第八章 暗紅老仙 (4)
おだやかな初夏の青空が水面に映り込んでいた。
潮の香りとは違う、淀んだ淡水特有の匂い。
水中から突き出ている一本の杭の頭には一羽のイソシギが止まり、羽繕いをしながら時折あたりをきょろきょろと見廻している。
陸へと視線を向ければ、長短さまざまな無数の船着場が、まるで使い古した櫛の歯のようにびっしりと岸辺を埋め尽くしていた。
半分以上の船着場には大きさや用途も多種多様な船々が繋がれ、多くの人夫が賑やかに荷揚げや荷降ろしに精を出している。
ここはリャオ王朝の都の東、『内港』と呼ばれる巨大な場所だ。
大陸東域を流れる大河の一つから都へと通じる運河の終端でもあり、都と外部との物流拠点を担う役目を持っている。
船着場の一つに係留されている中型の木造船の上では、着物の上半身をはだけた数人の人夫たちがせわしない様子で出航準備をしていた。
船の中には、箱詰めされたさまざまなリャオの特産品が満載されている。
大槻キュウタは船の前で一人の男に手紙を渡した。フィロマ市出身の商人でもあるその壮年男性が、ぼさぼさの金髪をかきながら怪訝そうな顔で手紙を受け取る。
「うーん、本当に俺らだけでフィロマに帰っちまっていいんだな? 下手すりゃ次の船があるかどうかさえ分からねえんだぞ?」
キュウタが笑顔でうなずく。
「ええ。手紙を本船の船長に渡してもらえれば、それで構いません」
この運河から出た先の大河が海につながる位置。そこにある港町に待機しているフィロマ教会所有の大型船が、フィロマ帝国からリャオまでキュウタたちを運んできた『本船』だった。
商人が肩をすくめて、肩にかけた茶革の鞄に手紙を放り込んで言う。
「ま、俺は別に構いやしないけどさ。用事は済んでるしな」
この商人は、キュウタたちがフィロマからリャオへ献上品を運ぶ船に相乗りする形で同行してきた男だ。
商人の目的は純粋に利益目当ての交易である。
キュウタたちの荷である献上品とは別に、この商人はフィロマから持ち込んだ物品をリャオの市場で高く売りさばいた。そして今度はリャオで仕入れた特産品を本船に積み替え、聖地フィロマへと海路で帰還する手筈になっているのだ。
キュウタとサザレも、もともとその船でフィロマへと戻る予定だったが、それは取りやめである。というわけで、キュウタはフィロマ市の教会本部への言伝を兼ねた手紙をこの商人に預けることにしたのだ。
しばらくの世間話の後、商人が乗り込んだ船は帆を上げ、のんびりとした調子で運河の奥へと消えていった。
さて、と大きく伸びをしたキュウタが道具袋を持ち上げる。白い外套の襟元をゆるめながら船着場の外へと歩き出すと、彼の後ろにいたサザレが上目遣いで言葉を投げてきた。
「キュウタは、『仙人』が本当にいると思いますか?」
肩越しにサザレへ思慮深げな表情を振り向かせ、一瞬立ち止まりかけたキュウタ。だが、すぐに正面へと視線を戻し、歩調も元の速さになった。
自分のすぐ後ろをついてくるサザレの足音に応じるようにキュウタが言う。
「なんとも言えないな」
キュウタは、仙人探索の事前準備の名目で皇城内の書庫を片っ端から読み漁った数日間の記憶を振り返りながら言葉を続ける。
「ただ、『仙人』や『仙術』が実在したとしても、僕らの使う『魔法技術』と直接的な関係は薄いように思えるんだ」
「……何か根拠が?」
サザレが首を傾げた途端、キュウタが立ち止まって彼女へまっすぐ振り向いた。彼は人差し指ですっとサザレの胸元を指した。
「君だよ」
狐につままれたような顔で、ますます首を傾けるサザレに、キュウタが優しげな視線を向ける。
「仙人や仙術が、魔法技術に深く関わる存在なら、サザレの『未来視』が捉えていてもいいはずなんだ」
キュウタが何を言わんとしているかを理解し始めたサザレが、考えこみながらゆっくりと歩きだす。その隣ではキュウタが彼女の歩みに合わせている。
