第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (12)
リネッサ・エンテネスが木製の文字盤を指して尋ねる。
「これは、なーんだ?」
室内に子供たちの元気な声が響きわたる。
「クー」
「じゃあ、こっちは?」
「エー」
カノンブルヌ魔法教導学院の幼年部。その実情はほぼ託児所と見なして構わないだろう。
幼少時に原初魔法に覚醒し、なおかつ親元で暮らせない事情を持つ者、あるいは親自体が初めからいない者。そんな子供たちを教会が一手に引き受け、学院施設に預けているのだ。
幼年部の寮に入っている子供は、おおよそ六歳前後の者が多くを占めている。そして当然ながら、学院は彼らにも教育を施している。学院の方針としてはまず読み書きに習熟させることを優先していた。それは複雑な呪文や魔法陣を取り扱うための大前提であるのだ。
というわけで今、子供たちは床の上に車座になり声を合わせて文字を音読して覚える練習をしている。
中央には修道服姿のリネッサ・エンテネスが座り、文字が書かれた板を胸の前に持っている。彼女が指差す文字を子供たちは競うように読み上げていくのだ。遊び心を加えた学習内容は主にリネッサが考案したものである。
一通りのおさらいが済んだところで、リネッサは文字盤を床に置いた。
「はい、じゃあ今日はおしまい」
「えーっ」や「わーい」といった声が上がる。子供たちの反応は様々だ。もっと続けたいとねだったり、やっと外に遊びに行けることにはしゃいだり。リネッサは小さく息をつき立ち上がる。
色々としんどいことも多い仕事だが、楽しさはそれをあっさりと帳消しにしてくれる。
だがどんなに充実した日々の中でも、リネッサの胸には小さな棘がいつも残っていた。
自分の心と体を強制的に『獣』へと変貌させる『力』。それは彼女の意思に関係なく、時折思い出したかのようにリネッサのなかから発現する。意思や理性でそれを制御することは非常に難しかった。
力が発現しかける気配を感じたら出来るだけ人気の無いところへ隠れ、力が自然に収まるのを待つことしか出来なかったのだ。先日の男には悪いことをした。せめて命だけは取り留めていて欲しいと、彼女は未だに深く悔やんでいる。
力が憎い。
何よりも暴力を嫌う自分が、何故こんな仕打ちを受けなければならないのだろうか。一体どんな罪が自分にこんな呪いを背負わせたのだろうか。
生まれた時から彼女はこの力に苦しめられてきた。幼少時は感情の昂ぶりに呼応するように『力』が発現し、狂ったように暴れまわるリネッサに周囲は手を焼かせたものだ。
とは言え、体も小さな時分では暴れたとしてもたかが知れており、せいぜい度の強い癇癪持ち程度にしか思われていなかった。
だが、リネッサが成長するにつれ、彼女の『力』は徐々に周囲の人々へ恐怖を与えるほどの領域へと至る。決定的な事件が起きたのは十二歳の頃だ。
たまたま家の用事で訪れた街で、リネッサは一頭の牛が暴れている場面に出くわしたのだ。そして折り悪くその牛が彼女の方へと襲い掛かってきたことが惨劇の始まりだった。
命の危険を直感したリネッサの体が無意識に反応し、『力』を発現させてしまったのだ。彼女にはその時の記憶が欠落している。だが何が起こったのかは明白である。リネッサは猛り狂う牛の頭蓋を拳で殴り潰し、脚を引きちぎり、腹を素手で裂いて内臓を引き出したのだ。
リネッサが正気を取り戻したとき、目の前に転がっていたのは原型をとどめていない牛の死体だった。そして血にまみれた自分の両手。それが何よりの証拠だ。
しんと静まり返った群衆の、恐怖に満ちた視線は今でもリネッサの胸を締め付けて止まない。
彼女は逃げ出すように街を出た。
遠い親戚のつてを無理に頼って、生まれた地から遙か離れたカノンブルヌのイリユヌス教会に身を置いたのは、赦しを得たい一心からのことだった。だが、神はいまだにリネッサに救済を与えてくれる気配すらない。
きゃっきゃっと声を上げて数人の子供がリネッサにしがみつく。親と暮らすことのできない彼らにとって、リネッサは甘えられる母であり姉である。そしてリネッサにとってもこの子供たちは紛れもなく、かけがえのない家族なのだ。
