第七章 詩の中の英雄 (5)
夜も深まり、遠くの木立から鳥が鳴く声が細くこだまする。
三日月はやけに明るく、穏やかな光が屋敷を幻想的な陰影で彩っている。
三階建ての邸宅、その最上階中央の一室で直立不動の『刀傷』の男が報告を続けていた。
向かい合った机には身なりの整った老人が座り、窓の外の闇を見つめながら時おり小さくうなずいている。几帳面に撫で付けられた灰色の頭髪がロウソクの灯りを鈍く反射させた。
肘掛けに軽く添えられた彼の指はごつごつしく、齢を重ねてなお失われぬ力強さを思わせる。
刀傷の男が一通りの報告を終え、目を閉じて軽く会釈をする。
「以上です。ボードロット卿」
ボードロットと呼ばれた男が、視線を窓から刀傷の男に戻す。しっとりとした低音と明瞭な滑舌を備えた声には、相手への労りがはっきりと現れている。
「分かった。御苦労だったな。今日はもう休みたまえ」
だが刀傷の男はその場に立ったまま動く気配がない。まだまだ気が済まない、という様子だ。ボードロットは彼が何を考えているのかを理解していた。職務に対しどこまでも真摯なこの男に、ボードロットは過去の自分を重ね、感傷に近い思いを抱く時がある。
刀傷の男は唇を引き結んでから、ボードロットの机の上に載せられた金貨袋に目を落とす。
「申し訳ありません。やはりあの場でバスフロワを『処分』すべきでした」
ボードロットは深慮の光を瞳に浮かべた謹厳な表情で返す。
「バスフロワと一緒にいた少年の力量が不明な以上、退いたのは正解だ。その少年……『魔術士』の言を信じるなら、迂闊なことをすればガレルがフィロマ教会と悶着を起こす可能性もあっただろう」
「務めを果たせなかったのは事実です。次の機会には、この命に替えても必ず」
棒が入ったようにまっすぐな背筋で、刀傷の男が冷たい昂ぶりを声に滲ませる。
あくまでも厳粛な表情のままのボードロットが、机の上で両手を絡み合わせる。相手のまっすぐすぎる瞳を見つめた。
「気負うことはない。死なずに最後まで戦い続けることが、良い兵士の条件だ。お前はこれからのガレルに必要な人間だ。生きてガレルを守れ。それがお前の仕事だ。分かったな」
軽く目を伏せた刀傷の男が、小さく息を吐いてからボードロットに視線をもどす。
かつてブリテアとの戦で勇名を馳せた名将。それを敬愛する自分にとって、彼の言葉はおざなりにできない尊ぶべきものなのだ。
「お言葉のままに、ボードロット卿」
ボードロットは相手の肩からわずかに力が抜けたのを見て取り、うなずいた。相変わらずボードロットは柔らかみのない表情だったが、結ばれた唇の端にだけはわずかな満足があった。
「慎重を期すに越したことは無い。バスフロワ・ヴィスロの動向はガレルの行く末を左右しかねない、極めて重要な問題なのだ」
刀傷の男がほんのわずかに首を傾げる。ボードロットは以前より何度かそういった含みの発言をしている。だがそれが意味する物について、刀傷の男はまるで見当がつかなかったのだ。なぜ一介の詩人ごときが、対ブリテア戦争においてガレルを大逆転勝利に導いた立役者の一人である、『ギュラン・ド・ボードロット男爵』の手を煩わせるのか。
その疑念を感じ取ったのか、ボードロットが刀傷の男を見つめる。その心奥までも透かし見るような視線の力に、刀傷の男は背後で組んだ指先をぴくりと震わせる。
ボードロットの老いた眼差しにひそむ鋭さに、刀傷の男は踏み越えてはならない一線の存在を感じる。だが、もとより要らぬ詮索をするつもりなどない。ボードロットの下で働けることが望外の喜びなのだ。それ以上、何を望むこともなかった。
故に刀傷の男は沈黙で答えた。自分の意思と価値は行動で示すつもりなのだ、と。
やがてふっと視線を外したボードロットが椅子の背もたれに体をゆったりと預ける。
