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第七章 詩の中の英雄 (9)


 かちゃり、と灰色の短い鎖が音を立てる。


 サザレの両手首にがっちりとめられた金属製の拘束具は、頑丈な鎖で連結され、人の力でどうこうできる強度では無かった。


 静かな部屋の中でただ一人。


 少女は白い外套マントをまとったまま、寝台に腰をかけていた。

 唯一の光源である一本のロウソクの火が、サザレの白い頬をほんのりと照らしている。二本の刀は取り上げられたままだったが、それを不安に思う心は無い。


 ふう、と小さくため息をついたサザレが膝の上に両手を載せて楽な姿勢を選ぶ。


 日が暮れてしばらくがっている。

 外界は黒々とした闇に沈み、ほんの少し先の林の輪郭さえ判然としない。


 だが少女がいる部屋には一つの窓すらなく、その様子をうかがい知ることはできなかった。ただわずかな気温の変化と、壁越しにひっそりと忍びよる静けさの気配だけが、夜の訪れを彼女に感じさせている。


 宮殿と首都、そしてこの屋敷の地理的な位置をサザレは頭の中で思い描く。おそらくキュウタは夜になるまでここに辿り着くことは無いだろう、と推測できる。


 サザレとバスフロワ・ヴィスロが、いかつい男たちに取り囲まれつつギュラン・ド・ボードロットの屋敷に着いたのは、まだ太陽が高い時間帯であった。

 すぐにサザレとバスフロワは引き離され、簡単な身体検査の後、それぞれ別室へと通された。別れ際に「心配すんな」と言い残したバスフロワの言葉は何か根拠があってのものなのだろうか。


 心の中で、さて、とつぶやき、とらわれの少女は視線をくるりと一周りさせる。

 窓のない部屋の中には、いま腰掛けている寝台と、燭台しょくだいを乗せた小さなテーブルが一つだけ。


 ただ一つの出口である扉は固く閉じられ、その先には数人の見張りの気配が感じられる。


 見た目はただの少女のサザレではある。だが、帯刀していたことがあだとなったのか、『刀傷の男』は彼女へ一定の警戒心を保つことを決めたらしい。

 結果としてこうしてサザレは両手の自由を奪われて、屋敷の一室に押し込められることとなったのだ。


 この状況で自分がすべきこと。サザレはそれを知っている。


 何よりも優先すべきはバスフロワ・ヴィスロの生命だ。


 バスフロワの『詩』の先にあるはずの、魔法発展の歴史は未だに『定着』していないのだから。ここで彼を失うようなことは是が非でも避けねばならない。

 ついでに言えば、彼の詩がもつ力に心揺さぶられた『一愛読者』としての個人的な感情も彼女の胸の底にはあるのだ。


 サザレはすっとまぶたを閉じて、『未来視』を発動させる。

 

 端正な表情にわずかな鋭さが加わる。

 普段よりもより繊細で入念な精神集中と、膨大な魔力の発現を強いられているあかしだろう。


 原初魔法『未来視』の特徴として、世界全体の歴史を俯瞰ふかんするよりも、一個人の直近の運命を『る』ことのほうが非常に困難、という点があるのだ。


 心のなかで、バスフロワ・ヴィスロを中心とするぼんやりとした『光景』がいくつか重なりあう。

 各々おのおのの光景の明瞭さの違いは、それぞれが実現する可能性の違いを現す指標でもある。


 そして、一つの光景がサザレの瞼をはっと開かせる。


 バスフロワに迫る明確な『危機』。

 確実とはいえないが、看過できない確率でそれが発生することを察知したのだ。


 もはや一刻の猶予もなさそうだ。ふわりと立ち上がった彼女は木の床に膝をついた。

 そして拘束されたままの両手を口元へと寄せ、右の人差し指をためらいなく歯でぎりっと噛んだ。


 じわりと『血』がにじんだ指先を床にあて、迷いのない動きで滑らせる。

 あっという間に床に描かれたのは、血でつづられた簡素な『魔法陣』だ。


 扉をちらりと見やる。外の連中が動き出す気配はない。

 サザレは小さく『呪文』をつぶやいた。


 おぼろげな青い光が魔法陣の筆跡にそって輝きを生む。


 フィロマ帝国の魔法教導学院において教育を受けた魔術士なら、ごく初期に学ぶ『発熱魔法』が発動する。


 平均的な魔術士ではどれだけ魔力を振り絞っても、ひとすくいの水をぬるま湯に変えるのがせいぜいな術式だ。


 だが、いま注ぎ込まれたのは二十万年近く鍛えぬかれたサザレの凄まじい魔力である。術式から生じた熱エネルギーが精確に収斂しゅうれんするのは、彼女の両手首を連結する拘束具の鎖の一点だ。

