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第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (終)

 東の空が赤みがかった紫に色づきはじめた。

 

 星々が天からゆっくりと数を減らしていく。

 そして視界を埋め尽くす『砂』が取り戻す、その本来の白さ。

 

 砂漠に朝が近づいていた。


 とある砂丘のいただきに、ラクダにまたがった数十騎の人影が並んでいる。

 

 フィロマ帝国の正式な軍装に身を包んだ彼らは、地平線に浮かぶ白い街並みを見つめていた。


 この遠征軍の最高指揮官を務める髭面ひげづらの男が、かたわらの人物に問いかける。


「そろそろか?」


 指揮官の言葉に、集団の中でただ一人だけ全身を青い民族衣装で覆った長身の青年がうなずく。


「はい。手筈てはず通りなら」


 彼の言葉を契機にしたかのように、彼方の街のところどころから一筋の煙がたなびく。

 兵たちが見守るなか、更にぽつぽつと火の手が上がる。


 三十分ほどの間に街の半分は炎と煙に包まれ、もはやその輪郭すら見定めることができなくなっていた。


 火に誘われるように姿を現していた太陽が、砂丘の上の兵たちを祝福するかのごとく照らしだす。

 彼らの表情は満足があふれ、長く苦しい戦いの道のりがようやく報われたであろうことに、互いに力強く頷き合っている。


 口々に喜びを語る兵を横目に、指揮官が青衣の青年の隣にラクダを寄せる。

 遠征の目的が達せられたというのに、指揮官の顔に喜色は無い。彼は訝しげな瞳を青衣の青年に向けた。


「今さらこんなことを尋ねるのもなんだが……自分の『故郷』を焼くことに罪悪感は無いのかね」


 アルハーン・サウドは灰色の瞳を、はるか遠くで燃える街に向けたまま淡々とした調子で答えた。


「仕事ですから」





 いくさが始まる理由。


 それは単純なものから複雑怪奇なものまで様々だ。

 そして往々にしてその理由とやらは、後世の人間が後付けしたものであり、実際に戦場へ駆り出される当事者には何の意味も無い。生と死が隣り合った場面では、いくさの歴史的意義を考察することに一文の価値も無いのだ。


 砂漠の民『ティチェク族』が暮らすオアシス都市。

 ここ数年、この都市からほど近い場所に、豊かな『金鉱』と『塩鉱』が相次いで発見されたことが全ての端緒だった。


 きんと塩はこの地域の交易システムにおいて中心的な役割を果たす品である。

 当然、砂漠周辺に存在する国家はこぞって鉱山の開発に乗り出すことを企図した。誰がこの資源を手に入れるかによって、砂漠周辺の勢力図は大きく書き変わりうる。それほどの可能性が秘められていた。


 だが、それを実現するには一つ問題点があった。

 ティチェク族である。


 彼らの住むオアシス都市は、発見された金鉱と塩鉱に通じる中継地として理想的な位置にある。鉱山の開発にはティチェク族の協力が不可欠だったのだ。


 砂漠周辺の各勢力は使者を立て、ティチェク族に儲け話を持ちかけた。

 だが、ティチェク族の指導者は、どの勢力にもくみしないと明言した。鉱山を手に入れたければ勝手にすればいい。だが、ティチェク族は砂漠に生きる中立者としてあり続けるだけだ、と。


 これが値を吊り上げるための駆け引きでないことは誰もが理解していた。砂漠とともに、あるがままのせいきるという、ティチェク族の誇り高いかた。それは彼らの戦士としての強さとともに周囲の国へと響き渡っていたのだ。


 力ずくでティチェク族に協力させるという選択を検討しようとする国はほとんど無かった。

 砂漠という厳しい環境のいくさにおいて伝説的な強さを誇るティチェク族。彼らに砂漠で戦いを挑むことに二の足を踏むのは当然だろう。


 だが唯一、どの周辺国家よりも行動を早く起こした存在があった。

『フィロマ帝国』である。


 帝国はティチェク族に交渉らしい交渉をすることもなく、相手の住むオアシス都市に向けて軍を動かしはじめたのだ。この事実は少なからぬ驚きをもって周囲の勢力に受け止められた。


