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第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (20)



 アルハーン・サウドの数度目の体当たりでようやく木製の扉は内側に動き、わずかな隙間が生まれた。


 人が一人やっと通れる程度ではあるが、贅沢を言っている暇はない。この扉の意外なまでの頑丈さは、わくゆがみも一つの原因なのだろう。

 つまり、『大聖堂』それ自体の構造にも少なからず歪みが生まれていると見なければならないはずだ。最悪の事態は覚悟しておく必要があるとアルハーンは思った。


「よし、俺がちょっと中を見てく……」


 アルハーンが言い終わる前に、彼の体が扉の前からぐいと押しのけられた。

 リネッサ・エンテネスが必死の形相で扉の隙間に体をねじ込む。くいしばった歯の隙間から呻きがこぼれ出す。


「ぐっ……うぅ……」


 修道服のところどころが扉のささくれだったわくに引っかかり、裂け目が生まれる。さらに力を振り絞って扉から中へと転がり込むリネッサ。

 床に手をつき、息を弾ませながら前を見る。頭を覆うベールは乱れ、栗色の前髪がほつれるように顔をのぞかせている。頬にも引っかき傷ができ、わずかに血がにじんでいるが、今の彼女はそんなことはまるで気にならなかった。

 

 周りを全くかえりみない、がむしゃらなリネッサの行動。それを見て何か言い表せない感情を抱いたアルハーンがちらりと大聖堂を見上げる。


 平時であればその造形の荘厳そうごんさと流麗さに畏敬いけいの念を抱くのだろう。

 だが今に限って言えば、この圧倒的な威圧感を持つ建造物は、あらゆる人の運命をあざ笑い呑み込もうとする『墓標』のようだと、アルハーンは感じていた。





 白い外套マントをはためかせながら、二つの人影が『空中』を駆け抜けている。


 帝都『カノンブルヌ』の町並みの頭上で、大槻キュウタとサザレは『大聖堂』に向かって急いでいた。

 キュウタが空気の層を透明な板状に『硬化』させた空中の道。それは建物の屋根伝いに二人の進行方向へとまっすぐ展開されている。


 この高さから見渡せる市内各所からは煙が上がり始めている。火災による被害についても、ある程度の予測はサザレが『未来視』によって行なっているが、水も漏らさぬほどの精度とは言えない。どれだけ強い魔力をもってしても、『未来視』の正確性には原理的な限界のようなものがあるのだ。


 そして言うまでもなく、特定の人物の振る舞いを無数の可能性の中から予測することは更に困難な作業である。

 サザレが自身を責めるような声音こわねでつぶやく。


「学院関係者の行動も『て』おくべきでした」

「そんな時間は無かったよ」


 キュウタの言葉は慰めでは無く、事実である。それを誰よりも分かっているからこそ、サザレは唇をきつく噛みしめていた。


 その時、街に重々しい地響きが鳴りわたる。

 余震ではあるが、その揺れは強かった。

 そしてサザレの鋭敏な視覚が眼下の光景に『それ』を見つける。


「キュウタっ」


 彼女の鋭い声に視線を反射的に振ったキュウタの目にいくつかの人影が映る。


 二人から数十メートルほど離れた場所、石造りの家屋かおくが寄り集まっている区画の一隅。


 その周辺では、先ほどの本震の一撃を耐えた建物も少なくない。だがその構造の目視できない部分には致命的な破壊が刻まれている。そしてかろうじて建物の形状を保っていたそれらが、今の余震で将棋倒しのように崩壊し始めていたのだ。


 その連鎖倒壊の終端に位置する建物の陰に、十数人の市民が身を寄せ合い集まっていた。老人から若者、乳飲み子を抱えた母親もいる。

 余震の揺れに怯えてその場にうずくまってしまった者も見える。もはや逃げる時間は無い。数秒後には瓦礫の波にすべなく呑み込まれるだろう。


 そしてついに背後の石壁が崩れて襲いかかって来たことに気付いた人々が悲鳴を上げる。


 思考より先に、キュウタの体が動いた。彼の左手が市民の方へとかざされる。

 爆発的な魔力の発現が、人々の周囲の空気を『硬化』させ、即席のドーム状の構造物シェルターを形成する。

 

 轟音をまき散らしながら、見えない障壁に沿って人々の目の前をかすめるように滑り落ちていく無数の石や木材の滝。何が起きているのか理解すらできない彼らはその場で立ちすくんでいる。

