第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (9)
朝の冷えた空気が肌を優しく刺し、人々の目覚めを促している。
だが、カノンブルヌ魔法教導学院、その幼年部の寮施設は、ぼんやりとした微睡みに包まれていた。
この寮で暮らす子供たちが日々の食事に使っている部屋。
中央の丸テーブルは子供たち全員が同時に着席できるほどの大きさである。それはこの寮の責任者であり、隣接するイリユヌス教施設の管理者である老司祭の方針から据えられた物でもあった。
いつも一緒に食事をし、子供らしい益体のない会話を楽しみ、時にはかんしゃくを起こした者同士がささやかな諍いを起こす。それが同じ屋根の下で肩を寄せ合い暮らす『家族』の姿であるのだ、と。
寮で世話をされている子供たちは皆、大なり小なり何らかの問題を抱えている。それは生まれた家庭そのものであったり、それを取り巻く環境であったり、あるいはもっと理不尽な何かであったり。だがそれを客観的に自覚するには、彼らの誰もが幼すぎる。
だからこそ、子供たちには家族の意味を彼らなりに理解できるような生活を送ってほしい。そんな、せめてもの願いの一端をこうしてちょっとした家具に込めているのだ。
丸テーブルについた子供たちは食事の時を待ちながら、体には少し大きい椅子の上で足をぶらぶらさせている。何人かはまだ寝足りないのか、うつらうつらしており、今にもテーブルに頭を打ち付けそうな危うさを見せている。
隣の厨房ではミルクを温める匂いが立ち込めていた。
リネッサ・エンテネスはパンと干し魚を皿に盛りながら、竈の火加減を確認する。修道服の上から着けている前掛けは長年使い込まれた風合いが見て取れ、彼女の普段からの熱心な仕事ぶりを反映していた。
かすかな気疲れを感じさせる細々とした吐息。それがリネッサの唇から漏れる。
いつもと同じ日常だ。
朝の食事を済ませた後は皆に本を読み聞かせたり、少し年長の子らとは一緒に寮の家事をしたり、空いた時間には文字の読み書きを教えたりもしている。
そうだ。そうやっていつも通りの生活をすればいい。
ふと、自分の『手』が視界に入る。
水仕事やら何やらで少しばかり荒れ気味の肌だが特に異常は無い。
その瞬間、リネッサの脳裏におぞましい光景がフラッシュバックする。
記憶は断片的な光景がつぎはぎされた物でしかない。
だがその臨場感はまぎれもなく実際にあった出来事だ。
見上げるような大男が脂ぎった顔を近づけ、刃物を突きつけてくる場面。肘関節を逆に折られ、痛みよりも先に呆気に取られた男の間抜け顔。
路地裏を逃げまわる男を狩猟本能に似た何かに衝き動かされて追い詰め、全身をくまなく殴打し、止めに容赦なく顔面へ叩き込んだ拳の生々しい感触。
ごぼごぼと声にならない声を上げながら地に崩れ落ち、身動きを止めた男の姿を高揚感をもって見下ろす自分。
『獣』の本能が心と体を満たし、『リネッサ・エンテネス』という人間の自我を塗り潰していく。圧倒的な力に身を委ねる、逆らいがたい背徳的な快楽があの時の自分を支配していた。
「リネッサねえちゃん、ご飯まだー?」
リネッサの呼吸が一瞬止まる。
無邪気な子供たちの声が彼女を現実に引き戻していた。
胸の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされ、額にうっすらと汗がにじんでいる。
「も、もうちょっとだから、待ってなさい」
震える唇を無理やり動かし、可能なかぎり平静を装う。
祈るように胸の前で手を組み、ゆっくりと呼吸を整えた。
そしてもう一度、恐る恐る記憶を辿ってみる。あの大男に対して自分がした仕打ちはきっと事実なのだろう。
だが、その先がよく思い出せなかった。
リネッサが自我を完全に取り戻したとき、彼女はすでに自室に戻っていたのだ。それでも、昨夜『もう一つの出来事』があったという感覚は確かにある。何かに強く心を揺さぶられた残滓がぼんやりと胸に残っていた。