 いかな西方諸国最大の国力を持つフィロマ帝国であろうと、この遠征がコストとリスクに見合う利益を得られるとは思えなかったのだ。


 それでもなお、フィロマ帝国には勝算があった。

 過酷な砂漠の環境と、ティチェク族の戦い方。それに深く通じている人物を『相談役』として雇い入れることに成功していたのだ。


 アルハーン・サウド。

 

 帝都『カノンブルヌ』を拠点とする『組合』。そこに所属するティチェク族の青年の存在こそ、帝国が軍を動かすことを決定した最大の根拠だった。





 雲が厚く垂れこめた空を潮風が吹き抜けている。

 港には押し殺したざわめきと、控えめに響く波音が立ち込めている。

 

 船着場の目の前、吹きさらしの海岸沿い。

 そこにティチェク族の人々が寄り集まって地面の上に座らされている。


 部族の証とも言える青い民族衣装で身を包んでいる彼ら。誰もが心身ともに疲れきった様子を隠し切れずにいる。

 携行を許された荷物はほんのわずかの手回り品だけである。武器、あるいは武器に転用できる可能性のある物は当然のごとく取り上げられている。


 彼らの周囲には槍や弓で武装した帝国兵が隙間なく配置されている。ささいな口答えでもしようものなら容赦なく帝国兵の殴打が浴びせられるのだ。

 

 故郷のオアシス都市をフィロマ帝国軍に蹂躙されたティチェク族の人々は老若男女の区別なく、虜囚として帝国領へと連行されることが決定していた。


 オアシス都市からこの港へとティチェク族が連行される道のりは過酷なものだった。少なくない数のティチェク族が脱落し、亡骸なきがらを砂漠に置き去りにされている。それでもなお、ここまで辿りつけた人数はアルハーンが予想したよりも多いくらいだった。


 不安そう身を寄せ合う女子供や、あちこちにまだ癒え切らない傷を負った男たち。彼らは『敗者』である。これからどんな運命が待ち受けていようと、ただそれを座して受け容れる以外に道のない人々だ。


 ティチェク族を包囲する帝国兵の隙間から、アルハーンは同胞たちの憔悴した姿を冷たい瞳で見つめていた。

 帝国兵の一人がそばに歩み寄り、アルハーンをうながす。


「向こうで茶を用意してあります。少しお休み下さい」


 うなずいたアルハーンがティチェク族に背を向けた時、何かが風を切る音がした。


 どこからか投げられた小石が、乾いた音を地面に響かせてアルハーンの足元に転がる。

 即座に色めき立った数人の帝国兵がアルハーンを守るように陣形を組み、ティチェク族の人々へ槍を向けて怒鳴った。


「誰だっ!」


 兵の前にアルハーンの片手が上げられる。

 帝国兵を無言で制止したアルハーンは、石の飛んできた方向を見つめた。

 犯人探しをするつもりはない。アルハーンは自分へと向けられるティチェク族たちの無数の瞳を黙ったまま眺め渡した。

 

 疲労と怯えの色が強く浮き出ていてもなお、ティチェク族たちの凝視は突き刺すような力を宿している。

 群衆のどこかから、ぼそりと声が投げられた。


「裏切り者め」


 アルハーンは表情を変えることなく、彼らに背を向けて歩き出した。


 ふと巡らせた視線の先の水平線。数隻の船影が小さく姿を現し始めていた。あれが最後の便びんだろう。

 ここ数週間繰り返してきた、ティチェク族の人間を帝国へと輸送する作業。いま海岸にいる捕虜たちをあの船に積み込めば、すべてのティチェク族はフィロマ帝国の管理下に置かれるのだ。

 ティチェク族が砂漠で暮らしてきた数百年の歴史に終止符が打たれようとしていた。


 アルハーンは空を見上げた。うす暗い雲が、彼の灰色の瞳から更に色を奪っていく。


 ティチェク族は故郷を失ったのだ。





 昼下がりの穏やかな太陽が聖地『フィロマ』を照らしていた。


 大槻キュウタはバルコニーからフィロマ市街を眺め下ろしている。物憂げな視線はぼんやりとして、こことは別のどこかを見つめているように思える。やがて彼は振り向くと、宮殿の『謁見室』の中へと戻った。


