第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (終)
うららかな春の陽射しが優しく注ぐ。
まるで、あらゆる生命にむけて目覚めの時を知らせているようだった。
大槻キュウタは、視界の端にはらりと舞った桜の花びらを何気なく目で追いかけた。彼の前には一つの真新しい墓が立っている。豪華ではないが、品のあるたたずまいの墓石だった。
ナタコウジ・エイコが人生を終えたのは、都に春の気配が忍び寄ってきた季節だった。
そこまでの数ヶ月、それなりに安定した容態のなか、エイコはゆったりとした日々を過ごした。娘であるナタコウジ・ヤコは甲斐甲斐しくエイコの世話を焼き、人目のない時には歳相応の少女として存分に母に甘えていた。
静かな、眠るような最期であったという。
往く者、残される者。誰にも何一つ心残りなど無かった。
ヤコもサダナガも、心安らかにエイコを見送ったのだ。
「キュウタ」
背中からかけられた声に、彼は振り向く。
いつもの白い衣と緋色の袴。
ヤコが目を丸くして立っていた。彼女の手には、道中で摘んだと思しき数本の野花が鮮やかな白や黄の花弁を揺らしている。
ヤコはふっと息をついてからしゃがみ込むと、母の墓に花を供えた。
穏やかな微笑がキュウタを見上げる。
「今朝は屋敷に姿を見せないと思ったら、こんなところにいたのか」
キュウタが呆れるような苦笑いを浮かべる。
「こんなところって……」
よっと一声あげたヤコが立ち上がった。彼女はキュウタに向き直り肩をすくめる。
「いや、悪い意味ではない。母上もお前のことを気に入っていたからな。こうして墓参りしてくれるのなら、私からも礼を言わねばならない」
軽く頭を下げたヤコに、キュウタは調子を少しばかり狂わされた。
「いえ……そんな大げさな話じゃありませんよ。今日は天気も良かったので……ちょっとした気まぐれです」
照れくさそうに鼻の頭をかくキュウタを、ヤコは優しく見つめていた。キュウタは彼女の表情のどこかにエイコの面影を見て取った。この少女もいつか、誇り高く芯の通った強い母親になるのだろうと彼は思う。
そんなキュウタの眼差しに、ヤコは少しばかり怪訝そうな色を見せた。
「なんだ、そんなじろじろ見て」
「いえ、別に」
にこやかに見下ろしてくるキュウタに、ヤコは空を見上げ、諦めたように息を吐きだした。
「まあいい。お前には色々と助けられたからな。あのあと、母上にも小言を言われてしまった」
「……僕はただ、自分のためにすべきことをしただけです」
キュウタの答えに、ヤコはしみじみと言った。
「お前は時々、よく分からない事を言うよな。仙人と禅問答でもしてる気分になる」
「すいません。ちゃんと説明できればいいんですが」
ばつの悪そうな顔になるキュウタに、ヤコはいい気味だとでも言わんばかりの笑みを口元に乗せる。しばしそうしていたヤコが、やがて唇を結んで視線を宙空にさまよわせた。とらえどころのない物を捕まえようとするような仕草のまま、彼女は言った。
「なあ、キュウタ」
奥歯に物が挟まったような風でヤコが続ける。
「私も……お前のことが、その……気に入っている、のだと思う。何というか、女子からこういう事を言うのはおかしいかもしれんが」
キュウタは黙って少女の言葉に耳を傾けていた。ヤコは衣の衿を指でいじりまわしながら、耳を少しばかり赤らめた。
「キュウタ。お前さえ良ければ、ナタコウジの家に……」
意を決したヤコをからかうように、気まぐれな春の突風が二人を吹き付け、葉や花びらを辺り一面に幻想的に散らしていく。
ヤコの言葉の終わりは風にかき消されたが、その思いは確かにキュウタの心に届いていた。
◇
とある日の午後。
キュウタはナタコウジ家の門前に現れた。
応対に出たサダナガに、かねてから答を求められていた婿入りの件について、キュウタは自分の意思を告げた。色々と準備することがあった少年は、そのまま家路へとついた。
