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第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (8)

 アルハーン・サウドは寝台にねそべり、部屋の窓からカノンブルヌの夜景を眺めていた。


 喧騒と人混みで溢れかえっていた昼間の様子が嘘のように、街は静けさに包まれている。


『組合』が構成員の宿舎として建物ごと借り上げているのは、数年前まで宿屋として使われていた物だ。それぞれの部屋は手狭ではあるが、独り者が寝起きする分には十分過ぎるといっていいだろう。


 軽く寝返りを打って、すらりと長い手足を弛緩させる。帝都までの旅でたまった疲れがじわじわとほぐれていく。

 先ほどまでアルハーンはこの部屋へ案内してくれた黒眼帯の男と明日以降の『仕事』の進行について短いやり取りを交わしていた。


 自分が見廻りを担当する教会関連施設を訪れ、各責任者、つまり依頼主への面通しも済ませる段取りだ。枕元に立てかけた刀の柄を無意識に指が撫でる。仕事自体に大して興味はなかった。

 

 アルハーンが求めているのはただ一つ。

 ある人物の居場所だ。


『白仮面の男』。


 この広大なフィロマ帝国で一人の人間を探し出すのは実に難しい話だ。だが手掛かりはあった。戦場であの男が使っていた謎の技。あちこちで情報を集める内に、あれはきっと噂に聞く『魔法』というやつなのだという結論にアルハーンは至った。

 

 そして、ここカノンブルヌでフィロマ教会が『魔法』の研究や教育を盛んにおこなっていることを知ったのだ。


 聞きかじった話を総合するに、一般的に魔法とは戦場で使い物になる力では無いようだった。だが、白仮面の男は自分が出会った戦士の中でも間違いなく最強の存在だ。直接話をしたわけでも、剣で打ち合ったわけでもない。だが、アルハーンは相手の強さに本能的な確信を抱いていた。

 

 つまり、あれほどの強力な魔法で戦える者は、この世界でも片手の指で足りるはずだ。それなりに名の通った男に違いない。魔法について知る者に片っ端から尋ねていけば、遠くない将来、白仮面の男に必ず辿り着ける。

 

 そして戦いを挑むのだ。

 一人の戦士として。


 その時を思うだけで血がたぎる。今までも、強者と言われた戦士と戦場なり修練なりで手合わせしたことは幾度もあった。しかし、誰もアルハーンを満足させる強さを見せてはくれなかったのだ。

 

 だがあの白仮面は違う。

 あの時感じた『力の気配』。絶対的な力が何物をも弾き返す、揺るぎない無敵の壁を思わせる風格。

 

 今まで駆け抜けてきた戦場での戦いは、『奴隷兵士』として契約を履行するという『職業人としての誇り』を満たすものだった。

 だがこれから向かおうとしている『戦い』はそうではない。

 どちらが強いかを確かめるだけの単純な力比べだ。

 

 ほぼ間違いなく自分は敗れ、あるいは死ぬのだろう。

 

 それこそ自分には相応ふさわしい最期だ。

 誰よりも強い相手と剣を交え、その相手に命を取られる。戦士として生きてきた自分に、これ以上のほまれは決して無い。

 

 恍惚にも似た喜びが彼の胸を満たす。その余韻を抱いたまま、アルハーンはゆっくりと目を閉じて眠りにつこうとした。


 その時、彼の肌に『違和感』が生まれた。

 

 かっと目を見開いた彼は跳ねるように飛び起き、素早く刀に手を伸ばす。

 灰色の瞳に強い光が宿った。いま確かに肌を撫ぜた感覚を、記憶にあるものと照らし合わせる。


 間違いない。

 白仮面の男が使っていた『力の気配』だ。

 

 取り憑かれたような笑みが唇に浮かぶ。よもやいきなり『当たり』を引いたのかもしれないと。アルハーンは舞うような動作で青い衣装を身にまとうと、部屋から飛び出し、夜のカノンブルヌの街並みへと駈け出した。

 




 控えめな星明かりが照らすカノンブルヌの街。

 人通りはほとんど無い。

 

 青い民族衣装が幻のような残像を残し、夜の街を疾走していく。

 石畳で舗装された街路を軽やかに蹴る音は小さくしなやかなリズムで、注意していなければ聞き逃してしまうだろう。それはまるで獲物を追う肉食獣にも似た足運びである。

 

 アルハーンは宿舎からそれなりに走った先、とある三叉路の中心で立ち止まった。

 商店や工房が並ぶ地域は、昼間とは打って変わってひっそりと静まり返っている。周囲の建物の石積みの壁も、星明かりを受けて不気味な白さを放っていた。


 感覚を限界まで研ぎ澄ませ、気配を探る。矢のごとく鋭い視線がゆっくりと辺りを巡っていく。刀は腰に差す手間も惜しまれ、鞘に収められた状態で左手に握られたままだ。


 ごく小さなくぐもった声を、アルハーンの耳が捉えた。


 再び走りだしたアルハーンの肌に再び『力の気配』が感じられる。戦場で白仮面の男と対峙した時の圧倒的な存在感には程遠いが、間違いなく同質のものだった。


 気配の源へ確実に近づいている。アルハーンは右手の指を軽く曲げ伸ばし、抜刀に備えた。

 道幅がわずかに広がる。そして風の流れにも変化を感じる。次の角を曲がると開けた場所に出るのだろう。


 そしておそらくそこに『いる』はずだ。足取りをゆるめ、自身の気配を入念に消しつつ進む。そして彼は壁に背を付けた。

 

