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第七章 詩の中の英雄 (8)


 柔らかな夕日が、目に映るもの全てを平等なオレンジ色で染め上げている。


 左右を草地に挟まれた小道を、二頭の馬が並んでゆったりと歩いている。

 まばらに点在する木立を一つ抜けるごとに、さまざまな風情ふぜいの屋敷があらわれては後ろへ消えて行く。それらの建物はいずれも庶民の住まいとは別格な豪華さをもってそびえており、このあたりの住民層について容易に察しがつくというものだ。


 のんびりと進む二頭はぴったりと寄り添い、隙間はほとんど無く、ともすれば乗り手の膝同士が触れるのではと思わせるほどである。


 片方の馬上で、老齢の男が視線を進行方向から逸らすこと無く、つぶやくように言う。


「魔術士というのは馬の扱いも手馴れているのだな」


 ギュラン・ド・ボードロット男爵の言葉に、大槻キュウタは手綱を持つ手を軽く引いて相手の速度に歩調をぴたりと合わせる。

 何かを懐かしむような視線を空に向けたキュウタが静かに答えた。


「僕の場合、生活のほとんどが旅のようなものなので、気付いた時には身についていましたね」


 こんな会話とも言えない、ちょっとした言葉のやり取り。静かな道のりのなか、それがキュウタとボードロットの間で時おり交わされていた。


 再び口を一文字に結んだボードロット。

 彼の真意は未だに姿を現す兆しすら無い。鞍には上等な造りの剣が一振りくくりつけられてはいるが、ボードロットがそれを抜いてキュウタに襲い掛かってくるとも思えない。小さなため息をそっと吐き出したキュウタは、何の気なしに周囲を見回す。


 本当に静かな場所だった。聞こえるのはひずめが小石を踏む音と風に揺すられてこすれあう枝葉のかさつきくらいの物である。


 必要以上に人の手が入っていない、ありのままの自然が維持されているように思えた。首都のゴミゴミしさに比べればこの辺りの閑静な空気には天と地ほどの違いがある。人通りもほとんどなく、宮殿からここまで来るなかですれ違った者も数えるほどだった。


 キュウタはちらりとボードロットを見る。その風体ふうていは明らかな老人である。だが、馬上におけるしっかりとした姿勢、正面をじっと見つめる深慮を秘めた眼差し。自らの道を確信し、何物をもたのまず歩んできた強さをキュウタは相手に感じざるを得なかった。


 男爵という立場であるにも関わらず、ボードロットが従者の一人も連れていないのも自然なことに思える。きっと彼にとってはそれが当たり前なのだ。


 ふと、ボードロットの視線がこちらを向いていることに気付く。

 キュウタが口を開く前にボードロットが言う。


「ディノン・カーヌを『列聖』する、という噂は事実かね」


 キュウタは少しだけ考えてから答える。


「正確には、審査の前準備を進めている、というべきでしょうね」


 特に隠し立てをする必要は感じなかった。ディノン・カーヌの列聖審査については、そう遠くない時期に多くの人間が知るところになるはずだ。

 ボードロットがじろりとキュウタを見る。


「ガレルとブリテアにとって『ディノン・カーヌ』は、過去の歴史とするにはまだ熱の冷めておらぬ名だ。フィロマ教会の動きは少々『軽率』だと思うがな」


 頬を指でかきながらキュウタが気まずそうに応じる。


「ディノン・カーヌを聖人にという話の出処でどころは、ガレル王家からの働きかけがきっかけだと聞きましたが」


 わずかに表情をしかめさせたボードロットが独りごとのように言う。


「……なるほど。ようやく合点がいった。確かに陛下は体裁ていさいとらわれるがある。少しは前王陛下を見習っていただきたいのだが」


 ここまで謹厳そのものだったボードロットの素の心。それがほんの少し表に出た瞬間をキュウタは見逃すことなく言葉を切り込ませた。


「失礼ですが……ボードロット卿は、ディノン・カーヌの列聖に反対なのですか?」

「男爵という立場から言わせてもらえば、反対だ」


 特段身分のあるわけでもない、まごほどにも歳の離れた見た目のキュウタに対して、ボードロットはあくまで対等な目線であった。


「国の安寧を第一に図るのが、爵位をたまわった者の務めだと私は思っている」

「ディノン・カーヌの列聖が、ガレルの不利益に繋がると?」

「世を動かすのは人であり、人を動かすのは『感情』だ。そして『ディノン・カーヌ』が聖人に列せられれば、ガレルとブリテア双方の民に強い感情が生まれるだろう。前者は歓喜、後者は怨嗟という形でな」


 じっと聞き入っているキュウタに、ボードロットは指を折りつつ言葉を続ける。


「先のいくさの終わりから、まだ三十年かそこらだ。家族やともがらを失った者も少なからずこの世に存命だろうし、いくさの記憶が薄らぐに足るだけの年月が経ったわけでもない」


