいの。ずっと同じとこで暮らすってのも、なんか性に合わないしね」
ぐいっと頭を回して老婆がイェンルゥの顔を見上げる。
「アンタせっかくの器量良しなんだから、そのつもりならいい家に嫁入りできそうなもんだがねえ」
「あはは」
他愛ない雑談の裏で、イェンルゥは老婆の『経絡』を流れる『気』に感覚を集中する。
老婆の臓腑のちょうど中ほどに濁った『気』の滞りを感じる。イェンルゥの眉が他人からは分からない程度にしかめられる。やはり状態は前回よりも悪化している。
イェンルゥは自身の体内で練った『丹』を、老婆の背に当てた掌からゆっくりと流し込んでいった。注意深く、それでいて力強く、相手の経絡と気を整流していく作業だ。
ほうっと大きく息を吐き出す老婆。
しばらくは多少楽になるだろう。とはいえ気休めと大差無い。イェンルゥの『術』は体内深くの病巣を取り除くほどの万能薬ではないのだ。
イェンルゥが『術』を使うのは誰にも知られていない。
彼女の表向きの仕事はこのあたりの村や町を回り歩く、ごく普通の薬売りの行商兼、医者の真似事だ。ときどき触診を装い、『気』を利用した『術』を病持ちの人間に施してもいる。ただ、術は誰にでも効くわけでは無いし、完治をもたらすことも滅多に無い。
だが何もしないよりはマシだろう、という比較的後ろ向きな理由で彼女はこうして日々、人々のあいだで自分の能力を行使している。
◇
大槻キュウタは森林と田の境で朽ちて横倒しになった木に腰掛け、イェンルゥと老婆の様子を遠くから眺めていた。声すら聞こえない距離だが、和気あいあいとした雰囲気は伝わってくる。
キュウタが自分の襟元に指を差し込んで風を入れる。
さすがにこの暑さでは白い外套も少々不快であり、今は腰のあたりに巻きつけているだけだ。
ふと上着の袖をまくって、先日の攻防で手首についた傷を見る。注意深く見なければ分からないまでに傷口は治癒していた。
林の少し奥、日陰になっている草むらで、あおむけになっている小さな灰色のヤマネコの腹を、しゃがんだサザレが真剣な表情でこちょこちょとなでまわしている。うっとりとした表情でごろごろと喉を鳴らすしぐさを見る限り、サザレの指先に少なくない魅力を感じているのだろう。
膝の上で頬杖をつき、キュウタは再びイェンルゥをじっと見つめた。
『ずいぶんと熱心にイェンルゥを観ておるな』
ふいにかけられた声に、キュウタは居心地悪そうな表情で横を見る。
彼の隣に並んでちょこんと置かれた、ガラスでできた透明な『丸壺』。
丸壺の中に満たされた赤い液体がぐねぐねと脈打ち、子供が泥で戯れに作ったような簡略化された『顔』が現れている。
キュウタはため息をついた。『これ』と会話をする状況に非現実的なものを感じずにいられない。
昨日、イェンルゥという女とキュウタが繰り広げた戦いは、この丸壺の中の『顔』が発した声によって中断した。
やけに馴れ馴れしいその『顔』は、いぶかるキュウタを舌先三寸で言いくるめると、互いの事情がはっきりするまで荒事の続きは棚上げすることを、イェンルゥとキュウタに合意させたのだ。
キュウタが呆れまじりにため息をつく。
「正直、まだ信じられません」
『ん? 何がだ?』
なかばうんざりするようにキュウタが丸壺を指し示す。
「何がって……『あなた』のことですよ。人の『心や記憶』を『転写』する術なんて、どんな仕組みなのか想像もつきません」
『ふうむ。説明してやりたいところだが、ワシもこの術の詳細はよく知らんのだ』
無言で見つめる渋面のキュウタに、にやりと笑う丸壺の顔。
『まあ疑う気持ちは分かる。だが事実、この術はワシが造ったものじゃない。ワシの弟子だった男が編み出したものを、そのまま拝借しただけよ』
キュウタが壺の内部に満たされた赤い液体にしげしげと見入る。
「これって、『血』ですよね?」
『うむ。仙人『ガン・ワン』の血だ。そして、そこらにいる常人の血では意味が無いのだ。仙人の中でもさらに秀でた者の血のみが、この術を機能させ得るのだ。どうよ、ガン・ワンの偉大さが少しは分かったかな』
ぽつりと返すキュウタの顔には、胡散臭いものを見る思いがはっきりと現れていた。
「それで……『本物』のガン・ワンは今どこにいるんですか?」
