第七章 詩の中の英雄 (10)
テーブルの表面は樹脂を主原料とした高級な塗料で丁寧に仕上げられ、深い赤褐色の光沢を放っている。
澄んだ水を注がれた陶製のカップが静かに置かれた。
白い地肌に青い釉薬で描かれた百合の意匠が印象的である。
ぶすっとした表情のバスフロワ・ヴィスロが、腕組みをしたまま椅子の背もたれにふんぞり返っている。その視線は目の前にあるカップに満たされた水のゆらめきを何ともなしに睨めつけていた。
バスフロワの向かいで、『刀傷の男』が自分のカップに口をつける。
ギュラン・ド・ボードロット男爵の屋敷、その奥にある窓の無いこの部屋の中には、彼ら二人だけがいた。
深まりゆく夜に付き従うような、世界の静けさ。
それは二人の男のあいだで張り詰める沈黙を包み込み、二重の静寂とでも表現できる奇妙な場を作り出している。
限りなく拉致に近い経緯でボードロットの屋敷に同行させられたバスフロワは、この部屋に通されてからというもの、じっと黙り込んだままである。十八番の憎まれ口も影を潜め、その寡黙さは不気味ささえ刀傷の男に感じさせるほどだ。
刀傷の男が何度目かの嘆息を小さくこぼす。
それは踏ん切りをつける心の準備をどうにか形にしようという努力の露呈にも見えた。
その様子にバスフロワの視線がちらりと惹かれる。
相手の意識が向いたのをそれなりの好機と見たのか、刀傷の男が渋々ながらといった趣きで言う。
「主からの伝言だ。『これ』を受け取れ」
どさり、と重たげな布袋がテーブルの上に置かれ、カップの中の水を軽く揺らす。
無造作にねじられただけの袋の口がゆるみ、中に詰め込まれた『紙束』が頭を出した。
重ねられた紙は大きさや日焼けの進み具合も様々で、横から見ると立体感のある斑模様を形作っている。
わずかに垣間見える、紙の表面に記された文面をバスフロワは一瞥した。
なるほど、そういうことか、と彼は内心でうなずく。
刀傷の男がテーブルの上で両手を組み合わせる。
「バスフロワ・ヴィスロ。お前が金や脅しで動く男ではない、ということはよく分かった。だから対等な立場で『取引』をしたい。それが主の判断だ」
ほんの少し口元をほころばせたバスフロワがようやく口を開いた。
「で? 何と何を交換するんだ?」
「この書簡の束をお前に渡す。これを読めばお前は『真実』に辿り着くだろうと、主は考えている」
「真実? お前、意味分かって言ってるのか?」
「いいや。俺がそれを知る必要はない。伝言を間違いなく伝えるのが俺の役目だ」
迷いの無い刀傷の男の答に、バスフロワはつまらなそうに目を伏せた。
追い打ちを掛けるように刀傷の男がきっぱりと言う。
「取引の内容は『真実』と『お前の詩』だ」
刀傷の男の言葉はバスフロワの予想通りのものだった。だが彼は相手の声を遮ることもせず、その言葉をじっと受け止め続けることを選んだ。それはあくまでも忠義に生きる男に対する敬意だったのかもしれない。
「バスフロワ・ヴィスロ。お前は『真実』を手に入れるがいい。その代わりに、『詩』を書くのを止めてもらう。この『真実』にはそれだけの価値があるはずだ、とも主は言った」
ふうむ、とバスフロワが声にならない吐息をつき、束ねられた書簡が詰まった袋へとさり気なく手を伸ばした。
だがそれに先んじて、刀傷の男のごつごつとした指が袋の口を静かに、それでいてがっしりと握りこんだ。
「お前がこれを読むことができるのは、取引が成立した後だ」
鋭く細められた刀傷の男の瞳がバスフロワを刺す。
片方の眉をおどけるようにひょいと上げたバスフロワが、からかい半分の声で尋ねる。
「取引が不成立の場合はどうなるんだ?」
「聞きたいか?」
音もなく抜き放たれた剣の切っ先が、バスフロワの眉間の数ミリ手前にぴたりと当てられる。
椅子に座ったまま片手で構えた刀身は微動だにせず、刀傷の男の技量の高さを容易に想像させるものだ。
「真実か、死か。どちらを選ぶもお前の自由だ。お前は真実を見抜く力がある、と主は言っていた。ならば、俺が本気かどうかも分かるはずだな」
バスフロワの視界の真ん中に突きつけられた刃の向こう、刀傷の男の表情に躊躇の兆しは無い。
「本音を言えば、今すぐお前の首を切り飛ばしたいところだ。我が主の寛大さに感謝しろ。そして取引を受け入れろ。それで全てが丸く収まるのだ」
バスフロワが唇の片側をにやっと持ち上げて言う。
「なあ、さっきから主、主って勿体ぶってるけどよ、別に隠さなくてもいいんだぜ。『ギュラン・ド・ボードロット男爵』さま、って立派なお名前があるだろう?」
