第一章 母なる魔術士 (2)
太陽が傾き始めたころ、彼らは帰ってきた。
五、六人の男達が手にしているのは、比較的頑丈でまっすぐな枝の先を石器で鋭く削りあげた物である。それほど大柄では無いが、がっしりした体格の彼らは、着衣など何も身に付けていない。
汗に湿った肌には、激しい戦いの跡を思わせるように、擦り傷から少しの血がにじんでいる。
彼らの後ろで二人の男が小さな野牛の死体を担いでいる様子が見えた。
大槻キュウタの目から見ても、彼らの狩猟はなかなか様になっている。
ここは、とある森と草原と小高い山が混じりあう場所。そこには数組の家族が寄り添うように住んでいた。川も近く、生活するには好条件が揃っている。
洞窟を共同のねぐらとし、集団で食糧を集める。複数の家族からなる彼らの生活は、単独の家族がなしうる物に比べれば、遥かに安定的かつ効率的に機能していた。
洞窟人がより多数からなる集団生活を選んだことに、論理的な思考は存在していないのだろう。たまたまそういう暮らしを選んだ集団が生き残りやすく、そうでない者は子孫を残し難い。ただそれだけの事なのだと、キュウタは思っていた。
「うん。大漁、大漁」
思わず口をつく満足の言葉。キュウタは一人で川岸に腰掛けて、この日自分が集めた果実の最後の一つの皮をむいている。その手元を誰かに見られることは避けるのが賢明だろうと彼は思っていた。
この果実の表皮は文字通り歯も立たないほど頑丈であった。
にも関わらず、それを容易く剥がして堅い種を果肉から切り取っている道具は、何の変哲もない『落ち葉』なのだ。『硬化』魔法を適用した落ち葉はカミソリのような鋭い切れ味になっている。
原初魔法としてキュウタが得た『硬化』魔法。それが自分の体以外にも効果を与えられることに気付いてから、彼の生活は格段に容易な物になっている。
ふうとため息をついて、キュウタは遠くを見る。視線の先では女たちが寄り集まって木の実の皮むき作業に没頭している。
年長の者でも四十歳を越えていないはずだ。だが若い家族たちという表現は正確ではない。
誰もが老いる前に病や怪我であっさりと死ぬ、というべきだろう。生まれた時から戦場にいるキュウタにとって死は日常であった。そして彼らもまた死と隣り合わせの人生を送っているのだ。
キュウタはいつの頃からか、洞窟人たちに奇妙な同族意識を持つようになっている。
三世代ほど前から、キュウタは時々彼らと生活を共にするようにしている。もちろん不老の彼が何世代にも渡ってずっと一緒にいれば、さすがに怪しまれるだろう。そのためキュウタは、彼らのコミュニティを数年に一度偶然訪れるよそ者を装っていた。
キュウタがしばしば狩りに出て捕らえてくる上質な獲物を振る舞うことで、十分に仲間扱いしてくれることは確認済みだった。人間の現金さは、どの時代でも変わらないのだろう。
また、洞窟人を『原始人』という単純な言葉で片付けることは出来なかった。それはキュウタが彼らとの生活で知った重要な事実である。
複雑な言語や表現手段こそないものの、その内に秘められている記憶力や判断力などは、現代人にもまったく引けを取らない者が相当数いるのだ。
二十万年程度の世代差では、生物学的には貴方と大して変わらないのですから当然のことでしょう、と神は笑って言った。だが、キュウタにとっては自分の見識の狭さに恥じ入るばかりだった。
そしてキュウタが神とともに時間転移してから千九百年ほどが経つ。つまり、最初の『歴史改変』の時が迫りつつあるのだ。
狩りから戻った男たちが獲物の野牛を家族の前に放り出すと、女たちが寄り集まって解体を始める。彼女たちが手にしている道具は石を割っただけの単純な造りの石器だが、その切れ味は侮れない。
離れた場所から彼らの食事準備を眺めながら、キュウタは神に問いかける。さすがに二千年近くも一緒にいると、例え神相手であろうが、少年の言葉遣いもかなりざっくばらんになって来ている。
「ここのどれかの家族から『母なる魔術士』が生まれるんだよな?」
『はい。それは間違いありません』
「だけど誰がそうなのか確定できない、ってのが理解できないんだけど」
キュウタと神は、数世代に渡ってこの周辺に住み着いている家族を観察しているが、魔法を使える人間はまだ見つける事ができていない。
『私たちが時間転移したせいで、歴史に微妙なズレが生じているようです。転移前に私が過去視した風景とは、彼らの家族構成などが少々変わっているのです』
「……『未来視』で調べたら?」
『何度か試したのですが、『母なる魔術士』の映像がハッキリしないのです』
キュウタがため息をつく。
