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第八章 暗紅老仙 (1)


 ひんやりとした白い朝靄あさもやが立ち込めている。


 薄暗い『森』のなか、湿しめのある微風そよかぜがゆっくりとただよっていた。


 秋もなかば、枯れ葉の目立つ樹々。

 無秩序に伸びた幹と枝は粗雑な網目模様を織り上げ、地と空をわか天蓋てんがいのようでもあった。


 夜と朝の境界では鳥も獣も息を潜め、閑寂とした世界の演出に一役買っている。


 がさり、と落ち葉を踏みしめる音が響く。


 その『老人』は朝靄の向こうから、ゆったりとした足取りで現れた。


 身につけている着物きものは、お世辞にも綺麗とは言いがたい、薄汚れた白い布地でできている。

 ぞんざいに締められた黒い腰帯も、端のほうはカギ裂きが目立ち、彼が一歩進むたびにからかうような動きでひらひらとたなびいていた。


 ゆるんだふところから、老人特有のたるんだ肉と皮がのぞいている。

 全体的にどこかだらしない着こなしであった。だが、その風体ふうていから窮乏や滑稽さを感じる者はいないだろう。


 彼という存在から放たれる『威風』は、およそ常人がまとえる物とは一線を画していたのだ。


 確かめるように歩を進めていた老人の足がふと、ぴたりと止まる。


 白い眉は羽毛のように垂れ伸びて、まぶたを覆うほどの長さだ。その下に隠れた黒いまなこがじろりとあたりを見渡す。


 彼の足を止めさせたのは、とある『気配』であった。

 長年に渡って『修練』を積み重ねたこの老人が、その『気配』を読み違える可能性は万に一つも無い。


 皺だらけのだぶついた頬肉に挟まれた唇が、不機嫌そうな『への字』になった。


 つるりと禿げ上がった頭とは対照的に、彼のもみあげからあごまでを覆う白い豊かなひげ

 胸元にまで無造作に伸ばされたそれを片手で一撫ひとなでして、老人はその『気配』の方へと足を向けた。


 彼が履く黒い布靴は、底の薄いシンプルな造りだが、それゆえの頑丈さを持つ。


 一歩、また一歩。『気配』の源は確かに近づいている。


 やがて老人の足が一本の大樹の前で止まった。


 彼はその根元に目を落として、「ふむ」と息をもらした。


『少女』は地べたに座り込み、背中を大樹の幹のくぼみにもたれかけさせていた。


 体格からすればせいぜい五歳かそこらだろう。

 着物は老人以上にみすぼらしく、ぼろ布と呼んだほうがしっくり来るほどだ。


 力なく投げ出された手足は小枝のようにやせ細り、あちこち泥や埃がこびりついている。


 軽く項垂うなだれた少女の体は、死んでいるかのようにぴくりともしない。ほんのわずかに上下する薄い胸が、かろうじて息のあることを教えてくれている。


 老人はゆっくりと片膝をつき、少女の顔をのぞき込んだ。


 ろくに手入れもされていない、ぼさぼさの黒い髪に隠れた表情はやはり死人のように凍りついている。


 目はわずかに開かれているものの、焦点はどこにもあっていない。少女の黒い瞳は、正面で自分を見つめる老人の体の向こう側、地面のどこかをぼんやりと眺めているようだった。


「おい、娘」


 老人の短い呼びかけに一拍遅れて、少女の視線がようやく相手の存在を認識する。一度だけゆっくりとまばたいた黒い瞳が自分に向いたことを確認して、老人は再び問う。


「おい、娘。ここで何をしている?」


 ひゅう、と小さな唇から息が漏れる。少女は呼吸することさえ難儀なほどに衰弱しているようだ。

 消え入りそうなかすれ声が答える。


「みんな、いなくなった」


 その言葉でおおよその見当はついた。

 いくさか飢饉から逃れようとした流民といったところだろう。そして、そんな連中の道行きで脱落するのは、たいてい病人か子供だ。はぐれたか、あるいは故意に捨てられたか。


 老人が少女の身の上に心を動かされることは特に無かった。

 境遇としては珍しくもないし、そもそも彼はこの死にかけた少女に同情するため足を止めたのでは無い。


「お前、いま『力』を使っただろう? もう一度、やってみせろ」


 意識すらおぼろげな少女の心に老人の言葉の意味が届くまで、しばらくのがあった。


 少しの身じろぎも一苦労な様子だったが、少女はことさら拒むこともなく、何かを捧げ持つように両手を空に向けて伸ばす。


 そして『音』が生まれた。


 少女の小さな手と手の隙間。

 何もない虚空から、鈴をそっと振るような響きが奏でられる。

 