 ボードロットの言わんとすることをやっとつかみ始めたキュウタが言う。


「ガレルの民にとっての英雄、ブリテアの民からすれば仇敵。そのディノン・カーヌの名を蒸し返すことで、ガレルとブリテアの間に不和が生じ、悪くすれば再びのいくさへと繋がる。そうお考えなのですか?」


 キュウタの懐疑的な思いが声に現れる。

 臆病、とまでは言わずともいささか神経質すぎる推量に思えた。ボードロットはキュウタの表情を見て言葉を付け加える。


「若き魔術士殿よ。ありえない、と断言することは誰にもできん。預言者か詐欺師でもない限りな」


 キュウタは口をつぐんだ。

 ボードロットの言葉はまさにその通りだからだ。万夫不当の魔力や未来を知る力をもってしても、広大な世界と悠久の歴史を意のままに操ることなど出来なかった。自分はそれを身をもって理解してきたのだ。


 ボードロットが視線を巡らせ、一番星のまたたきはじめた暗い東の空を見ながら静かに言葉を続けた。


「一つだけ確かなのは、自分の名が火種になることをディノンは望まない、ということだ。彼女はそういう人だったよ。民の幸せをただただ願い、自分の命など爪の先ほどにもかえりみることなく、安らかな世を望み求めて戦っていた」


 言葉の終わりは消え入るような、るかた無い何かを悔やむような声音こわねだった。

 そして二人は沈黙のまま、馬を歩かせていった。


 気付けば空はすっかり夜の装いへと姿を変えている。ひづめが踏む地面の様子を浮かび上がらせているのは、頼りない星明かりだけだ。


 いくつめかの木立を抜けると、彼らの視界に三階建ての屋敷が現れた。


 ここからはまだそれなりに距離があるが、ところどころの窓からはランプの灯りが漏れ見え、屋内からは人が動き回る気配もうっすらと漂ってくる。


 地理的にも先日サザレから報告を受けた屋敷の情報と一致する。きっとここがボードロットの住まいなのだろう。

 キュウタは馬の足を止めた。気づいたボードロットもその場で手綱を引き、ゆるりとキュウタを振り返る。


 キュウタはこの老人が心の底に隠しているものをどうしても引き出す必要があると思った。


「ボードロット卿。先ほど、『男爵という立場』なら反対、とおっしゃられましたね」


 わずかにたるんだまぶたの下、ボードロットの瞳に敢然としたものが生まれる。


「ディノンが持っていた慈愛と献身の精神は本物だ。一人の『人間』として言わせてもらうならば、彼女ほど聖人に相応ふさわしい存在を私は他に知らぬ」


 ボードロットの視線を正面から受け止めたキュウタが改めて確認する。


「それでも、貴方はディノン・カーヌの列聖に反対なのですね」

「彼女が命を落としてまで、もぎとった勝利と平和だ。私はそれを守る義務がある。世の乱れに繋がるどんな小さな可能性も見過ごすことはできん。英雄の右腕、という立場もなかなか楽ではないのだよ」


 静かだが断固とした声。ボードロットの体が少し大きく見えた。

 国を勝利に導いた立役者が持つ器量は伊達ではないのだろう。キュウタはボードロットにことごとく上手うわてを行かれている気分を覚えてしまう。

 だからこそ、ボードロットが目論んでいるであろうことの『非現実的』な部分が逆に際立った。そしてキュウタも自然そこをただした。


「仮にあなたの懸念が正しいとしても、フィロマ教会がディノン・カーヌの列聖審査を中止することはないでしょう。ガレル王国の男爵の言葉といえども、そこまでの影響力はありません」

「分かっている。だから『君』とこうして話をしているのだ」


 自分の存在が不意に話題にのぼり、キュウタが戸惑いを見せる。

 少年の表情の変化を毛筋ほども見逃さぬ、とでもいう眼差しのボードロットが続けた。


年老としおいる、というのは面白いものでな。耳が遠くなる代わりに、『噂』の方がこちらへと近寄ってくる」

 

 ボードロットの瞳が少年を刺すように光る。


「フィロマ教会がようする魔術士に、一人で万の軍に匹敵する者がいるらしいな」


 キュウタの顔がわずかに険しくなった。

 そこに想像通りのものを感じ取ったらしいボードロットが、馬をキュウタの方へと数歩寄せる。それは礼を重んじ互いに歩み寄ろうとするボードロットの無意識の行動のように、キュウタには思えた。


 ボードロットはキュウタを揺るぎない視線で見据えて言った。


「この数百年、帝国と教会を襲った幾度とない危難において、その魔術士はまもびととして並外れた力を発揮したとも聞く。いくつかの驚嘆すべき噂をつなぎ合わせてみるに、どうやら一つの名前を代々にわたって名乗り継ぐ一族にも思えるが、真実は私の想像の及ぶところではないだろう」