 その時、アルハーンはある匂いを捉えた。

 戦場で幾度となく味わった、間違えようもない種類のもの。

 

『血』の匂いだ。

 

 アルハーンはゆっくりと向こう側を覗きこんだ。

 

 ほぼ円形の広場とでも表現できる場所だった。

 等間隔に植えられた樹や、腰を掛けたりするのに丁度よさそうな石積みが並んでいる。日中には市民が休憩したり、露店を開いたりしている場所なのだろうとアルハーンは推測した。

 

 そして広場からは放射状に道が伸び、石畳の『へこみ』や削れの跡から、実際に多くの人々が行き交う場所だと読み取れる。商業地域や住宅街との連結部のような役割を果たしているのかもしれない。


 そして、他に人気ひとけの無い広場の中央に『それ』はいた。

 

 薄暗い星明かりの下、モノトーンの衣服をまとった人影がぼんやりと立っている。さほど大きい体格ではない。だがこの暗さでは相手の人相どころか性別もよく分からなかった。

 アルハーンは迷うことなく広場に足を踏み入れた。

 

 この人影が『白仮面の男』ならば自分の目的地はここだ。

 あるいは自分が人生の最期を迎える終着点と言い換えてもいい。

 

 例の『力の気配』は明らかにこの人影から放たれている。高揚する感情に胸が高鳴っていく。

 戦いの予感が、自然と唇に笑みを浮かべさせる。

 

 一歩、また一歩。

 アルハーンは呼吸を整えつつ歩み寄る。

 夜闇を通して慎重に観察を加える。相手は自分に背を向けているようだ。身にまとっているのはゆったりとした貫頭衣に見えた。このあたりの庶民が用いる一般的なデザインの寝着でもある。


 ここでようやくアルハーンは違和感を得た。


 違う。


 こいつは『白仮面の男』ではない。体格も立ち姿も、あの戦場で記憶へ刻み込まれたものとは別人だ。


 何よりも、この体つきは間違いなく『女』のものだった。


 ぴたりと足が止まる。刀が届く距離まで数歩というところだ。


 そして、女の足元に、別の何者かが倒れ伏していることにも気付いた。人影の存在感が強烈なあまりに、この瞬間までアルハーンの視界に入らなかったのだ。


 倒れているのは大柄な男だろう、とアルハーンは見当をつける。うつ伏せになったままぴくりともしていない。顔のあたりから流れ出している大量の血が石畳の上に黒い溜まりを作っている。暗がりの中でハッキリとは確認できないが、手足の関節の一部が不自然な曲がり方をしているようにも思えた。

 

 男の傍らには抜身の短剣が打ち捨てられている。チンピラが見せびらかす虚仮威こけおどしなどではない、それなりに使い込まれた道具のようにも感じられる。


 そして周囲の石畳の上に点々と残る血痕は右往左往した軌跡を描き、まるで獅子に追い立てられた獲物が逃げまわった記録のようだ。


 このさして大きくもない女が、地に倒れている大男の惨状の原因だとはとても思えない。だが周囲に注意を向けてみても、やはり他に人の気配はない。一体この場で何が起きたのか、漠然とした疑問がアルハーンの胸に淀みを作る。


 その時、静かに佇んでいた女がぴくりと頭を動かす。だが完全に振り返ってはいない。耳だけを背後のアルハーンに向けている。犬や猫が周囲を探る様子を彼は連想した。


 まるで理性を介さずに本能から生まれたような動きだ。相手のけものじみた仕草がアルハーンの警戒心に火を入れる。

 いつでも抜刀できる構えを取り、ゆっくりと女の小さな背中に声を向けた。

 

「こっちを向いて顔を見せろ」


 彼が言い終わる寸前。

 旋風つむじかぜが突然巻き起こったがごとく、鋭い音が空気を切る。

 

 反射的に上体をのけぞらせたアルハーンの頬を何かがかすめ、薄く傷を刻んだ。血のしずくがわずかに宙を舞う。


 その攻撃が、凄まじい速度で放たれた後ろ回し蹴りの爪先だと気付いた時には、女はすでにアルハーンの背後に回りこみつつあった。

 ぞくりと肌が粟立あわだつ。

 人ならざる者の動きに、アルハーンの体は機械的に対応した。

 

 視覚に頼っていては間に合わない。相手の動きの先を読んだ戦士の本能が、刀の鞘を跳ね上げさせる。自身の背中から後頭部へかけての即席の『盾』とさせたのだ。

 

 ほぼ同時にアルハーンの背中に重く鈍い一撃が鞘越しに打ち込まれる。ハンマーで殴られたかのような衝撃が、決して小さくない彼の体を前へと吹き飛ばす。

 とっさに取った防御体勢が無ければ、背骨が損傷しても不思議ではない威力だ。

 