歩いているうちに少しずつ長くなっていく自分の影を見つめながら、キュウタは自分の決断をじっくりと噛みしめていた。
これでいい。
自分が信じる未来のためなら、どんな選択でも受け入れることができる。
◇
夕暮れの潮風が、蒸し暑い空気を徐々に冷ましていく。
サザレは砂浜に横たわる朽ちかけた流木に腰掛けている。彼女はこの土地の女性と同じく、布地の少ない上下セパレートタイプの服を身につけている。
青い瞳の視線の先には、七歳かそこらの少年が砂に膝をついていた。浅黒い肌に、丸く、くりっとした黒い瞳。短めの黒髪は潮風のせいかどこかパサついている。
砂の上には文字と数字が順番に書かれ、少年はそれを音読しながら指でなぞることを繰り返している。
やがて少年は唸り声を上げて砂の上にごろりと寝転がった。
「サザレ姉ちゃん、もうこれ飽きた」
頬杖をついてぼんやりと足元を見つめたままのサザレが淡々と返す。
「だめ。今日はそこまで覚えなさい。じゃないとご飯減らす」
「ちぇ。またそれかよ」
顔をしかめた少年が不承不承ふたたび砂の上に意識をもどす。
サザレが都を離れてから半年近くが経過している。
港から港へ、船を乗り継ぎ辿り着いた南方の一地方。そこで彼女はようやく目当ての人物に出会った。彼は数カ月前の季節外れの嵐によって身寄りをすべて亡くし、行き場を失っていたところをサザレに引き取られたのだった。
サザレは『未来視』が示したビジョンを今一度確認する。
いまサザレに文字の読み書きを教わっている一人の少年。
彼の数世代先の子孫が、この地に築かれるであろう王国の主要人物となるのだ。
西方からの航海者との交流に刺激されたこの地の人々は、亜熱帯の恵まれた環境の元に独特な発展を続けるだろう。海洋資源を糧とする環境と文化から育まれた優秀な造船技術や航海術。それが東西を繋ぐ海上の要衝となる地理的条件と相乗効果を起こす。
数世紀ほどの未来に構築される、安定した巨大な洋上流通路。
人やモノ、情報の移動速度が劇的に向上し、世界の大動脈とでも呼ぶべきものを確立するのだ。それは魔法学を含めた人類文明の発展速度を押し上げるはずだ。
その端緒となるのがこの少年である。彼に教育を与え、自立して生き、やがて得た家族を養うための手助けをする。彼の血統こそ、世界を前進させる力の一つとなっていくのだから。
一口で言うのは容易いが、ことはそう単純ではない。サザレは、文字の書取り練習をしながらぶつぶつボヤく少年を見て小さくため息をつく。人にものを教えることの難しさをサザレは身にしみて感じていた。本来ならこういうのは「彼」の領分のような気がする。
沈む夕陽を見つめながら、サザレは一人の少年の顔を心に思い描いた。
いま、彼は何をしているのだろうか。この海の先、空の先に彼がいると思うだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。膝をかかえ、心のすきまを埋めるように体を小さく丸めた。
その時、さくり、と砂を踏む足音がサザレの背後に生まれた。ぴくりと体をこわばらせた彼女は傍らに立てかけた刀の位置を確認する。だが、その必要がないことにもすでに気付いていた。
サザレは自分の感覚が捉えたものを信じられず、数瞬のあいだ思考を凍りつかせてしまう。
取り違えることなどありえない気配。永劫にも等しい時間、いつも彼女の隣にいた人の気配。
穏やかな優しい声が風にのってサザレの耳に届く。
「大変そうだね」
サザレはふっと息を吐き、ふたたび膝をかかえて白い砂地に視線を落とす。彼女は後ろを振り向くこともなく、呆れるような調子で応じる。
「こんなところで何をしているんですか、キュウタ」
「何って」
キュウタは苦笑いで肩をすくめた。肩にかけた荷物袋がぎしっと音を立てる。
責めるようなサザレの声が向けられる。
「ヤコ殿を放ってきたんですか?」
キュウタはサザレの背中を見つめた。半年かそこら離れていただけなのに、とてつもなく懐かしい感じのする背中だった。少しばかりまぶしそうに目を細め、キュウタは言った。
