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第二章 数を愛した男 (1)

 水は生命を支える源である。

 

 この大河は、大陸の北端に位置する亜熱帯地域、果てしなく広がる荒涼とした砂漠の上にある。大河の恵みは流域に植物を与え、それをかてとする動物を集めた。

 少し遅れてから『人間』も大河の周りに集まり始める。定期的に氾濫する大河は周辺の土壌に豊かな養分を与え、多くの作物を育てることを可能にした。


 有り余る食糧と共に数を増やし続ける人間。彼らが作った集落は村となり町となり、やがてそれは巨大な『国』となっていった。


 そんな国の中の、砂漠に囲まれたとある小さな町。

 

 日干しレンガで造られたごく普通の民家の前に、裸に腰布を巻きつけただけの軽装の兵士たちが十人近く並んでいる。

 頭を剃り上げた彼らは腰に長剣を帯びているが、別段に物々しい雰囲気を持つわけでは無い。兵士らはどこかのんびりした空気を持て余し、今夜はどこの酒場に行こうかとひそひそ話し合っている者までいる始末であった。

 そんな中でも仕事熱心な者はいるもので、一人の兵士が戸口の前で大声を張り上げる。


「我らは第一衛兵団である! ここは、学者セネルケフの家であるか!」


 人の気配はあるのだが返答がない。兵士が息を深く吸い込んで再び声を張り上げようとした時、一人の青年が奥の部屋から現れた。

 人物の突然の出現に、兵士は吸い込んだ息のやり場をなくして激しくむせ返る。くすくすと笑う他の兵士をぎろりと睨んでから、彼は青年の容姿を眺め回した。

 知らされていた風体と一致することを確かめ、兵士はできるだけ自分が偉そうに見えるように意識しながら重々しく口を開いた。


「貴様がセネルケフだな」


 そう尋ねられた長身の青年は脇に粗末な石板を抱えている。石板の表面には、チョークでごちゃごちゃとした数字や記号が書き殴ってある。彼は短く刈った髪をぽりぽりとかきながら、兵士に向かって訝しげにうなずいた。


「はい、私がセネルケフです。何でしょう? 税なら納めていますが?」


 兵士は丸めていた一枚の紙を広げ、セネルケフの前に突き出した。セネルケフは目を丸くして紙を見つめる。この紙は、植物の茎を重ねたものを手間ひまかけて叩き伸ばし磨き上げて作りだすかなりの高級品である。彼は今までの人生で数回しかそれを間近で見たことがなかったのだ。


「王都への出頭命令である」


 もったいぶるような声色の兵士が、ぽかんとしたセネルケフに言い含めるように言葉を重ねた。


「我らが偉大なる支配者、ラメス王陛下のめいである」





 日没とともに気温は一気に下がっていく。


 セネルケフは厚手の大きな布を肩から掛け、宿の裏手を流れる用水路の岸に腰を下ろしていた。


(やれやれだな)


 セネルケフは、水面にゆらゆらと映る夜の月を眺めながらそうぼやいた。追い立てられるように町を出立してから十日ほど。王都までの道のりの半分ほどが過ぎている。

 船酔いの激しいセネルケフは、徒歩によるゆっくりとした旅を選択していた。期日にも余裕があるので問題ないだろう。


 支度金として渡されたコインは、袋の中にたっぷりと残っている。数えてみたところ、なんと半年分の生活費に相当する金額であった。ずいぶんと気前のいい話である。そしてコイン袋の重さに比例して不安も増していく。

 ラメス王が自分に何の用なのだろうと恐ろしく思う気持ちはあったが、今の彼にはそれ以上に興味をかきたてられる物がある。

 別の袋から取り出した石板に、チョークで数字と文字を書き込む。


 『数える』という行為に出会ってから、彼の人生は完全に変わってしまった。

 作物、家畜、土地、暦、人間。全ては数で表す事ができる。


 彼は『数』に魅せられてしまったのだ。彼にとって数はただの記号などではない。人生を捧げ、愛を注ぎこむ対象なのである。

 夢中になって、心の奥から沸き上がる数についての考察を、片っ端から石板に殴り書いては、手のひらで擦り消す。


 数に対する多くの考察。それはこの先、彼が成し遂げる偉大な業績の足がかりとなるだろう。だが、その事に彼が気付くのはまだまだ遠い未来の話なのだ。

 

