第一章 母なる魔術士 (終)
二人の少女が川の浅瀬で声を上げながら走り回っている。春先とはいえ水はまだまだ冷たいのだろう。
獣の皮でできた腰巻きからのぞく白い足がすらりと伸びている。双子の少女らが生まれてから、今年の春で十三年になる。
大槻キュウタの中では、五年前に『火』の原初魔法に目覚めた少女を<姉>と呼ぶことにしている。
キュウタは五年ほど、この双子に付き従うように行動を共にし、さまざまな危険から彼女らを守り続けている。『母なる魔術士』の血統が不慮の事故などで失われてしまっては、彼と神の計画はそこで終了になってしまうのだから。
それは現代風に言えばストーカーまがいの振る舞いである。だがキュウタがたびたび洞窟に持ち込む食糧やら何やらのおかげか、特にトラブルは起きていない。
そうこうする内にキュウタは双子に妙になつかれてしまっている。というわけで、今では彼は彼女らの子守係から格上げされ、最も距離の近しい『男性』として周囲から認識されているようだった。
その意味は肉体上健全な十七歳の男子であるキュウタには、十二分に理解できるつもりである。言葉によるコミュニケーションこそ満足にいかないが、周りの連中が何を考えているかくらいはさすがに読み取れるようになっている。
健康な女性に育ちつつある彼女たちを見ている内に、彼自身つい魔が差しそうにならないこともないのだ。
彼は邪念を振り払うようにそっと神に問いかける。
「『双子』ってことは、二人とも魔法の素質があるんだろ?」
『おそらく。ただ、私も注意して見ているんですが、妹さんの方が魔法を使った形跡はないですね』
「なあ、『母なる魔術士』って一人だけって言ってなかったっけ」
神が可愛らしい唸り声を上げる。腕組みをして眉間にしわを寄せている様子が目に浮かぶ。
『うーん。歴史がどんどん書き換わっているようですねえ』
「あっさり言うなよ……なんか不安になってきたな」
『ま、まあ、魔術士の血統が多いに越したことはないので、ドンマイです!』
大きくため息をついたキュウタの背中に、思い切りぶつかってくる二つのかたまり。これは双子たちが幼い頃から続く、いつもの遊びの一環だ。
少女たちがキュウタにしがみついて、何が面白いのか夢中で彼の髪の毛や腰巻きをいじくり回す。こうして間近でじっくり見てみると、彼女たちは実に整った顔立ちであることが分かる。
やや茶色がかった黒髪に、透き通るような大きく青い瞳。背中に押し付けられる柔らかな膨らみは、こう何というか。
彼は、はっと気を取り直し、いかんいかんと首を振る。そんなキュウタの様子に、二組の問いかけるような眼差しが向く。その純朴でまっすぐな視線は、彼の心を大きく揺さぶっていた。
こんな気分は文字通り二千年ぶりである。
『モテモテですね。折角だから子作りしてみては?』
別に『種』の方は魔術士の血統に影響しませんし、と付け加える神をキュウタは心の中で一喝して追い払う。そんなことをするために自分は生きているわけではないのだ。全ては復讐のためなのだと。
神がため息をつく音が聞こえたような気がした。
◇
そろそろ夕方が近くなる頃合い、キュウタと双子はねぐらの洞窟へ向かって川沿いに歩いていた。
最近は数世代前に比べて食糧収集に費やされる労力が徐々に少なくなっている。キュウタが火の知識を伝えてから、コミュニティの食糧事情は保存性や衛生的な面において劇的に改善されていた。
双子たちが背の高い枝の先に咲いた花を、手に持った枝でつっついて遊んでいる。
食事に余裕が出来てくると、今のキュウタたちのようにあちこちをぶらぶら歩き回る時間が生まれる。自然界に存在する色々な物を興味深げに見つめ、いじり回す双子たち。その様子を見ていると、人類が進んできた歴史がキュウタの前に姿を現しているように思える。
暇を持て余すということが、知性の進歩に繋がるということをキュウタはまさにその体で体験していたのだ。
三人は森と草原の境界あたりに辿り着いている。
ふと<妹>が何かの『気配』にいち早く気付き、その様子を見て取ったキュウタが二人を背にかばうように前に出た。
神が今さらながら警告する。