 際どいところだった。ふうと息をついたキュウタがサザレに言う。


「サザレ。先に行ってて。すぐに追いつく」


 こくりと頷いたサザレは『空気の足場』から手近な屋根へと軽やかに飛び移る。

 猫のような柔らかな身のこなしで地上へと降り立ったサザレがちらりと振り返った。家屋の崩壊に巻き込まれる事態は避けられたものの、周囲を瓦礫の山で囲まれた人々はこのままでは身動きが取れないだろう。そばには半壊した建造物もいくつかあり、危険な状況は続いている。

 そこへ駆け寄るキュウタの背中はいつにも増して頼もしく見える。

 

 彼らに背を向けたサザレは、視線を空へと上げて目的の方向を確認する。

 ここまで来れば大聖堂は目と鼻の先である。屋根の上を近道しなくても、到着までの時間にさほど変わりは無いはずだ。


 超人的な加速で走りだしたサザレは、腰に差した二本の刀に軽く指を当て、短く呪文を唱える。術式として刀身の内部に刻まれた『硬化』魔法を発動させたのだ。キュウタにも引けをとらない凄まじい魔力の奔流を、サザレは術式に流し込んでいく。結果、彼女の刀に付与される『硬度』は、この時代の金属加工技術で得られる物とは桁違いのレベルに到達する。


 この先は何が起こるか分からない。未来視で悠長に探っている暇もないのだ。備えておくに越したことはないだろう。


 刀の圧倒的な強度と対照的な、不安の入り混じる呟きがサザレの唇からこぼれた。


「リネッサ……」


 ここ数ヶ月の交流で、リネッサが子供たちに注いでいる愛情はサザレもその目で見ている。子供たちのためならばどれだけ無茶なことであろうと、リネッサは躊躇ためらうことが無いはずだ。


 いまだ混乱覚めやらぬカノンブルヌの街路を風のように疾走するサザレ。

『未来視』とは関係ないところから生まれた、重苦しい予感が彼女の心を包み始めていた。





 余震が発生したのは、アルハーンとリネッサが大聖堂の主身廊、中央ドームを見上げる位置に辿り着いた瞬間のことだった。

 

 その時点で主身廊に林のごとく立ち並んでいた木の足場は、すでに半分近くが崩れ落ち、柱や床板を石床の上へ無秩序に撒き散らしている。


 不意の揺れに体勢を崩しながらも、たたらを踏むように二人は前へと進んだ。その時、再度の地震に足場が上げる甲高い軋みの向こうから、彼らの耳に小さな悲鳴が届いた。

 

 アルハーンが見上げるより前にリネッサが叫ぶ。


「ラッチ! エマ!」


 二十メートル以上ある高さの足場の上にしがみつく、二つの小さな人影。


 リネッサの心臓がばくん、と大きく鼓動を一つ打った。

 足場全体がぐにゃりとたわんでいるのが地上からでもはっきりと分かる。

 

 そして、足場を構成する支柱と横木の接合部が、度重たびかさなる負荷に耐え切れずついに破断しはじめた。それらの音の間隔は不気味なほど規則的で、子供たちに運命を宣告する秒読みのようだ。


 油のなかを沈むがごとくゆっくりと、だが目に見えて傾きを確実に大きくしていく足場。その速度は重力に忠実に従い、少しずつ加速している。


 足場が完全に倒壊し、その上にしがみつく子供たちが石床に叩きつけられるまで一刻の猶予もない。

 はじけるように駈け出したアルハーンが全力で叫ぶ。

 

「動くなっ! いま行くっ!」


 視界の端に階段が見えた。上の通廊へとたどり着くまでの時間を頭の中で計算する。


 間に合わない、と思った。

 焦燥が思考を加速させ、目に映る景色がスローモーションになる。だが、それがこの状況に光明を与えてくれはしない。最後の瞬間を先延ばしにするだけのものでしかなかった。


 そのとき、アルハーンの肌をぞくりと撫ぜる感覚が走る。

 逼迫ひっぱくした状況にも関わらず、彼の足が止まった。

 吸い寄せられるように振り向いたその先。


 リネッサ・エンテネスが石床の上で立ち止まっていた。


 両手をだらりと下げ、軽く俯いた彼女の視線は地へと伏せられ、その表情を見極めることはできない。

 