 数に夢中になっている彼は、後ろに忍び寄る気配を察する事ができなかった。

 

 月明かりを反射して鈍く輝くナイフの刃。それほどの長さではないが、不用心な小金持ちから命と有り金を巻き上げるには十分であろう。

 

 小石を踏む足音に、セネルケフは慌てて振り向く。無精ヒゲの大柄な男が自分に向かってナイフを振り上げている光景に、彼の心臓が縮み上がる。「ひいっ」と情けない声を上げ、セネルケフは自分の頭をかばうように石板を持ち上げた。昔から暴力沙汰は大の苦手だったのだ。


 目をぎゅっと閉じて刃物が振り下ろされる瞬間に備える。

 短い人生だったがそう悪いことばかりでもなかったと、彼は恐怖の中で奇妙に開き直っていた。


(……あれ?)


 いつまで経ってもナイフが襲ってくる気配がない。別に文句を言う筋合いではないのだが、やるならさっさとやって欲しい。生殺しにされるのはご勘弁願いたいというのに。

 ゆっくりと目を開け、頭の上に押し頂いた石板の横からちらりと向こうを覗き込む。

 

 暴漢はナイフを振りかざしたまま、その場で身動き一つできずに固まっている。目を見開き、口を半開きにして死にかけた魚のように口をぱくぱくさせていた。冷え冷えとした夜の気温の中にも関わらず、額には玉のような汗が噴き出している。

 

 暴漢の喉元に一振りの刀がぴたりと当てられていた。

 

 いつの間にか小柄な人物が暴漢の脇に立っていた。その人物は、全身を白いローブのように覆う布を頭から被っている。片手で無造作に構えた刀は微動だにせず、その貫禄はまさに荒事に手慣れた人間だけが漂わせるものである。

 顔をほぼ隠すように巻かれた布。その隙間から見える青い瞳は、暴漢の一挙手一投足を鋭く観察している。

 指一本でも動かせば、即座に殺す。そう宣言している瞳だった。


「おとなしく去りなさい」


 女の声だった。それもかなり年が若い。暴漢の目付きが僅かに生気を取り戻す。相手が女なら隙をついて力づくで何とでもなる、そういう考えになったのだろう。

 暴漢がぺろりと唇を舐めてタイミングをうかがうように相手を見る。

 その時、反対側の闇から別の男の声が飛んでくる。

 

「妙な考えは止めた方がいい。その子は本気だよ」


 こちらもおそらく若者だろう。新手の登場に、暴漢が再び体をこわばらせた。ローブ女が刀を暴漢の喉に強く押し当てる。皮に薄っすらと傷が入り、つうっと流れる一筋の血。

 ここに来てようやく暴漢は観念したようだった。ゆっくりと後ずさりながら両手を皆に見えるよう高く上げる。


「わ、分かったよ。悪かった。そういうつもりじゃなかったんだ」


 じゃあどういうつもりだったんだ、と聞くつもりなどセネルケフには無かった。きっとこの男にも色々事情があるんだろうと呑気に思う。子供が生まれたとか、親が病気だとか、酒場のツケが溜まってるだとか。

 悪態をつきながら夜の用水路沿いに走り去る男を見送る。そしてセネルケフは自分の命の恩人に視線を向けた。


 ローブ女は布の隙間から目だけをのぞかせて、セネルケフをじっと見つめている。

 すると闇の奥から少年が現れた。彼も白い布をマントのように肩からまとっており、何も言わずに滑らかな足取りでローブ女の隣に立つ。

 少年は声から予想した通りの若さだった。異国の顔立ちであるが、あまり見かけない人種だ。どこの人間なのだろう、歳は自分よりも四つか五つ下だろうかと、セネルケフは怪しむ。