一体誰が魔法の素質を持つのか、しばらく目を皿のようにして女たちを見張る必要がありそうだ。自分の妻を奪われると勘違いして怒りだす男が出てこないように心の中で祈る。
いくつか疑問が残ったが取り敢えずそれは置いておくことにして、キュウタは当面の目標に集中すべく言葉を重ねる。
「『母なる魔術士』の血統を守るってのはどうすれば? いくら僕が不老だからって、子孫全員を二十万年つきっきりで守るわけには行かないだろ? 僕の体だって一つしかないんだし」
『それは私が未来視で確認します。ある程度の範囲にそれなりの数の子孫が拡散すれば、魔術士の血が絶えることはないでしょう』
キュウタが疑わしい顔で返す。
「その未来視って当てになるの?」
『誰が『母なる魔術士』なのか確定すれば、彼女に関する未来視の映像は安定するはずです……多分』
「うーん。はっきりした条件が無いとやりにくいな」
しばらく思案したが名案が浮かぶことはない。
キュウタは一口大に切り分けた果実を両手に抱え、食事を始めようとしている皆のところへと歩きはじめた。
◇
更に数年がすぎた。
キュウタは洞窟人たちに少しずつ自分の知識を伝え始めた。最初に選んだのは『火』である。彼らはまだ自分たちで火を起こすことを知らなかったのだ。
まずキュウタが簡素な弓を作ってみせ、その弦に巻きつけた棒が回転する摩擦熱で枯れ草に点火する。さらに焚き火の上で炙った肉や魚を皆に振る舞う。未体験の味覚に彼らはいたく感銘を受けたようだった。
男を胃袋で捕まえるのは、どの時代でも有効なのだろう。彼らは興味深げにキュウタの火起こし作業を観察していたのだ。やがて長い試行錯誤の末に、ついに彼ら自身の手で火を作りだすことに成功する。そこにいたる過程はキュウタも感心するほどの熱心さであった。
過去の人類に未来の知識を与えることの是非について、キュウタは神と何度となく意見を交わしていた。
「過去の人間に、むやみに知識をバラまいていいのかな……?」
『私は積極的に介入して良いと思います。特に『母なる魔術士』の血族が、より繁栄する方向に歴史を進めるべきでしょう』
その後で神からキュウタに対して一つだけ注文がついた。
技術や知識を与えるのはいいが、『言語』の獲得に関しては可能な限り自然のままに任せたほうがいいであろうというのだ。
『呪文や術式は言語体系に大きく依存します。貴方が生きてきた歴史に存在した言語が、魔法を取り扱う上で適するとは限らないのです』
それ以外に関してはキュウタの判断に任せるというのが神の考えのようだった。
少年にとってこれは意外な答えでもある。キュウタは歴史介入について、神はずっと慎重な立場を取るだろうと勝手に思い込んでいたのだ。
彼がそう言うと、神はきっぱりとこう返した。
『魔族と対等に戦う力を得るには、生半可な覚悟では通用しませんよ』
どことなく厳しい教師を思わせる神の声色。
肩をすくめたキュウタは会話を打ち切る。ゆっくり目を閉じて呼吸を整え、体を巡る力に意識を集中した。
人気のない森の奥深く、キュウタは座禅を組んで瞑目している。自身の体を循環する『気』とでも呼ぶべきものを練り上げる作業。例えるなら刀鍛冶が鋼を丹念に折り返し、叩き鍛える様子に似ている。
それこそが『魔力』を鍛錬する行為なのだ。
キュウタはその鍛錬を二千年近くの間、日常的に継続している。気の遠くなるほど長い魔力の鍛錬の果てに、原初魔法『硬化』を行使する彼の熟練度は極めて高度なレベルに到達している。
キュウタに備わった『不老』と『硬化』魔法。それは単独の人間としては、今後の人類史上でも間違いなく桁外れの能力だった。
◇
更に百年ほどが過ぎ、世代の交代が進む。
母が子を産み、その子が母となり次の子を産む。生命の連鎖をキュウタは傍観者として観察し続ける。
だが未だに『母なる魔術士』は見つかっていない。
数家族が寄り集まって暮らす洞窟のほど近く、キュウタは木の上に簡素な住居を作り、そこで寝起きしていた。時折、食糧や手の込んだ道具を彼らに譲渡し、その反応を見る。
最近のキュウタは、何とかして着衣の習慣を彼らに根付かせようと試行錯誤している。彼らも冬場はさすがに寒さがこたえるのか、獣の皮の残骸を体に巻いたり、寝床を大量の枯れ草や落ち葉がまぶされた柔らかい土などで覆うことが多い。
とは言え、夏場でもせめて腰巻きくらいは着けて欲しいと、キュウタは切実に思っている。彼らとの暮らしに慣れ親しんだキュウタでも、男女問わず目のやり場に困る場面が未だ少なからずあるのだ。
何はともあれ、洞窟人の生活は徐々に洗練された物になりつつある。十分な余剰食糧が暮らしに余暇をもたらし、知性の伸びしろへと繋がる。