 鎖を形作る金属部品の温度がその融点を超えるまで数秒も要しなかった。


 駄目押しとばかりに出力を増したサザレの魔力が更なる熱を顕現させる。


 一瞬で白熱した鎖の継ぎ目。

 それは彼女が両腕に軽く力を込めただけで、けたあめのように千切れた。

 

 息一つ乱すこと無く、サザレはゆらりと立ち上がる。

 扉の外にいるであろう見張りの男たちは、相変わらず室内の様子に気付く兆しはない。


 この程度の兵士を何百人集めたところで、サザレがバスフロワの安全を確保する仕事の障害にはならないだろう。


 過去数日におこなった何度かの潜入調査で、この屋敷の間取りはほぼ掴んでいる。

 

 彼女にとっての懸案事項があるとすれば、いかにしてバスフロワを救うかではなく、どれだけ人を殺さずにすむだろうかという点であった。





 ギュラン・ド・ボードロット男爵が住まいとする三階建ての屋敷。

 それはまばらな林の間にひっそりとたたずんでいる。富や高い地位を持つ層の屋敷が集まる地区にあって、おもむきはあれど過度な奢侈しゃしは微塵もなく、あるじの人となりの一面を映し出しているようでもあった。


 男爵という地位にある者の屋敷としては使用人も少ない。邸内は夜ともなれば必要な場所以外には灯りをともすことも控えられ、寂寥せきりょうな空気に包まれている。


 そして静かで寒々とした通路の一角にある頑丈そうな扉。その手前に置かれた二つの椅子それぞれに、筋骨隆々とした男が座っている。

 ボードロット男爵の私兵として『刀傷の男』がたばねる男たち。そのなかでも比較的腕の立つこの二人は、邸内で任に当たる者として選ばれていた。


 この夜、総勢で二十人近い仲間が屋敷の内外に配置され、不審者への警戒を命じられている。

 とはいえ、刃傷沙汰のたぐいが起きるなどはまったく想像もしていない。何しろ相手はただの詩人と小娘であり、しかもこの二人がになうのは『小娘』の方の監視であったからだ。


 彼らの剣は壁に立てかけられたままで、半日分の埃がかぶっている。

 緊張感もゆるみっぱなしになり、うずうずとする体は既に仕事をする状態からはかけ離れている。だが常識的な観点から見れば、二人を責めることは出来ないだろう。


「なあ、ちょっと口さみしくねえか。どうよ、厨房の方で一服いっぷく


 そういって男が口元でさかずきを傾ける仕草をしてみせた。彼の頭は綺麗に剃り上げられ、坊主の頭皮にほんのりと浮かんだ脂が床に置かれた燭台のロウソクの光を照り返している。


 その反対側、椅子の上で腕組みし長髪を後ろで束ねた男が、目を閉じたまま呆れ混じりの笑みで返した。


「悪くねえが、見つかったらまたお叱りを受けるぜ」


 彼らにとって、『刀傷の男』はそれなりの敬畏を払う相手である。

 戦士としての技量だけではなく、粗野な男たちをまとめあげる統率力。そんな『刀傷の男』には、礼や気品などといったものとは縁遠い彼らも一目置かざるを得ないのだ。


 むう、と唸った坊主男は不承不承引き下がった。


「ちぇっ。今夜は長そうだな」

「そう言うなよ。楽な仕事には違いねえぜ」


 長髪が片目を開けて扉のほうをちらりと視線で示す。ただの少女を部屋の中に閉じ込めておくだけだ。何の面倒があるだろうか、と。

 坊主男がその視線につられて扉の向こうに意識をやる。そして彼はぺろりと唇をなめてぎらりと笑みを浮かべた。


「ならよ、ちょっと『遊んで』きていいか?」


 長髪男が一瞬ぽかんとしてから、ニヤけ顔でため息をつく。


「マジで言ってんのか?」


 固く閉じた扉の向こうには両手を拘束された少女が一人。

 わざわざ言葉にするまでもないと、坊主男は笑いをこらえるような顔で応じる。


「まだガキ臭えけど、ああいうのも悪くねえ」

「またかよ。お前の『それ』は病気だな。だいたい、『手荒にするな』って言われてるだろが」

「お互い気分よく『遊ぶ』んなら問題ねえさ。なあに、あんなガキ、ちょっとデカい声で脅かしてやりゃ簡単に言うこと聞くってもん……」


 坊主男が返事を待たず扉の把手ノブに手をかけた瞬間。

 