魔法の発展という未来へ焦点を合わせて発動させた原初魔法『未来視』である。ならば、仙人や仙術がその未来に影響を及ぼすならば、『未来視』が見せる歴史の途上にもやはりそれらが出現して然るべきだろう、とキュウタは言いたいのだ。
船着場で荷降ろしされた木材や食料品を載せた荷車が五、六台ほど二人のそばを行き来したころ、サザレがぽつりと口を開く。
「キュウタ。自分で言うのも何ですが、私の『未来視』を過信するのは問題があるかもしれません。私自身、この原初魔法がもたらす情報に戸惑うときがあるので」
整った眉を可愛らしくハの字にして面映ゆい顔になるサザレ。
キュウタがからかうような笑い顔で彼女をのぞきこむ。
「僕は二十万年近く君を見て、君のことを考えてきた。これはそれなりの自信があっての言葉なんだけどな」
頬をほんのりと赤らめたサザレが何事かを言おうとしたが、やがてあきらめたようにため息だけをこぼした。
照れ隠しというわけでは無かったが、彼女の声音には不審感が残っている。
「だとすれば、なおのことです。いるかどうか分からないモノのために、帝国へ帰る日取りを年単位で遅らせる理由は何ですか?」
サザレに向けていたキュウタの笑顔に、わずかな陰がさしたように思えた。彼はうっすらとした笑みを唇に浮かべたまま正面に向き直った。
「一つ、気になることがある」
視線を空へと向け、キュウタはゆっくりと言葉を続ける。
「『魔法学』が誕生してから五百年、僕らはこの土地にも魔法の知識を色々と伝えてきた。その間、ここでは何度か王朝が交代してる。だけど、どの時代でも、体系化された知識としての魔法学が、広まったり研究されたりする気配がない」
それはこの地域をキュウタが訪れるたびに心に引っかかってきた違和感だ。過去、『魔法諸原理』を初めとした西方諸国の多くの書物を翻訳してこの地域に持ち込んだりしてきた。
たしかに、この地で積極的に魔法学を売り込んだりしなかったのは事実である。だがキュウタの経験上、世界各地の国々ではさしたる後押しの必要もなく魔法学が大なり小なり自然に根付いていていた。だからここでも同じように魔法学が受け入れられるはずだ、という希望的観測があったのだ。
だが、リャオの地では魔法学が奇妙なほどに普及していない。
何かがおかしい。
もちろん偶然の積み重ねが作り出す信じがたい出来事は現実にありえる。それはキュウタ自身が歴史の中で何度も体験してきた。だが、これは偶然とは違う何かを感じるのだ。キュウタの二十万年近い経験に裏打ちされた感覚が、何かを訴えているのだ。
キュウタは懐から一枚の紙を取り出してサザレに差し出した。筆書きされた几帳面な文字の並びを見て、彼女が目をぱちくりさせる。
「本の題名ですか? どれも西方諸国で書かれたものですよね」
キュウタがうなずく。
「うん。『皇城の書庫』に収められてたのを、題名だけ片っ端から写してきた」
よく役人に咎められなかったものだとサザレは内心思いながら、記された題名の羅列に目を通していく。
「えーと、数学に薬学、暦学……あ、これは覚えてます。私たちが翻訳した本もありますね。百五十年くらい前でしたっけ」
やがてサザレの口から「ん?」という、つぶやきがこぼれた。改めてまじまじと紙を見つめた彼女がキュウタに言う。
「キュウタ、これは……」
「うん」
視線を落としたキュウタが自分の足元を見つめながら続ける。
「魔法に関する本『だけ』が無いんだ」
二人の間に沈黙が流れる。
周囲に満ちる船着場の喧騒が一瞬、どこか無味乾燥なものへと変わったような錯覚が生じた。
目の前をはしゃぎながら横切った数人の子供たち。それをきっかけにサザレが口を開く。声はわずかに潜められている。