 リネッサが放つ不可視の『圧力』。

 アルハーンの戦士としての習性が、彼の心身を一気に緊張状態へと移行させる。


『力の気配』が、リネッサの体から放たれていた。


 修道服の端々が風をはらんだようにはためいているのは錯覚だろうか。


 あの夜の記憶が一瞬で蘇る。

 暗闇の街の中で、獣のような凄まじい身体能力で襲いかかってきた謎の女。それがまとっていた『力の気配』と寸分たがわぬ物を、今のリネッサはその身から溢れさせている。

 

 アルハーンの勘違いなどでは無い。

 それはリネッサの異常な『姿』が証明している。


「リネッ……」


 思わず声が出るアルハーン。

 それに反応したのか、俯いていた彼女の顔がすっと上がる。


 だが、そこにはいつもの優しい修道女はいなかった。

 リネッサの顔から人間らしい表情は失われている。先ほどまで子供たちを案じて押し潰されそうになっていた彼女とは一線を画する、獲物を見定める肉食獣のごとく冷たい集中力に満ちた視線。


 次の瞬間、アルハーンの視界からリネッサが消えた。

 

 一瞬遅れて耳に届いた、どん、という響き。それは彼女が石床を蹴って跳躍した音だということにアルハーンは気付く。

 

 長身の彼の頭上を軽々と飛び越えた修道服が幻影のように空中で軌道を描く。

 

 人間ではありえない動きだった。アルハーンはその行方をなかば呆然とした視線で追う。


 崩れつつある足場。

 その支柱や横木の隙間を飛ぶように登攀とうはんしていく彼女の挙動は、重力など意に介していない。アルハーンがいちどまばたきする間で、リネッサは二十メートル以上ある足場の中ほどまで達している。


 そのバランスと敏捷性は、猿が森の樹上を縦横無尽に渡り歩くさまを完全に凌駕りょうがしていた。


 よじ登るというよりは『駆け抜ける』と表現すべき滑らかさで、彼女はその体をあっというまに足場の頂上へとたどり着かせた。完全に斜めになった足場の先で、ラッチとエマは目を閉じて床板にしがみついている。

 足場が倒れる速度は、もはや落下する速度と変わらない。地上はもう目と鼻の先だ。ぐんぐんと近づいてくる石床が視界いっぱいに広がる。

 

 地上のアルハーンが視認できたのは、リネッサがラッチの襟元へと手を伸ばした瞬間までだった。


 轟音が響き渡る。

 完全に崩壊した足場から舞い上がるほこりが身廊全体を煙らせた。


 そして時間が縫いとめられたような静寂が満ちる。


 ゆっくりと舞い降る埃の向こう、取り戻されはじめた視界のなかに、アルハーンは人影を見つけた。

 

 その姿がはっきりとするにつれ、アルハーンの体からも緊張が解けていく。

 

 リネッサと子供たちは、崩れ落ちた足場の残骸の山から少し離れた場所にいた。

 床に膝をついているリネッサ。その両腕にラッチとエマが抱きかかえられている。子供たちは事態が飲み込めていないのか、きょとんとした顔をリネッサに向けていた。

 

 二人を抱く腕をゆっくりいたリネッサは微笑を浮かべ、口を開いた。

 

「もう大丈夫」と優しく言ったつもりだった。


 だが、リネッサの喉から発せられた声は、野犬のような低い『うなり』だった。

 

 思考が凍りつく。

 リネッサは思わず自身の喉元を押さえた。


 今の獣じみた声はいったい何だ。自分の口から出たのか。


 そして自分を見つめる視線に気付く。リネッサはさびついた歯車のような動きで顔をそちらに向けた。


 驚愕に見開かれたエマの瞳。

 そこに映る『自分の姿』をリネッサは見てしまった。


 鋭く伸びた犬歯が、薄く開いた口の両端からのぞいている。

 黒かった彼女の瞳は、金色の虹彩とその中央で縦に細く絞られた瞳孔が取って代わっていた。


 反射的に顔を覆おうとした自分の両手が視界に入る。

 女性らしく華奢だったはずの指は節くれだち、分厚く長い爪が鈍く輝いていた。


 これは人間の姿ではない。


 自分の体に起きた変化を、心が全力で否定する。だが紛れもない現実であるという確信が彼女の胸を無情に貫いていた。


 そして、人を超えた領域に高められたリネッサの五感は、小さく震えるエマの声をはっきりと捉えてしまった。


「やだ……」


 びくり、とリネッサの肩が震える。

 そして彼女はエマを見た。


 少女の表情に浮かんでいたもの。

 それは人が人ならざるモノへと向ける純粋な『恐怖』だった。


 愛を注ぎ、いつくしんできた相手から向けられるその感情は、リネッサの心をずたずたに引き裂いていく。


 恐れていたことが現実になってしまった。

 自分がひた隠しにしてきた秘密を晒してしまった今、全てが崩壊していく。

 