 重厚な細工の施された椅子に、一人の老人が座っている。

 真っ白な礼服が部屋の中でくっきりと浮かび上がっていた。彼はキュウタをちらりと見上げてから、膝の間で両手の指をもどかしそうに絡み合わせる。

 イリユヌス教最高指導者『会皇かいおう』が静かな、それでいて重苦しい声で言った。


「帝国の国庫がうるおうことをいとう理由は無い。信仰だけで生活が豊かになるわけではないからな」


 黙ったままのキュウタに、会皇は立ち上がって手を後ろ手に組む。彼は探しものでもしているかのように、ゆっくりと部屋の中を歩きながら言った。


「だが、何の罪もない一つの部族から故郷を奪い、無理やり帝国の市民に同化させる。これは本当に必要なことだったのか?」


 キュウタは淡々と答えた。


「はい」


 悪びれるわけでもなく、何か言い訳をするでもない。ただ事実を認めるだけの言葉。

 長い歴史のなか、フィロマ教会とフィロマ帝国に多大な利益をもたらしてきた少年を、会皇は悲哀が薄くにじむ視線で見つめた。


 やがて目を閉じて俯いた会皇は、フィロマ教会のごく一部の人間にのみ触れることが許されている『情報』を口にした。


きたるべき『魔族』とのいくさに関係があるのかね」

「はい」


 会皇は目を開け、キュウタを見た。

 揺るぎない意思を秘めた少年の瞳。若い頃から会皇は教会の人間として、キュウタとたびたび接触する機会があった。決して老いることなく、超人的な力をもって世界と向き合う少年。昔はそんなキュウタに畏怖を覚えたものだが、今はなぜか憐れみに近い感情が胸のどこかをよぎっている。


 太陽が薄い雲に覆われ、フィロマ市街の風景から明度をわずかに失わせた。謁見室の中にもほんの少し陰りが加わる。

 会皇の唇から小さなため息が漏れた。


「イリユヌスの教えは、人々の幸福に繋がるものでなければならない。信仰を言い訳にして善悪の物差しをねじ曲げることはしたくない」


 現在の会皇は、キュウタから見れば実に信心深く慈愛に溢れ、イリユヌス教の長としてこれ以上ないほどの人物である。だからこそ、彼は心の根底では納得などしていないのだろう。キュウタはそれをはっきりと感じ取っていた。


 唇を結んで視線をあらぬ方へと伏せる会皇に、キュウタは静かに言った。


「ティチェク族に関して、これ以上僕が積極的に介入する場面はありません。後は歴史の流れに任せるだけです」


 会皇は疲れきったように、机の上に手を乗せて呟いた。


「未来のため、か。安い代償では無いように思うが」

「必要な代償です」


 ためらいなく応じたキュウタの言葉。

 そしてそこに込められた陰りのようなものに、会皇は思わず少年を見る。


 だが、会皇に背を向けてフィロマの街を眺め下ろすキュウタの表情を確かめることはできなかった。





 人々の思いに関係なく、時は過ぎていく。


 故郷を追われた人々も、そこが人生の終わりではない。


 苦難と絶望に飲み込まれて、それでもなお、彼らは置かれた境遇の中で必死に生きていくのだ。





 聖地『フィロマ』の空は、のどかな陽気を大地に降り注がせていた。


 市街から少し離れた小高い丘の上を柔らかな風が撫でている。


 アルハーン・サウドは草の上に寝転がり、何をするでもなく流れ行く雲をぼんやりと眺めていた。


 その時、彼の背後で草を踏む静かな足音がした。そしてどこか懐かしい気配の感覚。

 穏やかな声がそっと投げられる。


「探しましたよ」


 アルハーンは寝転んだまま頭を回し、声の主を見た。

 修道服のすそが風に揺れる。肩から下げた袋は旅路の長さを示すように草臥くたびれが目立っていた。


 アルハーンはゆっくりと体を起こし、数年ぶりに顔を合わせた人物にどこか自嘲じみた微笑みを向けてみせる。


「久しぶりだな。少し雰囲気が変わったように見える」


 リネッサ・エンテネスは、ふっと息をもらして笑った。


「四年もてば何もかも変わりますよ」


 地に座ったまま少し背中を丸めたアルハーンが視線を伏せて言った。


「学院の仕事のほうは? 相変わらず忙しいのか?」

「ここ最近は人手も増えたので、仕事に余裕はあるんです。こんなふう遠出とおですることもできるくらいに」

「それは結構なことだ」


 アルハーンはそう言って、再び草地にごろりと体を横たえた。目を閉じて太陽の暖かさに身をゆだねる。


 リネッサが隣に腰を下ろす気配を感じて、アルハーンは片目を細く開けてそちらを見た。

 彼女の黒い瞳と視線が合う。何もかもを見通し、悟ったような目だ。内心ため息をついたアルハーンは相手に背を向けるように寝返りを打つ。このまま寝た振りをしてやり過ごせないかとも思ったが、そう上手くいかないだろうとも薄々分かっている。

