第八章 暗紅老仙 (2)
この惑星における最大の大陸、その東域には古くから広大な文明圏が存在する。
はるかな太古から、この地域を流れる二つの大河。
その流域に集まった人々が築いた集落群は、菌糸のように有機的な離合集散を繰り返して、各地に独自色のある文化を生み出した。
豊かな土地の恵みを受けた人々は数を増やし、時代とともに大河の流域の大半が人の居住域で占められていく。その頃には土地ごとに分かれていた文化圏は徐々に統一され、ある程度の大きさを越えたものは小さいながらも『国』としてのシステムへと遷移していった。
そしてあちこちで同時発生的に形成されたそれらの国々も、互いが互いを呑み込むべく覇を競い合う歴史を紡いできたのだ。
結局のところ『国』という存在も、人間という生物の集合である以上、食うか食われるかという本能に支配されているのかもしれない。
とにもかくにも、数千年を通じてこの地域は、数多くの権力者が幾度も王朝を建て国を造っては滅んでいく、という歴史を繰り返している。
そして今は、『リャオ』という名の王朝がこの地域を支配していた。
リャオ王朝の『都』である都市は、リャオが成立する以前から多くの人が集う場所である。
三百年ほど前に、とある土地に造られたこの都。その歴史は王朝が何度も交代する道のりと共にあったと言っていいだろう。
街道や河川を利用した交通の利便性、各地の勢力や民族の支配力が拮抗する地理的位置もあいまって、この都市はほぼ常にそれぞれの王朝の都、あるいはそれに準ずる重要な地位を占めていたのだ。
◇
午後の晴れわたる空、初夏の陽射しが『都』に降りそそいでいる。
その『街路』は、見通しの良い造りをしていた。
道の右手側は、人の背丈より頭ふたつほど高い土塀が長々と続いていた。塀の上面は赤茶けた小さな瓦が整然と葺かれている。薄くくすんだ茶色の壁面には、乾燥と経年による細いヒビがところどころに生まれており、粗い網の目模様を描いていた。
左手を見れば、そこは均一な緑に濁った水が静かに淀む、まっすぐでそれなりの幅と深さのある堀。それが土塀と並行するように伸びている。
道と堀の縁をさえぎる柵などは無く、一見どこか危なっかしい印象を思わせる。だが、牛馬が余裕を持ってすれ違える広い道幅は、地元の慣れた人間にとって特に不便を感じることも無いらしい。
乾いた風がやけに肌にかさつく。平石で舗装された道の上に積もったごく薄い砂の層が、靴底を通して独特な感触を生み出していた。
白い外套を身につけた大槻キュウタは歩きながら、堀の向こう岸を何気なしに見やった。
そこには、街路沿いの土塀などよりも十数倍の高さを持つ石組みの『城壁』が屹立し、意識して首を傾けなければ頂を視界に収めることすらできない。
城壁は、正確な寸法に成型された石がわずかの歪みもなく組積されている。採石場所の違いなのだろうか、茶褐色や灰白色をはじめとしたさまざまな種類の石が混在する城壁は、ちぐはぐなモザイク状のパターンが散見され、偶然の美とでも表現できる視覚効果を持っていた。
キュウタはふむ、と小さく息をついて足取りをゆるめた。
城壁を越えた向こう側、その遙か奥に、巨大な建造物の屋根らしきシルエットがわずかに頭を覗かせている。
長大な屋根を覆っているのは、あざやかな朱色に塗られた無数の瓦だ。それらに照り返された昼下がりの陽射しが、澄んだ青空を背景として、見る者の魂へ強く迫るような威光を放っている。
これはまさに『権勢』が形を取ったものなのだ。
『皇城』は文字通り、皇帝の居城である。
正確に言えば、城壁で囲まれた敷地内にある数多くの施設の総称である。だが、大抵の文脈において『皇城』とは、その中央に鎮座する城内最大の建造物、すなわち『本殿』を指している。
それは城壁に囲まれた広大な敷地のほぼ中央部に築かれた、石積みの段状土台で底上げされた位置にある。