『正面にいます』
「ああ。大丈夫だ」
大木の幹の後ろから、巨大な影がゆらりと出現する。
その『熊』は、四足歩行でゆっくりと三人の方へ近づきながら、喉の奥から低い唸り声を上げている。
キュウタは周囲にすばやく視線を飛ばしながら神に尋ねる。
「こいつ一匹だけか?」
『はい』
「ならいいや」
その熊は四つん這いになった状態でさえ、キュウタと頭の高さがあまり変わらない巨体だった。二本足で立ち上がったらとてつもない迫力になるだろう。
双子が同時に小さな悲鳴を上げる。
それが引き金になったのか、熊が一気に飛びかかってきた。
五百キロほどある体重から繰り出される、頑丈な爪と牙による攻撃は、この熊を森の中で王者の位置につけている。目の前にいるちっぽけな二本足の動物など、何の苦もなく引き裂いてこの日の食事に変えてしまえるはずだった。
だが、その爪はキュウタの顔に届く数センチ手前で、『見えない壁』に衝突して弾かれた。金属の壁に激突したような音が森に響く。何が起こったのか当然理解できない熊は、再びキュウタに突進し前脚を叩きつける。
それもやはり見えない壁に阻止され、数本の爪の先がひび割れて欠けてしまう。
痛みがさらに熊に怒りを与え、双子たちの耳を裂くような咆哮が森に響き渡る。
熊は荒れ狂い、見えない壁を突き破ろうと何度も突進し、爪や牙でキュウタを切り裂こうとする。
だがどれだけ繰り返しても、熊の攻撃はキュウタに届く寸前、透明で強固な壁に跳ね返されてしまうのだ。
キュウタが二千年鍛錬してきた強力無比な『魔力』から発現する『硬化』魔法。それは彼の目の前に鋼鉄以上の強度を持つ『空気の壁』を作り出していたのだ。
「ごめんな」
キュウタが哀しそうにつぶやき、右手の指をまっすぐに伸ばし貫手を作る。
再び空気の壁に激突し、一瞬動きの止まった熊。
その毛むくじゃらの喉元を、キュウタは『硬化』をかけた貫手で深々と刺し貫いた。
だが、このサイズの熊が一撃で絶命する事はないと、キュウタは二千年の経験の中で知っている。だから、彼は暴れる熊を『空気の壁』で身動きできないように押さえつけ、何度も喉を貫手で刺し、頭を拳で殴った。
熊が死んだのは空が夕焼けに染まり始めた頃だった。
<姉>が熊の死体をこわごわと眺め回している。食糧にできるかどうか考えているのだろうか、とキュウタが感心していると、突然<妹>が彼の体にしがみついてきた。
<妹>の大きく青い瞳から涙があふれそうになっている。悲しそうな細い声を出しながら、熊の血がべっとりとついたキュウタの手を<妹>が舌で丁寧に舐め始めた。
なかなか取れない血の脂に、<妹>は悲壮な声を上げながらキュウタの手を舐め続けている。
きょとんとしていたキュウタがやがて、「ああそうか」と思い至る。
(大丈夫。僕はケガなんてしていないよ)
心の中でそう呟く。
キュウタは腰巻きで手の血をぬぐい、どこにも傷一つないことを<妹>に見せた。まだ不安そうな顔をする<妹>をなだめるように、彼女の頭を優しく撫でてやる。
小さく震えている<妹>の体が落ち着くまで、キュウタはそっと抱き締め続けていた。
その小さな体の暖かさは、キュウタの中に今まで経験したことのない感情を芽生えさせていた。
◇
変化はすでに現れていた。
<姉>が使う『火』の原初魔法は、共同体の中でも重宝がられている。時には狩りに同行し、動物を煙で追い立てたりもしている。もちろん<姉>のそばには常にキュウタが随伴し、彼女に万が一の危険がないように守り続けている。
何度か野生生物が彼女に肉薄してきたが、その度にキュウタが魔法を行使して追い払った。おそらく前の歴史では、こういう状況下で彼女が命を落としたのだろう。
彼女は知性の面でもずば抜けて優れていた。キュウタが色々と道具を作り出す様子を横で見ていたかと思えば、いつの間にか自分でも独自の工夫をこらして彼以上の器用さで物を作ってみせるのだ。
そうして魔法や、知恵を使って彼女は徐々に共同体における自分の地位を高めている。
ある日、神の方からキュウタに報告が寄せられる。
それは『未来視』がもたらした情報だった。