 つとめて事務的な口調でアルハーンは言った。


「それで、わざわざフィロマまで何しに来たんだ?」


 リネッサは軽く抱えた膝に頬を乗せ、アルハーンの背中を見つめた。


「ティチェク族のこと、カノンブルヌでも噂になっていました」

「そうかい」

「貴方が帝国の軍を率いて、自分の故郷を攻めた、と」


 思わず小さく吹き出したアルハーンが肩を揺らした。


「『率いる』なんて、そんな偉い立場じゃなかったよ。俺はただの相談役だ」

「貴方がいたから帝国は勝てた、のでは?」

「まあな。勝手知ったる土地だ。いつ、どこをどう攻めるべきかは手に取るように分かる」


 丘の上をさざ波のように風が渡っていく。風がみ、二人の間には沈黙が残った。

 やがてリネッサがぽつりと言った。


何故なぜです?」

「依頼されたからさ。仕事はきっちりやるのが俺の信条だ」

「それは知っています。何故、その仕事をけることにしたのか、と聞いているんです」


 小さく息を吸い込んだアルハーンが冷たい声を出す。


かねのためだよ」


 間髪いれずにリネッサが口を開く。


「嘘ですね。帝国と取引をしたんでしょう。いくさに勝たせる代わりにティチェク族の待遇を保障するように、と」

「……誰に聞いた?」

「半分は想像です。もう半分も教会の知り合いがしていた噂話にすぎませんが」


 むっくりと体を起こしたアルハーンがあぐらをかいた。彼の灰色の瞳ははるか遠くの景色へと向けられている。


「フィロマ帝国は本気でいくさをするつもりだった。どんな犠牲を払ってでも、俺の故郷を攻め落とす覚悟があった。真正面からぶつかりあっても、ティチェク族の戦士たちならそれなりに持ちこたえたと思うが、最後には物量で押し切られただろう。そんな戦いの先にティチェク族がたどりつくのは、『敗北』ではなく『滅亡』だ」


 風にそよぐ修道服のベールを片手で押さえたリネッサがアルハーンの横顔を見た。


「だから貴方はいくさを出来るだけ早く終わらせる道を選んだ。部族を守るために」


 アルハーンは答えなかった。

 肯定しようが否定しようが、自分のした行為の意味が変わるわけではないのだから。帝国にくみし、故郷を破壊した。そこが変わることは決して無いのだ。


 太陽がほんの少し傾き、二人の影もほんの少し長くなる。

 リネッサがふうと息を吐き出し、肩から力を抜いた。気のせいか、彼女の唇には柔らかい笑みが浮かんでいるようにも見える。


「私はいくさが嫌いです。それは変わりません」


 アルハーンの唇がわずかに引き結ばれた。

 そしてリネッサはゆっくりと体をアルハーンの方へと回した。


「でも、貴方が選んだ道は間違っていないように思います。それを言っておきたかったんです」


 アルハーンが翳りのある瞳のまま、呆れたように口元を小さくほころばせる。


「そんなことを言うためだけに、カノンブルヌからフィロマまで来たってのか?」


 ちらりと視線を振ったアルハーンの皮肉交じりの表情が一変する。


 すぐ間近にリネッサの顔があった。

 互いの息遣いまで分かる距離で、リネッサはアルハーンの手を取った。


「私が自分の力と向き合うことを決意できたのは、あなたの御陰おかげです」


 まっすぐに向けられるリネッサの黒い瞳に、アルハーンは胸のざわめきを覚えた。戸惑うように彼は視線を相手から逸らした。


「俺は何もしていない。俺はただ……」


 と言ったところでアルハーンは唐突に言葉を切った。


 彼の視線はリネッサの『手の甲』に向けられていた。

 急に黙ったアルハーンの目線を追ったリネッサが、「ああ」とつぶやいて微笑む。袖を少しまくって、アルハーンの方へと突き出した。

 

 手の甲から肘の近くにまで、『刺青いれずみ』が彫り込まれている。どこか幾何学的な調和をもって配置された文字や図形が、彼女の腕にゆるやかな螺旋らせんを描いてからみついていた。

