第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (21)
大聖堂の内部へと通じる巨大な木製の扉。
それはこの建物にふさわしく重厚で複雑な彫刻が全面になされている。
要所を金属製の板で補強された、人の背丈を優に超える高さをもつ扉の厚みは、一般的な建造物を遥かに上回るものだ。生半な衝撃ではびくともしないだろう。
だが、今その扉の前に立つ人物にとって、これは紙細工とさして変わりのない障害でしかなかった。
キツツキが幹を突くような音が連続して響き、扉の表面に四角い切り込みが生まれる。
次の瞬間、その部分は外部から加えられた衝撃によって内側へとはじけ飛んだ。
扉の真ん中にぽっかりと空いた穴から、一人の少女が顔を覗きこませる。
サザレは扉をくり抜いた二刀を鞘に納めつつ、流れるような動作で扉の穴に体を滑り込ませた。石床の上に音もなく降り立った彼女の視線が周囲を鋭く探る。
大聖堂の内側は惨憺たる光景が広がっている。そこかしこの壁や柱は縦横に亀裂が走り、燭台や椅子などの様々な内装品が散乱していた。
耳をすましたサザレの視線が、大聖堂の更に深奥へと向けられる。
二組の足音が交錯する気配。
そして時折入り混じる、何かを叩きつけるような音。
何者かが『戦っている』。
サザレはその気配の方向へと躊躇なく駆けていく。
大聖堂が誇る中央ドームの真下。主身廊の中は足場の残骸や瓦礫が撒き散らされている。
そこで二人の人物が攻防を繰り広げていた。
修道服姿の女が凄まじい速度の足運びで間合いを詰めて放つ拳。
それを褐色のシャツを着た男が刀の腹で受け止める。
激しい衝突音が大聖堂のなかに響く。
拳と刀のぶつかり合いで互いの足が止まり、視線が交差する。
体格では圧倒的に男が上回っている。だが驚くべきことに純粋な腕力では女の側が勝っているようにすら見える。
弾けるように距離を取り対峙する二人。
サザレはその二人が、この数ヶ月ですっかり顔なじみになった人物であることを愕然として見つめる。なぜ、この二人が戦っているのか。
抜刀したアルハーン・サウドが一瞬だけサザレのほうへと視線を向ける。
「サザレか」
彼に向けて獰猛な視線を放っている修道服姿の人物。
それを見たサザレの表情が驚きと困惑に彩られる。
「リネッサ……?」
アルハーンがリネッサ・エンテネスを油断ない視線で捉えながら、サザレに警告する。
「迂闊に近づくな。今の『アレ』をリネッサと思うなよ」
サザレの指がぴくり、と動き刀の柄に触れる。
言われるまでもなく、このリネッサは明らかに普段の彼女とは別物だ。何が起きているのかはともかく、いつ崩れ落ちるか分からないこの大聖堂から力ずくでも連れ出す必要がある。
リネッサのほうへと一歩踏み出したサザレを、アルハーンが強い口調で制する。
「お前は子供たちを連れて外に出ろ」
彼がアゴで指す先に、ラッチとエマが座り込んでいる。
サザレの中にわずかな迷いが生じた。
「急げっ!」
アルハーンが怒鳴ると同時に、サザレが頭上に生まれた『物音』に反応する。
ためらっている暇は無かった。サザレは子供たちの前を駆け抜けながら二人の襟首を引っ掴んでさらに加速する。
寸前まで子供たちがいた場所に、天井から降ってきた瓦礫が叩きつけられる。
走る速度を緩めず、サザレは子供たちを脇に抱えたまま、手近なアーチ型の扉を滑りこむようにくぐった。その先は主身廊を二回り小さくしたような広間となっている。そしてサザレが振り返った瞬間、背後に天井から剥落した石や木の入り混じる壁材が雨のように突き刺さり、埃がもうもうと吹き込む。
うずたかく積み重なった瓦礫が、主身廊へ続く道を塞いだ。
アルハーンとリネッサ、二人が対峙する場と、サザレたちは隔離された格好である。
サザレが左右を見回し、広間の反対側に据えられた扉を見とめる。あそこから大聖堂の外へと抜けることができるだろう。
瓦礫の向こうから姿の見えないアルハーンが声を張り上げてくる。
「行け! リネッサは俺が何とかする!」
サザレの表情が険しくなる。
視線を巡らせ、広間の内部を一瞥する。壁も支柱も天井もあちこちに亀裂が走っていた。周囲から上がる不穏な軋みがこの場所の危険性を声高に告げている。