 黙ったままのキュウタに、ボードロットは相手の『白い外套』を見つめながら言葉を重ねる。


「彼はその戦い方と身なりから『しろがねの盾』と呼ばれているそうだ。そして、フィロマ教会上層部に深いつながりを持つその魔術士の発言力は、時に会皇かいおうを上回ることがある。違うかな?」


 キュウタは無言のままその場にとどまっていた。そしてそれが『肯定』の意であることもとっくに互いが承知しているのだ。


 いつまでも続くかと思われた沈黙を破ったのはキュウタの方だった。


「つまり、ボードロット卿はその魔術士を通じて、フィロマ教会にディノン・カーヌの列聖を諦めさせたい、と?」

「その通りだ。協力してくれるなら、私が所有する全ての財産を譲渡する準備もある。もし足りなくば、この老いぼれの命でも好きに持っていくがいい。これでも英雄の右腕と呼ばれた男だ。その『首』なら使い道は色々あるぞ」


 彼方の屋敷から漏れるかすかな窓明かりを背にし、ボードロットがためらいなくそう告げた。老人の偽りのない真っ直ぐな言葉を通して、キュウタは英雄ディノン・カーヌの『影』を見たような気がした。


 そっと目を閉じ、じっと考え込むキュウタ。やがて彼は瞼を開け、ボードロットを見つめる。そこには静かだが決して曲げられぬ思いが宿っていた。


「僕自身の『方針』として、教会や帝国の意思決定に不用意に干渉するのは避けるように心がけています。やむを得ない場合を除いて、ですが」


 ボードロットは小さく息を吐き出し、少年の言葉が自分の胸に収まるのを待った。

 そして落胆と安堵がどこか相半ばする声がキュウタに向けられる。


「ずいぶんと都合のいい『方針』だな」


 ことさら揶揄するわけでもなく、穏やかささえ見え隠れするボードロットの声音に、キュウタも微笑して肩をすくめてみせた。


「それは自覚しています」

「ディノン・カーヌの列聖。それは自然の流れに任せる、という結論なのだな?」

「申し訳ありませんが、そうなりますね」

「君が謝るいわれは無い。私の努力を尽くした結果がそれならば、あるべき運命としてれるだけだ」


 その言葉が、まさにギュラン・ド・ボードロットという人物を端的に表現しているようにキュウタは感じた。


 そして、キュウタの心に引っかかることがもう一つある。それはたった今キュウタが感じた相手の人物像にどこかそぐわないことでもあるのだ。

 昼間、宮殿でバスフロワとサザレ宛に書かされた伝言を思い返し、キュウタが尋ねた。それは彼にとって最大の関心事とも言える問題だ。


「なぜ、人を使ってバスフロワさんに警告を? 彼の『詩』の何を危惧しているのですか?」


 しばらくじっとその場で黙りこくっていたボードロットが、静かな決意をこめた声でゆっくりと話し始める。


「半年ほど前か。首都で話題になっていた彼の詩集を読んだのだ。ガレルとブリテアのいくさを綴った詩だったよ。一目見てすぐに分かった。彼の詩には題材の『真実』を見抜く力がある。危険な力だ。バスフロワ・ヴィスロにディノン・カーヌの詩を書かせるわけにはいかない。ディノンが聖人に列せられる以上の『危険』がガレルにもたらされる可能性。それが彼の詩にはあるのだ」


 ボードロットの言葉にキュウタは少々意表をつかれた。

 これほどすんなりと理由わけを教えてくれようとは想像していなかったのである。肩透かしを食らわされてぽかんとする気分をどうにか抑え、彼は次に当然出てくる質問を発した。


「ボードロット卿。ディノン・カーヌの『真実』とは何です?」


 わざわざ説明するまでもないだろうとばかりな、わずらわしげな感情がボードロットの声に混じる。


「私がそこまで素直に答えるとお思いかね」


 キュウタの瞳が相手をまっすぐに捉える。


「あなたの行動には矛盾があります。バスフロワさんが邪魔なら殺せばいい。僕に対しても先ほどから、あえて教える必要のない情報を小出しに見せびらかすような態度を取っている」


 ボードロットのきつく引き結ばれていた唇がほんの少しだけ緩んだ。


「何ごとに対しても力ではなく、まず誠意をもってあたりたいと考えているからだ。ついでに言えば、これでも信心深いほうでな。フィロマ教会の意向は最大限尊重したいと思うし、才気あふれる詩人の命を無闇に奪うこともしたくは無い。それに」


 手綱を持ち直したボードロットが足で軽く馬の腹をして、屋敷の方向へと進み出す。彼はキュウタに背中を向けたまま、ぽつりと言い添えた。


「ディノンなら、きっとそうするだろうと思うからだ」




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