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第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (23)



 上弦の月が薄い雲間に見え隠れしている。

 

 夜の帝都『カノンブルヌ』には寒々しい風が吹いていた。


 港にほど近い、静かな丘の上。

『組合』の構成員の証である褐色のシャツが夜闇のなかに浮かび上がっていた。


 アルハーン・サウドはどす黒い海峡を見下ろしている。ささやくような波のうねりと潮の香りが、星空の下で物思いに浸る彼を包んでいた。


 音もなく背後に現れた気配に、アルハーンは振り返りもせず問いかけた。


「何か用か?」


 魔法教導学院の生徒の特徴とも言える黒いローブ姿が小さく肩をすくめる。大槻キュウタはかすかに冷える夜の空気に、ローブの下で腕組みをした。


「夜中に出歩くのはあまり感心しませんね。傷もまだ痛むでしょう?」


 アルハーンがふっと息をもらして笑う。


「寝たきりだと血の巡りが悪くてな。余計に治りが遅くなりそうだ」


 キュウタは微笑のまじる困り顔でアルハーンの隣に立った。相手の視線を追ったキュウタが静かな声で尋ねる。


「何を見ているんです?」

「何も。俺には何も見えていなかった」


 アルハーンの灰色の瞳がわずかにかげる。キュウタは空にまたたく星々を眺めながらぽつりと言った。


「リネッサさんのことですか」


 視線を足元に落としたアルハーンの声には自らを責めるような刺々とげとげしさがあった。


「彼女はずっと一人で戦っていた。自分自身と……運命と。だが俺はそれに気付けなかった。今にして思えば、気付く手掛かりはいくつかあったはずだ」


 絞られたまぶたの下で、アルハーンの瞳には鬱々とした思いが淀んでいる。

 キュウタがいたわるような調子で言った。


「誰が悪い、という話ではないと思いますよ」

「分かっている。だからこそ胸にわだかまるのさ。苛立ちをぶつける相手がいないからな」


 ぎゅっと握りしめられる拳。だがそれはすぐにほどかれ、太く逞しい指が力無くぶら下がる。

 キュウタが唇を軽く結んだ。黒いローブの裾が風に小さくたなびく。自分にこんなことを言う資格があるのかは分からない。だがどうしても言わなければならないと思った。


「魔術士のはしくれとしては、『魔法』が人に不幸をもたらすものだとは思いたくありません」


 これは詭弁だ。

 他でもないキュウタ自身がその魔法を振りかざして人々と世界をひずませてきたのだから。だがキュウタは信じたかった。永劫の時間を生きる者として、多くの人間の運命を看取ってきた者として。


 キュウタの声にこめられた感情に、アルハーンが少しだけ訝しげな視線と苦笑いを向けた。


「魔法や魔術士をそしりたいわけじゃない。『力』そのものに善悪など無いさ」


 数えきれない戦場で力をふるってきたアルハーンにはそれがよく分かっていた。

 キュウタも小さくうなずいたが、その視線はどこかあらぬ場所へと向けられている。


「でも、リネッサさんはそう思っていません」

「そうだな。リネッサが憎み嫌っているのは彼女自身だ。優しすぎるがゆえに自分の『力』が許せないんだ」


 アルハーンの指が腰に差した刀に触れる。長年にわたって命を預けてきた頼もしい相棒とも言える存在だ。

 だが今は、その手触りがあまりにも無力で空虚に感じられる。

 アルハーンが、ふっと隣のキュウタを見やった。


「彼女のために何かをしたい。同じ『戦士』として」


 キュウタに弱音のような言葉を吐いた理由は自分でもよく分からなかった。


 だが、時々奇妙な貫禄に近い何かを放つことのある年下の少年に、アルハーンは言い知れぬ信頼感を抱いていたのだ。

 手掛かりも光明もないリネッサの境遇に、この少年が道しるべになってくれるのではないかと。


 アルハーンの灰色の瞳がじっとキュウタを見つめる。

 キュウタもまた、相手の視線を受け止めていた。


 やがてキュウタがゆっくりと唇を開く。

 