「では行きたまえ。次の指示は追ってする」
一礼し、退室していく刀傷の男を見送り、ボードロットは椅子に沈み込むように脱力し深々と息を吐き出した。
失敗するわけにはいかない。
ここでしくじれば今までの全てが無意味になってしまう。過去の戦場の記憶がふっと胸の奥から浮かび上がった。血を流し、命を散らした友や部下たちの顔が脳裏を横切る。
額に刻まれた皺が深くなる。思考は年老いた今なお明晰を保ち、かつて戦場を駆けた若かりし頃に引けを取るものではない。
だが、いかに経験豊かな歴戦の将でも何もかもを見抜けるわけではない。
自室の窓の外、屋根の端からコウモリのように逆さにぶら下がり、室内の様子に聞き耳を立てる白い外套の少女、サザレの存在に気付くことは出来なかったのだ。
◇
馬車の車輪が石畳の上を行き来した痕が、幾重にも塗り重ねられた黒く細い帯となっている。それらの色濃さはそれぞれの道の交通量を測る目安とも言えた。
市場の近いこの場所は多くの人でごった返している。あちこちからは怒鳴り声に似た喧騒が響き渡り、安く買い叩きたい客と高く売りつけたい商人のやり取りがそこかしらで繰り広げられているようだ。
バスフロワ・ヴィスロは大通りの入り口で大きく伸びをして、感無量な調子で呟いた。
「んー、この匂い。やっと都に戻ってきた実感がわくぜ」
その隣で大槻キュウタが考えこむように街を眺めている。
道の中央に掘られた溝には人々の生活から吐き出された様々な残滓が流れ、独特な臭気を放っている。
あふれかえる人口に対する慢性的な水不足など、いくつかの理由が想像できた。カノンブルヌやフィロマのように余裕を持って整備された都市には無い、場当たり的な対応がそこかしこから感じられる。人が本来持っている奔放さ、悪く言えば身勝手さの集合がこの都市を形作っていると言えるのかもしれない。
だが、小奇麗さからかけ離れたこの混沌とした街並みも、生きることへの人間の執着をストレートに表したものに思える。それだけの活力をこの街並みからキュウタは感じていた。
さきほどから首都の空気を全身で堪能しているバスフロワに向かってキュウタが告げる。
「僕は教会支部で宿の手配をするつもりですが……」
できるだけ一緒に行動したい、というキュウタの意図を知ってか知らずか、バスフロワは人差し指をちょいちょいと動かして細い路地をさし示す。
「その前にちょっと寄り道だ」
「と言いますと?」
怪訝な顔をしたキュウタに、邪な笑みを浮かべたバスフロワが指で『金』を意味するジェスチャーをしてみせる。
「知り合いの所で、ちっとばかし工面してくる。ここまでずっとお前に奢らせっぱなしで、さすがの俺も気が引けてるんでな」
◇
曲がり角をいくつか過ぎたあたりにその建物はあった。
バスフロワが木の扉をノックもなしに開けると、内から流れだしたインクと紙の匂いがキュウタの鼻を刺激する。
軒下に吊るされた金属の看板をちらりと見上げる。
「印刷工房ですか?」
キュウタのつぶやきにバスフロワがにやりとする。
「んなとこに突っ立ってねえで入れ。心配すんな、ここは俺の庭みたいなもんだ」
バスフロワの肩越しに建物の中へ視線を向ける。
薄暗い部屋の中央には大きなテーブル。上にはところ狭しと本や紙束が山積みされ、あふれた一部は椅子や床にまでも領土を広げている。
別室では何かの機械的な作業が行われているようだ。堅いものの噛み合うようなリズミカルでこもった音が、壁越しに響いている。
バスフロワに続いて扉をくぐったキュウタは、部屋の隅の気配へ視線を向けた。
窓の下に置かれた机で一人の『老人』が黙々と何かをしている。