サザレは抱きかかえた二人を見る。しがみついてくるラッチとエマは言葉を出す気力もなく、ただただ不安に満ちた瞳をサザレに向けていた。
きっととても怖い目にあったのだろう。
そしてあのリネッサの『姿』も子供たちに強いショックを与えているのは想像に難くない。
先ほどのリネッサの異常な姿を記憶の中で思い返す。
魔力の気配が確かにリネッサから発せられていた。そしてそれは魔力の単純な『発現』というよりは、彼女の体そのものへと働きかける『侵食』とでも呼ぶべき作用に思えたのだ。
一体何が起きているのか。
少なからず親しくしていた者の異変は、サザレの心にもさざ波をかき立てていた。
傍らの壁に入った亀裂がみしみしと音を立てて広がっていく。サザレにしがみつくエマがしゃくり上げるような悲鳴を小さく漏らす。
今はとにかく一刻も早く子供たちを安全な場所へ連れ出さなければならない。サザレは後ろ髪を引かれる思いで、大聖堂の外に通じる扉へと走った。
◇
大聖堂の中で、空を切る不気味な音がとめどなく響いていた。
中央ドームを見上げる主身廊の石床の上、あちこちに転がる瓦礫の間を縫うように二つの人影が駆ける。
振り抜かれた刀の峰がリネッサの足元をかすめ、旋風のごとく放たれた拳と蹴りがアルハーンの眼前を通り過ぎる。
互いの攻撃を互いが寸前で躱し続けるという曲芸じみた攻防が何度繰り返されただろうか。
やがて一足一刀の間合いで二人の動きが止まる。
鋭い犬歯をむきだしたリネッサが荒々しく息をつき、その金色の虹彩がアルハーンを睨めつける。唸り声を上げる彼女の視線をアルハーンはじっと受け止めていた。
そして奇妙な静けさが漂う。
向き合った二人。
天井から建材が一つ剥がれ落ち、甲高い音とともに石床に叩きつけられる。先ほどから細かな砂のような破片もぱらぱらと、ひっきり無しに雨のように降り続けている。
フィロマ帝国の富と文化の象徴であった大聖堂は、いまやいつ崩れ落ちてもおかしくない、掛け値なしに危険な場所と化していた。
だがアルハーンとリネッサの目にその状況は映っていない。お互いが目の前に立っている相手との戦いに、意識の全てを振り向けているのだ。
リネッサが繰り出す連撃をいなすのは生半可な作業ではない。乱された呼吸を整えつつ、アルハーンは首筋に薄く入った傷口から血が胸元へと伝う冷たい感触を味わっていた。何度か危ない場面があった。まともに攻撃を受ければ致命傷でもおかしくない。
アルハーンは刀をゆっくりと構え、何度目かになる呼びかけを試みる。
「リネッサ。俺が分かるか?」
だがリネッサがそれに応える気配はない。ひたすらにアルハーンに対して差し向ける殺気も衰える兆しすらなかった。
手加減は出来ない、と考える。
アルハーンにとって、こんな戦いは初めての経験だった。敵を倒しさえすればそれで済む戦いしか知らない。だが、リネッサ・エンテネスを敵と認識することはできなかった。
彼女を殺すことはできない。
寸毫の油断も無い視線をリネッサに向けながら、彼は自身に言い聞かせるように呟く。
「それが『仕事』だからな」
アルハーンは少し前に自分が言った台詞を胸の中で繰り返す。
『魔法教導学院とその関係者の安全』。
組合と学院はそういう契約を交わし、自分がその任に名乗りを上げたのだ。
だから、自分はリネッサ・エンテネスを無事にこの場から連れ帰らなければならない。何をおいてもやり遂げねばならないのだ。我ながら律儀な性格だと自嘲めいた笑みが唇に浮かぶ。
さてどうするか、と刀を正眼に構える。
身体能力ではかなり分が悪い。こうして戦ってみると、それがはっきり理解できる。
リネッサは丸腰、こちらは刀を持ってはいるが、真正面からやり合っていてはやがて押し切られるだろう。
あの夜の攻防では、リネッサの『力の気配』は自然に消えていた。だが今回もそうであるという保証はどこにもない。
刀の柄をくるりと回して峰を下に向ける。気休め程度ではあるが、少しでも彼女を傷つける可能性は排除しておきたかった。もっとも今のリネッサの身のこなしを見るに、彼女に斬撃を打ち込めるかどうかは疑わしくもあった。
だが望みはあると、アルハーンの戦士としての経験は告げている。