 なごやかな声音こわねがリネッサの唇から紡がれる。


「原初魔法『獣化』を『抑制』する魔法術式です。なんでも、はるか東の国で生まれた術をもとにしているとか」


 ぽかんとしたような顔で彼女の言葉を聞くアルハーンに、リネッサが生徒にさとす教師のような口調で続ける。


「人体の異常な部分を正常なものに置き換える効果があるんです」


 原初魔法で『獣』に書き換えられた体を、人のそれへと引き戻す。もともとはやまいを癒やす目的で作られた術らしいが、結局その目的は達せられなかったそうだ。だが、カノンブルヌ魔法教導学院の学院長やゲグリオス・ペイトンは、その失敗の過程で得られた知識と技術をリネッサのために役立てることを思いついたのだ。

 などといったリネッサの細々こまごまとした説明をアルハーンはなかば上の空で聞いていた。


 やがてリネッサが小さく首をかしげる。


「どうしたんですか、ずっと黙ったままで?」


 目をぱちくりさせたアルハーンがようやく口を開く。

 その言葉には偽りのない驚きと称賛が込められていた。


「お前は『運命』に勝ったんだな」


 絞りだすようなアルハーンの声に、リネッサはにっこりとうなずいた。

 彼女は彼の手を両手で包み込むように握る。その優しい暖かさをアルハーンはただ黙って受け止めるだけだった。

 きまり悪そうに視線を伏せたリネッサが、ささやくように言った。


「このあいだ、サザレから手紙をもらったんです」


 うつむき加減だったアルハーンの顔が上がる。かどの取れた表情で彼は微笑んだ。


なつかしい名前だな。何の便たよりだったんだ?」


 リネッサは自分の手と、その中に包まれたアルハーンの手を見つめ、そして言った。


「何も。ただ一言、『心のおもむくままに』と」


 その言葉はアルハーンの乾ききった胸に水のように染みこんでいった。

 アルハーンの手を包むリネッサの指にきゅっと力がこめられる。


「だからフィロマに来たんです。貴方に会うために。今度は私があなたの『力』になるために」


 アルハーンが苦笑いでため息をつく。


「俺は救いを求めてなどいないがね」

「イリユヌスの教えにもあります。人が人であるかぎり、救いを必要としない者など、どこにもいません」


 確信と意思に満ちたリネッサの瞳をアルハーンはじっと見つめる。きっと何をどう言っても彼女の心を変えることなどできないのだろう。

 どこまでも優しい修道女に、青衣の戦士は諦めるような笑顔で答えた。


「まったく、お節介な神さまだな」


 そう言って、アルハーンはリネッサの手を優しく握り返した。





 ときどき月を横切る細い雲。


 山間やまあいを駆けぬけた風が、夜の林にくぐもったざわめきを生み出している。


 見上げてもいただきを確かめることすらできないほどの大樹の根元。そこで白い外套マントをまとった旅姿の二人の人物が、焚き火を真ん中にして向き合っていた。


 大槻キュウタは湯気を吹き出す鉄瓶を持ち上げて、木のカップに湯を注ぎ込む。

 ちらりと正面のサザレを見やった。彼女はぼんやりとした視線を、木々の隙間から空の彼方へと向けている。その身のうちより発現している魔力の気配から察するに、しばらく前から『未来視』を強めに発動させているのだろう。

 

 サザレが星空を見上げたままぽつりと言った。


「『定着』が始まりました」


 キュウタは一度だけうなずいて、カップの中の湯に唇をつけた。


「うん」


 この瞬間から、歴史の分岐先がまた一つ確定したのだ。

 

 アルハーンとリネッサの間に生まれる子供たちから始まる血統。そこには統計学的に有意といえる偏りで、原初魔法『獣化』に覚醒する者が数多く出現する。


 彼らはティチェク族の戦士としての誇り高い強さと、魔法の才能を兼ね備えた人材となる。


 いま世界に存在する『魔術士』は、『学者』としての資質しか持っていない。

 だがこれからは、『戦士』としての資質を強く持つ『魔術士』が少しずつ世に増えていく。彼らの多くはフィロマで魔法の教育を受けることになるだろう。

 