かすかに残っているイメージは暗闇の中に浮かぶ『青い影』。それが何を意味しているのかまるで見当もつかない。
深く息を吐き出し、もう一度自分の手を見る。
こびりついた血は洗い流せても、忌まわしい記憶ははっきりと心に刻み込まれている。
リネッサ・エンテネスの人生に呪いのようにつきまとう『力』。
彼女の身に巣食うその力は日々強さを増している。
いつかそれがリネッサを完全に飲み込み、自分が自分でなくなる日が来るのではという恐怖。それは彼女の心に楔のように深く打ち込まれている。
◇
帝都『カノンブルヌ』は、なだらかな丘が点在する土地でもある。
街並みを高みから見下ろせる場所には、いくつもの印象的な建築物が築かれている。造られた時代や背景もさまざまなそれらはカノンブルヌという都市の歴史の長さと複雑さの分かりやすい指標でもあった。
その一つ、四百年ほど前に若くして亡くなった王妃の為に造られた墓廟。巨大なドーム型の白い石屋根が、緑鮮やかな樹々の間から落ち着いた姿を見せている。周囲に高くそびえる四本の尖塔の先端に据えられた金属装飾が、午前の陽光を鋭く反射していた。
遠くに見えるその荘厳な威容に、大槻キュウタは言葉にできないものを抱いていた。人の力が成し遂げ創り上げた物に込められた想いや願い。その強さは時代を超えて、見ず知らずのキュウタの心にすら迫るような情動を与えうるのだ。
キュウタとサザレはこの日、朝から何をするでもなくぶらぶらと二人で街を散策していた。
シンプルなシャツとズボンはお揃いのデザインだ。キュウタにしてみればどうにも照れくさい気分もある格好なのだが、サザレが嬉しそうにしているのを見ると、まあいいかと苦笑いしてしまう。
あたたかな陽射しの下、いくつもの露店が地べたに商品を広げていた。ここは市民活動の中心に近い区域である。行政施設をはじめとした大きな建物に囲まれ、道路と広場双方の特徴を備えている場所だった。露天商と客の活き活きとしたやり取りや、馬や牛が引く荷車が石畳を進む音。それらがさざ波のようなざわめきを作り出していた。
人混みから少し離れた場所で、キュウタとサザレは日当たりの良い水路の縁に腰掛けている。正確な寸法で加工された石材による水路の構造ひとつ取っても、この都市を成り立たせている技術や文化の高さがうかがえる。
傍らに置かれた皮袋に満たされていた水は二人がこうしてのんびり過ごしている時間を示すように、すでに半分以下に減っていた。
二人のあいだは肩と肩がほんの少し触れ合うかどうかという距離。キュウタがちらりとサザレに視線を向けた。少女はそよ風に耳を澄ますように目を閉じている。ふわりとゆれるサザレの髪から漂う香りがキュウタの心を安らかなところへと導いていく。
キュウタもサザレに倣い目を閉じてみる。
周囲を満たす心地よい喧騒、肌をくすぐる穏やかな風。少し前まで浸かっていた戦場の空気の記憶が、今は幻のようにも思えてしまう。
だがこの平穏は『未来』において必ず破られる。
ゆっくりと目を開けたキュウタの瞳に怒りの炎が小さく揺れた。
人が数十万年かけて積み上げた世界と歴史。それを無慈悲に破壊し尽くさんとする『魔族』は必ず出現する。
魔族たちと、それを統べる『魔神王』。あの連中を絶対に許すことはできない。
キュウタの復讐に意味などないと言う者もいるかもしれない。
今、彼がいる『世界』は歴史改変の産物であり、キュウタが生まれ育った『世界』ではないのだから。例えこの世界の未来でキュウタが魔族を打ち倒したとしても、彼が生まれ育った世界が救われるわけではないのだ。
だがそれで構わないとキュウタは思っている。
復讐とは、失われた物へのせめてもの手向けであり、それで何かが取り戻せるわけではない。彼はそれを理解している。