彼は茶の革チョッキを着た背中を丸めて、数枚の紙を丹念に見比べていた。午後の太陽が窓からうまい具合に差し込む時間で、目を使う細かい仕事をするにはちょうどいいのかもしれない。
バスフロワが馴れ馴れしい口調で老人の背後に歩み寄る。
「よう、爺さん。景気はどうだい」
ため息をついた老人が面倒くさそうに顔だけをバスフロワに向け、じろりとした目つきになる。
豊かな白い髭が口元をほとんど覆い隠している。髭のところどころに点々とついたインク染みは、昨日今日できたものでは無さそうだ。きっと仕事に誠実な職人なのだろうとキュウタは思う。
老人が時間を惜しむように手元の紙に視線を戻し、ぶつぶつとした声を返す。
「お前か。しばらく見なかったな。部屋も引き払って行方くらまして何やってたんだ? てっきり野垂れ死んだかと思ってたぞ」
「そうかい、ご期待に添えず残念だ。まあいいや、ほら」
いつもこんな調子の会話なのか、バスフロワは大して気分を害した様子もなく、老人の目の前に自分の手を差し出した。
仕事を邪魔されてうんざりすることしきりな老人が、バスフロワの手をじっくりと眺め、指でちょんちょんと突っつく。
「何だ、この手は?」
「カネ貸してくれ」
「そうか、帰れ」
つれない老人の言葉に、バスフロワが猫なで声でにじり寄る。
「頼むよ。知らねえ仲じゃあるまいし。大詩人バスフロワ・ヴィスロ様の新作への投資だと思ってさ」
「アホか。だいたい、お前。こないだの本の稼ぎはどうした? ひと月やそこらで無くなる額じゃないだろ。博打でスッたか?」
「ちょいと旅に出ててな。色々と出費がかさんだんだよ」
老人が目頭を揉みながら疲れたようにうつむく。
やがて仕事の続きを諦めたらしい老人が作業机から立ち上がり、テーブルの脇の椅子に腰掛ける。陶器の水差しから木のカップに中身を注ぎ、一口唇を潤した。
濡れた髭を袖口でぬぐい、彼はバスフロワを上から下までじろじろと眺め渡す。
老人があごでくいっと別室へと通じる扉を指す。
「ウチの若いのの一人が長患いで、ちと人手が足らん。今日中に仕上げなきゃならん分があるんだが、お前いま時間あるか?」
「ああ、あれだな?」
と言いつつ、バスフロワが両手で何かの道具を前後させるジェスチャーをしてみせる。
老人がうなずく。
「そういうこった。三日分の酒代くらいなら考えてやるぞ」
返事をする暇も惜しむように、壁にかかっている使い込まれた前掛けを手に取ったバスフロワが扉を開ける。向こう側は広々とした作業場らしき空間で、長机とがっしりした支柱を組み合わせた器具がいくつか並び、その周りを前掛けをした男たちがてきぱきと動き回っている。
「この際、それでいいや。キュウタ、ちょっと待ってろよ。一稼ぎしてくる」
景気良い音をさせて閉じられた扉の向こうから、バスフロワの能天気な声が何ごとかをまくしたてている。それに続いて聞こえてきた数人分の笑い声に、老人はふんと鼻息を漏らして再びカップに唇をつけた。
老人がキュウタを探るように見る。そして彼は視線で空いている椅子を指し示した。
「夜更けまでかかると思うが、待てるかね?」
「ええ。急ぐ用事はありません」
微笑んでうなずき、キュウタは腰を降ろした。
机の上をちらりと見渡す。イリユヌス教の教典や、ガレルの暦、古典として名の通った国内外の名著、表紙だけでは内容がよく見えてこない怪しげな本。色々と手広くやっている印刷工房のようだ。
陰り始めた空を窓越しに眺めながら老人がぽつりと言う。
「あいつが友人を連れてくるのは珍しいな」
「旅の途中で偶然道連れになっただけです。バスフロワさんが僕を友人と思ってくれているかは……よく分かりません」
冗談めかした顔で答えるキュウタ。
老人はニコりともせず体を椅子にあずける。たまった疲れを振り払うように深々と息を吐き出した。薄く開いた瞳が宙の一点へぼんやりと向けられる。