子が親の模倣をすることから始まる知識の継承。単純な音声による感情表現から芽吹き始める、パターン化された言語の兆し。底冷えのする夜、体を寄せ合い焚き火の光を見つめる彼らの心に去来する物。星空を見上げ、手の届かぬ未知の物に思いを馳せる行為。
そうやって『考える』ことこそが、更なる高度な精神を育む土壌となるのだ。
岩場で焚き火を囲む十人ほどの洞窟人から少し離れた場所。キュウタは満天の星空を見上げている。彼が生まれた時代では、どんなに晴れた夜でも、こんなに星がくっきりと見えることは無かった。
嬌声にも似た人々の声が焚き火の方向から聞こえる。ここ数世代、彼らの喜怒哀楽をはっきり見分けることが出来ている。
「この辺りも、だいぶ人が増えてきたね」
『良い傾向です』
神はいつものように優しく穏やかに語る。
しばらく黙り込んでいたキュウタは、ここ二千年ずっと自分の中にわだかまっている疑問を口にした。
「教えてほしいことがある」
『どうぞ』
きっと神は自分がどんな質問をするのか知っているだろう。彼は自分の手のひらを見つめた。
「何故、この仕事に僕を選んだんだ?」
逡巡するような間が空く。やがて神は静かに口を開いた。
『貴方の運命が時空の『結び目』に固定されていたからです』
キュウタが耳を傾ける中、神の言葉が紡がれる。
『歴史改変を担う人間には、ある条件が求められます。それは、どんな歴史を辿っても、その人物が『必ず』生まれること。それが絶対条件なのです』
その言葉で合点がいく。歴史を改変した影響で自分自身の先祖が滅んだりしては本末転倒であろう。
「僕が、そうなんだな」
『はい』
「今から二十万年後に、もう一人の僕が生まれるんだな?」
『はい。必ず貴方は生まれます』
その言葉を噛みしめる。自分にそんな運命が与えられていたことを幸運に思うべきなのだろう。そのおかげで自分は復讐が出来るのだ。
「感謝するよ。そして約束する。魔族を倒して、この世界を守ってみせる。たとえ命と引き換えにしても」
キュウタは身の内に湧き上がる歓喜に心の底から震え、神が黙ったまま何事かを考えこんでいることに気付いていなかった。
彼は誓う。あの魔族ども、そして魔神王。自分の手で彼らを根絶やしにしてやるのだ。魔族が人類を蹂躙したように、その報いを万倍にして叩きつけてやる。
握りしめた拳を見つめて、自分に誓う。僕は復讐者として生きるのだと。
くいっと、不意に腕を引っ張られた。思わず飛び上がったキュウタの横に、二人の幼い少女が立っていた。どちらもよく似た背格好と顔立ち。彼女らは八年前にある家族に生まれた双子である。母親は双子の出産に体が耐え切れず、産後間もなく死亡していた。
子育ては洞窟人の共同体ぐるみで行われており、彼女らは生活に不自由すること無く元気に育っている。
キュウタを引っ張って、焚き火の方へと連れて行く双子。訝しみつつされるがままに辿り着いたところで、火を囲んでいた皆が歓迎の声を上げる。
腰を下ろしたキュウタに木の実が渡される。彼は一粒口に放り込んで歯ごたえのある風味をじっくりと味わった。
キュウタの顔がおかしかったのだろうか、男たちが歯をむいて笑い声を上げる。
沈黙していた神が、そっとささやく。
『今だけは生きることを楽しんでも構わないのではないでしょうか。生まれた時から戦うことを強いられてきた貴方には、魔族への復讐が当然の目的地なのでしょう。ですが、それが全てでは無いはずです』
今のキュウタにはよく分からない考え方だった。奪われたなら取り返す。取り返せないなら相手の命で贖う。それが当然ではないのかと。
『私が言えた立場ではありませんが、貴方には自分自身が納得できる人生を進んでもらいたいのです』
時々、この神は不思議な考え方をする。自分の頭が固いのだろうかとキュウタは微かな不安を抱きつつ、焚き火の暖かさに体を委ねた。
ふと、双子の少女の一人が立ち上がる。彼女は魅せられたように炎に近づいて手をかざした。その青い瞳には、炎の照り返しとはまた別の光が宿っているようにキュウタは感じる。
火が持つ危険性は、数世代に渡って洞窟人らの心にも刻まれた記憶である。心配そうに見守る大人たちの前で少女は「アー、アー」と声を上げる。
そしてキュウタは見た。
焚き火にかざされた少女の手のひらから、小さな炎が音を立てて吹き出すのを。
ざわめく大人たちの横で、キュウタがごくりと息を呑む。
神が告げる。
『ようやく見つけましたね。これは『原初魔法』です』
少女は爛々と輝く瞳を炎に向けて笑顔を見せている。
この少女がそうなのだ、とキュウタがその笑顔に魅入られる。
神は厳かに結論した。
『彼女が『母なる魔術士』です』