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第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (22)



 どことなくのんびりした昼の休憩が終わり、男たちは早速午前の作業の続きに取り掛かった。


「よっしゃ、上げろぉ」


 大工職人のかしららしき男の威勢のよい声が響く。

 

 掛け声に合わせて男たちが引く縄の先で木の支柱が徐々に直立していった。

 家屋の骨組みが手際よく形作られていく。一週間ほど前から、街のあちこちで同様の光景が繰り広げられ始めていた。


 崩壊した建物の残骸が街のあちこちに設けられた仮置き場で小さな山を作っている。それらの廃棄あるいは再利用について各方面でゴタついているという噂もあるが、時間がそれなりの解決を与えてくれるはずだ。


 市内に比べて不自然なほど施設の被害が少なかった港湾方面が中心となり、市民の食糧供給を主とした生活事情を支えている。


 帝都『カノンブルヌ』は少しずつ元の賑わいに向けて動き出していた。


 巨大な地震が帝都を襲ってから、一ヶ月ほどが過ぎている。


 災害直後の帝都に広がった混乱。それを早期の収拾に導いたのは、皇帝やその臣下の迅速な判断と行動が大きいだろう。

 まるで神のお告げでもあったかのように適切な対応を次々と繰り出した行政は、大多数の市民に一定の安心感を与えている。


 元の生活を完全に取り戻すことは出来ないかも知れないが、新しい生活を築き上げることは可能なはずだ。


 ここから先は市民それぞれの選択と行動の問題である。一人ひとりの小さな生き様の集合がやがて巨大なうねりとなれば、カノンブルヌは往時の隆盛を取り戻しもできよう。

 これ以上は、自分がどれだけ駈けずりまわっても大勢に影響は無いように感じる。


 大槻キュウタはそんな風に思いながら、市街の中央から少し離れた丘の上で草地に座り帝都を眺め下ろしていた。


 高い場所から見ると、更地さらちになった区画とそうでない場所の境目がよく分かる。


 キュウタの目にそれは生と死の境目にも思えた。

 両者をわかつものは単なる『運』だ。知恵も力も関係ない。世界という巨大なシステムの前では誰もが等しく脆弱で矮小な存在である。それでも人は命あるかぎり、人生を生きるために足掻あがきながら日々を進んでいくのだ。


