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第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (7)

 ロウソクの燃える独特の匂いが、柔らかな明かりとともに夜の室内に落ち着いた雰囲気を与えている。


 大槻キュウタは白い外套マントを柱の突起に引っ掛けた。


 戦場から、落ち着ける場所にようやく辿り着いた安堵感。それが少年の肩から力を抜けさせ、穏やかなため息もつかせる。


 大きく伸びをしながら、先ほどから鼻と食欲をくすぐる匂いの源へと足を運ぶ。

 夕食のテーブルでは、木皿に注がれた魚介スープが湯気を昇らせ、磯を思わせる芳醇な香りを振りまいている。大きな港を有する帝都『カノンブルヌ』ならではの新鮮な海の食材の数々だ。


 一見、この都市の一般家庭に見られる普通の料理ではある。だがキュウタはその背景にあるいくつもの『プロセス』を思い起こしていた。造船や漁に関する知識と技術、収穫物を流通させる経済システム。食材の処理や調味料の用法などは文化的な蓄積の賜物たまものと言っていいだろう。


 なにげない食卓の上にさえ人類の進歩の一端を重ねてしまう。どうでもよさそうな細かいところを妙に考えこむのは悪いクセだ。そうキュウタは自分でも思っているが、こればかりはどうしようもない気もしている。

 

 とにかく、今は目の前の食事を楽しむべきだろうと、彼は木のスプーンを手に取った。


 スープをすくおうとする寸前、どん、と乱暴な音を立て、テーブルの上にパンが積まれた皿が置かれる。


 肩をびくっとすくめたキュウタが恐る恐る音の主をうかがい見る。

 麻布あさぬので仕立てられた家事用の前掛けをつけた少女。その唇は不機嫌そうにむすっと結ばれていた。そんな仕草でさえ少年の目から見れば可愛らしいものなのだが、今はそれを口にすべき雰囲気では無さそうだ。


「それで? 帝都に戻ってきてから十日近く、家にも戻らず何をしていたんですか、キュウタ?」


 サザレの青い瞳がキュウタを見下ろしている。

 まっすぐに突きつけられる視線に、少年は口元をひきつらせて何とか愛想笑いを作ってみせた。


「え……いや、教会本部に提出する報告書を作っていたんだ。いくさに参加した魔術士たちの意見の聞き取りにも、ちょっと手間取ってさ……」


 しばらくキュウタの横に立ったまま、サザレは彼をじっと見つめていた。まあ言いたいことは分からなくもない、と少年は思う。彼女に少し寂しい思いをさせてしまったのは、たしかに自分に非があるのだから。

 

 だが同時に、『誰かが待っている場所に帰る』ということの意味を、頭では理解できていても、心のどこかでは一歩離れた場所から俯瞰している自分も存在しているのだ。


 キュウタは物心ついた時からずっと兵士として訓練され、宿舎とは名ばかりの粗雑な寝床と戦場を往復する人生だった。そこで刷り込まれた習性は二十万年近い時間の中でも、彼という人格のなかに一本の芯として通っている。

 

 だから外から戻り扉を開けた時、部屋のなかに明かりが灯され、食事が用意されているという事実。それがいまいちピンと来ないのだ。どこかむずがゆく、うまく言葉にできないもどかしさに向き合ってしまう。


 少年の心を見透かすようにじっくりと視線を投じていたサザレが、ようやく少年からぷいと顔をそむける。そして彼女は前掛けを自分の椅子の背もたれにかけて食卓についた。皿からパンを一つ手に取ったサザレがそれを小さくちぎって自分の口に運ぶ。

 やつあたり気味な風情ふぜいで、もぐもぐと咀嚼そしゃくするサザレ。その唇からぼそりと言葉がこぼされる。


「……まあ、別に何かを疑っているわけではありません」

「え、『何か』って?」


 目をぱちくりさせたキュウタに答えたのは別の声だった。


「お前さんが浮気なんぞしとらんか、って話じゃろ」


 ゲグリオス・ペイトンはスープ皿に直接口をつけ、ずるずると派手な音を立てて飲み込んだ。スープの熱さが禿げ上がった頭に移動し、ほんのりと老魔術士の肌を火照ほてらせている。

 むっつりとしたサザレがジロリとペイトンを睨む。まるで視線だけで相手を追い払えないかと試みているようだ。

 キュウタは考えをまとめるべく目を閉じて、ある疑問を素直に口にする。


「というか、ペイトン先生がなんでうちにいるんですか?」

「あー? お邪魔だったかの? 嬢ちゃんと二人っきりが良かったか、この助平すけべめ」


 歯の間に挟まった魚肉のスジを指でほじくりながら、ペイトンはニヤニヤと笑う。

 反論する気力もわかず、キュウタは呆れ顔で小さくため息をつく。

 