城外を歩くキュウタの目算では、少なくとも五、六十メートルの全幅はあった。この時代の建築の基準からすれば、控えめに言っても並外れた大きさだ。
悠久の年月のなか、世界のあちこちを巡り歩いてきたキュウタ。彼の目から見ても、この皇城が人類史における偉大な財産であることは疑いようのない事実である。
だがキュウタの心には、この光景に対する感動や畏敬といった想いよりも先に、正体のはっきりしない、ぼんやりとした『疑念』があったのだ。
端的に言えば、この地に住む人々の、『魔法』という存在に対する『無関心さ』がその原因である。
キュウタが自身に課した絶対の責務である、来るべき『魔族』との戦争に備えるための歴史改変プロジェクト。
それを実現する一環として、彼は遙かな過去から、世界のあちらこちらで学問としての『魔法』普及を推し進めるべく活動してきた。
当然、この地においてもそれは例外ではない。
大陸東域の現在の統治者であるリャオ王朝。それが成立するよりもずっと昔から、キュウタは『魔法学』の知識をことあるごとにこの地へ持ち込んできた。
その活動は決して誰かに何かを強いるものではなく、あくまでも人々の自主性を重んじる種類の介入であった。
善人面をするつもりはない。だが、知の探究というものは、他者から無理強いされるよりも、みずからが能動的に求め歩んだ先にこそ、真に価値ある業績が生まれる。
それがキュウタの信念にも近しい思いだった。
だが、とキュウタは自分の記憶を振り返る。
この国における『魔法学』。それはお世辞にも盛んな広がりとは言えない。
じつに不自然なほどの、奇妙な傾向だった。
そもそも、ここに住む人々が文化や学問に向ける情熱は、フィロマ帝国などの西方諸国にもまったく引けをとっていない。いくつかの分野ではおそらく現在の世界最先端を誇るほどだろう。
にも関わらず、『魔法』に対してだけは、驚くほどの関心の薄さだったのだ。
当然のことながら、この地でも『原初魔法』の持ち主は他国と同様に生まれている。だがこの土地の人々にとって『魔法』という存在は、どこまでいっても単なる風変わりな特技の一種という認識でしかなかった。ましてそれを学究の対象とする動きなど、立ち上がる気配すら感じられない。
この国で『魔法学』の概念を多少なりとも理解している人物など、キュウタが知るかぎりでは一握りの酔狂な趣味人だけである。『魔法』がまっとうな学問として成立するなど夢のまた夢とさえ思えるのだ。
いつの間にか、キュウタは足を止めていた。
そこは堀に架けられた小さな木橋のちょうど袂の場所だ。茶色の光沢ある材質で組まれた欄干に、彼の手が無意識に乗せられる。目を落とせば、緑がかった水面を通して、小さな魚の黒い影が数匹ひらひらとうごめいているのが見えた。
もういちど城壁を見上げ、その先にたたずむ皇城の朱にきらめく屋根に視線を向ける。
決してこの地を軽んじているつもりは無い。
だが、自分の狭く凡庸な主観から生まれる思考や判断が、どれほどの公平性や正確さを持っているのか、自信をもって断言できるわけでもない。
魔法学の発祥の地であるフィロマ帝国。
そしてそれをはじめとする西方諸国における魔法学の発展のほうを、知らず知らず優先させてはいなかっただろうか、と自問する。
何かもっと上手いやりかたがあったのではないだろうか、と。
だが、きっと答は出ない。
歴史改変を目論む自分が言うのも妙な話だが、歴史に『もし』は無い。
いくつもの選択と、それに連なるいくつもの結果。あちらを押せばこちらが引っこむ。
そんなふうに全てのできごとが、複雑で精妙な関連性によって相互に影響しあう不可逆で巨大な流れ。それがキュウタが見てきた歴史の形だった。
あの時ああしておけばと、どれだけ悔やんでも、歴史の流れの上に同じ場面は二度と起こりえない。