『未来は安定しています。彼女はこの共同体の長として、今後数十年近隣の人々を率いることになります』
「彼女の血統の方は大丈夫なのか?」
『ええ。彼女の子孫の血統は、時空上に強く定着しています』
ようやく一山越えたかなとキュウタも安堵する。ここさえ切り抜ければ後はどうにでもなるような気がしていた。
そしてこの時のキュウタは、まだ気付いていなかった。神がある情報を意図的に隠していることに。
◇
突然、それは訪れた。
双子の<妹>の方が病に倒れたのだ。
彼女は見る見るうちに衰弱し、食事も受け付けずに骨と皮だけになっている。<姉>は共同体の長としての仕事もそこそこに、弱る一方の<妹>を日々甲斐甲斐しく見守っている。だが、それは<妹>の心を癒やしこそすれ、肉体に対して何ら影響を与えるものではない。
『死』の概念を彼らはすでに有している。一度活動を止めて冷たくなった者は二度と動くことはないのだと。死を彼らなりに理解し、そこから呼び覚まされる感情。
その先に、人類の新たな精神的進化の道筋の一つがあるのだろう。
無数の生と死を見つめる中で、人はその心を育んできたに違いなかった。それはとても苦痛に満ちた繰り返しだろうとキュウタは思う。
洞窟の奥に一人で横たわり、今にも消え入りそうな呼吸を繰り返している<妹>を見つめ、キュウタはぽつりと問う。
「知っていたんだな」
『……はい』
「なぜ、隠していた」
『今後の歴史において、<姉>の血統を守ることが重要だからです』
それは理解できた。例えキュウタの能力をもってしても、双子の姉妹両方を常に守り続けることは不可能だろう。まして病に対して、彼の能力が活かされる場面などほとんどあるまい。
ならば、後世により強く影響するであろう<姉>から始まる魔術士の血統。それを守るほうが大事なのだ。
だから神を責めることなど筋違いだ。それにキュウタも自分が彼女たちを利用している事を自覚している。自分の復讐を成し遂げるためだけに、彼女たちを守っていただけなのだ。
彼女たちと一緒に過ごしてきたこの数年も、二千年以上の時を生きた自分の中ではほんの一瞬の出来事に過ぎない。
それでも、キュウタの中に灯った一つの想いがその言葉を紡ぎだした。
「この子を助けたい」
きっとこれは叶わない願いなのだろうと思う。それでも願わずにはいられなかった。
かつて彼は魔族との絶望的な戦争の中で、戦いもせず部屋の隅で震えながら祈るだけの人々を愚かだと見下していた。何の役にも立たない物にすがる暇があるなら、弾の一発でも撃ってこいと。
だが今なら分かる気がする。神に祈りを捧げる人間の気持ちが理解できたように思う。
そして神は静かに答えた。
『もちろんです』
耳を疑うように、彼は視線をさまよわせる。
そして洞窟の中に光が生まれた。どこからともなく光の雨が降り注ぎ、一人の女性が宙に出現する。
二千年ぶりに見る表情は、相変わらずの美しさだった。
神がにっこりと微笑む。
呆然としつつキュウタが口を何とかこじ開ける。
「あ、あの……」
『彼女は私が助けます』
光の粒子をまとった神が、キュウタに真剣な視線を向ける。
『ただし、それは彼女に貴方と同じ運命を背負わせることになります』
「同じって……それは」
『私の最後の力を使い、彼女を『不老』にします』
言葉を失ったキュウタに、神は表情を和らげる。
『力を使い切った私は、これで『消える』ことになります。後は貴方が歴史の進むべき道を決めて下さい。貴方ならきっと出来ます』
「どうして……そこまで」
『これは単なる感傷ではないのです』
少しずつ、神の姿が薄れ始める。今にも息絶えようかという<妹>に、優しげな神の視線が向けられる。
『彼女は今後の世界の歴史改変に必要な人間なのです』
「僕は……どうしたらいいんだ。これから何をしたらいいのかも分からないのに」
『大丈夫。私が見た未来視は、私がこうする事を前提とした未来なのです。この子と共に進みなさい。そして貴方も自らの心の赴くまま生きて下さい。貴方の信じる未来のために』