「婿入りの話は断ってきた。ナタコウジの家は大丈夫だと思う。あの家の人たちは僕がいなくても、きっとうまくやれるさ」
サザレは足元を見つめたまま、ほんの少し不満げな声を押し出す。
「……私の未来視が間違っていると?」
「そうじゃない」
彼の言葉の力強さに似た何かに、サザレは思わず振り向いた。
亜熱帯の気候に合わせたキュウタの旅姿。少し日焼けした肌がよく合っている。
この数ヶ月、サザレがずっと焦がれていた姿がそこにあった。
「神さまの言葉を思い出したんだ」
キュウタの言葉に、サザレが首を小さくかしげた。キュウタは自身の言葉の不足を補うように相手をじっと見つめて言った。
「心の赴くまま生きろ、って言ってた。その意味をずっと考えていた」
一呼吸おいて、キュウタは自分の心を確かめるように一言ずつはっきりと告げた。
「僕は君と一緒に未来へ進みたいんだ」
サザレは風にわずかに乱された髪を指で整え、視線を何もない宙空へとさまよわせた。
「合理的じゃありませんね。私の『未来視』はいつでも正しい道を示しています」
「分かってる」
キュウタは何かが変わったことを強く感じた。
どれだけの時間を経ようとも老いない体を自分たちは持っている。だが、『変わらない』こととイコールではないのだ。そこに何の意味があるのかは分からない。何の意味も無いのかもしれない。
それでも、目の前の少女に対してキュウタが抱いている感情。それが時間とともに、より強くなっているのは覆しようのない事実なのだ。明確に言葉にできる理由があるわけではない。『ただそう思う』。それだけなのだから。
サザレがゆっくりと立ち上がり、キュウタの前に進んだ。
「でも、合理的でないのは、私も似たようなものです」
彼女はキュウタを見上げた。まっすぐに向けられる視線を、キュウタはしっかりと心に刻んだ。
「キュウタ。私はあなたが好きです」
遙かな昔から幾度となく告げてきた想い。だがこの時の想いは、それまでの言葉とは何かが違う。サザレはそんな気がした。
キュウタもそれを感じ取ったのかもしれない。しばらく少女の青く澄んだ瞳を見つめてから彼は言った。
「僕は魔族と戦う。世界を守るために。そして、すべてが終わったら、ちゃんと君に答えを言う。約束するよ」
サザレは目を閉じて、キュウタの言葉が胸に染みこむのを感じながら、表情を少しずつ微笑みに変えていく。
やがて彼女は再び目を開き、キュウタを見上げた。ほんの少しだけ潤いの混じる瞳だった。
「今はそれで十分です」
キュウタは胸のつかえが取れた気がした。大丈夫、きっとこれでいい。そんな暖かい予感が彼の中に流れていく。
そして、不意に脇腹を突かれる感覚にキュウタは視線を下げる。
いつの間にか、二人の横に立っていた少年が、うさんくさげにキュウタを枝でつっついていた。
「サザレ姉ちゃん、こいつ誰?」
◇
そして長い日々が過ぎ去った。
ある年、都の周辺を流行り病が襲った。
多くの死者が出た。
だが、本来失われていたであろう人命の内、かなりの数が救われていた。政に関わる人々はそう捉えていた。
それを成し遂げたのは、タマビトと呼ばれる者が持つ力を発展させた業である。式を綴り、誦えることで不可思議な効果を生み出す術。
『綴誦師』と呼ばれる人々の尽力が陰にあったのだ。
綴誦師たちが行使した術の本質は病を癒やすのではない。人が本来持つ生命力をほんの少し支えてやるだけのことであった。この術を創りあげたのは、史上初めて綴誦師という官職を賜った、ナタコウジ家の先代当主の女性である。
綴誦師が行使する術は万能ではなかったが、快方に向かう人は確実に存在した。彼らは薬師たちとも密に連携し、病に倒れた人々の治療にあたった。
救われた命の中には帝の縁戚に連なる者も数人いた。
ナタコウジ家はこの功績を認められ、さらなる術の研鑽を朝廷から命じられる。今後数百年に渡ってミズホ国における魔法研究の最先端として存続し続けるのだ。