 分厚い板でできた扉が、凄まじい響きとともに内側からはじけ飛んだ。


 頑丈な扉のかどでいきなり顔面を強打された坊主男の鼻骨と数本の歯が砕ける。鼻口からの血飛沫とともに大柄な体を真後ろに吹き飛ばされ、彼は倒れる前に失神していた。


 その勢いのまま、扉は深く入った亀裂から木屑を撒き散らしつつ戸枠から外れて宙を飛び、通路の対面の壁へと激突し軽くめりこんだ。


 そして沈黙がその場に満ちる。


 長髪の男は椅子から腰を上げることも忘れて目をぱちくりさせる。目の前の状況に現実感を見出すことができなかった。


 彼の位置からは室内の様子を見ることが出来ない。ほんの少し頭を傾ければ視界に入れられるのだが、長髪男はしびれるように凍りついた心と身体を動かすことができずにいた。


 かろうじて戸枠にへばりついている蝶番ちょうつがいの破断した部分に意識がいく。相当な堅牢さを持つ金属部品を引きちぎるほどに加えられた衝撃の大きさのほどは容易に知れる。


 とん、と足音が一つ響く。


 椅子に座ったまま呆然とする長髪男は、扉が喪失した部屋から白い外套姿の少女がゆったりとした足取りで進み出るのをただ見上げていた。


 通路のどまんなかで手足を痙攣させながら気絶している坊主男に何の感慨もない視線を投じてから、少女はふっと長髪男の方を見下ろす。


「失礼。師匠……もとい、バスフロワ・ヴィスロの居場所を教えていただけませんか?」


 サザレの落ち着き払った声音こわねに、長髪男はようやく心を取り戻した。

 傍らに立てかけていた剣を素早く掴む。彼は立ち上がりながらサザレの胴を目がけて剣を抜き放った。手加減などまるで念頭になかった。相手を子供だとあなどれば、間違いなく自分の命に関わるという直感があったのだ。


 何が起きているのか理解しきったわけではない。だが彼は、ただその場で立ちすくんでいるほどの鈍重でもなかった。

 とにかく一太刀入れれば何とかなる、という希望にも似た思いで、長髪男は一番大きく、当てやすいまとである少女の胴を狙った。


 がん、という音とともに長髪男は体のバランスを崩してたたらを踏んだ。


 かろうじて転倒するのを前かがみになってこらえる長髪男。

 五、六歩離れた場所に落ちた自分の剣と、痺れるような痛みが走る右手の指を、信じられない思いで交互に見つめる。


 一瞬前まで確かに自分の手の中にあったはずの剣。

 それは今や手の届かぬ位置にあり、剣先は床板に深く食い込み、刀身には金槌かなづちで叩きつけたようなゆがみが見て取れた。

 思わずごくりと唾を飲んだ音が、自分の耳の中でやけに大きく聞こえる。


 丸腰の少女には、避けることも受けることも不可能な間合いだった。

 

 だがこの少女には常識など通用しなかった。


 彼女が無造作に振り下ろしたひじ。それは長髪男が全力で放った斬撃の刀身を寸分の狂いもないタイミングで殴打し、つかを彼の手から引き剥がすほどの勢いで床へとはじき落としたのだ。


 偶然などでは決して無い。

 明らかに人の領域を超えた『技』と『力』の感触。


 長髪男は恐怖に視線を上げることができなかった。前かがみになったまま床板をただ見つめ、自分に待ち受ける運命を想像することしかできない。


 うつむいている彼の視界に、少女の靴が何の警戒心もない足取りで入り込んでくる。

 たったいま自分に向けられた剣のことなど気に留める気配すらなく、彼女は質問を繰り返す。


「聞こえませんでしたか? ではもう一度。バスフロワ・ヴィスロはどこです?」


 心に氷柱つららを突き立てるようなサザレの淡々とした声。

 長髪男の全身から冷たい汗がどっと吹きでた。



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