第六章 青衣の戦士、優しき修道女 (1)
雲ひとつない空の中央で、太陽が苛烈な熱を放っている。
白みがかった『砂』が大地を覆い尽くしていた。
気まぐれな風が何年にもわたり積みあげた無数の砂丘。
地平線の端から端までそれは続く。鋭利な稜線に沿ってくっきりと刻まれた陰は、白熱した陽光とは対照的に不気味なほどの黒である。
ここには、あらゆる生命の存在を否定するような静けさが満ちていた。まるで砂が全ての音を吸い取っているように。だが、砂漠は決して『死の世界』ではない。
人差し指ほどの大きさのトカゲが体をくねらせながら砂に潜り込んだ。水中を進む魚のようになめらかな動作だ。
日陰を作るためだけの簡素な造りのテントの下、少年の灰色の瞳はトカゲが砂の中に消えていった跡を眺めていた。
その少年、『アルハーン・サウド』は、すらりと長い手足が印象的な恵まれた体躯を、あざやかな青色の衣装ですっぽりと包んでいた。
頭に巻きつけた、やはり青いターバンと、顔を覆う砂避け用の青布。それによって彼の人相のほぼ全体は隠されていた。だがわずかに垣間見える日焼けした浅黒い肌と、布越しに浮かび上がる彫りの深い目鼻立ちは明確に見て取ることができる。
アルハーンの視線は、トカゲが消えていった跡をじっと捉えたまま微動だにしていなかった。
彼は、砂の上に作られたささやかに波打つような痕跡の美しさに見とれていた。ほんの少し風が吹くだけで消えてしまうであろう儚い紋様。それは砂漠の民として生きてきた少年の心に言語化できない情動を引き起こしている。
やがて、ふっと視線を巡らせたアルハーンの視界に映るのは、自分がいるのと同じようなテントが無数に寄り添って並んでいる風景である。
数百頭のラクダからなる隊商。それに参加している誰もが静かに、じっと体を休めている。小休止のあいだに馬鹿騒ぎをするような男はこの部族にはいない。砂漠を縦断する道行きは彼らにとって日常ではあるが、死と隣合わせの危険なものであることに変わりはないのだ。
隣のテントから隊商のリーダーが、周囲に向かって大声を張り上げる。
「テント畳め。明朝までに町に行くぞ」
仲間たちが続々と動き出す気配が伝わってくる。無駄口を叩く者もなく、統制の取れた動きだ。アルハーンも彼らと同様に粛々と出立の準備を始めた。
その様子を察したのか、テントのわきで膝を折り砂地の上でくつろいでいたラクダが軽く頭を振る。そして吐きだされたのは、ため息にも似た湿った鼻息である。今回の旅路ですっかり互いに馴染んだ相棒の様子に、アルハーンは顔布の下で唇をニヤリとさせる。
腰に長剣を差す。どこか優雅さを感じさせる動作で立ち上がり、テントの陰から日なたに進み空を見上げ、鼻から息を吸い込む。五感からの情報を無意識に統合させ、砂漠の『気配』を読みとった。天候が急変する心配は今のところ無さそうだ。
アルハーンに限らず部族の男たちは皆、砂漠の変化を感じることに長けている。彼らの部族はこの砂に満たされた地を経由して交易を行うことを主な生業としているのだ。
そして今回の北行きにおいて、『アルハーン・サウド』を含めた数十人の男たちもまた『交易品』の一つであった。
◇
この惑星における最大の砂漠。
それは赤道をまたいで南北に伸びる大陸の北部に存在していた。砂漠の北側には海、南側には長大な河川が複雑に蛇行する肥沃な土地が広がっている。
大陸の北には内海を挟んで別の大陸が横たわり、そちらはいわゆる『西方諸国』の文化圏である。この時代、西方諸国はフィロマ教会領を中心とした最大宗教勢力『イリユヌス教』の影響によって文化的に一定の共通項を持っている。
その一方、アルハーン・サウドが生まれた砂漠周辺では、西方諸国とはまるで性質の違う国家や文化が育まれていた。
アルハーンの属する民族、『ティチェク族』が居住しているのは、砂漠の中にぽつんとたたずむオアシス都市である。ここに都市が作られた理由はいくつかある。その中でも最も強い動機となったのは『交易路』としての利便性だろう。
この時代、当該の交易路において最大の利益をもたらしている物。
それは、砂漠をはさんだ南北二つの地域で相互に不足している品のやり取りだった。つまり、砂漠の北に広がる海沿いの土地で産出される『塩』と、砂漠の南方で採掘される『金』である。