 しんとした朝の森のすみずみにまで、涼やかな音色がこだましていった。


 やがて再び静寂が森を満たす。


 その間、老人の視線はずっと少女を捉えていた。


 彼がていたのは少女の表面上の姿ではない。

 五感を超越した感覚を通じて、老人は少女の肉体の深奥しんおうに秘められた『本質』とでも呼ぶべきものをじっくりと検分していた。


 片膝をついていた老人がゆらりと立ち上がり、少女から一歩離れる。


「娘。このまま死にたくなければ、立ってワシに付いて来い」


 そして彼は、少女にくるりと背を向け、ゆっくりと歩き出した。

 独り言のようなつぶやきが、かろうじて少女の耳に届く。


「素質は悪くない。お前ならば、あるいは『タオ』へと辿り着けるかもしれん」


 淡々と言い残した老人が十歩ほど進んだとき、背後から物音がした。

 

 ひょいと振り向いた彼の目には、ふらつきながらも立って、確かに一歩を踏み出した少女のぼろぼろの姿が映っている。

 苦しげで、それでいて荒々しい息遣いが少女の口からこぼれる。

 

タオ』。

 少女はその意味を知らない。


 だが、その言葉は彼女の魂を揺さぶっていた。


 黒い瞳に宿る光。

 最前までの淀みきった色が嘘のようだ。


 戦意にも似た、純粋な生きる意志が、痩せこけた小さな体の全身から放たれていた。

 

 そこが今の少女の限界だったのだろう。ふらりと揺れた彼女の膝から力が抜ける。

 だが少女が倒れることは無かった。


 いつの間にか少女の目の前に歩み寄っていた老人が、彼女の小さな手を掴み、その体を支えていた。

 老人は、にこりともしないまま、一度だけ小さくうなずく。


 もうろうとする意識をどうにかたもたせながら相手を見上げた少女に、老人が名乗る。


「ワシの名は『ガン・ワン』。こう見えても『仙人』をやっておる。これからワシのことは『老師』と呼べ。お前の名は?」


 少女の乾ききった唇が小さく開き、答える。


「……『イェンルゥ』」


 その名は今の少女にとって、たった一つの持ち物だった。





 二ヶ月ほどの道のりをたころ。

 冬の寒さは盛りに差し掛かりつつあった。


 真っ白な雲に塗りつぶされた空。

 小さな雪のかけらがちらつきながら舞い降りている。


 イェンルゥは山間やまあい人気ひとけのない小道を歩きながら、空からひらひらと落ちてくる小さな雪の結晶のきらめきをぼんやりと眺めていた。

 ほうっ、と何気なしに吐いた息も綿のような白さになる寒さだ。


 少女は相変わらず粗末な着物一枚だけを身につけている。にも関わらず、この冷え込みをさして苦に感じていなかった。


 それは、ここまでの道中で折りにふれガン・ワンから指南された『力』の働かせ方が、イェンルゥの肉体に『変化』を及ぼし始めている証拠である。だが、彼女自身はそれを順序立てて理解するほどの語彙を、まだ持ちあわせていなかった。


 二組の足音が、冷えた土と枯れ葉を単調なリズムで踏みしめていく。


 イェンルゥは前を行くガン・ワンの背中に目を戻した。付いてくる少女の歩幅に合わせるかのような、ゆったりとした足運び。


 ガン・ワンは、イェンルゥを無闇に子供扱いすることが無かった。と同時に、度を越えた厳しさを見せることもやはり無かった。


 それは『優しさ』というよりは、曇り無き『理性』や深い『理解』のような、常人つねびとが持ちあわせがたい資質から生じたものなのだろう。


 もちろん、幼いイェンルゥには師の所作からそこまで読み取ることはできない。だが、ガン・ワンと共にすごす日々が心のり所になりつつある、というぼんやりとした感情だけは自覚していた。


