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第二章 数を愛した男 (3)

 夜が明ける少し前、セネルケフはいつものように工房へと赴いた。


 誰よりも早く作業場の扉を開け、仕事に取り掛かる。早朝の静かな空気の中にいると心が研ぎ澄まされていく。

 作業場中央のテーブルには、王墓の構造中央部を模した木型が置かれている。

 真上からの莫大な石材荷重を巧妙に周囲に分散させ、王の棺が納められる空間を保護する仕組み。

 

 セネルケフが半年以上の試行錯誤の上に辿り着いた自信作である。しばしその機能美をにやにやと眺めていると、不意に人の気配を背後に感じた。

 しまらない顔を見られたかと、気恥ずかしさに慌てて振り向く。

 

 そこには一人の女性がパンの入った籠を抱えて佇んでいる。

 

「あ、ああ。君か。おはよう」

「おはようございます、セネルケフさん」


 にっこりと微笑み、優雅に上体を曲げて頭を下げてくる。その光沢ある黒髪は一房にやわらかくまとめられ、丸み豊かな彼女の胸元へと垂らされている。

 彼女はイムイブラの妹である。

 豪胆さを絵に描いたような兄とは対照的に、しとやかで物静かな女性だった。


 セネルケフは彼女を見るとどうにも胸の動悸が高まって仕方がない。やたらと身振り手振りが大げさになり、視線もあちらこちらへと泳いでしまう。

 くすくすと笑う彼女が、ひょいとテーブルの上の模型に目を止める。


「それですのね。兄が笑いながら自慢しておりました。『セネルケフの奴がやらかしたぞ! 俺の仕事の半分が無くなってしまったじゃないか!』と」


 言葉の後半は兄の口真似であろうか。まるで似ていないが、それがまた愛らしい仕草である。

 セネルケフの隣に立ち、そばでじっくりと模型を見つめる彼女の横顔。それに思わず見とれてしまった自分をごまかすように、彼は頭をかいてみせる。


「ははは……工房長にはいくら礼を言っても足りないよ。私みたいな田舎者に、こんな素晴らしい機会をくれるなんてね」

「そんなご謙遜を……そういえば、王都に来る前は教師をされていたとか?」

「ああ。元々は役人の手伝いで、土地の検分や作物の記録みたいな事をしてたんだ。昔から『数』には強くてね」


 目を細めてテーブルの上を手で撫でる。彼女が微笑んで耳を傾ける様子に、ついセネルケフの口も滑りが良くなる。

 

「その内、近所の人らに頼まれて時々子供たちに数え方や計算法を教えたりしてたんだけど、いつの間にかそっちが本業みたいになってたなあ。子供らには『学者さん』なんて、からかわれてたっけ」


 懐かしむように語るセネルケフを、彼女が眩しそうに見つめる。


「子供に好かれるなんて素敵ですわ」

「変わった物が好きなのさ、子供ってやつは」

「先生が立派なお仕事に就いていると知ったら、その子たちもきっと自慢に思うでしょうね」


 セネルケフが『王墓』建造に抜擢された理由。それはいくつかの偶然が重なった結果であった。


 きっかけは、王都出身の初老の技師がセネルケフが住む町を訪れていたことに始まる。セネルケフがその技師と、ある計算法について意見の交換をしたのだ。実に合理的で明快な論理を組み立てて話すセネルケフに、技師は感心することしきりだった。

 そして技師はたまたまイムイブラの知り合いでもあった。工房が高い計算能力を持つ人間を探しているとの噂を聞いて、技師がイムイブラにセネルケフの事を話したのである。


 そして技師から聞かされたセネルケフの『数』に対する論理的な態度。そこにイムイブラは直感めいた興味を惹かれたのだ。結果、イムイブラが王に直接進言して、セネルケフに対する王都出頭の命令書を取り付けるまでに至ったのである。


 そして今、彼はその能力をいかんなく発揮して、世紀の一大事業に取り組んでいる。


 ふと黙り込んだ彼女が、しばし思案してからおずおずと切り出す。その頬は少し赤らんでいるように見える。


「あの、セネルケフさん……」

「ん、なんだい?」

「時々、こちらにお伺いしてもよろしいでしょうか。兄には、仕事の邪魔さえしなければ良いと許されておりますので」


 胸が弾む、とはこういうことを言うのだろう。声がひっくり返りそうになりながら、セネルケフはうなずく。


「あ、ああ。もちろん、構わないよ」

「その、セネルケフさんのお話がとても楽しいので……」


 彼女がパンの入った籠をぎゅっと胸の前で抱きかかえる。どぎまぎと顔を赤らめた二人は、そのまま続く言葉を見つけられず、別の技師が出勤してくるまでずっとそうして向かい合っていた。