 キュウタの背後に草を踏む柔らかな足音が生まれる。誰なのかは振り向くまでもなく分かっていた。

 控えめな声が呼びかける。


「キュウタ」


 サザレの茶色がかった長い黒髪が風にそよぐ。どこか物憂げな青い瞳の視線はキュウタから逸らされ、空の彼方へと向けられている。

 キュウタが傾斜のついた地面にもたれかかるように肘をついてくつろいだ姿勢を取った。


「リネッサさんの『力』は価値がある、と僕は思う」

「はい」


 淡々と応えながら、サザレはキュウタの隣に腰を下ろす。

 キュウタもまた平坦な口調で言葉を続けた。


「人類は魔法という『学問』を発展させると同時に、それを実用的な『兵器』にしなきゃならない。彼女の『力』にはその可能性がある」


 ここ数日のキュウタの様子から、彼の考えをおぼろげに察していたのだろう。サザレが街の風景を見つめたまま小さくうなずく。


「リネッサの力を『歴史に組み込む』ことは可能です。いくつかの事象を、私たちが誘導する必要はありますが」


 そう言ってから、サザレは少しだけ声の調子を落として続けた。


「ただし、その場合には『アルハーン・サウド』も歴史改変に不可欠な人物となります」


 キュウタが体を起こして草の上であぐらをかく。彼の怪訝そうな表情がサザレに向けられる。


「アルハーンさんが? なぜ?」


 サザレが膝を抱えて視線を地面に伏せる。

 ぽつり、とした言葉が少女の唇からこぼれる。


「これに関しては、あの二人自身の意思による『選択』が重要な意味を持つように思います。私たちが彼らに強制しても未来は『定着』しないでしょう」


 ちらりと向いた少女の青い瞳に映る陰。それが意味する物をキュウタは理解した。


 何もかもが全て丸く収まる都合の良い結末など存在しないのだろう。一つの道を選びとるということは、それ以外の道を断つということでもあるのだから。





「では、失礼いたします」


 その修道服姿の女性は一礼して院長室の扉を静かに閉めた。


 リネッサ・エンテネスは魔法教導学院の廊下をゆっくりと歩いていく。

 その表情からは感情が失われ、能面のようにぴくりとも動かない。まるで、耐え切れない苦痛から逃れるために、自分自身の心を体から切り離してしまったかのようだった。


 曇った眼差しが窓の外の明るい風景に引きつけられる。

 だが鮮やかな緑の樹々も、晴れ渡る青空も、暖かな午後のそよ風も、彼女の心に何ひとつ情動を与えることは出来ない。


 圧倒的な閉塞感が彼女の心を支配していた。

 自分の人生に許された選択肢から伸びるいくつもの道。それら全てが分厚い壁によって、すぐそこでく手をはばまれている。


 自分はこのまま、どの方向にも一歩たりとも踏み出せず、その場で立ちすくんだままちていくのだと彼女は諦観していた。


 呪われた『力』を身に宿したまま、誰ともまじわることなく孤独に生きる。それが最善の選択なのだと、リネッサの凍てついた思考は結論していた。


 リネッサは静かに廊下を歩いて行く。


 だが自分はどこにも辿り着けないと、彼女は知っている。

 からっぽの世界で足踏みを続けるしかないのだと。





 リネッサ・エンテネスが退室してから数分が経過している。

 院長室には相変わらず強張こわばった沈黙が立ち込めていた。


 机に積み上げられた大量の書物。その山の隙間で学院長は今しがたの会話から得られた情報を紙に書き込んでいる。


 その一方、ゲグリオス・ペイトンは壁際に置かれた椅子に座り、腕組みをして天井を見上げている。結ばれた唇が彼の思考の流れに呼応するかのように時折上下していた。


 やがてペイトンが禿げ上がった頭を両手で撫でながら深々と息を吐き出す。


「『獣化』か。正直、人の形を変化させる魔法なんぞ、眉唾ものかと思っていたが」


 記述漏れが無いか自分の文章を眺めていた学院長が、かたわらに積まれた書物の山を片手で軽く叩いてうなずく。


「過去の文献にも曖昧な記録が散見される程度の、実に珍しい原初魔法ですね」


 ううむ、と唸り、しばし何事かに思いを巡らせたペイトンが、視線をふっと窓へと向けて言った。


「あんた、知っとったのか?」


 窓際の椅子にかけて外を見つめていた老司祭がペイトンを見る。

 魔法教導学院の幼年部、その責任者として彼もこの場に立ち会っていた。あの日、大聖堂で何が起きたのかを明らかにするため、リネッサ・エンテネスから詳しい事情を聞き取る。それが今日、彼らがここに集まった理由なのだ。

 

 老司祭が皺だらけの手で顔を一度なでおろしてから、疲れきった様子でうなずく。


「何かしらの『力』を持っている、とだけですが。彼女の遠い親戚と知り合いでして。ここでリネッサが働いているのもその伝手つてです」


 リネッサ本人が語った内容や、第三者が目撃したリネッサの様子から、原初魔法『獣化』の概要は姿を現しつつあった。

 

『獣化』と、一般的な原初魔法のあいだにおける最大の相違点。それは魔法の『発動』および『維持』の過程にある、とペイトンや学院長は捉えている。


 そもそも魔法とは理性によって制御される、きわめて論理性の高い知的な作業である。


 つまり『獣化』によってその感性や知性を『獣』へと変貌させられた術者は、魔法の制御そのものが非常に困難になるのだ。結果、リネッサのように魔法に振り回され、本能が命じるまま暴力の限りをつくす。


『獣化』魔法の持つ性質が、『獣化』それ自身の制御を阻害しているのだ。

 これは訓練で克服できるたぐいの問題ではないだろう。


 そしてその力が今まで彼女の人生に落としたであろう、『かげ』の数々。そこはペイトンや学院長も、おぼろげながら感じ取ることができた。魔術士にとって自分自身の魔法に心身を呑み込まれるなど、想像するだけで言い知れぬ不安が胸に淀みを作るのだ。


 思いを同じくしたように黙りこくったペイトンと学院長。

 部屋を満たす沈黙に逡巡していた老司祭が、おずおずと口を開いた。


「それで、学院長。リネッサの処遇は……?」


 唇を引き締めた老司祭に、ペイトンが肩をすくめて皮肉めいた笑みを作って横からのぞきこませる。


「別にワシらは警吏けいりじゃないし、彼女が罪人つみびとだとも思っとらん。魔法のことわりを追う者として、事実を確認したかっただけだ」


 学院長もそれに合わせてうなずく。


「無神経と取られることもしょっちゅうですが、これは学者のさがですよ。司祭殿」


 ペイトンが椅子から立ち上がり窓際へと進む。老司祭を安心させるような眼差しで彼は言い添えた。


「彼女が抱えている問題が魔法に関わるものなら、ワシらが何か手を貸せることもあろう。知識というのはこういう時にこそ役立てるものだ」


 知が人にもたらす可能性を信じて、真理を追究する者の誇り。ペイトンの言葉にはそれが強くこめられていた。





 魔法教導学院の正門をくぐると、目の前にカノンブルヌの街並みが現れた。


 亀の歩みではあるが、帝都は少しずつ元の日常に近づいているように思える。だがリネッサにとってそれは大した慰めではない。決して取り戻せない物の数々。それが彼女の心を隙間風のように通り過ぎて行く。