 イェンルゥが口を開く。


「老師。これからどこにいくの?」


 両手を後ろで組み、正面を向いたままのガン・ワンが歩きながら答える。


「仙人の里だ。『仙術』を磨き伝えていく者らが住んでおる」

「せん……じゅつ?」


 目をしばたかせたイェンルゥ。

 ふと立ち止まったガン・ワンが少女のほうへ振り返る。そして値踏みするようにじっとイェンルゥの全身を上から下まで視線でなぞった。


「ふむ……そろそろ教えてもいい頃合いか」


 ガン・ワンが、あごで地面を差して言った。


「イェンルゥ。そこに座れ」


 言われた少女は素直に、道のまんなかで冷たい地べたにぺたりと正座する。

 向かい合うように同じく地であぐらをかいたガン・ワンが、かたわらに落ちていた小枝を拾い上げて、イェンルゥのひたいにひょいと向ける。


「『経絡けいらく』に『』をめぐらせろ」


 すう、と一息ついてからイェンルゥは目を閉じた。

 出会ってから二ヶ月、彼女はガン・ワンからこれだけを教わっている。そして修練を重ねるごとに、何かが変わりはじめている、というぼんやりとした感覚をも得ていた。


 ガン・ワンは幼い弟子の呑み込みの速さに満足しつつ、言葉を重ねた。


「ワシの経絡がえるか?」


 目を閉じたままイェンルゥは意識を集中させる。


 視覚や聴覚とも違う、精神のより深い層で機能する未知の知覚。それが少女の中でゆっくりと活性化する。


 瞬間、イェンルゥは脈動する『気』の気配を明瞭に感じ取った。

 そしてそれが『ガン・ワンである』ということも同時に悟る。


 こくりとうなずくイェンルゥ。

 ガン・ワンはそのまま何も言わず、相手を試すように自身の『気』をそっと制御していく。


 目を閉じたままのイェンルゥの眉がわずかにひそめられ、彼女は小さく首を傾げる。


「かわった……?」


 長い白ひげをひと撫でして、ガン・ワンがうなずいた。


「そうだ。いまワシは自分の『気』の流れを極限にまでった。こうして体内の気を意のままに操る。それが『仙術』の基本だ」


 まだ目を閉じているイェンルゥは、ガン・ワンの言葉にじっと聞き入っていた。

 この少女がどこまで理解しているのか怪しかった。だが、これから徐々に教えていけばいいだろう、とガン・ワンは心の中でつぶやく。


 その時、イェンルゥがすっと目を開けて、視線を道から外れた森の奥へと振る。


「なにか、いる」


 イェンルゥのつぶやきに、ガン・ワンの指がぴくりと震える。


 何かがいる、というのはガン・ワンも少し前から察知していた。

 だが、それは意思ある者が操る『気』ではなく、自然に遍在する『生命』そのものの気配を感じ取るという、極めて繊細で高度な技術があって初めてなし得る行為だった。


 人生の全てを仙術の修練に費やしても、その境地に届かぬ者がほとんどだというのに。


 ガン・ワンは己の血がわずかにふるえるのを感じた。

 この少女の才能を見出すことができたのは天恵かもしれない、と。


 高揚を押し隠すようにふところへ手を入れたガン・ワンが、イェンルゥの視線の先を見つめて言う。


「今日の晩飯はアレにするか」


 彼の声に込められた優しげな調子を、イェンルゥは初めて耳にしたように思った。


 二人の視線の先でかさり、と音がする。

 ぴょこっと褐色の小さな影が現れ、周囲をキョロキョロと見回した。


 その『野ウサギ』はイェンルゥの方をちらりと見てから、ぷいと背を向けて森の彼方へと跳ねるように駈け出した。


 と同時にイェンルゥは、ガン・ワンが懐から何かふだのような物を取り出したことに気付いた。厚手の紙でできたそれには、見慣れぬ文字や記号らしきものが幾何学的な配置で描かれている。