 そして『制御』された『獣化』を用いることで、超人的な戦闘力を持つ魔術士たちは戦場において無類の強さを示すだろう。


 やがて目ざとい人間は必ず気付く。

 武器としての魔法の可能性を。


 人々は少しずつ考え、工夫を始めるだろう。魔法を、戦う『道具』として活用するすべを。ひとたびその流れが始まってしまえば、わざわざキュウタが手を貸す必要もない。

 敵を効率的に殺すためなら、人間は努力を惜しむことのない生き物なのだから。


 魔術士は自らの『死』をかてとしいしずえとし、命を代償にして、魔法の技術を磨き上げていくのだ。

 これまでの人類が数多あまたの戦争のなかで、人を殺す技術を研鑽してきたように。そうしなければ魔族との戦争に勝つことなど、きっと出来はしないのだ。


 キュウタはカップをかたわらに置き、焚き火の炎が揺らぐさまを見つめた。


 ティチェク族が本来辿ったはずの未来は、もっと平坦なものだ。


 彼らの故郷のオアシス都市。

 その近傍で発見された金鉱と塩鉱は、彼らの生活を百年単位に渡って安定させることができたはずだった。だがそれはティチェク族を砂漠のなかに留めおく方向へと働く富でもあった。

 

 そして数世紀後、ティチェク族は自分が周辺文明の発展から取り残されたことに気づくのだ。彼らは経済システムからの孤立によって生まれる、構造的な貧しさにあえぎながら、戦士としての誇りも失い、『ティチェク族』という名前だけを細々ほそぼそと語り継ぐ、過去の遺物になっていくのだ。


 だが、キュウタが誘導した歴史の道すじにおいて、ティチェク族は苛烈な宿命を負わされる。彼らは誇り高い『戦士』として、生死をかけた戦場に自ら進んでその身をさらすだろう。

 魔法を発展させるための代償として、無数のティチェク族が命を落とすのだ。彼らは真実を知らぬまま死ぬのだ。


 戦士としての矜持を抱いて死ぬのか、戦士であることを捨て平穏に生きるのか。

 どちらが彼らにとって幸せな道なのか、キュウタには分からなかった。


 だがキュウタはこれが『復讐』を成し遂げるための道だと確信している。自分の選択がどんな悲劇を世界に撒き散らそうが、決して悔やんだりはしない。


 焚き火の中で小枝がぱちりとぜた。

 薄く立ちのぼる煙を追うキュウタの視線が、星々のまたたく夜空へと向けられる。

 

 魔族を倒し、世界を守る。

 神との約束をたがえるつもりは無い。


 どんな代償を支払うことになろうと、それはキュウタが自分に許した、たった一つの未来なのだから。





 何故こんな時間に目が覚めたのかは自分でも分からなかった。

 

 歳を取ると眠りが浅くなるというが、どうもそんな理由ではないようにも思える。

 何かに呼びかけられたような、どこかから湧き上がった『予感』のようなものが心の表面に薄く膜を張っていた。


 寝台の上で体を起こす。

 若い頃に比べると自分の体がずいぶんと重く感じられるようになった。


 アルハーン・サウドは、皺だらけになった自分の手を見つめた。


 ティチェク族が故郷を失った日から、『五十年』近い時が流れている。アルハーンがフィロマ市に居を構え、独自に『組合』を設立したのはその少し後のことだ。

 主な仕事はティチェク族の『軍事力』を『商品』としてフィロマ帝国に提供することである。


 故郷を失ったとは言え、ティチェク族の戦士の勇猛さは各地に鳴り響いている。もはや隊商キャラバンという収入源のないティチェク族には、自らの命を切り売りするしか生きる道が残されていなかった。


 アルハーンは部族からは当然のごとく裏切り者としてうとまれていた。だが、部族とフィロマ帝国双方に強いつながりのある彼を利用することが、ティチェク族にとって最も合理的な選択であったのだ。それは部族の誰もが不承不承ながら納得せざるを得ない事実だった。


 ティチェク族は帝国の兵士として戦うことを選んだのだ。


 彼らは噂にたがわぬ精強な戦士であった。帝国領の内外で発生する小規模ないくさにおいて彼らは凄まじい強さを見せつける。その戦いぶりはあたかも故郷を失った鬱憤を晴らすかのごときものであり、ティチェク族の名を聞かせるだけで敵兵の動揺を誘うことが出来るほどだった。