ぴくりと、剣先が震える。
刀傷の男は唇を結び、声を険しくする。自分とボードロットの関係を悟られるような下手を打った記憶は無かった。
「……誰に聞いた」
「聞かなくても分かっちまうのさ。お前がたった今言ったじゃねえか。『真実を見抜く力』って」
刀傷の男の眼差しに強張りが混じり始める。剣の柄を握る指に力がこもり、ぎゅっと擦れる音が小さく響いた。
バスフロワは相手の瞳をじっと捉えたまま、優雅ささえ感じられる声音で続ける。
「というわけで物は相談だがよ。お前の主が御執心の『ディノン・カーヌ』。ガレルの英雄の『真実』を知りたくないか?」
そう言って、バスフロワは書簡の袋に再び手をかけた。
袋の口を頑なに押さえる刀傷の男の手にそっと触れる。相手の肌にかすかな汗がにじんでいるのをバスフロワは感じ取り、自分がこの場を支配しつつあることを確認した。
刀傷の男は自分を鼓舞するように剣を握り直して応じる。
「真実も何も、ディノン・カーヌのことなら子供でも知っている。彼女は『神の声』に導かれ、ガレル王国に正義と勝利をもたらした英雄だ」
「そんな話はしてねえよ。そもそも、お前。ディノン・カーヌが『神の声』とやらを聞いたって、本気で信じてんのか?」
眉をひそめたバスフロワの言葉の裏に潜んだ嘲笑めいた気配を、刀傷の男は敏感に察した。
「言葉に気をつけろ。ディノン・カーヌを侮辱することは、我が主を侮辱することと同じだ」
「あのな。ディノン・カーヌも、その右腕だったボードロット男爵さまも、お前さんが崇め奉ってるような大層なもんじゃねえのさ。その手を離して書簡をよこせ。ご期待通りに俺が『真実』を暴いて、お前の目を覚ましてやる。なあに、気にすんな。お代は要らねえ。ささやかな親切心ってやつだよ」
ぎりっと歯噛みする刀傷の男。
彼は剣をバスフロワの眉間に向けたまま、ゆっくりと立ち上がり、ぽつりと言った。
「お前は危険だ」
刀傷の男の全身から殺気が沸き上がる。
ここが分かれ道だ、とバスフロワは腹をくくった。
口先だけで相手を丸め込むのは難しくない。刀傷の男が持ちかけた取引を受諾した振りをして、この場を乗り切るのも簡単なことだろう。
だが、自分は詩を書くことを諦めるつもりはない。
そこだけは絶対に嘘をつくつもりはないのだ。
刀傷の男はかつてバスフロワに向かって『詩ごときに命を賭けるな』と言った。
『詩ごとき』だと。
なるほど、まさにその通りだ。そして大いに結構ではないか。くだらないものに命を賭けられる愚かさこそ、人間の人間らしさたる要件に違いない。
たとえその場しのぎの言い繕いだとしても、詩を書くのを止めると口にした瞬間、生きながらにして魂だけが死ぬような、自分がただの抜け殻に成り下がるような痛烈な予感がバスフロワの胸中にあったのだ。
今ここで刀傷の男が自分を斬り捨てるかどうかは、五分五分といったところだろう。
詩人として生きる覚悟を決めた自分の運試しにはもってこいだ。運命の女神はどんな男が趣味なのか、それを知る絶好の機会が訪れたというものである。
刀傷の男が静かに息を吸い、ゆっくりと剣を振りかぶる。
バスフロワは眼をしっかりと開いたまま、身動きすること無くじっと座っていた。
どんな運命がこの身に訪れようと、それは誰のものでもなく、紛れも無い自分自身の『選択』の果てに結実した運命だ。そんな眩しいほどの実感が全身を貫く。
かちゃり、と、閉じられていた扉から音がした。
硬直したバスフロワと刀傷の男が、視線だけを音の源へと向ける。
緊迫した空気とはまるで場違いな、呑気ささえ漂う、まったくの自然な動きで扉が開いていく。
扉の陰からひょいと顔をのぞかせたのは、茶色まじりの黒髪を揺らす青い瞳の少女である。
「ここでしたか、師匠」
ほっと息をはいたサザレがくいっ、と扉を大きく押し開ける。
扉で隠れていたサザレの半身が視界に入ると同時に、ずるりと長髪の男の体が室内へと倒れこむ。鼻や口から血が滴る顔はあちこち紫に腫れ上がり、衣服はあちこちずたずたに裂け破れ、見るに堪えない惨状だ。
床に伏したまま、ひゅうひゅうと、か細い呼吸をさせて刀傷の男を見上げるが、もはや声を上げる気力も無いようだ。
剣を振りかぶったまま言葉を失う刀傷の男の視線が、サザレの背後に引き寄せられる。
部屋から出た通路の床に、見張りについていたはずの男たちがごろごろと横たわっているのが見えた。