 

 少年がローブ女にちらりと視線をやる。どうやら二人は知り合いらしい。礼を言おうとセネルケフが口を開こうとした瞬間、少年がローブ女に問いかけた。

 

「この人?」

「はい。間違いありません」


 二人の会話に眉をひそめるセネルケフだったが、相手の様子を探りつつ一応の礼だけは言っておく。


「あ……ありがとう。助かったよ」


 少年が片眉を上げて肩をすくめる。


「いえいえ、ご無事で何よりです」


 どちらかというと、ローブ女に言った礼なんだがという言葉をセネルケフは飲み込む。


「あー、私はセネルケフという者でね。いや、本当に助かった。ああそうだ、良かったら一緒に食事でもどうかな……少しばかり持ち合わせもあるんだ」


 穏やかに微笑んでいた少年が、ひょいと片手を上げてセネルケフの言葉を押しとどめる。


「失礼ですが、所持金の話は人前であまり口にしないほうが賢明でしょう」


 うっ、確かにその通りだと自分の不注意に言葉が詰まる。もしこの二人が妙な気を起こしたら、自分は今度こそお終いかもしれないというのに。

 少年は何も持っていない両手を広げて、敵意がないことを改めて示した。


「お礼をして頂けるのなら、一つ提案があるんです」


 少年が隣のローブ女と、自分自身を指差す。


「僕たちを『雇って』頂けないでしょうか」

「はぁ?」


 口をあんぐりと開けるセネルケフ。にっと笑う少年の顔は、歳相応のあどけない子供に思えた。





 砂漠の向こう、白い城壁を抜けた先に『王都』は広がっていた。

 

 巨大な王宮を囲むように、行政や軍事、宗教関連の施設が建ち並ぶ。その隙間を埋めるように市場や貴族、富裕層の邸宅がある。そして王都の外縁部、つまり城壁の内側を沿うように庶民の住居や職人の工房が広がっている。


 それら全てが王都という巨大なシステムを突き動かす原動力となっていた。

 道を行き交う人々は活気にあふれ、荷車には商品が満載され、様々な階層の人間が様々な生き方でこの都市を回転させているのだ。


 セネルケフは王都の持つエネルギーに圧倒され、城壁の門をくぐったところで立ち尽くしてしまった。

 ぽんぽんと肩を叩かれて、はっと我に返る。


 おどおどしながら後ろを振り向き、案内人兼護衛として格安の賃金で雇った少年の顔を見る。

 彼はセネルケフの顔から内心を読み取ったように助言を与える。その落ち着き払った物腰は、王都の迫力など道端の小石ほどにも思っていないようだ。


「ここは大通りですからね。一つ二つ裏道に入れば、かなり静かなもんですよ」


『キュウタ』と名乗った少年のことは未だによく分からない。見た目は間違いなく子供なのだが、その風格は時として老獪な賢者を思わせることもあるのだ。

 

「あ、ああ。君、王都は初めてじゃないんだね?」

「ええ。あちこち旅して回る暮らしなので」

「へ、へえ……」


 これでは何だかどっちが年上か分からない。


「セネルケフ様。そろそろ日が暮れますが」


 反対側から声を掛けられて、どきりと背筋が伸びる。

 少女はフードのように顔に巻きつけていた布を外している。茶色がかった黒い長髪が、町を流れる午後の風にふわりと揺れる。

 

『サザレ』と紹介されたこの少女も、かなり奇妙な人物だった。おそらくキュウタよりも更に三つ四つ年下だろう。彼女も異国風の顔立ちではあるが、キュウタに比べればどことなく馴染みのある人種に思える。