「まあいいですけどね。にぎやかなのは嫌いでは……ん、『浮気』って何の話です?」


 キュウタの問いを、パンをさらに一切れ口に入れたサザレがぴしゃりとさえぎる。


「何でもありません」

「あ、ああ、そう……?」


 穏やかな言葉の裏に秘められた迫力に、キュウタが僅かにたじろぐ。


 気まずさを隠すように視線を外したキュウタの目に、薄暗いロウソクの明かりを通してペイトンの顔が映る。

 老魔術士の額やこめかみについた五つの紫色の跡に、キュウタが首をかしげた。


「ところで先生、その頭のあざ、どうしたんです?」

「ん、ああ、ちょっとな」


 サザレがふん、と鼻をならす。


「天罰です」


 感情を押し隠すようなサザレの淡々とした言葉に、キュウタは事の顛末てんまつをおおよそ想像する。きっとまたペイトンがサザレに面白半分にちょっかいを出したのだろう。

 苦笑いしたキュウタが気を取り直して皿の中身にスプーンを差し入れる。とろみのあるスープに浮いた脂がきらりと部屋の灯りを反射する。


 一足早くスープを飲み干したペイトンがさかずきの水で口のなかをゆすぎながら何の気なしに呟いた。


「そういやさっき、教会本部がどうとか言っとったが、ワシの前でしていい話だったのか?」


 キュウタが肩をすくめてスープをすする。


「それを隠すことにあまり意味は無いでしょうね。どうせ僕たちと教会の関係について、ある程度の察しはついてるんでしょう?」


 ペイトンは相変わらず大した興味もなさそうにうなずく。


「まあな」


 老人のこういうさっぱりとした態度を、キュウタはどこか憧れの気持ちで受け止めていた。きっとペイトンにとっては自分たちなど危なっかしい未熟な子供に見えているのだろう。そしてそれは事実なのだ。自分たちが大人になる日は決して来ない。


 肉体という魂のうつわ。それに『不老』というかせめた者がどれだけ人として成長できるのか。だが構わない。それが自分の世界を破壊し、友を殺した魔族どもを根絶ねだやしにするための代償なら安いものだ。


 黙りこくったままぼんやりとテーブルを見つめているキュウタ。それをつまらなそうに見ていたペイトンがやるせない表情で静かに息を吐き、キュウタの注意を自分に向けさせた。

 老魔術士が「それよりも」と前置きして、キュウタを指でちょいちょいと招き寄せる。不審そうに眉をひそめた少年が、ペイトンの口元に耳を近づけた。


「少しは嬢ちゃんに構ってやれ。ずーっと一人でお前さんを待っとったんだからな」


 ペイトンの少しばかり真面目な口調。キュウタはほんの少しの心外さを表情に浮かべ、心にある言葉をそのまま出す。


「分かってます。彼女は僕の大事な人ですから」


 がつん、と皿とスプーンがぶつかり合う音がした。

 ふと見ると、サザレの耳がほんのり赤く染まっている。少女の手元は小さく震えていた。だが視線はあらぬ方向にむけられ、自身の動揺を気取けどられぬようにという努力が感じられる。


 彼女の超人的な聴覚は、男たちのひそひそ話を容易に聞き取れたのだろう。ペイトンがいなければ彼女はキュウタに飛びついていてもおかしくないはずだ。


 自分の発言に今さらながら少々気まずい思いになったキュウタが頭をぽりぽりとかく。


 明日は気晴らしに二人でどこかに出かけようか。誰にだって休息は必要だ。歴史の行き先も、自分たちが少しばかりよそ見をしていたところでそうそうおかしなことにはならないだろう。


 そう心内こころうちで決めつつ、キュウタはパンを小さくちぎり、スープに浸して口に運ぶ。

 しみわたるような暖かさが体の奥にまで届いていく。サザレがちらちらと自分を見ている。少女の口元が少しだけだらしなくゆるんでいるさまに、少年も思わず口をほころばせる。