死んではいないようだが、男たちの体は脱力し意識を失っているようだ。腕自慢の屈強な男たちを無力化した業はもとより、扉一枚隔てた室内のバスフロワたちに悟られぬほどの静けさでこれを成し遂げることなど、一体どうやったら可能なのだろうか。
少女の両手首に嵌められたままの拘束具に繋がっている鎖。その融けた破断部にバスフロワの注意が向く。それを見た彼は何もかもを納得した。
いつだったか、サザレを『最強の戦士』と言ったキュウタの言葉が事実であることを。
バスフロワは、ふっ、と小さく笑いをもらした。
これが運命だというならば、せいぜいありがたく活用させてもらおう。
そして彼は刀傷の男を指差して言った。
「サザレ。俺はちょっとやることがある。この男と少し『遊んで』てくれ」
ひょいと肩をすくめた少女がうなずく。
「喜んで。それで師匠は何を?」
刀傷の男は尋常ならざるものをサザレに感じ取り、全神経を少女の挙動に差し向けているようだ。もはやバスフロワの相手をしている場合ではない、と判断したのだろう。バスフロワは書簡の入った袋が相手の手から離れたのを見て、それをゆっくりと手に取った。
袋の中から紙束を取り出し、ぱらぱらとめくり始める。
「『真実』を見つける。答はこの中にあるはずだ」
◇
馬を厩舎に入れた大槻キュウタとギュラン・ド・ボードロット男爵は、屋敷の玄関ホールに足を踏み入れたとたん、それに出くわした。
一振りの剣がくるくると宙を舞い、キュウタとボードロットの間の床にとん、と突き立ったのだ。
あちこちが歪み、波打つように変形した刀身は幾度も執拗に加えられた打撃の正確さと重さを示唆している。
敵の剣を弾き落とし、それを敢えて拾わせ、そして再び弾き落とす。その繰り返しを延々と続けた結果なのだろう。相手から自尊心と体力を奪う一石二鳥のやり方だ。そして、そんな芸当が可能な人物の心当たりはキュウタにとって一人しかいない。
その場で立ち止まり、目を瞬かせるキュウタとボードロットの視線の先では何とも奇妙な光景が繰り広げられていた。
白い外套をまとい、何も持っていない空の両手をぶらりとさせた少女が退屈そうに佇んでいる。
そしてその正面。苦しげな呼吸をする屈強な男が、したたかに痛めたらしき手首を押さえたまま膝をついていた。
刀傷の男は、キュウタとボードロットの存在にも気付かず、荒い息の下からサザレに向かって絶望と驚愕に震える声を絞り出す。
「お前は……何者だ」
胸を反らせたサザレが、ふんと、鼻息荒く言い切る。
「大詩人バスフロワ・ヴィスロ様の弟子です」
それに応じるように、キュウタとボードロットの傍らの壁際から別の男の独り言が聞こえた。
「師匠と呼ぶのは構わねえが、弟子にした記憶は無いな」
バスフロワ・ヴィスロは壁に背をあずけて立っていた。まじまじと見つめるキュウタの視線に気付いた彼は小さく肩をすくめて、再び手の中の書簡の束に目を落として言った。
「そちらがギュラン・ド・ボードロット男爵さまですかい」
ぽつりと向けられた言葉に、ボードロットは落ち着いた様子で返す。
「いかにも。君がバスフロワ・ヴィスロだな。半年前に出た本は読ませてもらったよ。実に興味深かった」
視線を合わせることなく、バスフロワは気のない調子で言う。
「それはそれは。男爵さまが俺みたいな下賎者の書いた詩を嗜まれるとは実に光栄ですな」
ボードロットはそれには答えず、対峙するサザレと刀傷の男の方へ一歩踏み出した。
ようやく主の存在に気付いた刀傷の男が顔をこわばらせる。
低く響くボードロットの声。
「何の騒ぎだ」
「ボ、ボードロット卿。こ、これは……」
ボードロットは床に突き立った剣を抜き、刀傷の男の前へひょいと放り投げた。
「剣をしまえ。彼らは客として扱えと言ったはずだが」
赤面し、黙りこむ刀傷の男。
そしてキュウタもサザレの前に立って腕組みをする。ため息混じりに彼は言った。
「何やってるんだよ、サザレ……」
少年の呆れ顔に、いたたまれなくなった少女は体の前で両手の指をもじもじと絡め合わせる。手首に付いたままの拘束具の鎖の切れ端ががちゃがちゃと物騒な音を立てた。
「だ、だって」
もごもごと口ごもるサザレから、キュウタはバスフロワへと視線を戻す。
バスフロワは書簡の束を袋に戻し、何ごとかを訴えかけるような眼差しでキュウタを見つめていた。
やがてキュウタは短く尋ねた。
「『見つけた』んですか?」
「ああ」
やはり短く、それでいてきっぱりとしたバスフロワの応答に、ボードロットがぴくりと視線を反応させる。
流浪の詩人バスフロワ・ヴィスロが歴史の真実を知る旅。それは終着点へと確実に近づきつつあった。