 札を持った手が、駆ける野ウサギの方へまっすぐに伸ばされる。

 イェンルゥが聞いたことのない奇妙な響きを持つ言葉。それがガン・ワンの口から流れだし、彼の体から『気』に似た力の気配が生まれる。


 風を切る音が一閃し、ガン・ワンから放たれた『力』が一直線に飛んでいくのをイェンルゥは感じた。

 そして鈍い音とともに、森の奥で野ウサギの体が不自然に宙へと跳ね上げられ、薄く雪が積もる地面へどさりと落ちる。

 ガン・ワンが立ち上がりながら言い添えた。


「『力の矢』だ」


 イェンルゥも釣られるように立ち上がり、ぴくりとも動かない野ウサギの体を見つめる。


「それも……『せんじゅつ』……?」


 札を懐に戻して、ガン・ワンが首を横に振る。


「いいや。これは『魔法』と呼ばれる技だ。遠い西の国から伝えられた物だな。仙術と相容あいいれぬ部分もあるが、道具としてはなかなか便利だぞ」


 そして彼は別の札を取り出してイェンルゥに差し出した。


「こっちは『火』を起こす魔法だ。使い方を教えるから、ワシがウサギをさばいているあいだにの用意をしておけ」


 ガン・ワンから『呪文』といくつかの注意事項を教えられるあいだ、イェンルゥの視線が野ウサギの死体かららされることは無かった。





 きらきらとした早春の陽光が、樹々の枝先についた若葉の緑をみずみずしく浮かび上がらせている。


 ごつごつとした岩場の目立つ、それなりに勾配のある坂道。そこを大小二つの人影が山の上方へと向けて進んでいる。

 道と言ってもめったに人が通らないのか、注意していなければすぐに見失いかねないほどのささやかな物だ。


 老人らしからぬ健脚と、それに遅れぬ足取りの少女。二人の距離は一定を保ったままだ。


 やがて尾根おねへと達した二人はそこで立ち止まり、眼下に広がる風景にじっくりと見入った。


 隔絶された谷間に隠れるように並ぶ、数十軒の家々。

 その向こう、農地らしき部分を縫うように設置された数本の用水路が太陽の光を反射している。畑の下準備か何かなのだろうか、男たちが牛や馬を御して作業をしている様子も見えた。


