第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (18)
大柄の体に着込んだ褐色のシャツの肩が、大工職人らしき男の体とすれ違いざまに軽くぶつかる。
「おっと、失礼」
アルハーン・サウドは歩みをわずかにゆるめ、苦笑まじりの神妙な顔で振り返り、相手に謝意を述べる。彼は小さくため息をついて前方に視線を戻した。
目的地に近づくにつれ、人混みの密度が目に見えて上がっていく。道の左右には簡素なテントがずらりと並び、その下で数多くの商人が雑貨や食材を無秩序に陳列している。自分が扱っている商品がいかに良質で買い得なのかを大声でアピールする声や、客と値切り合いのやり取りをする大げさな身振り。
熱病に浮かされたような賑やかさが際限なく続いている。
そんな喧騒の中、アルハーンはせかせかと歩くリネッサ・エンテネスの背中を追う。道行く人々の隙間に紛れつつある彼女の姿は、うっかりすると見失いそうになる。ようやく追いついたアルハーンが、リネッサの思いつめた横顔を覗きこむ。
「リネッサ。本当にラッチとエマは『大聖堂』に行ったのか?」
歩き続けるリネッサは前方をじっと見つめたまま、アルハーンに視線を向けようともしない。説明する手間も惜しむような苛立った声が返される。
「以前、二人がその話をしてるのを聞いた子がいるんです」
小さく息を吐き、少しだけ歩みをゆるめたリネッサがアルハーンを横目で見上げる。修道服のベールの乱れを指で整えながら、彼女はほんの少しだけ柔らかさの戻った声で告げた。
「貴方は寮に戻って下さい。あの子たちは私が連れ帰ります」
アルハーンが首を横に振る。
「そうはいかん。目を離した俺にも責任はある」
「子供たちの世話は私の仕事です。お気になさらず」
普段の一線を引くような刺々しさとは少し違う、後ろめたさのような物が漂う声音。アルハーンはそんなリネッサを一人で行かせることに、なにか不安に近い感覚を抱いていた。
「魔法教導学院とその関係者の安全は、俺の仕事の範疇だよ」
そう言ったアルハーンが迷いの無い足取りでリネッサの隣に並ぶ。
彼の様子を見たリネッサは黒い瞳を小さく震わせた。そして彼女はそれ以上特に何かを言うこともなく、伏せ気味にした視線を足元へと向けたまま歩き続けた。
◇
磨き上げられた石床の光沢。
それは窓から漏れ入るわずかな陽光をそっと照り返している。
ラッチとエマは手をつないだまま、『静寂』に満ちた空間へと足を踏み入れた。
ひっそりと静まり返った大聖堂、中央ドームの真下にある主身廊。
その先、最深奥に位置する至聖所は、聖職者のみが立ち入ることを許された空間であり、一段高い場所に祭壇が築かれている。祭壇の背後には緩やかな曲率を持つ壁があり、そこには大理石や貴金属からなる精微な装飾が一面になされていた。
だが本来そこにあるべき神聖さは、今は少々損なわれている。
その理由は入り口から身廊の半ば以上にわたって林立する木の『足場』だった。がっしりとした木材で立体的に組まれた格子状の足場が、そこら中に高々と築き上げられているのだ。
この時、大聖堂は大規模な『改修工事』をおこなっていた。
一般人の立ち入りは制限されており、日常執り行われる儀式も一時的に別の聖堂へ場所を移されている。
そしていくつかの都合と偶然により、この日の作業は中止されていた。
複数ある入口の一つがたまたま開いているのを見つけたラッチとエマは、期せずして無人の大聖堂に忍び込んだ格好である。だが二人は周囲の静けさに不審を抱くことはできなかった。
不自然なまでの人気の無さは、大聖堂の荘厳な気配をいや増すだけである。普段は信徒でごった返すこの場所であるが、その日常を知らぬ子供たちが今日の様子に違和感を持つことは難しいだろう。
小さな体を活かして、足場の間をすいすいとくぐり抜けたラッチとエマが、中央ドームの真下と思われるあたりで上を見上げる。
エマが唇をすぼめて可愛らしく唸る。
「うーん」
本来ここから聖女イリユナが描かれた『天井画』を眺めることができるはずだが、この時に限っては宙空に網の目のように巡らされた無数の足場が視界を完全に遮っていた。
その場でぐるぐると回りながら、エマが言う。
「みえないね、ラッチ」
左右をきょろきょろと見回していたラッチが、エマの手を引く。
「あっちから、うえにいけそう」
彼が指差す先、壁に掘り抜かれたアーチの向こうに上へと続く階段が見えていた。
◇
開けた道へと足を踏み入れた瞬間、アルハーンの前に『大聖堂』が巨大な姿を現した。
「あれだな」
「ええ」
うなずくリネッサは歩きながら左右を忙しなく見回す。子供たちは見当たらない。二人は大聖堂の正面入り口に向かった。
派手な外観の建物に反して、その内側の静けさに首をかしげたアルハーンがぽつりと呟く。
「ずいぶんと寂しい感じだな。もっと賑わっているのかと思ったが」
二人は石段を小走りに駆け上がりながら言葉を交わす。
「ここ数ヶ月、大掛かりな補修だか何かが続いているんです。一般の信徒は立ち入りを禁じられていると聞きました」
「なるほど」
石段を登り切ったところでリネッサが立ち止まる。固く閉じられた、巨大な木の扉が彼らの前に立ちはだかっている。
アルハーンが軽く扉に手を当てて押してみるが、やはりびくともしない。彼は扉を軽く拳で叩き、ゆっくりと左右を見渡しながらリネッサに言う。