「数日後、フィロマ市のイリユヌス教会本部から『組合』に書簡が届きます。ティチェク族の戦士、『アルハーン・サウド』を直接指名した仕事の依頼です」


 怪訝そうな顔でキュウタを見るアルハーン。キュウタは相手の不審に構わずに言葉を続ける。


「依頼主はイリユヌス教最高指導者『会皇かいおう』です」


 アルハーンの顔が引き締まる。

 自分が今、重大な岐路に立っている、という感覚が心を貫く。

 キュウタの言葉にはそれを確信させるだけの力があった。


「あなたにその覚悟があるのなら……決して少なくない代償を支払う覚悟があるのなら、リネッサさんの『力』に意味を与えることができます」


 鼓動がアルハーンの胸を打つ。

 すべてを賭けて挑むに相応ふさわしい戦場が『そこ』にある、という予感。望むところだという思いが彼を高揚させる。


 言葉は必要ない。

 だからアルハーンはただ黙って不敵な微笑を唇に浮かべてみせた。





 町外れのとある教会の一室、窓は閉め切られ暗闇が部屋を満たしている。

 

 室内の中央に置かれた椅子。

 リネッサ・エンテネスはそこにじっと座っている


 窓も扉もきつく閉じているせいで、日が暮れてからどれだけ過ぎたのかはよく分からない。

 壁越しに感じられる夜の町の静けさが、彼女の孤独をさらに確固たるものにしていた。


 かたわらの小さなテーブルの上、無造作に置かれたナイフの刃先がぎらりとした存在感を放っている。


 リネッサは淀んだ黒で彩られた瞳をそれに向けた。


 もし再び『力』が自分を『獣』に変えようとしたなら、迷わず喉に刃を突き立てるつもりだった。


 イリユヌスの教義は自死を禁じているが、従う理由はもう無いように感じる。

 どれだけ祈りを捧げようが、自分が救われることはない。ならば、いっそのこと。


 魔法教導学院の院長や、何とかという名前の禿げた教師が色々と考えてくれているようだが、リネッサが未来に望みをいだくことはなかった。


 すがるから裏切られるのだ。

 何も期待しなければ傷つかずにすむ。初めから間違っていたのだ。自分が報われる日が来るなど、ただの絵空事だったのだ。


 リネッサの思考が冷たくしびれていく。

 その視線がナイフの鋭い刃に魅入られるように吸い寄せられる。

 

 もはや『力』があらわれるのを待つ必要も無いだろう。さっさと全てにケリをつけてしまえば、何もかもが終わる。


 リネッサはゆっくりと手を伸ばす。

 指とナイフが近づくにつれ、自分の息遣いと鼓動が耳の中で大きくなっていく。

 そうだ。これで何もかもが終わってくれるのだ。

 

 そして彼女の人差し指がナイフのに触れた瞬間。


 ノックが暗い部屋に控えめに響いた。


 彼女は肩をびくっと震わせる。

 いつの間にか乾ききっていた喉から、掠れるような声をなんとか絞りだす。


「……どうぞ」


 蝶番ちょうつがいを軋ませながら扉が開かれる。

 ひょいと顔をのぞかせたのは、この教会の雑事を仕切っている中年の修道女だ。

 深い事情を詮索することもなしに、こころよくリネッサにき部屋を提供してくれた女性でもある。


「お客さんですよ」


 柔らかな笑みでそう言って、彼女は扉の前から体をどかす。

 修道女の後ろに現れた二つの人影を見て、リネッサは体をこわばらせた。


 黒ローブのサザレとその背中に隠れるような小さな体。


 頭の両脇でくくった金色の髪が、サザレの陰からおずおずとリネッサを覗きこむ。


 エマの瞳はどこか不安な物が見え隠れしていた。

 だがリネッサの顔を見たとたん、少女の表情に灯った輝き。それは間違いなくしたう者へと向けられる純粋な輝きであった。





 食卓は誰も口を開くことのない、静かな場であった。

 

 ろくに食の進まないリネッサと、黙々とパンやシチューを咀嚼するサザレの健啖ぶりが対照的な光景を紡ぎだしている。

 二人のあいだに挟まれたエマは、ちらちらと左右を気にしながら小さな口でパンをかじっていた。

 

 その様子をしばらく物陰から優しく見守っていた中年の修道女は、やがて何事かを察したのか人知れず微笑んでから別室へと立ち去っていった。





 リネッサが間借りしている部屋の寝台の上、二つの人影がひとつの毛布にくるまり横たわっている。


 互いに背を向けた闇のなか、相手の静かな息遣いが聞こえていた。


 リネッサはすぐそばの少女の小さな体の温もりを、おそれるような思いで感じていた。


 食事を終えたエマを「もう夜も遅い」という理由でサザレがなかば無理やりこの教会に置いていったのだ。肝心のサザレ自身は「キュウタが待っているから」としれっと言い残し夜の帝都の街へと消えていった。