もし自分の力を子供たちに知られたらどうなるのだろか。
それだけではない。もし万が一、狂気にとらわれた自分の力が子供たちを傷つけてしまったならば。それを想像するだけでリネッサの体は震える。
誰にも相談は出来ない。自分の恐ろしい身の上を他者に知られ、その結末がどうなるのか想像するだけで恐ろしいのだ。
なぜこんなに苦しまなくてはならないのか。
自分はただ、この子供たちと平穏に過ごしていたいだけなのに。
切ない思いで子供たちの顔を眺めるリネッサ。
そして、彼女の目がぱちぱちと瞬かれる。物思いにふけっていたせいで、気付くべき違和感を見逃していたようだ。
「ラッチはどこに行ったの?」
眉間にしわを寄せたリネッサに、子供たちは無邪気に答える。
「しらなーい」
「しーらない」
「ガクインのほうにいったー」
がっくりと両肩を落としたリネッサを、子供たちが不思議そうに眺めている。
「またあの子は……」
そしてリネッサは大きくため息をついて、幼年部一番の問題児を連れ戻すべく戸口の方へと歩き出した。
◇
カノンブルヌ魔法教導学院の学舎から正門へと続くゆるやかな石段の脇。
アルハーン・サウドはそこに腰を降ろし、さてどうするかと頬杖をついた。
彼の隣にはきょとんとした顔の少年が座っている。せいぜい六歳かそこらの年頃だろう。身なりはそれなりにきちんとしており、浮浪児が迷い込んだというわけではなさそうだ。
少年は『ラッチ』と名乗った。どうやらアダ名らしいのだが、本当の名を教えてはくれなかった。そちらはあまりお気に入りでは無い様子だ。
こんな子供を不審者扱いするのもどうかと思われた。だがアルハーンは学院の見廻り仕事を請け負った身として、少し気の早い初仕事をすることに決めた。
「ラッチ。家はどこだ? 送って行ってやる」
「イエはここー」
「ここは家じゃない。『魔法』を教える場所だろ」
「ここだもーん」
足元の石や土を枝でいじくり回しながら、のらりくらりと答えるラッチ。
アルハーンは渋い顔をして目を閉じ、いったいどうしたものかと腕組みをする。その時、ふと隣の少年が身動きする気配を感じた。
目を開けたアルハーンにラッチがらんらんと輝く視線を向けている。少年の興味はアルハーンが腰に差した刀に注がれていた。
「なー、にいちゃん。それ、さわっていい?」
きらきらとしたラッチの顔。それはアルハーンも身に覚えがある感情だ。まだ年端もいかぬ頃、部族の大人たちが持つ刀に吸い寄せられるような思いを持ったものだ。
ふっと笑みをこぼし、アルハーンは腰帯から刀を鞘ごと抜いた。
「重いぞ」
口を半開きにしたラッチが伸ばした両手に、アルハーンがひょいと刀を乗せる。
「お……おおー」
ラッチの口から感極まった声が漏れる。ずいぶんと大げさな反応にアルハーンの口元がゆるんだ。
まるで自分の幼いころを見ているような気分だった。もしかしたら、父もこんな風に自分を見つめていたのかもしれない。故郷は半ば捨てたような身だが、ふとした時に心の中によみがえる記憶は色褪せることはなかった。
「ラッチ!」
突然、若い女性の甲高い声が後ろから叩きつけられる。目を丸くして振り返ったアルハーンは、石段の上に立つ修道服に身を包んだ人物を見た。
西方諸国においてはさして珍しくもない、イリユヌス教会の一般的な修道女だ。自分と同じくらいの年代だろうか。少々神経質そうな表情であるが、根底にある生真面目さの副産物のようにも思える。
アルハーンは、ラッチの名前を呼んだ彼女を救いの船とばかりに言った。
「君、ラッチの知り合いか? ならちょうどいい、悪いがこの子の家まで……」
アルハーンの言葉は途中で打ち切られた。
無言でつかつかと歩み寄ったリネッサが、ラッチの手から刀を取り上げ地面の上に放り捨てたのだ。刀は石段の角に当たり、景気の良い音をさせて二度三度転がっていく。「あーあ」というラッチの声が呑気に続く。
「子供にそんな物を触らせないで下さい」
アルハーンに向けられた言葉はほんの少し震えている。