そしてこのオアシス都市は交易路の中継地点として極めて理想的な位置に存在していたのだ。
数百年のあいだ、砂漠の周辺の国家はお定まりの興亡を繰り返し、為政者は目まぐるしい交代劇を演じ続けてきた。だが、ティチェク族は砂漠のなかのオアシス都市で遊牧や交易を中心に、常に変わらぬ暮らしを続けていたのだ。
土地を貪欲に広げるでもなく、異民族に身勝手な弓を引くこともない。ただ砂漠で生きる民として、あるいはさまざまな国同士をつなぐ隊商として、歴史の流れの傍観者とも言える存在であったのだ。
だからといって彼らは決して受け身の弱者ではない。
過酷な砂漠の環境や、周囲の国や民族からの有形無形の圧力は常に彼らを鍛え続けた。いつしかティチェク族は屈強な戦士と呼ぶにふさわしい者へと変貌していったのだ。
ティチェク族の戦士の、死をも恐れぬ勇猛さは圧倒的な事実だ。
彼らが率いる隊商を襲撃した迂闊な盗賊は漏れなく凄惨な死を与えられた。また、ティチェク族の住むオアシス都市を力で従えようとする、欲に眩んだ愚かな国は、慣れない砂漠での戦いに兵の命と士気を徹底的に削られた。
ティチェク族と戦うことは死を意味する。そんな風聞が砂漠に関わる国や人々の間でしめやかな常識と化していく。
だが彼ら自身は変わることのない生き方を選ぶ。淡々と砂漠を行き来し、生と死を等しく見つめ、誇り高く、強くあろうとする、愚直ともいえる姿。
そんな彼らの生き方が練り上げた『力』。それは、やがて周辺の文明圏における経済システムのなかで高価な価値を持つようになった。
ティチェク族の隊商が扱う商品に、一つの特徴的な『交易品』が追加されたのだ。
『軍事力』である。
◇
雨音の隙間から兵士たちの怒号が響き、空気を震わせている。
断末魔の錯乱じみた悲鳴や助命を請う悲壮な声。敵味方の血に中てられて興奮状態となった兵の狂気をはらんだ叫び。金属や木でできた武器や防具がぶつかりあうくぐもった音。
それらは小雨が降りしきる空の下、どこか長閑で無秩序なリズムを打ち鳴らし続けている。
アルハーン・サウドは青い衣装で全身を包み、戦場に立っていた。
彼が乗っている馬が、じれるように鼻息を荒らげて足踏みをし、泥に濡れた草はぐちゃぐちゃと蹄に潰される。
アルハーンはふと頭のすみで、自分が『買われて』からどれくらい月日が流れたか数えてみる。この数年ですっかりたくましくなった体は、すでに青年と呼ぶにふさわしい領域に到達していた。
彼が生まれ育った砂漠とはまるで違う気候がもたらす、土や草木の黴びるような匂い。そして、じっとりと肌にまとわりつく湿った空気の不快な感触。乾ききった土地を故郷とするアルハーンにとっては、どれだけ経とうが違和感をぬぐいきることのできない肌触りである。
アルハーンは一旦足を止めた馬の上から、戦場の『流れ』を見つめていた。彼が右手に握った長大な刀の刀身には、ぬらぬらとした血脂がこびりついている。この日、彼が屠った敵兵の数はすでに二十人を上回る。だがアルハーンは決して昂ぶることなく、他の兵士たちが命をやりとりする様子をきわめて平静に観察していた。
アルハーンたちを始めとした、この戦場で無類の強さを振るう数十人のティチェク族で構成された遊撃部隊。彼らは身分上、金で買われた『奴隷兵士』ではある。
だが、この場合は虐げられたり軽んじられたりするような部類とは少々意味合いが違う。アルハーンたちは今もこうして民族の誇りである青い衣装を身につけていた。それが許されていることが、彼らの立場の何よりの証だろう。
「アルハーン! 左から新手だっ!」
味方の声に刀を握り直したアルハーンは、素早く馬首をめぐらせる。
奇妙な陣容だ、というのが第一印象だった。
武器を持たずに、盾だけを両手でしっかりと構えた数十人の兵士。それがぐるりと円陣を作っている。円の内側にはやたらと軽装の一団がもぞもぞとうごめいているのが見えた。
不愉快な気分がアルハーンの眉をしかめさせる。
今しがたアルハーンに向かって声をかけた男が、馬を隣につける。この兵もまた、青い衣装を身につけたティチェク族の男である。
アルハーンは顔の下半分を覆うように巻き付いている布をずらして口元を外気に晒す。
そして彼は苛立ちをこめて言った。
「なんだ、あいつらは?」
ティチェク族の男が簡潔に答える。
「敵だろ」
「それは見れば分かる。なぜ剣も弓も持っていない?」