 子供たちとの幸せな日々の記憶が一瞬で脳裏を駆け巡る。

 もう後戻りは出来ない。何もかもが自分の手から滑り落ちていく。

 

 強烈な鼓動がリネッサの心臓を打つ。

 彼女の全身がびくっと震えた。


 本来、『原初魔法』は術者の意思にのみ従う、いわば理性的な力である。

 だがリネッサが持つ原初魔法は、『理性』の対極とも言える『感情』も発動のトリガーとなり得るのだ。


 この時、子供たちの危機を目の当たりにし、リネッサが『感情』の赴くまま力任せに解き放った『魔力』。それが意思の制御を失い、せきを切ったような暴走を始めていた。


 そして何よりも愛する子供に恐怖されるという、かつてないほどの『絶望』という感情がそれを更に後押しする。


 坂を転がり始めた車輪のごとく、彼女の中から強烈な原初魔法が引き出されつつあった。

 

 身の内からとめどなくしぼり出される原初魔法が、リネッサ・エンテネスという存在を心優しい修道女から、『獣』の本能に支配されたモノへと変質させていく。

 

『獣化』。


 人類の魔法史上において、きわめてまれなその原初魔法が、リネッサの心と体を一片の慈悲も無しに書き換えていく。


 理性と愛をもって他者と接する優しき修道女の人格が、本能のままに獲物を狩り殺し、血肉を喰らう獣のそれへと変貌を遂げてゆくのだ。


 子供たちとの幸せな日々を何よりとうとぶリネッサの『愛』。

 その愛が、獲物を渇望する純粋な『狩猟本能』へと変換されていく。彼女が持つ愛の強さゆえに、そこから生まれた獣の本能もまた鋼のごとき強靭さを極めている。


 今、彼女の目の前でへたり込んでいる子供たちの姿。

 それはリネッサにとって、もはや狩りの『獲物』としか認識できない。


 リネッサは本能に従い、その手をゆっくりと子供たちへ伸ばす。唾液が犬歯を伝い、口の端から一滴ひとしずく垂れ落ちる。


 誰にも渡さない。

 これは『自分のモノ』だ。

 

 いつも優しかったリネッサの変貌に、ひっく、とエマがしゃくり上げた。隣にいるラッチが少女の手を取って体を寄せる。少年の目は怯えの色を隠せずにいるが、リネッサから視線を逸らさないだけの勇気はあった。

 ラッチの瞳に浮かぶ意思を、今のリネッサは敵意と見なす。


 だから彼女は、まず少年を『狩る』ことにした。


 リネッサの鋭く頑強な爪がゆっくりとラッチの喉に触れる。ほんの少し力を込めれば皮は裂け、肉は千切れ、血がほとばしり、骨は枯れ枝のように折れるだろう。


 それでもラッチはリネッサをじっと見つめていた。

 まっすぐに向けられる視線を、彼女の金色の虹彩は冷徹に受け止めている。リネッサの指先がぴくりと震える。


 リネッサの爪がラッチの喉に食い込もうとする寸前、彼女の視界のすみで『光』が一閃した。

 それに鋭く反応したリネッサが、はじけるように子供たちの前から飛び退すさる。


 修道服のベールの先端、その数ミリほどが薄く切り裂かれて宙に舞う。


 リネッサは石床の上で姿勢を低くし、その『敵』へと意識を向けた。

 小さな唸り声がリネッサの喉から紡がれる。それは獲物を横取りされた獣の怒りの発露なのだろう。


 彼女の視線の先で、『やいば』の切っ先が薄暗い大聖堂のなかにきらりと輝く。


 アルハーンは振り下ろした刀の先端をリネッサに向けたまま、彼女と子供たちの間に進み出た。

 集中力に満ちた彼の灰色の瞳。そこに揺らぎは微塵もない。


「目を覚ませ、リネッサ。子供にそんな殺気を向けるものでは無い」


 リネッサの形をした獣が歯をむきだして咆哮する。

 凄まじい敵意がアルハーンの肌を突き刺す。彼が久しく忘れていた戦士の本能が呼び覚まされていく。

 

 同時に、いま自分のすべきことが彼の胸の中で明瞭な形を取った。

『殺す』ためではない、『守る』ための戦い。


 アルハーン・サウドにとって、きっとそれは生まれて初めての経験だった。

 

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