「この土地に限らず、古来から為政者や王朝が交代するたびに、過去の記録が破棄される傾向は少なからずありました。これもその類では?」
「かもしれない。でも、違和感がある。だから、確かめておきたいんだ」
「確かめる……?」
そして申し訳なさそうに肩をすくめてキュウタが言う。
「ツィウ丞相や司祭には悪いけど、僕にとって仙人探索は二の次だ」
無数の人や荷が行き交う船着場を横目にしながらキュウタが続ける。
「大量の人間の生活を支えられるこの土地の豊かさは利用できる。リャオの人々が魔法学を積極的に研究するようになれば、人類の未来にも有益なはずだ」
「じゃあ……」
彼の意図が分かりかけてきたサザレに、キュウタが少しだけ重みのある声でうなずく。
「少しリャオのあちこちを回ってみようと思う。なぜ魔法学がこの地で広まらないのか。それが偶然なのか、何かの理由があってのことなのか。それを見きわめておきたい」
彼の言葉が匂わせたものに、サザレが懐疑的な顔になる。
「……『何か』がリャオでの魔法学の発展を阻害していると?」
キュウタがあごに手を当てて少しだけ考えこむ。
「どうかな……とにかく、先入観を持つのは止めておこう。ただ、『最悪の場合』を想定しておく必要はある」
そう言って視線を前に向けるキュウタ。彼の歩調にわずかな力強さが加えられたように見えた。
サザレは少し先行したキュウタの背に首を傾げる。
少年が不意に口にした『最悪の場合』という言葉の意味をつかめずにいたのだ。そんなサザレの戸惑いを感じたのか、キュウタが言い添える。
「人類の魔法の発達を阻むことで利益を得る者とは。その問に対して、僕がまっさきに思いつく答えがあるんだよ」
サザレは、キュウタの考えを悟った。
『魔族』。
未来において出現する、人類の天敵。対抗するには、人が持つ『魔法』技術の高度な発達が不可欠である強大な存在。
それこそが、キュウタの言う『最悪の場合』が意味するものなのだ。
サザレが足を止めてわずかに表情を引き締める。
魔族の出現時期やその詳細な過程について、『未来視』は未だに明確な光景を与えてくれていない。
未来視が見せる不完全な情報やいくつかの仮定。そこから導き出せるのは、魔族の出現まであと五百年ほどの猶予があるはずだ、という予想くらいだ。
だがもし、未来視が間違いであったとしたら。
もし今、魔族がこの世界に出現し、人類に襲いかかってきたならば。
この数百年で魔法学は目覚ましい発展を遂げている。だが、かりに今の人類が総力を上げたとしても、キュウタが体験し、サザレに語った魔族の強さがその言葉通りのものであるのなら、人類が魔族に勝利することは奇跡でもない限り不可能だろう。
サザレは先を歩くキュウタの背中にあきらかな『感情』を見て取った。
いつも物静かで優しい少年が無言で放つ、禍々しい『殺意』。
少年がそんな感情をむき出しにするのを、サザレは二十万年近く共に生きてきた時間のなかで初めて見たような気がした。
サザレが見つめるキュウタの後ろ姿には、恐怖や焦燥は微塵もない。
むしろ、待ち焦がれたものにようやく巡り会えたがごとき歓喜すら透けてみえる、狂気じみた『殺意』がそこにあったのだ。
サザレが見てきたキュウタはいつでも穏やかで思慮深く、やわらかな風のような存在だった。
だが、この少年もまた、まぎれもない『戦士』なのだと、いまサザレは強く理解した。
すう、と息を小さく吸いこみ、サザレはキュウタのあとに続いて歩き始める。
少女の唇がやわらかくほころんだ。
時間は止まらない。
一歩進むごとに、未来は確実に近づいてくる。
それがたとえどんな未来だろうと、自分はこの少年の背中についていくと決めたのだ。
生も死も共に分かち合うことを選んだのだ。
その選択に喜びと誇りを感じながら、サザレは足並みをキュウタに合わせていった。