 ほんの数ヶ月、戦場に赴いていただけなのに、この空間がずいぶんと懐かしく、また心地良く感じられる。


 キュウタは、もしかしたらこれが『家』に帰ってきた、という感覚なのだろうかと、ふと思った。





 幸運と不運は隣あわせである。


 夜のカノンブルヌ。

 大陸有数の巨大都市が完全に活動を止める時間帯は存在しない。人々が寝静まった時間にも、酒場や娼館が並ぶ地域は独特のざわめくような気配が漂っている。


 一人の男が上機嫌で、あまり人通りのない路地を進んでいる。緩んだ赤ら顔と、どこか地につかない足取りが今夜の彼の酒量を表していた。

 見上げるほど大柄な体は樽のごとく、そしてそれに見合った丸太のような手足は毛深く、並大抵の人間にとって近寄りがたい雰囲気を持っている。もみあげからアゴまでを覆う、剣山のようなひげは粗暴な気性を体現しているようだ。


 男はカノンブルヌから徒歩で数日の集落の生まれである。彼はいくつかの仕事を渡り歩くことで生きていた。それは主に自身に与えられた肉体と気質を最大限に有効活用する業種である。

 例えば荷役。例えば用心棒。例えば戦争。


 大抵の場面で男は周囲に一目置かれる働きを見せた。もっとも、彼に向けられた感情は、尊敬ではなく畏怖ではあるのだが。

 戦場では血を求めるように前線へと駆けた。敵を殺し、財産を奪い、女を犯す。それが自身に課せられた使命であるかのように。


 男は自分の強さに絶対の自信を持っていた。欲望のまま力で欲しいものを手に入れることが当然だと思っていた。それがある程度、妥当な自己評価なのは事実である。あまり治安のいい場所とは言えない区域の裏道を一人で歩いていることも自信の表れに違いないだろう。


 ふと前方に生まれた人の気配に、彼は足を止める。

 左右を高い建物と建物に挟まれた場所だ。ほんの少し道幅も広がっており、前後に通行人は見当たらない。

 男の小さな瞳がぎろりと剥かれ、短い舌が品定めをするようにねっとりと唇をなめる。


 その『女』は壁に寄り掛かるように立っている。

 寝着のように見える衣服は薄い布地で、女性らしい丸みのある体の線がはっきりと確認できる。そして軽くうなだれて肩を落としている姿は、今にもその場に座り込みそうに見えた。

 

 酒のせいでぼんやりと霞がかったような思考のなか、男は軽い高揚を覚えている。

 彼は今夜の自分を『幸運』だと思った。特に考えもなしに言葉が出る。


「よう、ねえちゃん。『客』でも探してんのかい」


 顔を伏せたまま、女がぴくりと反応する。

 無造作に女の前に立った男が相手を見下ろす。うつむいた女の顔は栗色の長い髪に隠され、どんな表情をしているのかは分からない。だが体だけなら結構な上玉に思える。

 周囲に邪魔者がいないことを無意識に確認しながら、男は女が寄りかかっている壁をごつごつしい手で乱暴に突いた。


「こら、返事ぐらいしろや」


 酔いも加わり、普段にもまして理性というたがが緩んだ男は、ごくありきたりな本能にしたがい、目の前の人影に手を伸ばす。


「まあいいや。暇なら、ちょっとそこで相手してくれよ」


 相手の小さな肩を大きな手で鷲掴み、少し先の曲がり角、人気ひとけのなさそうな物陰をアゴで指す。

 女の息継ぎがかすかに不規則になる。

 男は唇をゆがめ笑みを浮かべた。彼にとって、恐怖で相手を制御することは実に容易な行為だ。


「やめてください」


 女がようやく言葉を発する。

 消え入るような声だ。だが、悪く無いと男は感想を抱く。

 そして相手の体から発せられる、どこか甘い香りが鼻をくすぐる。男は自分の下腹部にむずむずと血が集まっていくのを下卑た笑みとともに感じていた。

 間違いない。今夜の自分は『幸運』だ。


「静かにしてりゃすぐ終わるっつうの。ちゃんと払うもんも払ってやっからよ」


 そう言いつつ、男は自分の腰帯に差した短剣に指をあてた。彼には、もうかねを払う気など無かった。


「やめてください」


 ほんの少し、悲壮な色が強まる声。それが男の嗜虐心しぎゃくしんを更に煽り、どうやってこの女を味わい尽くしてやろうかと、口のなかに知らず知らずのうちに唾液がわいてくる。

 ゆっくりと短剣を抜き、うつむいたままの女に見える位置で刃先をちらつかせる。

 何かをこらえるような感情を忍ばせた言葉が再び押し出される。


「やめて、くだ……さい」


 男にはもはや相手の声が意味のある言葉として聞こえなかった。相手をただの欲望を発散する道具としか捉えていないのだから。


 だが、女の言葉が『懇願』ではなく、『警告』であることに気付けなかったのが男の『不運』だった。


 幸運と不運は隣あわせなのだ。



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