 また、彼女が腰に帯びている長短二本の刀は、この国ではあまり見かけないタイプの武器だ。そしてそれが彼女にとって飾りではないことをセネルケフは理解している。


 旅の途中で彼女から飲み水の入った皮袋を受け取った時、彼がふと触れた少女の手のひらの堅さ。まるで木の幹に触れたような感触だった。

 あれは生半可な鍛錬で身につく物ではないはずだ。セネルケフは子供の頃に、数十年ハンマーを振り続けている鍛冶職人の手に触れたことがあり、そのごつごつしさに感動した記憶がある。だがこの少女の手には、それ以上の超人的な物を感じたのだ。

 

 暴漢をあっさりと手玉に取る手際や度胸といい、この二人は一体何者なのだろうかと思う。だが今は詮索は後回しにしよう、少なくとも悪い人間では無いはずだからと心の奥にしまっておく。

 さて、このまま頼りない雇用主と思われるのはさすがに心外だと、セネルケフは気を取り直す。

 キュウタが、考えこんでいたセネルケフにさりげなく水を向けた。


「どうします? 宿を探しますか?」


 セネルケフは、王からの命令書の入った荷物袋をぽんと叩いた。


「いや、イムイブラの工房に行こう。泊まる場所も用意してくれるはずだ」





 工房の場所はすぐに分かった。

 どうやらイムイブラという男は、王都でも有名な人物らしいのだ。


 途中、酒場の店主や商人に道を尋ねながら、彼らはようやく目的の場所に辿り着く。それは太陽が沈む直前のことであった。


 工房の建物は周囲の民家と比べてかなり立派な作りで、それは彼の高名さと能力を裏付けるものなのだろう。

 キュウタとサザレには外で待ってもらい、セネルケフはイムイブラがいるという作業場へ足を運んだ。


 作業場には何人かの技師らしき風体の男たちが、テーブルを囲んで何かの模型を見ながら議論をしている。

 腕組みをしながら議論を見守っていた一人の男が、セネルケフに気付く。彼は長身のセネルケフよりも更に頭半分ほど高い背丈のある、がっしりした精力的な男だった。


 見たところ三十に届くかどうかという年頃のその男が、セネルケフを見たとたん満面の笑みで歩み寄り肩を抱いてくる。

 イムイブラは実に陽気な男であった。


「おっ! もしかして、セネルケフ君か!? 待ってたよ!」

「ど、どうも、初めまして」


 妙に萎縮してしまうセネルケフに、イムイブラは人懐っこい笑顔で笑い声を上げる。むんずと抱かれた肩をぶんぶんと揺すられ、セネルケフは軽く船酔いのような気分になりかけている。

 その表情を何と勘違いしたのか、イムイブラはセネルケフの背中をばんばんと叩く。


「ハッハッハ! そんな硬くならんでいいぞ! 何しろこれから『何十年』も一緒に仕事をするんだからな!」


 先ほどからぎこちない笑みでへらへらうなずいていたセネルケフが、そこではたと停止した。


(今、何と言った?)


 何か聞こえてはいけない言葉が聞こえてしまった気がする。歯車のような動きで首を回し、イムイブラを見る。


「へっ? な、何十年って何の話ですか?」

「ん? 聞いてないのか?」

「え、ええ。王陛下直々のご命令としか」


 にんまりと子供のような笑顔がセネルケフを見つめる。


「よろしい、教えてやろう。我らはな、王陛下の『墓』を作るのだ。それもただの墓ではないぞ」


 イムイブラはセネルケフの肩を掴んで、彼をテーブルのそばにぐいと立たせる。木で作ったその模型は、美しい『四角錐しかくすい』だった。


 その周囲には、一般的な造りの神殿らしき模型も置かれている。だが四角錐に比べてその神殿はあまりにも小さすぎるように、セネルケフには思えたのだ。

 イムイブラのきらきらとした眼差しが模型に注がれる。まさにおもちゃを手に入れた子供の目だった。


「そう、ただの墓ではない。天にも届く馬鹿でっかいヤツを作るのだ! どうだ、ワクワクしてきただろう!?」


 豪快に笑うイムイブラに、セネルケフは苦笑いで返すしか無かった。

 


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