 石畳の上に倒れる寸前でこらえたアルハーン。だが体勢を整える暇もなく獰猛な殺気が背後に迫る。あくまでも冷静さを保ったアルハーンは片足を軸にその場で素早く反転した。


 振り向きざま、彼の訓練された右手が抜きはなつは、必殺の威力を持つ横薙よこなぎの斬撃ざんげきである。

 常人には視認すら困難な速度のさき。それが星明かりを反射して、ひとすじの糸のような軌跡を闇にえがく。


 女はすでにアルハーンの正面に踏み込み『こぶし』を叩き込もうとしている。先ほど自分を吹き飛ばしたのもこの拳なのだろうかと彼は軽い驚きを覚える。

 だが、この間合なら刀が相手の喉を掻き切るのが先だ。アルハーンは一瞬のあいだにそう分析するだけの余裕すら持っていた。

 

 だが次の瞬間、相手はアルハーンの想像を上回る。


 野太く短い咆哮とともに、女は体をねじり、喉元に迫った刀の切っ先を寸前でかわしてみせたのだ。野性の本能がそのまま形をとったかのような、でたらめな身のこなし。そこからしょうじた慣性が、女の体を地面の上で風に吹かれた木の葉のように回転させる。


 そして女はすぐさま両手両足を地面に付き、犬か狼のような姿勢で身を低くした。ふわりと舞い上がった衣服のすそが孔雀の羽根のように広がる。そしてアルハーンの剣技に警戒心をいだいたのか、出方をうかがうように動きを止める。


 腹の底から絞りだすような唸り声は、アルハーンを威嚇しているのだろう。互いの距離はわずかに遠ざかり、刀も拳も相手に届かせるには少し足りない。

 

 まさしく獣のような奴だ、とアルハーンは刀を構え直す。

 そのとてつもない瞬発力は彼が知る『人間』の動きを超越している。だが真正面から相対し、動きの予兆に集中してさえいれば対応は不可能ではないとも思った。

 

 対峙する青衣の戦士と謎の女。互いの間の空気が張り詰めていく。

 

 夜空はいつの間にか雲がかかり、闇がさらに深まっている。


 ゆったりと刀を構えるアルハーンは、あらゆる状況に対応できるように相手の体全体を『均等』に視界に収めている。この恐るべき身体能力の持ち主がどんな顔をしているのか興味は尽きない。だが、一瞬でも注意をかたよらせれば、相手の動きの予兆を見逃し、そこで自分の『死』が確定するのは間違いない。

 

 この女に殺されるのが運命ならば、それでも構わない。

 だが、戦士としての能力を十全に発揮せず、ただの油断からもたらされた敗北などは望んでいない。自分の力を余すところなく披露し、その上で決まる勝敗にこそ意味があるのだ。それが戦士としての誇りであり、強い敵に対する敬意なのだから。


 静かな夜の街、いつまでも続くかと思われた睨み合い。

 その時、相手が発していた低い唸り声が突然んだ。


 と同時に、相手から放たれていた『力の気配』がしぼむように衰えていくのをアルハーンは感じた。


 そして戸惑うように左右を見回す相手。まるで夢から醒めて自分の居場所を見失い、怯えながら母の温もりを探している幼子のようだ。


 先ほどまでの禍々まがまがしいほどの殺気は完全に消え失せている。アルハーンはなかば呆然としつつ刀を持つ手をわずかに降ろした。


 もはや相手には戦う意志が無いことが分かってしまったのだ。


 何だ。何なのだ、お前は。

 あれだけの力を持っているのに、なぜ戦うことをめてしまうのだ。お前の力を見せてくれ。俺を殺すつもりで戦ってくれ。俺の戦士としての『生』に意味を与えてくれ。


 苛立ちがアルハーンを前に歩かせる。すでに刀を振るう気も無くし、それは体の脇にだらりと下げられていた。

 びくっと体をすくませて、手足を地面につけた姿勢のまま後ずさる相手。


 アルハーンは歯を噛みしめた。

 それではまるで尻尾を巻いて逃げ出す犬ではないかと。


「お前は一体、何なんだっ!?」


 吠えるように吐き捨て、アルハーンが女の胸倉をつかもうと手を伸ばす。だが相手は素早く飛び退すさる。いまやわずかにしか感じられない『力の気配』は震えるように脈動していた。


 そして女は身をひるがえし、アルハーンに背を向けてよろめきながら駈け出した。隙だらけの背中を捕まえることは難しくなかっただろうが、アルハーンはそうする気分になれなかった。


 広場から走り去る人影が完全に闇の奥に消える。

 ゆっくりと刀を鞘に収めたアルハーンは深々と息を吐き出した。


 結局、暗闇の中で相手の顔を見きわめることは最後まで出来なかった。

 

 そして先ほどアルハーンの心に生まれた苛立ちは、いつの間にか消えている。女がアルハーンに背を向けた一瞬、その顔から舞い散ったものが彼の心に小さな掻き傷を残していた。


 まるでそれは『涙』のように見えたのだ。




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