『とっくに『死んだ』よ。今はワシがガン・ワンだ』
その答えはキュウタもある程度予想していた。
「あなたは仙人『ガン・ワン』じゃない。ガン・ワンの心と記憶を引き継いでいる『何か』です」
『そりゃそうだ。こんなナリの人間なんぞおらんわな』
何をいまさらといった口調で、すんなり認めた『顔』。
キュウタのなかにいくつもの形而上学的な疑問が湧いて出てくる。だがそれを口にすることにどこまで意味があるのかも、さらにややこしい難題に思えた。
沈思したままのキュウタに、『顔』が助け舟を出す。
『何を考えているかおおよそ見当はつく。果たして『これ』に『心』があるのか? そして、そもそも『心』とは何ぞや……かな?』
キュウタが頭をがりがりとかいて、気まずそうな声を押し出す。
「あなたのことを何と呼んだらいいものか、悩んでいるだけです」
にやりと笑う『顔』。
『ワシのことは『老師』とでも呼ぶがよいさ。名無しではお互い不便だからな……で、話は戻るが、そんなにイェンルゥが気になるかね?』
丸壺のなかで『老師』が首を傾げる。厳密にいえば『首』など無いのだが、とにかくそういう仕草をした老師にキュウタが肩をすくめる。
「何というか、不思議な気配の術に思えるんです」
『この間合いでイェンルゥの『気』を感じとれるのか。大したものだ』
感心したような声で老師の顔が丸壺のなかでぐるりと回り、ガラス越しにキュウタの方へ正対する。
両肘を後ろにもたれかけさせ、楽な姿勢になったキュウタがうなずく。
「魔力の鍛練は嫌というほど重ねてきましたから。感じる能力はそのオマケみたいなものですよ」
『……たしかにお前さんの『経絡』を観ればよく分かる。とても人が持ち得る『気』ではない。あるいは本当に人なのか、疑わしく思えるほどにな』
老師の目が、探りを入れるかのように少しだけ細められる。
キュウタは指で喉元にうっすらと残る傷をなでながら、あいまいに応じる。
「少なくとも人を超えたつもりはありませんよ。自分より優れた人なら数えきれないくらい見てきましたからね」
キュウタは事実を素直に言っただけだった。
だが丸壺の中の顔は皮肉めいた笑みになる。何もかもお見通しだ、とでも言いたげな表情だ。
『ふん、まあいい。ところでいま『魔力』と言ったか。お前さん、西のほうで言うところの『魔術士』か? リャオの生まれでは無いのだろう?』
「ええ」
キュウタの意識のすみに小さな違和感が引っかかる。だがそれはあまりにも小さく、正体を突き止めようとする考えが浮かぶ前に老師の言葉にかき消された。
『なぜ、イェンルゥに敵意を抱いた?』
キュウタは口をつぐみ考える。
イェンルゥの肌に表出した黒い『斑』。
あの黒は、間違いなく『魔族』の肌を彩っていたそれと同一のものだ。だが彼女が魔族か、と問われれば、『違う』と判断するしかない。今のところは。
キュウタは魔族に関する情報を相手が誰であろうと容易に漏らすつもりはない。この時代でなお、魔族について知る資格があるのは、フィロマ教会上層部の数名のみだ。
だが、いまはなぜか、少し踏み込んだ話をしてみてもいい気がしていた。この丸壺のなかでうごめく奇怪な顔には、人の口を軽くする不思議な魅力があったのだ。
「僕の『敵』に似ているんです。あの『斑』の『黒』が」
『敵? そいつは仙人なのか?』
「違う……と思います」
『なんだ、はっきりせんのか』
「彼女を最初に見たときの印象が強すぎて、まだ冷静になりきれていないんです。判断するには手がかりも足りないように思えますし」
老師は何も応えず、その顔が瞑目するような形に変わる。
しばしの沈黙の後、口を開いたのはキュウタの方だった。
「彼女の……イェンルゥの肌に現れた『斑』は何なんですか?」
ぱちりとまぶたを開けた老師が答える。
『仙人はあれを『影鱗』と呼んでいる。体内の気を燃やし煉り上げた『丹』が、自らの肉体を完全に満たすとき生ずるものだ』
ゆっくりと身を起こして、キュウタは老師の言葉に聞き入った。
『影鱗を身に纏った者は、世を司る理との繋がりが希薄になる。本来ならばありえぬような『気』の使い方をすることさえできるのだ』
そして老師の視線がキュウタの喉に向く。