「昔から、あいつはいつも一人でいた。ぱっと見は、人懐っこいところもあるが、そりゃあくまでも表面のことだ。誰かとつるんで歩くこと自体、珍しいことなのさ。お前さんはきっと特別な何かがあるんだろう」
白い外套を膝の上で畳んだキュウタが小首を傾げる。
「バスフロワさんとは長い付き合いなんですか?」
「ん……まあな。あいつがガキの頃から知ってる。仕事での付き合いもそれなりに古い。ガラは悪いが、売れる詩を書く男だ」
バスフロワがときおり見せる自信は実際に根拠のある物のようだ。
口元に手を当ててキュウタが視線を巡らす。
「そういえば……バスフロワさんはどんな詩を書いているんですか?」
ふむ、と呟いた老人が腕組みをする。
「なんでも、だ。神、戦争、家族、金、男と女のゴタゴタ。『心を刺す』ような詩、と評されることもあるな。大抵の場合、悪い意味でだが」
「刺す、と言うと……」
訝しげなキュウタが声を落とす。おおっぴらに語ることのできない話題にも思えたのだ。
老人は軽く頭を振りながら、キュウタが浮かべた深刻さを済まなそうに手で払う仕草をした。
「いやなに。詩に限った話でもないんだが、あいつは『真実』……というと大げさだが、人が触れられたくないとこを見抜いちまうのさ。否応なしに見えてしまう、と言ったほうが正しいのかもしれん」
聞き入るキュウタに、老人は頭の後ろで両手を組んで背をそらす。天井を見つめた視線は色々なものを思い返しているようだ。
「そして、あいつはそれを言葉にしなきゃ気が済まない質なんだ。心のなかに溜めておけない性分なんだな。一緒にいて、そんな感じしなかったか?」
思い当たるフシは確かにあった。
「ええ。察しの良さや、勘の鋭いところは正直驚かされる時があります。僕自身の内面を言い当てられたりもしましたね」
唇を結んだ老人がうなずく。
「だから疎まれ、人と揉めることも多い。少し若い頃はしょっちゅう喧嘩沙汰で役人の世話になってたな」
老人の遠くを見るような眼差しにキュウタは思わず微笑んだ。彼にとってバスフロワという人物は仕事上の付き合いだけではない、もっと深い意味がある存在なのだろう。そう思えたのだ。
テーブルの上の書物をそっと持ち上げて題名を確かめながら、キュウタは言った。
「そういう直情さが、良い詩を書くことにも繋がっているのでは?」
老人が椅子から身を横に乗り出す。そして彼は床に積まれた書物のなかの一冊をキュウタに差し出した。
赤茶けた革の表紙に金の縁取りでバスフロワ・ヴィスロの名が刻まれている。
「詩を書くように勧めたのはワシだ。詩なら、これは作りものだ、別に誰かのことを論ってるわけじゃない、と言い逃れることができる」
秘密を分かち合うような笑みでキュウタが言葉を引き継ぐ。
「バスフロワさんも心のなかに色々と溜め込まなくて済む、と」
無意識に本の表紙を指でなぞる老人の表情には拭い切れない憂いが見て取れた。
「ああ。酒や喧嘩で鬱憤晴らしするよりは健全だろうと、その時のワシは思っていた。だが、ひょっとしたら余計なお世話だったのでは、と考える時もある。あいつの人生には詩よりも、もっとまっとうな道があったんじゃないか、ってな」
声を沈ませる老人。
指で鼻の頭をぽりぽりとかいたキュウタがふむ、と小さく息をつく。そして、場を繕う慰めではなく、バスフロワを見て感じ取ったありのままをキュウタは伝えた。
「バスフロワさんは詩を書くことに誇りを持っていますよ」
軽く目を見開いた老人がキュウタを見る。やがて老人の口元にほんの少しだけ微笑みが浮かんだようにキュウタは思った。
「ならいいんだが。ああ、邪魔じゃなけりゃ、その本は持っていくといい。あいつが書いた詩の中では、ワシの一番のお薦めだ」