ここまでの攻防で何度か刀越しに拳を受けつつ相手の力を計るなか、アルハーンはいくつかの事実に気付いていた。
今のリネッサがどれほどの腕力を持っていようが、その『体重』だけは変わっていない。
そして彼女の戦い方は危険で獰猛な獣そのものである。だが逆に言えば、それだけでしかない、とアルハーンは見抜いていた。
惑わせ、謀り、虚を突くという、人が有史以来培ってきた技とは無縁な、『素直』すぎる戦い方であると。
ならば、やりようはある。
アルハーンは一息に踏み込み間合を詰める。
斜め下から振り上げた刀が、リネッサのこめかみを掠めた。反射的に身を沈ませたリネッサの視線は、アルハーンのがら空きの胴を格好の目標と認識した。
彼があえて作った『隙』に、リネッサの獣の本能は赤子のような純粋さで吸い寄せられた。
リネッサの強烈な正拳がアルハーンの胴に叩き込まれる。
全身の骨が揺さぶられるような衝撃。肋骨の何本かは折れているだろう。彼の口の中に血の味が広がる。
だがこれでいい。
この間合こそが求めていた物なのだ。
意識を狩り取らんばかりの激痛を無視し、アルハーンは刀から手を離してリネッサの手首を素早く掴む。
次の瞬間、彼女はアルハーンの予想通りの行動をとった。とっさに後退しようとしたリネッサにタイミングを合わせ、彼は相手の足を蹴り払う。
両足がふわりと浮き上がった刹那を狙いすまし、アルハーンはリネッサの修道服の襟と腰元をむんずと掴んだ。相手の重心を自分の腰に乗せ、跳び上がるように大地を蹴る。
宙でもつれ合うように半回転する二人。
激しい音とともに石床の上へ背中から叩きつけられた衝撃で、リネッサの両目が見開かれる。
そして彼女の上に影が差す。
「いい加減に……目を覚ませっ!」
同時に、彼女の鳩尾にアルハーンの全体重が乗った膝が落とされる。彼の脳裏にわずかな罪悪感がよぎったが、今のリネッサならこれが致命傷になることは無いはずだ。
えづくような音をさせて、リネッサの肺から空気が押し出される。彼女の手足の先が一度だけびくっと痙攣したあと、その全身からゆっくりと力が抜けていった。
目を見開いたまま、大の字になったリネッサはぴくりとも動かない。
ぜえぜえと息を荒らげたアルハーンがその横でへたり込む。一瞬足りとも気を抜けない戦いの緊張が、心と体を限界以上に摩耗させていた。
立ち上がる気力も失せているが、もはやそれが必要ないとも分かっている。
アルハーンは、リネッサが放っていた『力の気配』がゆっくりと消えていくのを感じていた。
禍々しく輝いていた金色の虹彩が柔らかな黒を取り戻していく。
彼女の口元からのぞいていた鋭い犬歯や、指先を覆っていた分厚い爪もじわじわと縮小し始めている。
アルハーンは彼女の肉体が本来の形を取り戻していくその不思議な光景を、どこか魅入られるような思いで眺めていた。
そして、アルハーンが見慣れたリネッサ・エンテネスのいつもの姿がそこにあった。
彼女の指先がぴくりと震える。
石床の上で体を丸め、激しく咳き込みはじめるリネッサ。その様子はもはや獣などでは無い。
やがて、彼女は不規則な呼吸のまま、鉛のように重い倦怠感に包まれる体を起こした。
傍らで座り込むアルハーンの優しい灰色の瞳と視線が合う。
ぼろぼろになった互いの様子に、リネッサはぎくしゃくと怯えるような声を絞り出す。
「あ、あの……私……?」
「よう。やっとお目覚めか」
アルハーンは、いまだに呆然としているリネッサに微笑を向けて細々と息を吐き出した。
そして彼はようやく自分の体の状態に意識が向く。リネッサの拳をまともに受けた脇腹は、心臓の鼓動に合わせて焼かれるような激痛が繰り返し押し寄せていた。
嘔吐感とともに生暖かい血が食道をこみ上げ、思わず口を覆った手のひらを汚す。全身が冷えきっていく感覚とともに力が抜け、彼はゆっくりと石床の上に体を横たえた。
仕事はしばらく休みをもらいたいものだと呑気に思いつつ、彼は瞳を閉じる。
「あ……」
リネッサは自分が何をしたのか理解した。
はっきりと記憶に残っている。
いくども自分の名を呼ぶアルハーンと、自分が彼に向けた殺意と暴力の激流。
座り込んだまま修道服の裾をくしゃりと握る彼女の手に、ぽたりと滴が落ちる。
涙はとめどなく流れる。