『あの世界』に未来は無かった。兵士として生きてきた十七年の人生で、彼はそれを圧倒的な現実として体感した。魔神王が現れたとき、キュウタは自分と世界が死んだようなものだと思っている。
自分の人生はあそこで一度、終わったのだ。あの世界とも決別したのだ。
すべて失われたのだ。
だが、それでも。
それでも、もし自分に何かが残っているとすれば。遙かな時間を越え、人としての理を外れるほどの悠久の年月を生きることに、何か意味を見いだすことが許されるのならば。
キュウタはゆっくりと、隣に座るサザレに目を向けようとした。
そのとき、優しい指先が機先を制し、きゅっとキュウタのシャツの袖を掴んだ。
はっとしたキュウタの目がわずかに見開かれる。
目の前に、まっすぐ自分へと向けられたサザレの瞳がある。少女の視線に満ちる青い光は、いつものように少年の心を解きほぐしていく。
サザレの唇が小さく開く。キュウタは彼女のささやかな吐息にさえ、耳と心を奪われてしまう。
そして、「ぐうう」と盛大に鳴り響く音。
サザレが腹を押さえてこの世の終わりのような顔になる。
「キュウタ……お腹すきました」
ぽかんとしたキュウタは一瞬思考を固まらせたあと、ぷっと吹き出した。
そうだ。自分の人生にもまだ意味は残っているはずだ。
こんなにも、かけがえなく思える人が隣にいるのだから。
◇
コインを握りしめて人混みを縫うように、匂いを頼りに食糧を扱う露店を探しまわるサザレ。
その姿を遠目からにこやかに見守りながら、キュウタは広場の隅、石段の端に腰を下ろした。
石段を見上げた先には重厚さを押し出した大きな礼拝堂が鎮座している。幾何学的な正確さを思わせる曲線で構成された屋根や窓。そこに彫り込まれた精細な装飾は、聖地フィロマ市のような大陸の西方とは明らかに異なる芸術感覚から生まれたものだ。
イリユヌス教に比べて柔らかい印象を与える修道服。それに身を包んだ数人の男たちが、耳慣れない教義の一節を声を揃えて唱えながらキュウタの横を通り過ぎて行く。礼拝堂で日課の祈祷をするつもりなのだろう。
帝都カノンブルヌの文化は、その入り組んだ歴史に見合う複雑さを備えている。それはここに根付く『宗教』の多様さも大きな一因だ。
現在、フィロマ帝国の支配下にあるこの都市において、当然イリユヌス教が最も大きな影響力を持ってはいる。だが、それは他の宗教の『排斥』へは繋がっていない。
フィロマ帝国が国教を明確に定めない理由は専ら現実的な事情だ。周囲に存在する十人十色の国家や民族を手っ取り早く帝国に引き込むためには、多様性を受容する精神が必要だった。
結果としてそれは功を奏する。
寛容な場所に集うのは人の性なのだろう。カノンブルヌに代表されるように、多くの価値観がゆるやかに混在することから生まれる富や文化は、人々の生活を確かに快適なものにしたのだ。
キュウタたちがその歴史の流れの中で果たした役割も少なくない。サザレの『未来視』をもとに、フィロマ帝国が安定して発展する道を巧妙に敷いてきた。時には交渉で、時には力で。
足元を見つめ、じっと考え込んでいたキュウタの上に影が差す。
ふっと見上げた視線の先に、長身の青年が立っていた。
青年はくすんだ褐色の布地のシャツとズボンを、大きな体に少しだけ窮屈そうにさせている。胸や肩に刺繍された紋章から見ると、これが彼の仕事着なのだろうと想像できる。
お仕着せ感があふれている彼の身なりのなか、腰に下げた刀だけはしっくりと青年の雰囲気に親和している。きっと長年かけて彼の手に馴染んだ持ち物に違いないとキュウタは思った。
浅黒い肌の青年の灰色の瞳。
それがキュウタをまっすぐに見つめる。
「失礼。道を尋ねたいのだが」
静かだが、深く通る声音。
キュウタは初対面の青年に対して湧いてくる、自分の奇妙な感情の出どころを不思議に思っていた。
大槻キュウタとアルハーン・サウド。
少年と青年の出会いは、これが『二度目』である。
だが互いにそれを自覚することは出来なかった。