女性の黒い瞳に浮かぶ、絶望に似た何かの感情をアルハーンは少しのあいだじっと黙視していた。
やがてアルハーンはふっと視線を伏せ、地に落ちた刀を拾い上げながらゆっくりと立った。威圧感のある彼の体は、女性よりも頭一つ分以上の上背だ。びくっと身をすくめた女性だったが、一歩たりとも退く様子は無い。
彼女の張り詰めた声がアルハーンの隣の少年にかけられる。
「ラッチ。こっちに来なさい」
「うんっ」
少年は素直に女性の元へ駆け寄り、彼女の腕にしがみついた。ラッチの懐きかたを見るに、この人に任せておけば問題ないのだろう、とアルハーンは内心で安堵する。
それはそれでいいのだが、彼女の振る舞いからして、どうやら自分とは相容れない種類の人間のようだ。これ以上話がこじれない内にここから退散するのが無難に思える。
「では、失礼」
それだけを告げて、アルハーンは市街へと通じる門へと歩き始めた。
リネッサ・エンテネスはぼーっと見上げてくるラッチの頭を掌で優しく包みながら、アルハーン・サウドの後ろ姿を不愉快そうに見つめていた。
剣を持ち歩き見せびらかすような野蛮な人物を、何も知らぬ無垢な子供たちに近づけることは絶対に認められない。
力は災厄しか生み出さない。
リネッサの人生がそれを証明しているのだ。
あの男のような『戦士』とは、彼女にとって憎むべき『力』の象徴以外の何物でもなかった。
◇
夕日がカノンブルヌの街並みを赤く染めていく。
窓から顔を出してちらりと空を見た大槻キュウタは、支え棒を外して跳ね上げ式の窓をそっと閉じた。
ポケットを探って一枚の札を取り出し、テーブルの上のロウソクに向ける。小さな声で短くつぶやかれる呪文に反応し、札の上に描かれた魔法陣が淡く青い光をまとう。
ぽん、と音を立ててロウソクに火が灯る。
魔法もずいぶんと便利になったものだ、とキュウタは思う。少し前までは火を着けるための術式も長々とした呪文やかさばる魔法陣が必要だったものだというのに。そして、それですら並の魔術士の魔力では発火現象を生み出すには一苦労を要していたのだ。
だが魔術士たちが不断の努力を惜しまぬことで、魔法の術式は常に進歩を続けている。長年の研究の結果、徐々に魔法の技術は洗練されつつある。無駄を削ぎ落とし、効率的な魔力消費を実現するノウハウも蓄積されてきた。
もっとも、キュウタやサザレにとって術式の『効率』というのはさほど意味は無い。
二十万年近い時間をかけて鍛えぬかれた二人の魔力は、構造に多少不備がある魔法術式であろうと、凄まじい現象を発動させることが出来るのだ。
キュウタは寝室へと続くドアをそっと開けた。
窓を閉め切った薄暗い部屋の中には、神殿のごとく静謐な空気が満ちている。それは寝台の上で正座し瞑目する少女のせいでもあったろう。
サザレの体から発せられていた魔力の気配は微弱ではあるが、まるで深い湖の底のような揺るぎなさを備えている。それは彼女が行使している魔法、『未来視』に求められる繊細な制御を示唆していた。
キュウタの気配を感じ取ったのか、ゆっくりと両の瞳が開く。静かに息を長々と吐き出したサザレが体から力を抜いた。
ちらりとこちらを見たサザレに、キュウタが微笑んだ。
「もう夕方だ。食事にしよう。準備は出来てるよ」
いつもなら「食事」の一言で目を輝かせて飼い主にじゃれつく犬のようになるところだが、この日のサザレはそうではなかった。
少女の様子を敏感に察したキュウタが扉を後ろ手に閉めた。すでに彼の唇は引き締められ、普段の柔和な表情は裏に隠れている。
青い瞳でじっとキュウタを見つめたまま、サザレがぽつりと呼びかける。
「キュウタ」
「何か視えた?」
「はい。といっても、魔法の発展に直接の影響は無い事象ですが」
少女の声にこめられた感情の意味。長い年月のあいだ、ずっと彼女を見続けてきたキュウタには、それが分かるような気がしていた。
キュウタは寝台に腰掛けて、サザレに先を促すような視線を向ける。
彼女は小さなため息をついて視線を伏せた。サザレには珍しくどこか歯切れが悪い。
「カノンブルヌの近い未来について、です」
その声音は、キュウタの眼差しに少しだけ険しい色を宿らせた。