キュウタは、神が何故自分に未来を託せるのだろうと思った。たまたま歴史の結び目、『結節点』に立っていただけの、ただの子供なのに。自分は復讐すること以外に生きる意味を見出だせていないというのに。
神の体の輪郭がぼやける。
キュウタは神の顔をしっかりと見つめ、その姿を心に焼き付けた。この人の事を覚えていられるのは、世界中で自分だけなのだから。
「貴方の名前を聞いてなかった」
目を丸くした神がほんの少し頬を赤らめた。
『私は時を司る者、『サザレ』。貴方の未来に光があらんことを』
神はそういって<妹>の体に自身を重ねあわせた。体を溶け合わせるように神の姿が消えていく。
そして、洞窟を満たしていた光の雨が不意に消滅する。
周囲は元の薄暗い闇に満たされた。
キュウタはゆっくりと<妹>の顔をのぞきこむ。
心なしか顔色も赤みが差し、呼吸も規則的で穏やかな物に変わっていた。ぱちりと彼女の目があき、青い瞳がキュウタの視線を捉える。
先ほどまで死にかけていたはずの彼女がむっくりと体を起こす。首をかしげてキュウタを見つめる。自分の体に起きた変化に戸惑っているようだった。
キュウタは<妹>の前にそっと手を差し出した。そうするのがきっと正解なのだと思える。自分はうまく笑えているだろうかと思いつつ、キュウタは彼女に向かって初めて『言葉』を使った。
「一緒に行こう。神さまがそう言ってるんだ、きっと大丈夫」
<妹>は少年の顔を見つめて、にっこりと微笑んだ。たとえ言葉が分からずとも、少年が差し出した手の意味は分かっていた。
◇
夜の森は静まり返り、夜行性の鳥が遠くで鳴く声だけが微かに響いている。
とある大樹の上に簡素な住居が組まれている。その中には男女が少し離れて床についている。彼らは毛皮を裁断したものを布団代わりにして寒さをしのいでいた。
少女はまだ星がちらついている時間に目が覚めた。隣で眠っているキュウタは安らかな寝息を立てている。
二人が一緒に暮らし始めてから三十年が経っている。<姉>が長としてまとめている共同体は、日増しに人数が増えていた。歳相応に老け込んだ<姉>もまだまだ長生きしそうで、この少女にとっても誇らしいことである。
少女はそっと寝床を抜け出し、梯子をするすると伝って地面に降りる。月明かりに照らされるその姿は三十年前から変わらず、十三歳の少女のままである。茶色がかった黒い長髪が夜風にそよぐ。
ゆっくりと裸足で草を踏みしめると、冷たい感触が心を研ぎ澄ませていく。彼女は目を閉じて、意識を集中させる。
少女の心が知覚する『歴史』は現在から未来へと続く一つの『タペストリー』だった。タペストリーには様々な情景が織り込まれており、それはところどころ不透明だったりモノクロだったり、あるいは複数の相反する情景が重ね合わされていたりする。
タペストリーの途中、ある一点に織り込まれた情景が明瞭な色彩とともに浮かび上がり、みずみずしい存在感を放ち始める。
目を閉じたまま、彼女は唇を緩ませる。
すとん、と軽やかな足音をさせ、少女の背後に人が降り立つ。彼女は振り向きもせず楽しげに告げた。
「見えましたよ、キュウタ」
少女は<姉>と同様に聡明である。キュウタから言葉を教わる内に、複雑な会話が可能なレベルに一年ほどで到達した。
ある程度成長が進んでからの言語習得は困難さが付きまとうが、二人に備わった『不老』は脳の言語処理機能に極めて高い柔軟性を与えている。今後彼らが新たな言語を学ぶ際にも、さほど労力は要しないだろう。
そして彼女が手にした原初魔法は『未来視』。時を司る神に救われた彼女が持つにふさわしい力だろう。キュウタが進むべき歴史を指し示す強力な道しるべとなるはずだ。
キュウタは少女の後ろ姿をしばらく眺めてから、空を見上げた。
東の方向から少しずつ朝の気配が忍び寄りつつある。
「じゃあ行くか、サザレ」
自分の名を呼ばれた少女が、にっこりと笑って振り向く。それは、かつて自分の命を救ってくれた者の名でもあると、キュウタから聞かされた。その名を自分が名乗れることを彼女は嬉しく思う。
少女の青い瞳は果てしない未来を見通すように透き通っている。
無限の寿命を持つ、大槻キュウタとサザレ。
人類存亡を賭けた二十万年の旅が始まった。