「さあな。世の中にゃ、いろんなのがいるからなあ」
のんびりと返す男。それと対照的にアルハーンは、ぎりっと歯を噛みしめた。
なんだ、あれは。あいつらは『戦う』ことを目的としていない、とアルハーンは結論する。そして彼の胸に怒りが少しずつみなぎっていく。
「戦うつもりがないのなら戦場に出てくるな」
「俺に言われても困る。気に入らないなら直接言ってこいよ」
冗談まじりに、にやりと歯をむきだしたティチェク族の男。それにアルハーンは仏頂面で短く応じる。
「そうだな」
言うが早いか、アルハーンは再び顔布で口元を覆うと、一気に馬を駆けさせる。目を丸くして見送る仲間を尻目に、はためく青い衣の裾が煙のように尾を引いていく。
戦とは、兵の戦う『意志』によって成立する、崇高なものである。戦う覚悟のない者が戦場に立つことは、すなわち戦を汚すことと同義であり、決して許されない行為なのだ。
刀を持った手首をくるりと器用に回して、刃についた雨粒と血糊を振り払う。それは彼が次の『標的』を定めたことを意味している。
「ハッ!」
ひときわ高く響き渡るアルハーンの力強いかけ声。それは馬の脚をさらに加速させると同時に、円陣を組んでいる連中にアルハーンの存在を気付かせるきっかけにもなってしまう。
構わないさ、と彼は心内でつぶやく。たとえ相手に戦士の資格があろうがなかろうが、だまし討ちのような形で首を取るのは自分の矜持が許さない。
さて、どいつから叩き斬ってやろうかと、円陣を組んでいる連中の仔細を、疾走する馬上から見やる。
遠目から見た印象通り、彼らはアルハーンが思う戦士の姿ではなかった。確かに円陣の周囲を囲む数十人は軽装ではあるが、皮鎧をしっかりと着込んでいる。体の膨れ方から察するに、内側には鎖帷子に類するものも身につけているかもしれない。
だが、円陣の内側にいる者たちは、戦場とはまるで場違いな格好なのだ。彼らは巡礼者か聖職者のような黒いローブの長い裾を、濡れた地面で不格好に引きずっている。
先ほどアルハーンが覚えた不快感の裏から、奇妙な違和感がじわりと顔を出す。まるで殺してくれと言わんばかりの出で立ちに思えた。だがさすがに自殺志願者の集団がのこのこ出てきただけとも考えにくい。
刻一刻と詰まっていく彼我の距離。考えている余裕は無い。だが馬の疾駆をゆるめるつもりも無い。いずれにしろ、ここで躊躇することはアルハーンの戦士としての本能が拒絶する。敵を前にして足を止めることなど論外なのだから。
アルハーンは盾を構えた敵兵を踏み越えようかという勢いで馬を跳躍させる。彼の部族は幼少の頃からラクダで騎乗技術を磨くことを是としている。多少勝手は違うが、彼らの乗り手としての技量は西方諸国の騎馬兵に引けを取るものでは無かった。
馬の伸し掛かりに腰が引けた隙を見逃さず、アルハーンは相手の盾の上からお構いなしに刀を叩きつける。馬上から地上の兵へと向けることを前提として設計された刀は、刀身と柄のバランスも一般的な刀とは大きく異なり、取り回し自体は槍に近い武器と言うべきだろう。
たび重なる戦場で鍛え上げられたアルハーンの強靭な腕力は、相当な重量を持つその武器を軽々と振り回してみせる。最初の馬上攻撃からなんとか気を取り直した相手は盾をしっかりと保持し、体全体でアルハーンの刀を受け流そうとし、それは辛うじて成功を収めた。
予想以上の堅守にいったん仕切り直しをすべく、アルハーンは馬を操り円陣から距離を取る。
「小ざかしい」
ぽつりと言葉がこぼれ出た。
だが問題ない、とアルハーンは馬を円陣の周囲を緩急をつけた速度で走らせつつ相手の力量を分析する。兵士としては並の連中だろう。というか、盾を両手で構えた亀のようなこの兵たちは、円陣の内側に立つ黒ローブの一団を守ることだけを考えている。そんな印象を受けた。
一体この連中はなんなのだと、アルハーンは再度疑念をつのらせる。
そして、彼は『それ』を感じた。
そちらに心が向いた理由がなんだったのかは彼自身にもよく分からない。自分の意識がいつの間にか、円陣の中心部に立つ一人の人物に強く吸い寄せられていたのだ。
男性と思われた。さして大柄ではない体に白い外套をまとっている。
そして何よりも特徴的な装備。それがアルハーンの中に忘れがたい印象として焼き付けられていた。
男は白い奇妙な『仮面』を着けていたのだ。