キュウタはイェンルゥとの攻防を思い返す。物理法則を無視したようなイェンルゥの身のこなしや、『硬化』させたはずのキュウタの肉体を容易に切り裂いた『糸』。
彼の心中を見透かしたのか、老師がゆっくりとうなずいて続ける。
『古より、仙人と称されし者は数多あれど、影鱗の境地に至った者はごくごく稀だ。もちろんガン・ワンは会得していたがな』
まるで、無い胸を張るように自慢気な顔になる老師。
口をへの字にしたキュウタが丸壺のなかの老師を見つめる。都でツィウ・ハー丞相と交わした会話が脳裏をよぎった。
「もしかして、影鱗が仙術の『奥義』なんですか?」
『強いて言うなら、な。もっとも、術と術の間の優劣なんぞ、有って無いようなもんだとは思うが』
老師はそう言って、相変わらず向こうで楽しげに語らうイェンルゥと老婆を見つめた。
丸壺に満たされた血が形作る顔は、必要最低限の部品で構成された簡素なものだ。だが、そこにはれっきとした感情が浮かんでいるように、キュウタには思える。
「なぜ、仙術のことを詳しく話してくれるんですか? 僕はあなた達の敵かもしれないのに」
ぎょっとキュウタを見た老師が、おおげさな驚き顔になる。
『おい、なんだ? 今の話を信じたのか? ワシが本当のことを赤の他人のお前さんにペラペラしゃべると思ったのか?』
キュウタの片眉がぴくりと上がり、口元にひきつった笑いが出る。
「あのっ……!」
目を細めた老師の顔がゆらゆらと震える。まるで今にも吹き出しそうな表情だ。
『怒るな。冗談だ、冗談。すべて本当の話だよ。からかい甲斐があってなかなか面白いな、お前さん。良いぞ。とても良いぞ』
楽しげにくるりと一回転した老師の顔が再びキュウタを見る。
『のう、キュウタとやら。丞相さまからワシを……『ガン・ワン』を探せ、と命じられたのだろう』
むすっとしたままの顔でキュウタがうなずく。
「……ええ。皇帝陛下が仙術の奥義を求めている、と」
『だが本物のガン・ワンはとうの昔に死んだ。どうする? この丸壺を皇帝陛下に献上するかね?』
座ったままのキュウタが、青空を見上げる。
「決めかねています。たしかに仙人探索は丞相からの命ですが、そこまで重要ではありません」
判断する材料が不足している。
キュウタが目にした『仙術』は非常に強い能力だ。だが同時に、彼が知る『魔法』とはどうも全く別の体系の技術に思える。老師との会話からキュウタが探りだした断片的な情報も、その推測を補強していた。
サザレも昨日から集中的に『未来視』で探ってくれている。だが、『仙人』や『仙術』という存在が、魔法発展の歴史にどれだけ意味があるのか、やはり視えてこない。
考えこむキュウタに老師が水を向ける。
『先に言っておくが、イェンルゥは明日には次の町に出立するはずだ。あれはこそこそ逃げ隠れする女じゃないが、他人に足並みを合わせてやるほど親切なタマでもないぞ』
「次の町……? 失礼ですが、あなたとイェンルゥのお住まいは?」
『イェンルゥとワシに、決まった住み家は無い。あちこちの町を回りながら、薬売りのついでに医者の真似事をしている』
もちろん自分のことは誰にも秘密だがな、と老師は丸壺の中でにやりとする。
『決めかねていると言うのなら、しばらくイェンルゥと一緒にいてはどうだ? 一人二人、旅の道連れが増えたところでどうということはない。じっくりと考えてから、どうするか決めればいい話だ』
「もう一度言っておきますが、僕はあなた達の敵かもしれないんですよ」
無愛想な顔で応じるキュウタに、老師がつまらなそうに言い捨てる。
『敵だの味方だの、まったく下らん話だ。『道』の前では誰もが等しくただの『人』にすぎん』
老師が口にした『道』という言葉の響きが妙にキュウタの心を捉えた。
どうにも迷いを振りきれないキュウタに老師が言い添える。
『お前さんはどこか固いな。もっと気楽に構えることが何においても肝要だ。人の一生なんぞ、暇つぶしの塊みたいなもんよ。それに、女の一人旅も何かと物騒だからな。お前さんたちのような手練が一緒なら、イェンルゥも多少は心強くなろうさ』
イェンルゥのかかと蹴りを受けてほぼ丸一日、まだ疼きの残る右腕。それをさすりながらキュウタが仏頂面になる。
「彼女本人のほうが、そこらの山賊よりよっぽど物騒に思えますよ」