キュウタはかつて魔族との戦いのなか、アスファルトとコンクリートの廃墟の片隅でみじめに死ぬのを待つだけだった。その自分がやり直すチャンスを一度だけでも得られたのは、本当の奇跡なのだ。
「はいはい、邪魔邪魔! どいたどいた!」
突然、キュウタの背後から、数人の騒がしい声と木の車輪が地面をけたたましく叩く音が生まれる。
沈思から引き戻されたキュウタが振り向く。四、五人の人夫が彼のすぐ脇を、野菜やら瓶やらの雑多な荷が山積みにされた荷車を引きながら駆け抜けていった。
目をぱちくりさせてそれを見送ったキュウタの唇がやわらかく微笑む。
時間は止まってくれない。やれることをやるしかないのだ。
両手を頭上で組み、ぐっと伸びをしてから、再び彼は歩き出した。
ほんの少し、気は楽になり、足取りも心なしか軽くなったかもしれない。
しばらく進むと皇城の城壁の西側に広がる地区へと辿りついた。
ここは商業地区からは少し距離を置いた、下級官僚や中堅どころの商人の居宅が集中する場所である。
どの建物も、土塀で区切られたそこそこの広さの敷地の中に木材を主材料として築かれている。
やや急な勾配で構成された屋根は、軒先にいくにつれて反り返るような鋭いカーブがある。それがこの地の家屋の設計におおむね共通する特徴でもあった。
屋根の四隅や、軒先の各所に葺かれた瓦には、ワンポイント的に様々な動植物をあしらった装飾がなされており、それぞれの家主の独自色を現しているようだ。
キュウタはいくつかの角と裏道を抜けて、目的の家の戸を軽く叩いた。
「先生、いますか? キュウタです。入りますよ」
家の奥からバタバタと慌ただしい足音が響き、キュウタが手をかけていた引き戸が乱暴に中から開けられる。
「おお! 待っとったぞ、キュウタ! き、来たのか!? 例の物がっ!?」
顔を出したのは四十歳を少し越えたあたりの小太りの男だ。面長な頭の真ん中で大きなかぎ鼻が自己主張している。男は唇の周りにちょろちょろとした髭をたくわえていた。だが、もともと薄毛の体質なのだろうか、髭の間から地肌が透けて見えるさまは妙に貧乏くさい印象である。
厚手の生地にあしらわれた細かな刺繍や、長い袖と裾のある着物は、リャオ王朝の土地において中層階級や知識労働者が常用する服である。
だが男の薄い茶色の虹彩や、軽くウェーブした赤毛の頭髪は、彼が『西方諸国』の人間であることをはっきりと示していた。
『先生』と呼ばれた男がキュウタに噛みつかんばかりに詰め寄ってくる。キュウタは相手の体を両手で押しとどめて、微苦笑で応じてみせた。
「え、ええ。今朝、内港に船が。荷の監督にはサザレが付いています。そろそろ荷降ろしも終わっている頃でしょうかね」
そしてキュウタは肩掛けしていた道具袋から縦長の薄い木箱を手渡す。男がその蓋を開け、中に折りたたまれていた紙をばさりと広げ、記された文字にじっと目をこらした。
ちらりとのぞき込んだキュウタ。色々な品の内訳を書き込んだ目録が目に入る。
ほくほく顔で男が目録を箱にしまい、大事そうに胸の前で抱えた。
「よしよし。今から手配すれば明日には『皇城』へ搬入できるな」
キュウタが目を丸くする。
「明日ですか? そんなに急がなくてもいいんじゃ……?」
男が口を一文字に結んでキュウタをじろりと見た。
両手を広げて、今の自分の格好をキュウタに突きつける。
「あのな、十八年だぞ。十八年も地道にやってきたんだぞ。リャオの言葉を覚えて、リャオの服を着て、リャオの風習に従って、リャオの飯と酒を……ああ、そこはまあ悪くなかったな。いや、それはそれとしてだ」
男が、こほん、と咳払いをして厳かな表情へ一変する。
キュウタは久しぶりにこの男が『イリユヌス教』の『司祭』という立場にあることを思い出した。
司祭が目録の入った箱を見つめ、しみじみとした声になる。