 急な来客を泊める準備もないという、中年修道女のどこかわざとらしい宣言により、エマはリネッサが拒むひまもなしに彼女の部屋へと押し込められていたのだ。


 背後でエマが身じろぎする気配に、リネッサは表情を固くする。息を殺して沈黙を耐える。相手の一挙手一投足がリネッサにとっては恐怖だった。


 エマが、獣のような姿を晒したリネッサのことをどう感じているのか。それを想像するだけで胸が刺されるような思いにとらわれてしまう。


 毛布の下で、リネッサの寝着の背中が小さな指にきゅっと握られる。


 どきりとリネッサは体と心を凍りつかせる。

 どうすればいいのか分からなかった。何をすべきか、何を言うべきなのか。

 

 永遠に続くかのような沈黙のあと。

 ふとリネッサは気付いた。


 エマの指先がほんの少し震えている。リネッサの体から力がゆっくりと抜けていく。言葉が口元に自然に浮かび上がった。

 小さく息をついてから、リネッサが背を向けたまま静かにささやく。


「ごめんなさい、エマ。怖かったでしょ」


 あの日、大聖堂での出来事は少女の心を大きく傷つけたはずだ。何が償えるとも思わなかったが、今の自分には謝ることしかできない。


「こわかった」


 エマが小さくうなずく気配を背中に感じ、リネッサは唇を噛んで瞑目した。

 そうだ。当然だ。こんな恐ろしい力を持った自分が子供たちのそばにあることなど間違いなのだ。


「でもね。うれしかった」


 エマのはっきりとした言葉に、リネッサは目をはっと見開いた。

 聞き違いだ、そんな言葉が自分に向けられるはずがない。そう思おうとしたが、たどたどしく続くエマの声はそんな自虐をすべて否定していた。

 地震が起きた日、崩壊寸前だった大聖堂の光景がリネッサの脳裏によみがえる。


「あのときね、ずっとね、リネッサねえちゃんをよんでたの。そしたら、きてくれたの」


 頬をリネッサの背中に当て、エマがもう一度言う。


「こわかったけど、うれしかったよ」


 少女の体がリネッサの背中にぴったりと寄り添う。相手の存在を全身で感じ取ろうとするかのように、その小さな手でしっかりとリネッサに抱きつく。


「あたし、リネッサねえちゃんと、いっしょにいたい」


 息を止め、まばたきするのも忘れていたリネッサの瞳に光が揺れる。


 震えながら背中を丸めたリネッサはこらえ切れずに嗚咽おえつを漏らした。

 あふれる涙が枕とシーツを濡らしていく。

 

 暗闇のなかで、リネッサはいつまでもエマのぬくもりを心に刻んでいた。


 この暖かさを絶対に忘れたくない。

 理屈ではない、彼女の『人間』としての本能がそう強く思わせていた。





「リネッサはどうだった?」


 魔法教導学院の正面門。その前でアルハーン・サウドが尋ねる。


 夜に溶け込みそうな黒いローブ姿のサザレが肩をすくめた。


「分からない。でも私は信じてる。きっと大丈夫」

「そうか。そうだな」


 噛みしめるようなアルハーンの言葉に一度だけうなずいて、サザレが背を向けて歩き出す。

 あいつもキュウタに負けず劣らず奇妙な奴だ、と思いながらアルハーンは学院の敷地へと足を向けた。


 そして、門柱の陰で壁にもたれかかっていた小さな人影に気付く。

 口元をゆるめたアルハーンが、どことなくからかうような笑顔で話しかけた。


「お前もリネッサに甘えてくれば良かったんじゃないか?」


 相手はアルハーンから目をそらして、つま先で足元の小石を軽く蹴飛ばした。


「べつにいい。エマみたいに、こどもじゃないし」


 わずかに頬をふくらませたラッチに、アルハーンがくすくすと笑う。


「そうか。そりゃ立派だな」


 ぽん、と頭に乗せられたアルハーンの大きな手に、ラッチが不服そうな顔をする。

 

 アルハーンは星空を見上げた。

 つかえが取れたような思いが胸に満ちる。

 

 こんな気分は久しぶりだった。



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