「閉まってるぞ。子供たちは、中に入っていないんじゃないのか?」
リネッサが考えこむ。
大聖堂には自分も何度か来たことはある。確か出入口は他にもいくつかあったはずだ。建物の脇に回ろうとリネッサが踵を返そうとした時、彼女の腕をアルハーンががっしりと掴んだ。
「待て」
「えっ? 何ですか?」
リネッサが不審な視線を相手に向けた瞬間、アルハーンが片手で彼女を制する。
戦場で鍛え上げられた彼の鋭い五感がとらえた『異常』。アルハーンの油断ない視線が、周囲を最大限の警戒心で探っていた。
その瞬間、それは起きた。
◇
内壁を沿うように据えられた階段を登り切った先にある通廊。
それは中央ドーム直下の身廊を埋め尽くすように築かれた無数の足場の頂上とほぼ同じ高さだった。
地上から二十メートルほどの宙空、板を縦横に張り巡らされた足場は、まるで蜘蛛の巣のようだ。板と板の隙間からは遙か下の石床が作るモザイク模様が見て取れる。
通廊とドーム内部の広大な空間を隔てるのは、木製の低い欄干である。ラッチとエマは大人の胸の高さほどのそれにしがみついて、視線を上へと向けた。
中央ドームの組積構造が放射状の模様を整然と作っている。そしてドーム基部が主身廊の左右にある巨大な支柱へと接続される部分に、子供たちの目的のものがあった。
ドームの下半分を帯状にぐるりと囲むフレスコ画。
時計回りに十二分割された領域に、とある女性の一生が時系列順に描かれている。
それこそが、四百年以上前の天才的な芸術家が生み出した歴史的傑作、『祝福の環』である。
エマが欄干から身を乗り出し、食い入るように天井画を見つめる。人々のために自らの命を天に差し出した『聖女イリユナ』。慈愛と献身をその身で体現した彼女の生涯は、エマの憧れなのだ。
「ねえねえ、ラッチ。まんなかで、みたい」
頬を紅潮させたエマが浮かされたような声で通廊を歩いていく。
その先には、通廊から足場へと渡るためと思われる、急ごしらえの木の橋板があった。
エマはひょいと欄干を乗り越えて、橋板の上にとんと降り立つ。大人の職人が作業するための板は分厚く、少女程度の体重では撓みすらしない。
ちらりと橋板の横から下を眺める。二十メートル以上の高さだが、今のエマを怖気づかせることはできない。ずっと夢見てきたイリユナの天井画がすぐそこにあるのだ。
軽い足取りで橋板を進み、ドームの真下に築かれた足場の上にたどり着く。
屋内であるが、この広い空間の上層ではそれなりに空気の流れが感じられる。エマの金色の前髪と服の裾が小さくはためく。
欄干の内側からラッチが眉をひそめて呼びかけた。
「エマ、あぶないよ」
「へーきだよ」
振り返りもせず応えたエマが足場の板の上を弾むように歩いて行く。
わずかに唇をへの字にしたラッチは、少し考えてから自分も欄干を乗り越えて橋板の上に出た。
その時、彼は『それ』を感じた。歩いているエマは何も気付いていないのか、天井画を見上げながら不用心に足場を進んでいる。
ラッチは欄干に手を置いたまま、周囲に視線を巡らせる。
背中をざわっと撫でる冷たい感覚が走った。はっとエマの方を見やり、ラッチが注意をうながそうとする。
その瞬間、それは起きた。
◇
大槻キュウタは、巨大な石を高々と積み上げた『城壁』に手を当てていた。彼の体から発現する凄まじい魔力の奔流は、半径百メートル近い範囲の構造物や土壌に対して『硬化』を発動させている。
ふう、と息をついて、キュウタは壁から離れ、ちらりと太陽を見上げる。彼とサザレは朝からカノンブルヌの市内を忙しく駆けずり回り、あちこちの施設に対して『硬化』魔法による補強を行なっていた。
念のため周囲を警戒していたサザレが、キュウタの作業が終わったことを察して歩み寄ってくる。
小さくうなずいたキュウタが左右を見まわした。城壁の周辺はそれほど人通りは多くない。のんびりとした空気、いつもと同じ街の風景だ。
「さてと」
キュウタは疲れを振り払うように肩を軽くもみしだく。サザレの『未来視』によればそろそろのはずだ。
ぴくり、と視線を空へ振るサザレ。
そして少女は何かに耳を澄ますように目を閉じて、意識を集中した。次いで、ぱちりと開かれた青い瞳がキュウタに向く。
「来ます」
サザレの言葉に、キュウタは右手を地面にかざす。空気の層を硬化させて宙に『踏み台』を作った。
二人は無言で踏み台の上へひらりと飛び乗り、肩を寄せ合う。
その瞬間、それは起きた。
◇
帝都『カノンブルヌ』がある地域は、歴史以外の面でも極めて複雑な構造を持っている。
カノンブルヌが存在する大陸は、いくつかの巨大な『岩盤』の移動によって形成されたものだ。そして南北に隣接する、とある二つのプレートの境界線近くにカノンブルヌは位置している。
二つのプレートは互いにすれ違う運動を常に続けており、その速度は地質学的スケールでは極めて『高速』であった。
その運動によって、東西に長々と伸びる境界線の『ずれ』には応力が日々蓄えられている。
そして多くの要素から複合的に構成される閾値。そう表現できる点を超えた瞬間、『ずれ』に蓄えられたエネルギーは『解放』されるのだ。
その解放のタイミングは、人間の視点からは気まぐれにしか見えず、予めそれを知ることはほぼ不可能である。
そして今日、この瞬間、それは起きた。
百年に一度の規模の『地震』がカノンブルヌを襲ったのだ。