『まあまあ、そう言わずに。ワシもイェンルゥ以外の話し相手が欲しかったのでな。指南……というほどでは無いが、仙術の話もおいおいしてやろう』
いくつもの損得勘定がキュウタの心のなかで足し引きを繰り返す。
彼の胸の内を見ぬいたのか、片目をひくつかせる丸壺の中の顔はまるでウインクしているようだ。
『興味が無い、とは言わんだろうな?』
ふう、と息をつき、キュウタは林のなかのサザレに視線を送る。気づいて立ち上がった彼女の足元から、じゃれついていたヤマネコがぱっと林の奥へと走り去った。
キュウタが小さく肩をすくめる仕草に、うなずいて返すサザレ。言葉を交わさずともキュウタの決断を察しているようだ。
反対側から近づいてきた足音に、キュウタは顔を向ける。
大きな道具箱を背負ったイェンルゥがキュウタをじっと見下ろしている。視線はキュウタに向けたまま、ゆっくりと編み笠をかぶり、あごの下でひもを結ぶ。
昨日見た刃物のような敵意は無い。だが冷然とした瞳は、キュウタに対して快さの欠片も抱いていなかった。
座ったままのキュウタは少し気まずそうな顔でイェンルゥと見つめあった。彼女と魔族を同一視した自分の感覚は間違いだ。分かっている。それでもイェンルゥに気を許すことは、かつて少年兵だった時代に刻まれた心の傷が拒絶しているのだ。
両者のこわばった視線の交錯を断ち切るように、老師がくるりとイェンルゥに顔を向ける。
『話はまとまったぞ、イェンルゥ。しばらく賑やかな暮らしになるな』
イェンルゥが、はあっと深々とため息をついた。おそらくこうなることはある程度予想していたのだろう。
「ったく。老師はいつも勝手だね」
唇を軽く『への字』にして、イェンルゥは丸壺をひょいと持ち上げ、黒い腰帯にくくりつけた革袋の中に放り込む。
棘のある声がキュウタに向けられる。
「キミ、ついてくるのはいいけど、また殺ろうってんなら次は容赦しないよ」
彼女にキュウタが答えるよりも先に、サザレが二人の間にするりと割って入った。少女は両手を下げた自然体の構えでイェンルゥを無言でじっと見上げている。
さすがに刀を抜くそぶりは無いものの、サザレの整った面立ちに浮かぶ冷ややかな圧迫感は大抵の人間を震え上がらせるに十分な力を持っているだろう。
昨日の邂逅以来、イェンルゥがキュウタの一定距離に入るたび、サザレはこうして警戒する姿勢を隠そうともしていない。番犬としては実に心強い存在だが、キュウタにしてみれば逆に身動きが取れずに困る場面もあり痛し痒しである。
イェンルゥはむっと唇を結んでサザレと視線をぶつけあう。
見た目はひと回り近く年下の少女。そこからまっすぐに向けられる青い瞳に、やがてイェンルゥは居心地悪そうに視線をそらした。
不機嫌な顔で、ふっと小さく鼻から息を吐き出すと、イェンルゥはキュウタに背を向けて歩きはじめた。
かりかりと頭をかいてからキュウタは立ち上がり、サザレの肩をそっと横に押して前に出る。いまだに得体のしれない女からキュウタを守るという務めをないがしろにされて物言いたげなサザレ。彼はそんな少女を視線で制して、イェンルゥの背中に言葉を投げた。
それは先日イェンルゥの態度を激変させた一つの『名前』についての疑問だった。
「教えてください。あなたと『ツィウ・ハー丞相』のあいだに何があったんですか?」
イェンルゥの足がぴたりと止まり、困惑と顰め面の入り混じった顔が振り向く。
口を小さく半開きにして目をぱちぱちとさせたイェンルゥの代わりに、彼女の腰の道具袋から老師の声が答えた。
『ああ、そういえば言ってなかったな』
「え、言ってなかったの!?」
道具袋に向かって目をむき呆れ返るイェンルゥ。
しれっとした口調の老師の声が、道具袋の中から響く。
『ツィウ・ハーはな、ガン・ワンの『弟子』だった男だ』
ぽかん、とその場に立ちつくしたキュウタ。これはさすがに予想外だった。
嘘や演技の気配のない彼の反応に、イェンルゥの眼差しがほんの少し哀れむような色になる。
イェンルゥが指で編み笠を目深にした。瞳が隠れ、日陰になった顔は能面のごとく情が欠落している。
「そして、老師はツィウ・ハーに『殺された』のさ」
イェンルゥの声はどこまでも冷たく、その言葉に感情を乗せることを拒んでいるかのようにさえ思えた。