 フィロマ帝国の常備軍の中でも、ティチェク族の部隊は飛び抜けた強さと実績を示した。彼らが聖地『フィロマ市』において、会皇の警護任務にあたる『衛兵隊』の創設を命じられた時も、国内に異を唱える者がいなかったのはその証左と言えるだろう。


 ティチェク族は自らの力で自分自身の居場所を築き上げたのだ。


 アルハーンは寝台から降りると、最近やたらと痛む足腰を引きずりながらおもてへ通じる扉を開けた。

 かすみのかかった朝の冷たい空気に身が引き締まる。フィロマ市の郊外にあるこの住居は、市街地の喧騒とは無縁であり、周囲は比較的ありのままの自然の風景が広がっている。


 紆余曲折の果てに、ティチェク族の中では今や長老とでも呼べる立場になったアルハーンだったが、その暮らしは質素なものである。だが彼の周りには何よりも得難い『財産』が満ち溢れていた。


 庭に出たアルハーンの腰に、小さな人影が勢い良くぶつかってくる。


「じっちゃん! だっこ! だっこして!」


 五歳かそこらの男の子が元気いっぱいにせがむ。


「おうおう、抱っこな。分かった、分かった」


 目を細めたアルハーンは膝を地面につき、「よっこらしょ」と抱き上げる。

 はしゃぎながら自分の首にすがりついてくる曾孫に、アルハーンは優しいまなざしを向けていた。


 アルハーンは子宝に恵まれ、今では多くの孫や曾孫を得ていた。


 そのうちの数名は、会皇かいおうまもる『衛兵隊』の一員として取り立てられている。


 彼の子や孫たちには妻の血筋のせいか、原初魔法『獣化』を持って生まれた者が妙に多かった。だが皆幼いころから術式によって『獣化』を制御する方法を学ぶことができている。教育熱心だった妻の影響もあり、アルハーンの家族に限らず魔法の才能を持つティチェク族の子弟の多くが、フィロマ市の魔法教導学院でそれなりの実績を残すことができていた。


 そして、『魔術士』として戦争に参加する者も珍しくなくなりつつある。学院で研究にいそしむ『魔術士』と連携して、戦場における魔法の有効な利用について試行錯誤している者もいるらしい。


 アルハーンは、ふと妻の顔と、その身に宿っていた『力』を思い出した。

 巡り合わせ、というものの不思議さが、彼の胸にしみじみとした感傷を漂わせる。妻を苦しめた忌まわしい『力』が、今ではティチェク族にとっては生きるための『力』となっているのだ。


 彼女は十年ほど前に他界している。最期までいくさを嫌う女性だったが、アルハーンは彼女のそんな変わらぬ心に対してどこか感謝にも似た気持ちを持っていた。


 曾孫の相手をしながらぼんやりと考えこんでいたアルハーンの背中から声がかけられる。


じじさま、こんな朝早くからどちらへ?」


 彼が振り向いた先には孫娘が立っていた。彼女は家族の中で、妻の面影を一番濃く受け継いでいると、アルハーンは常日頃から感じている。

 アルハーンはじゃれつく曾孫を孫娘に手渡しながら肩をすくめた。


「ただの散歩だ」

「『刀』を持ってですか?」


 そう言われて初めて、彼は自分が腰帯に差した物に気付いた。確かに普段から寝台の脇に立てかけてある品だが、今では調度品以上の意味を持ってはいないというのに。


「ん……まあな」


 自分の無意識の行動に少々面食らいつつ頷く。

 孫娘がにっこりと微笑む。


「では食事の準備をしておきます。散歩が終わりましたら母屋おもやの方へいらして下さいな」


 そう言って、孫娘は遊び足りない顔をする曾孫の手を引いて去っていった。その背中をしばらく見つめていたアルハーンの脳裏に、彼が今まで辿ってきた人生の場面が映しだされていた。


 朝の静かな空気が彼を包んでいる。

 周囲に人影は全く無い。


 誰にも邪魔されることなく、アルハーンはじっくりと自らの記憶に意識を埋没させていった。長い人生のなか、色々なことがあった。


 常に自分の心に嘘をつかず生きてきた自信がある。先の長くない老いぼれた身になって、やっと客観的に振り返ることができたように思えた。実に満足のいく生きざまであったと。

 