「リャオの地におけるイリユヌス教の『布教』は、私の悲願だ。教会本部では快く思ってない連中もいるらしいが、そんなものは関係ない。神の前では西方諸国もリャオの人々もみな平等だ。世界の誰もが平等に、神の教えを知る権利があるはずなのだよ」
キュウタは司祭が重ねてきた努力を知っている。
リャオ王朝は成立以来、様々な理由により、外部からの『宗教』の流入に対して慎重な姿勢を取っていた。
そして司祭はその態度を軟化させるべく、リャオの文化に自分を溶けこませ、長年に渡り献身的な活動を続けてきた。イリユヌス教の慣習にこだわらず、リャオ王朝や人民に無理なく受け入れられるように、教義の本質を分かりやすく噛み砕いたりもしたらしい。
古来から伝わるイリユヌスの教義。その伝統と厳密さにこだわるフィロマ教会の聖職者から見れば、けしからんことこの上ない行為に映っても不思議ではないだろう。
そんな苦労の数々をもってしても、リャオ王朝に国内でのイリユヌス教の布教を認めさせることは未だにできていない。
とは言え、リャオ王朝に公的に受け入れられずとも、司祭が個人的にあちこちの人々に教義を伝えることは黙認されている。
それだけでも破格の待遇なのだ、と彼はだいぶ前にキュウタに肩をすくめてみせたものだ。
そして司祭はリャオ王朝へのご機嫌取りの一環として今回、フィロマ帝国から珍しい品や学術書籍などを取り寄せ、リャオの皇帝へと正式に献上する運びへとこぎつけたのだった。
フィロマからはるばる海路で持ち込まれる献上品。その管理や護衛の任の一人として、各地の事情や言語に精通しているキュウタが、教会認定魔術士という立場で担当していたのだ。
司祭がキュウタに手招きして家の中に入る。
一つ部屋を抜けた先にある書斎らしき空間で、司祭はキュウタに椅子を勧めてから自分も腰をおろす。
司祭が格子窓のそばの書き物机に献上品の目録をそっと乗せた。そして彼は自分とキュウタの間に置かれた丸机の上で、陶器の茶碗に温んだ湯を注ぐ。
茶碗をキュウタの方へ押しやり、司祭がつぶやくように言う。
「一日でも早く、リャオにおけるイリユヌスの布教を認めてもらえば、それだけ救われる人も多くなろうさ」
キュウタはこの司祭とそれほど深い付き合いがあるわけではないが、その信念の強さには初めて会った頃から少なくない感銘を受けている。
茶碗の中身を一口飲んだキュウタが尋ねる。
「先生。献上品の搬入作業ですが。よろしければ僕も……」
そこまで言って、少し出しゃばりすぎたかと語尾を濁したキュウタに、司祭が穏やかな笑みでうなずく。
「ああ。お前も来てくれると助かる。現物を実際に確認している人間がいれば、役人どもに説明もしやすくなるでな」
◇
押し付けられたように低くたれ込める曇が、空をまんべんなく覆い隠している。
ここ数日の暑さの元凶であった初夏の陽射しも遮られ、いくぶんかの肌寒さすら感じさせていた。
キュウタはちらりと空を見上げてから、その視線を少し横にずらした。
そこには『皇城』の城壁がそそり立っている。先日、彼が見たそれと違う点があるとすれば、それが城壁の『内側』である、という部分だ。
皇城へと入る門は、城を囲む城壁の東西南北すべての方位に複数設けられている。
今日、リャオ王朝への献上品の搬入路として指定されたのは、普段は下働きの人間の出入りや、皇城内部で消費される雑多な物資の運び入れ、あるいは廃棄物などを城外へ搬出する際に使用される門だ。
要するにリャオ王朝にとって『イリユヌス教』は、その程度の扱いをされる存在、ということでもある。
なんとも言えない歯がゆさを胸にしていたキュウタの前に、次の荷車が石畳の上をがらがらと人夫に引かれて運ばれてくる。
門の内側のすぐ横には既に四台の荷車が並べられていた。その周りではリャオの役人が数名、あれやこれやと言葉を交わしながら中身を検分している。皇帝への直接の献上品、というのが周知されているためか、それなりに丁重な手つきであったのが救いだ。そうでなければ、品のいくつかはあっという間に彼らの懐の中に消えていただろう。