 ガン・ワンとイェンルゥは、一冬ひとふゆを費やしてここまで辿りついた。

 イェンルゥの背中にそっと手を当てて、ガン・ワンが言う。


「あそこが『里』だ。住む者はみな、仙術の資質を多かれ少なかれ備えている」


 里に向かって坂をくだり始めたガン・ワンの背中に、イェンルゥは戸惑うように問う。


「わたしも、あそこに住むの?」


 どことなく不安の混じる声音こわねに、ガン・ワンは安心させるように肩をすくめてみせた。


「住んでいるのは、お前のように他から流れてきた者ばかりだ。血のつながりこそ無いが、互いに支えあって生きている」


 ガン・ワンはひょいひょいと坂を下り、イェンルゥを伴って里へと通じる小道へと出た。

 用水路のほとりで野菜を洗っていた中年の女が、ガン・ワンの姿に気付いて顔をほころばせる。


「ありゃ、老師じゃないか。今度はずいぶんと長かったねえ」


 ガン・ワンが耳の後ろを指でかきながら唇の端を持ち上げる。


「ちと遠くまで足を伸ばしていたからな。皆に変わりは無いか?」

「まあね。のんびりやってるさ。『出稼ぎ』に行ってた連中もこないだ帰って来たよ」


 数瞬、考えこむような間をおいてガン・ワンがうなずいた。


「そうか。ならばいい」

「そろそろ、田畑でんばたの方が忙しくなるからね。ちょうどいい時期に人手が戻るのは、ほんと助かるよ」


 座り仕事でこわばった腰をさすりながら立ち上がった中年女。ガン・ワンの後ろに立つイェンルゥに気付いて、彼女が「あれ?」と声をもらす。


「老師、その娘は?」

「こいつはイェンルゥだ。今日から里で暮らす」

「おや、まあ。今夜は宴会だね」


 中年女は喜び半分、呆れ半分の口調で里の中を見て苦笑いしつつ付け加える。


「男どもは、酒飲む口実ができて大喜びするだろねえ」

「大目に見てやれ。他にロクな楽しみもない土地だしな」


 ガン・ワンの言葉に、からからと笑う中年女。


 その時、どん、とイェンルゥの体にぶつかる物があった。

 驚いて目を丸くした彼女が、衝撃の主を見る。


 三歳くらいの少年が、イェンルゥの胴に抱きついて見上げている。いかにも無垢な瞳は大きく開かれ、イェンルゥの反応をじっとうかがっているようにも思えた。

 たしなめるように中年女が声を上げる。


「あ、こらっ」


 ガン・ワンが長い眉の下で目を細める。


「気に入られたようだの」


 ほとんど無意識にイェンルゥの手が動き、少年の頭にそっと当てられる。

 くすぐったそうにする少年がはしゃぎ声で笑いはじめた。


 小道の先、里の方から数人の大人や子供が近づいてくる。ガン・ワンの姿を見つけて出迎えに来たのだろう。

 誰もがほがらかな様子で、ガン・ワンの帰りを喜んでいるのが遠目にもはっきりと分かる。


 イェンルゥは、ぎゅっとしがみついてくる少年から伝わってくる暖かさに、今まで経験したことのない感情を抱いていた。


 ガン・ワンはそんなイェンルゥを見つめて、やわらいだ声でさとすように言う。


「イェンルゥ。今日から彼らはみな、お前の『家族』だ。そしてこの里がお前の『家』だ」





 イェンルゥはゆっくりと目を開いた。


 形の良い唇から『気泡きほう』が二つ三つ生まれ、もつれ合い、ゆらゆらと震えながら『水面』へと浮かび上がっていく。


 前髪が水草のように揺れているのが視界に映った。


 ここは、水面に叩きつけられる『滝』の音が、どこか遠くの世界のできごとのように感じられるほどの水深である。


『水』が、イェンルゥの頭の上から足の先まで、全身をくまなく包んでいる。

 その圧力と、着物越しに伝わる冷たさは心を静かに落ち着かせてくれる。だが、同時に昔の記憶もごく自然に揺り起こしてくるようだ。

 

 滝壺たきつぼ近くの深くくぼんだ水底は、絶え間ない流れによって常に清潔で透明度の高い水質が維持されている。


 水底を覆うごろごろとした石々に触れるかどうか、という位置に浮かんだまま、水中でイェンルゥは結跏趺坐けっかふざの姿勢を維持していた。


 すらりと伸びた手足は、成人女性らしい起伏に富んだ肢体とよく調和している。

 いつもは背中でたばねている黒い長髪も、水のなかではほどかれ、風に吹かれる柳のごとく自由に揺れるに任せている。


 身の上のせいで自分の正確な年齢はあやふやだった。

 だが、そろそろ二十歳はたちかそれくらいなのだろう、とイェンルゥは成長した自身の体からそう推量していた。

 

 ふと上を見上げ、水面に反射する太陽のきらめきを注視する。


 そろそろ『昼』近い頃合いだろうか。

 きょう、こうして日課の修練を始めたのは『明け方』間もなくだった。


 それだけの時間、まったく『息継ぎもせず』に『水中での瞑想』を続けているにも関わらず、イェンルゥの体は何の苦痛も感じていない。


 人間のわくを超えている、という自覚は持っている。


 そして、「だから、何だと言うのだ」という感想も心を横切って行く。

 

 結跏趺坐の姿勢を解き、手足をだらりと伸ばして体を横たえる。ゆったりとした流れが、イェンルゥの体を押していく。

 こうして静かな水の中にいると、世界で自分ひとりになったような感覚に襲われる。

 

 まあ、それもあながち間違いではないが。と、皮肉めいた笑みが彼女の唇に浮かんだ。


 気持ちを切り替えるように全身で伸びをしてから、イェンルゥは自分の右腕に目を落とす。


 七分袖から伸びた腕、その白い肌に無数の『黒いまだら』が浮き出ている。


 それらの黒いまだらは、世間で目にする刺青いれずみ黒子ほくろの色彩とはまるで違う、言わば『闇』のような『真の黒』であった。


 イェンルゥはそれをつまらなそうに一瞥いちべつする。


 そして彼女は軽く川底を蹴ると、ヘビのように全身をしなやかにうねらせて水面へと浮き上がっていった。




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