 それでも。


 それでも、たった一つだけ心残りがある。


 あの男と戦ってみたかった。


 白仮面の男。

 きっと、この世界で最も強い戦士。


 腰に差した刀の鞘をそっと指でなぞる。たくさんの家族に囲まれ不自由のない幸せな生活。不満などあろうはずもない。だが幸せであると自覚すればするほど、心に空いた『穴』をも意識せざるを得なくなるのだ。


 年老いてまともに刀を振ることすら難儀する自分が、今でも求めるものは白仮面の男との決着なのだ。


 当然だ。自分は生まれついての『戦士』なのだから。


 ぎゅっと目を閉じて唇を噛む。

 叶わぬ願いに胸が締め付けられる。


 やがて彼はふっと息を漏らした。

 自嘲の混じる笑みが皺だらけの口元に浮かぶ。今の自分を妻が見たら呆れ返るに違いない。


 小さく首を振って、朝食の準備ができているであろう母屋の方へ足を向けたその時。


 アルハーンは『それ』に気付いた。


『力の気配』だ。

 

 彼は信じがたい物を見つけたように、頬をかすかに震わせながらゆっくりと振り返った。


 昔日せきじつの記憶が鮮やかによみがえる。


 朝靄あさもやのなか、幻と見紛みまがうようなその姿。

 あの時とまるで変わらぬ姿で、その男はアルハーンの前に立っていた。


 白い外套マントと、顔の上半分を隠す白い仮面。


 白仮面の男はゆったりとした自然体で、黙ったままじっとアルハーンを見つめていた。


 アルハーンの胸を鼓動が一つ、強く打つ。

 数十年ぶりに味わう、血が沸き立つような感覚。


 歓喜に震えるアルハーンが、にやりと歯をむき出して笑みを浮かべる。


 背筋を伸ばし、足を肩幅に開く。

 刀のつかの感触を指先で確かめるように握りこむ。すべて『戦士』として鍛え上げた、心と体に深く染み付いた動作だ。


 一息に抜き放った刀の切っ先が、朝の涼やかな空気のなか小気味良い風切り音を鳴らす。

 アルハーンはたった一言だけを口にした。


「行くぞ」


 正眼に刀を構えたアルハーン・サウドに、白仮面の男は小さくうなずいた。





 アルハーン・サウドは朝露あさつゆに濡れる草の上、大の字になって空を見上げていた。

 

 かたわらの地面には、刀身を真ん中で折り取られた刀が転がっている。


 アルハーンは遠ざかりはじめた意識のなかで、浅く息を吐き出した。

 全身が鉛のように重く、そしてあれほど沸き立った血もすっかり冷えきっている。


 傷は腹部から入って肺にまで到達しているのだろう。呼吸を試みようとするだけで、喉をこみ上げる血でむせ返りそうになる。


 力を振り絞って首をわずかに回す。

 視線の先には白仮面の男が何事もなかったかのような落ち着きで立っている。相手の視線は自分をまっすぐに見下ろしていた。


 白仮面の男の右手は体の横に下げられている。

 その指先から手首のあたりまでが自分の血によって赤くいろどられているのを、アルハーンは喜びとともに見つめた。


 やはり自分の感覚は正しかった。

 この男は誰よりも強い戦士だ。


 そして視界が一気に色褪いろあせていく。

 アルハーンは自分に残された時間がわずかであることを悟り、満ち足りた表情で空を見上げた。


 素晴らしい人生だった。

 仲間の居場所を守り、女を愛し、子を育てた。


 そして最強の戦士と戦い、その力を確かめることができた。

 これ以上の幸せは無い。


 アルハーンは白仮面の男を視界の中心に戻すと、自分の唇を無理やりこじあけた。喉からあふれる血の隙間から、彼はとぎれとぎれにか細い声を押し出した。


 自分が最後の戦いを捧げた相手がこの男であったという幸せ。それをどうしても言葉にして伝えておきたかった。


「ありがとう……お前の旅が……水と、風に……恵まれる、ことを……我が『友』よ……」


 そしてアルハーン・サウドはゆっくりと目を閉じた。


 風が止まり、虫や鳥の声もしない沈黙が満ちる。

 まるで、世界がたった一人の戦士の死を惜しんでいるかのようだった。


 青衣の戦士の亡骸なきがらの前で、白仮面の魔術士はただ項垂うなだれ、立ち尽くしていた。


 やがて彼はゆっくりと仮面を外し、それを地面へ落とす。

 

 指先についた血がこびりついた白い仮面は、まるで赤い涙を流しているようにも見えた。



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