だが自分の犯した罪が洗い流されることは決して無いとも知っていた。
まただ。
またも、この『力』は災厄を生み出したのだ。押し潰されそうな思いが彼女の目をきつく瞑らせる。このまま消えて無くなってしまえればどんなに楽だろうか。
あおむけになったまま目を開けようともしないアルハーンが、弱々しく声を出す。
「俺のことは……気にするな……早く、ここから……逃げろ」
彼の言葉を追うように、不穏な音が主身廊の内部に響く。
リネッサは表情をこわばらせて中央ドームを見上げた。同時に、網の目のような亀裂に覆われた天井から建材が一つ、また一つ剥がれ落ち、彼女とアルハーンの周りに叩きつけられる。
天井ドームに描かれたフレスコ画、『祝福の環』は半分以上剥落して、石床に降り積もる瓦礫の山の一部と化している。
リネッサの手が、床に横たわるアルハーンの胸に当てられる。彼が自分で立って歩ける状態でないのはリネッサにも一目瞭然だ。
天井の亀裂が見る見るうちに広がる。巨大な地震によってダメージを与えられた建物の構造が、荷重を支えきれなくなっているのだろう。
最後の瞬間に向けて、絶望的な音が響く。
アルハーンはリネッサの手を押し戻すように自分の胸からどける。
「行け……リネッサ。子供たちが……待ってる」
頬を涙で濡らしながらリネッサが顔をくしゃくしゃにする。
首を左右に振りながら、彼女はアルハーンの手を自分の両手で包み込む。
「い、嫌……わ、私は……」
「ダメだ……お前、だけでも……」
そこまで言うのが限界だった。アルハーンは意識を失い、頭からがっくりと力が抜ける。
リネッサはその場で凍りつき、やがてゆっくりとうなだれた。
彼を置いて自分一人逃げることなど出来ない。見えるもの全てが色褪せ、彼女の心を灰色の絶望が塗りつぶしていく。
きっとこれは『罰』だ。
呪われた『力』を持った自分には安息の日など決して訪れない。神はそう告げているのだ。
今、この場所ですべてを、自分の『命』を終わらせるべきなのだ。
ひときわ高い破壊音が、終末を告げる天使のラッパのように鳴り響く。
そして天井ドームが完全な崩壊を始める。
二人の上から一気に降りそそぐ木材や石材の破片。
圧倒的な質量と位置エネルギーは、人間の体などあっさりと押しつぶし、苦しみも悩みも感じない、ただの肉と血の塊に変えてくれるだろう。
リネッサはアルハーンの横に座り込んで力無く俯いたまま、最後の時を待っていた。
『死』。
それだけが、今の彼女にささやかな安らぎを与えてくれる、ただ一つの福音だった。
そして瓦礫の雨がリネッサの頭上、数センチにまで迫った瞬間。
『遍く満ちし虚ろの理。我が音に従い全てを穿て』
唱えられた呪文とともに顕現した、鏃のような不可視の『力場』。
無数に形成されると同時に亜音速で投射されたそれらは、甲高い響きを立てて空気を切り裂き、主身廊の中で横殴りの豪雨のごとき透明な弾道を描いた。
今まさにリネッサとアルハーンに叩きつけられんとしていた木や石の破片が、ことごとく空中で形を削り取られ霧散していく。
まるで目に見えない『矢』があらゆる物を撃ち落とし、木っ端微塵に粉砕していくかのように。
それは一体どれだけ続いただろう。
気付けば、いつの間にか大聖堂の中には静寂が満ちていた。
何が起きたのか。
ゆっくりとまばたきをしたリネッサが上を見上げる。
涙で滲んだ視界に『空』の青がまぶしい煌きを作っていた。
天井ドームは完全に崩れ去り、そこから青空がのぞき、太陽が主身廊のなかのリネッサとアルハーンを一条の光で照らしている。
何故、まだ生きているのだろう。
ふと、人の気配を視界のすみに感じ取ったリネッサは、ぼんやりとした心のまま、そちらへ頭を回した。
白い外套姿の大槻キュウタが、リネッサたちの方へ右手をまっすぐに向けている。人差し指に嵌められた銀色の指環がきらりと陽光を反射した。
ふう、とキュウタがため息をつく。
「なんとか間に合ったかな……」
彼の背後から、サザレがリネッサのもとへ駆け寄る。
「リネッサ!」
嘘偽り無く自分を案じるサザレの表情を見て、リネッサの心をちくりとした思いがよぎる。
それは「助かった」という安堵などではなく、「死ねなかった」という後悔の念だった。