 足元を見つめたまま歩いていたリネッサの歩みがぴたりと止まる。


 腕組みをして門柱にもたれかかっていた人物がリネッサを見つめていた。

 血色が多少すぐれないように見える。だが彼が受けた負傷からすれば、この短期間で立って歩けるようになっただけでも超人的な回復力と言えるだろう。

 リネッサが相手の灰色の瞳を見上げる。彼女の唇から静かな声が流れた。

 

「しばらくは寝たきりだろう、と聞いていましたが」


 アルハーン・サウドが肩をすくめて笑ってみせる。


「体だけは頑丈にできているのが自慢でな」

「……そのようですね。少し安心しました。では」


 薄くつくろった笑みを浮かべて小さく会釈したリネッサが歩き出す。その背中にアルハーンの声が投げられる。


「大事なことを忘れていないか」


 深く響く彼の声が、リネッサの足を止める。

 彼女は相手に背を向けたまま、空を見上げた。


「貴方にはお礼を言わなければなりません。危うく取り返しのつかないことになるところでした」


 軽く握られたリネッサの拳。

 彼女の小さな背中をまっすぐ見つめながらアルハーンは首を左右に振る。


「そんなことはどうでもいい。終わったことだ。俺が聞いているのは今の……これからのことだ」


 黙ったまま立ち尽くすリネッサ。

 アルハーンは小さくため息を吐き出した。


「あれからずっと、寮に戻っていないらしいな」


 リネッサの肩がわずかに下がる。何かが抜け落ちたように冷めた声が応えた。


「今は少し離れた教会に間借りしています。もうここに来る用事も無いでしょう」


 アルハーンの語気に苛立ちがほんの少し混じる。


「寮の仕事はどうなる? 子供たちはどうするんだ?」

「子供たちの世話は教会の方々かたがたにお任せしています。問題は何もありません」


 もたれかけさせていた体を門柱から離し、アルハーンはリネッサのすぐ後ろに立った。


「お前にとってあの子供たちは、その程度の存在だったのか?」


 リネッサがゆっくりと振り向き、アルハーンを見上げる。

 彼女の黒い瞳には何もかもを諦め捨て去った者の、かたくなに強張こわばった心が静かに根を張っている。


「貴方がその身で理解したはずです。私の『力』は子供たちのそばにあってはなりません。いつか私が、子供たちを本当に傷つけてしまう日が来るかもしれないのですから」


 アルハーンは唇を結んだ。

 彼女の言葉には道理が通っている。反論の余地もない。だが、それを受け容れることは彼の感情が許さなかった。


 これは誰にも何の罪もない。

 彼女が責めを負う理由など絶対にない。


 だが、リネッサの決意をくつがえすべをアルハーンは知らない。

 だから彼は答えの分かりきっている質問をすることしかできなかった。


「……これからどうするつもりだ」

「教会の仕事は辞めます」


 彼女は迷いなくそう告げた。

 視線をアルハーンかららしてカノンブルヌの街を見つめるリネッサの表情はどこか穏やかに感じられる。

 アルハーンは一歩リネッサに歩み寄った。


「そのあとは?」


 リネッサはさりげなく体を一歩退いて、アルハーンと距離を取る。


「さあ。故郷に戻る気にもなれません。女の身でも出来る仕事を探して、どうにかしていきます」


 アルハーンがリネッサの横顔を見つめる。

 彼女の瞳には何も映っていない。望みもしない力を押し付けられ、ただそれに翻弄されるだけの運命に疲れきった瞳だ。

 なぜ彼女がそんな目に遭わねばならないのだろう。

 ただ立ち尽くし、リネッサを見送ることしかできない自分が歯がゆかった。


「リネッサ。本当にそれでいいのか」

「ええ。私はもう、何かを選ぶ自由など残されていません」


 そして彼女は歩き出した。

 小さくなっていくリネッサの姿。

 修道服を着た影が、地震の爪痕もいまだ生々しいカノンブルヌの街の中、せわしげに行き交う人波に埋もれていく。


 やがて彼女の姿が完全に視界から消えた時、アルハーンは気付いた。

 

 リネッサは『戦って』いたのだと。

 

『運命』というあらがいようのない巨大な敵を相手に、誰一人味方のいない戦場で、たった一人で藻掻もがき苦しんでいたのだ。

 力を憎み、いくさを嫌う彼女もまた、『戦士』なのだと。

 

 アルハーン・サウドは強い戦士に対して惜しみなく敬意を払い、尊ぶ男である。

 それゆえに彼は決意した。

 

 リネッサ・エンテネスという一人の戦士を、このまま戦場から去らせなどはしないと。



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