キュウタは小さく頭を左右に振って、最後の荷車の上にかけられている麻布をめくり上げ、大きな木箱に詰められた荷と手元の目録を照らし合わせた。
箱の中には西方諸国で出版された学術書をリャオの言葉に翻訳したものが、五十冊近く背表紙を上に向けて並べられている。
本の題名を順に確認していくキュウタから少し離れたところでは、司祭が愛想のよい笑顔を役人たちに振りまいている。ああいう地味な努力を見知らぬ土地で長年続けられるのもまた特別な才能なのだろう。
ならばこそ、いつか司祭の仕事はきっと上手く行くに違いない。そんな大して根拠のない予感が、キュウタの唇に微笑を浮かべさせる。
その瞬間、目録に書かれた項目を一つずつ追っていたキュウタの指がぴたりと止まった。
形容しがたい『感覚』。
それがキュウタの肌、いや、体の奥底までをも撫で上げていた。
わずかな緊張と動悸がかすかに体をこわばらせる。
キュウタは呼吸を整え、なにげないふりを保ったまま周囲を見渡す。異常は見当たらない。向こうでは司祭や役人たちも先ほどと変わらぬ様子で会話を交わしている。
気のせいだろうか。
だが、気のせい、というにはあまりにも生々しい感覚だ。
その時、司祭と役人たちのざわつきのトーンが変わり、キュウタの意識もそちらに引き寄せられた。
慌てふためきつつ足早に城内の奥へと進んだ役人たちが、皇城の本殿へつながる通廊の入り口の前に整列する。
朱塗りの柱と白い板壁からなる通廊。その暗い入り口に一人の男が立っていた。
年の頃は五十かそこらだろう。
居並ぶ役人たちよりも頭半分ほど上回る長身。それに見合う広い肩幅や骨太な体格は重厚感がある。
深い紺の着物は遠目に見てもその上質さが明白だ。黒々とした髪は額を出すように髷が結われ、着物と同じ紺色の筒に近い形状の冠をかぶっていた。
烏の羽のような黒髪と対照的に、その肌の病的に近い『白さ』が印象的だ。だが、彼のたたずまいからは、儚さや脆弱さの類はまったく感じ取れない。
がっしりした輪郭の顔の真ん中できりっと結ばれた唇が、しかめっ面の一歩手前な表情を作り上げている。
男はゆったりとした着物の両の袖口を合わせるように腕組みをして、背にぴんと芯を通したまっすぐな立ち姿で、周囲を注意深い眼差しで探っていた。
通廊の入り口の左右に並び頭を下げて微動だにしない役人たちの様子から、男が相当な地位の人間であることは一目瞭然だ。
いつの間にかキュウタの隣に戻っていた司祭がそっと耳打ちする。
「あれが『ツィウ・ハー』丞相閣下だ」
耳を疑うキュウタが司祭を見た。
「……『丞相』? そんな偉い人がこんなところに?」
小刻みにうなずきながら、司祭が言う。
「何ごとも、とにかく自分で確かめんと気がすまん性分らしい。多忙の隙を見ては、あちこちに顔を出してるそうだ。あれじゃあ役人どもも気が休まらんだろうな」
いい気味だ、と言わんばかりに唇の端に笑いを浮かべる司祭が付け加えた。
「かなりの『やり手』なのは確かだな。十年ほど前から頭角を現しはじめて、とんとん拍子で丞相にまで上り詰めたお人だ」
「へえ……」
司祭があごで献上品が積まれた荷車を差す。
「イリユヌス教の布教にもどちらかと言えば好意的でな。今回の皇帝陛下への献上のあれこれもそうだが、色々と口添えしてくださってる」
ツィウ丞相が腕組みをしたまま、鋭い視線を役人たちに注ぎ、言葉を向けている。かしこまって聞き入る役人たちはずいぶんと恐縮している様子である。この距離では内容までは分からないが、何ごとかの話し声は伝わってくる。
役人の一人が一言二言返した内容にうなずいてから、ツィウ丞相は隣に付き添っていた男に何かを告げた。
そして丞相はくるりと向きを変えると、通廊の奥へと足早に去っていった。