 セネルケフが王都で暮らし始めて三年が過ぎた。


 この日、イムイブラの工房は特別に休日となり、職人や技師たちが一堂に集まっている。


 中庭に作られた木のベンチに、セネルケフとイムイブラの妹が並んで座っている。周りを囲む大勢の者たちは皆一堂に、好き勝手に囃し立てている。


 二人が婚姻に至るまでの過程は比較的スムーズだった。家長であったイムイブラの父親が早くに亡くなり、実質的にイムイブラが家の諸事を決定していたのだ。

 一般的な形式に則って取り行われた婚姻の儀式は、参加者が声を揃えて杯を差し上げることで幕を閉じる。


 庶民には高級品である薄布をベールとして頭に被せた花嫁は、式の間中ずっとはにかむような笑みを浮かべていた。


 なし崩し的に始まった立食パーティーの中、セネルケフはあちらこちらへと引っ張り回された後、木陰で一息ついていた。

 イムイブラが参加者たちの間で大声で喜びを表している。それを遠くから眺めていたセネルケフは、ふといつの間にか自分の隣に立った人物に気付く。

 その少年の顔を見た途端、セネルケフは彼と別れた時に抱いた自分の予感が正しかったことを確認した。「ほら見ろ、やっぱりまた会えたじゃないか」と。


 キュウタがこざっぱりとした身なりの衣服で、軽く頭を下げる。


「ご無沙汰してます、セネルケフさん」


 胸の内を暖かな物が流れていく。セネルケフは潤みそうになる瞳を笑顔で押し隠した。


「やあ、久しぶり。良く来てくれたね」

「数日ほど王都に寄る用事がありまして。運が良かったです」

「そうかい。そりゃ本当にツイてる」


 思わずキュウタの手を取るセネルケフ。

 少年の後ろに立っていたサザレも丁寧に頭を下げて挨拶をした。


「おめでとうございます、セネルケフ様」

「ははっ、ありがとう」


 照れくさそうに返すセネルケフが、キュウタとサザレをしげしげと眺めて感心した口調になる。


「ふーむ。それにしても、君たちは相変わらず若いね。全然変わってないように見えるよ」

「よく言われます」


 肩をすくめたキュウタが、作業場の開かれた扉の奥に視線を向ける。そこでは王墓の大きな木製模型が、薄暗い室内で圧倒的な存在感を放っていた。


「順調のようですね」

「ああ。最終測量も終わって、基礎工事はもう始まってる」


 実を言えば今日のセネルケフの婚姻の儀式も、工事の願掛けと景気付けを兼ねたような物だった。祭り好きなイムイブラらしい采配であろう。

 ぽつりとつぶやいたキュウタの声が、青い空へと吸い込まれていく。


「これからが長いんでしょうね」

「うん。十五、六年ってとこかな。長いね……本当に長い」


 その数字を聞いて、キュウタとサザレが交わした目配せの意味をセネルケフが知ることは無い。





 季節が幾度も巡り、王都からやや離れた広々とした台地に無数の石材や労働者が入れ替わり立ち代り流れこむ。


 現実に工事が始まってしまえば、セネルケフたちの仕事は一気に減少する。

 王墓の設計事業に一区切りついたイムイブラの工房は、王都のあちこちから舞い込む雑多な依頼へと仕事の力点を移していくのだ。


 今では王墓に関する作業と言えば、工事現場へと赴き進行具合を眺めたり、そこで生じる諸問題に合わせて細かな部分の設計修正を行う程度のものである。

 セネルケフは、ペンを走らせる手をふと止め、物思いにふけることが増えた。

 

(目に見えない何かに急かされるような日々だった。だが、この心に引っかかる物は何なのだろう?)


 いつしか、とらえどころのない無力感が、セネルケフの胸の底によどみ始めていた。

 それでも時間は過ぎていく。


 セネルケフと妻の間に生まれた子供は、王墓がその威容を天へと伸ばす様子と競い合うように成長していく。

 その姿もセネルケフの無力感を完全に埋めることは出来ていない。


 ある日、セネルケフは作業場の隅に隠れていた私物の『石板』を見つけ出した。王都に来る旅の途中で暴漢に襲われた時、盾代わりにしようとした懐かしい代物だ。セネルケフの唇に思わず笑みが浮かぶ。

 ホコリをかぶったそれの表面には、自分が何度もチョークで書いては消した数字や文字の痕跡。まるで陽炎のように残っているそれは、セネルケフの記憶をゆっくりと呼び覚ましていく。


(そうだ、私は『数』が好きだった)


 彼はそう思い出す。

 若いころのようには体も言うことを聞かなくなり始めている。だが、心の中を探ってみればまだ確かにその熱意は残っている。まだやりたい事はあったのだ。


 そしてセネルケフは仕事の合間を縫うように、『数』に対する考察を再び始めた。王都に来る前のまだ何も知らなかった頃の自分では、思いもよらなかったであろう論理の数々。それが頭のどこかからどんどん浮かび上がってくる。


 イムイブラの工房で学び、励んだ時間は確かに自分のかてになっていたのだ。仕事に没頭し、数にも没頭する。彼の人生は今まさに充実の絶頂にあった。





「やりましたね、セネルケフさん」


 二年前に工房に入った若手技師が、丘の上で興奮気味な声を上げる。


「ああ」


 感慨に浸る心に釣られるように、目尻や口元に刻まれた皺がきゅっと深くなる。

 セネルケフは地平線の少し手前に屹立する、巨石を積み上げた四角錐の王墓を見つめる。

 表面はきらびやかな金属板で平滑な面に仕上げられている。日輪の輝きを鏡のように映し出すその姿は、まるで地上に産み落とされたもう一つの太陽にも思えた。


 そう、遂に王墓は完成したのだ。


 十年前に死亡したラメス王の遺体はミイラ処理されている。遺体は現在王宮内の仮墓所に納められ、王墓の完成を待っていた。

 ラメス王の後を継いだ新王は父の路線を誠実に引き継ぎ、善政をなしている。

 王国は今後も盤石な繁栄を続けるだろう。

 

 イムイブラも数年前に流行り病で死亡している。

 今ではセネルケフが工房の実質的な責任者である。


 王墓完成と共に、ラメス王の遺体を王墓内に納める儀式の詳細が、神官を中心にまとめられていく。

 そして膨大な儀式手順を記した書物の一節には、こう刻まれている。


 それは、イムイブラ工房の中から一人の人間を選び、『殉葬者』として生きたまま王墓に捧げるようにとの指示書であった。


 セネルケフは、その役にあたるのが自分自身であると十分理解し、栄誉にさえ思っていた。




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