それを見送った役人たちが目に見えて安堵するのが分かる。ツィウ丞相は彼らにとって、かなりやりづらい上役なのだろう。
キュウタは唇を結んだまま、ツィウ丞相が消えていった通廊の暗い奥を見つめていた。先ほどの得体の知れない『感覚』の正体は未だにつかみ切れていない。
それでも、ただ一つだけ、気になることがあった。
キュウタは、ツィウ丞相が背を向けて歩み去る一瞬、その視線が自分に向けられたように思えてならなかったのだ。
◇
皇城の外へ、空になった荷車がぞろぞろと人夫たちによって牽かれていく。
司祭がリャオ王朝への献上品を納める作業は、一応のところ滞りなく終了した。
皇城の本殿から少し離れた、下級役人らが雑務を執り行う建物へと運び込まれた献上品の数々は、さらに何度かの検分を経てようやくリャオの皇帝の御前にお披露目されるのだ。
皇城から外へと通じる門は大きく開かれ、その向こうには『都』の街並みが広がり、がやがやとした賑やかな喧騒の気配が伝わってくる。
人の背丈を数倍する高さの門の真下で、キュウタと司祭は役人たちが皇城の奥へと戻っていく様子を見送っていた。
門の両脇に控えている衛兵はいずれもたくましい体格で、寸胴型の黒光りする鉄の鎧兜で全身を覆い、長々とした鉄槍を天へと向けて立てている。
衛兵らは先ほどから、さりげなくキュウタたちへと視線を送っていた。キュウタの白い外套姿も、司祭の赤い髪や彫りのある面立ちも、彼らから見ればそれなりに警戒すべき外来者に見えるのだろう。
やれやれと言った感で司祭がため息をつく。
「あとは献上品が皇帝陛下のお気に召すことを祈るだけだ」
キュウタは献上品が運ばれていった先を見ながらかるく口元をへの字にする。
「でも、あれだけの品を献上したところで、イリユヌス教の布教について何の確約があるわけでも無いんでしょう?」
「そりゃそうだ。布教の許可が金で買えるなら苦労は無い」
不服そうな顔のキュウタに、司祭がにやりとして続ける。
「ま、リャオの役人どものつれない態度は今に始まったことじゃない。何ごとも小さな積み重ねが大事だわな」
キュウタがふところにしまっていた、献上品の目録の控えを司祭に渡す。
「それにしたって、これだけやって収穫無しでは、さすがに割りに合わないんじゃ? 献上品のほとんどが先生の自腹だって聞きましたよ」
受け取った控えを袖の中にしまい、司祭が肩をすくめる。
「帝国の学問や言葉を、あちこちで教える仕事が割りと好評でな。そこそこ稼ぎはあるのだよ」
強い人だ、とキュウタは思った。
苦難や逆境にあってなお、自分の信念に背くことなく、ひたむきに歩を進める姿勢は、キュウタ自身が目指すものでもあるのだ。
司祭が長い袖を振ってキュウタを促す仕草は、リャオ生まれの人間と言われても全く違和感のない自然なものだった。
「ほれ、さっさと帰るぞ、キュウタ。今日は美味い飯屋に連れていってやろう」
気が抜けたように苦笑いしたキュウタが、司祭の後に続いて門の外へと出ようとした時。
「もし、そこの少年」
後ろから不意にかけられた声に、キュウタは振り返った。
一人の男がキュウタのすぐ背後に立っている。
皇城の中にいるということは彼もおそらく役人なのだろうが、上品な作りの着物は、先ほどの下級役人たちとは少々趣きが違って見えた。
そしてキュウタは、その男が先ほどツィウ・ハー丞相に付き添っていた者であることに気付いた。
首をひねりつつ、キュウタは相手に向き直る。
「はい……えっと、僕ですか?」
「いかにも。こちらについて参れ」
そう言って、男は皇城の本殿の向こうを片手で指した。
キュウタの都合や意思などまるで念頭に無い、いささか不躾な振る舞いであったが、不愉快さよりも先に疑問がキュウタの心に浮かんだ。
「あの……」
うかがうように相手の顔を見るキュウタに、男が説明するのも面倒そうな表情で言う。
「ツィウ丞相閣下が、貴様と話をしたいと仰られているのだ」