彼らの研究はやがて大陸方面とは別系統の発達を遂げ、魔法学という巨大な学問体系に多様性とさらなる強靭さを与えるだろう。
それは間違いなく未来の人類の力となるはずだ。
◇
秋風が心地よく頬をなでていく。
三つの墓石が寄り添うように並んでいる。
その前にはミズホ国では見かけない、風変わりな白い外套を身につけた二人の少年少女の姿があった。
彼らは遙か昔にこの世を去った人を思いながら、静かにたたずんでいる。
「こちらにおいででしたか」
狩衣姿の壮年男性が、額に汗を浮かべながら小走りに近づいてくる。両手には布に包んだ荷物を大事そうに抱えていた。彼が、いまや政権の中でも大きな発言力を持つナタコウジ家の当主だとは誰も思わないだろう。
声をかけられたキュウタは肩越しに振り返った。彼の隣に立つサザレも軽く会釈をする。
申し訳無さそうに苦笑いしてみせるキュウタが肩をすくめた。
「ああ、すいません。ちょっと懐かしかったもので」
どう懐かしいのだろうかと、男は疑問を浮かべる。彼らの前にある墓は、最も新しいものでも二十年以上前に作られたのだというのに。ひょっとしたら彼らの祖父母とでも関わりがあるのかもしれないが、どうにも詳しいことをこの少年たちは話したがらないのだ。
ただ、この二人が名乗った名前は間違いなくナタコウジ家が過去に受けた大恩に縁のある物だ。
もし彼らが現れたら、自分たちは何をすべきか。男は先代の当主、すなわち母親からそれを幼少の頃から耳にタコができるほどに言い聞かされていた。
「はあ……そうですか」
ぼんやりと返す男は少年と少女の出自を頭の中であれこれと想像してみたが、しっくりくる答えは得られそうになかった。まあいい、自分の役割を果たすだけだと思い直す。
その時、サザレが一歩前に出て、二本の刀を男に差し出した。
「先々代の御当主からお借りしていた物です。良い機会ですのでお返しいたします」
目をぱちくりさせた男はそれを恐る恐る受け取り、目を皿のようにして刀の細部まで検めた。
「言い含められていた通りですな」
男の言葉の意をくみ取れなかったキュウタが首をかしげる。
「はい?」
「いえ、先代の当主が常日頃より、口にしていたのです」
男は出来る限り正確に、記憶にある母の言葉を再現した。
「いつか当家に刀を返しに来る者が現れるから、代わりにこれを渡してやれ、と」
男は抱えていた荷物を解き、中から二本の刀を取り出してサザレに差し出す。新しいとは言えないが、手入れのよく行き届いた品だった。全体的に簡素な造りだが、実用性を重んじた結果であることも容易に感じ取れる。
刀を包んでいた布を几帳面に折りたたみながら男が付け加えた。
「先代が原初魔法で術式を『刀身の内側』に書き込んだものです。『対魔法障壁』と『硬化』を融合させているとか」
狐につままれたようなサザレがそれを受け取り、問いかけるような視線をキュウタに向ける。小さく微笑んだキュウタがうなずいてみせ、サザレはふうと息をついてその刀を腰に差した。
「それともう一つ」
男は懐から小箱を取り出してキュウタに差し出した。
今度はキュウタが目を丸くする番だった。受け取った小箱の蓋を開けた彼は、中からその『指環』を物珍しそうに取り出す。銀色に輝くその指環は、キュウタの人差し指にぴたりと嵌まった。
「こちらは『対魔法障壁』と『力の矢』の術式を書き込んであるそうです」
キュウタは指環を嵌めた手を空にかざし、興味深げにじっくりと眺めた。表面は滑らかで特に何かの魔法陣に類する物が見て取れるわけでは無い。
おそらく、内部に微細な術式が『結晶化』魔法によって書き込まれているのだろう。サザレに渡された刀も同じ仕組みのはずだ。この時代の技術では、刀や指環に複雑な魔法陣を刻み込むのはかなり難しいことなのだろうとキュウタは思う。
男はキュウタとサザレを交互に見やり、言いにくそうに続けた。
「ただ、並の術士の魔力では大した効果は生まれないはずです。まだまだ不完全な術式だ、と母は……失礼、先代は考えていたようです」
今はいない者の顔を思い出しているのだろうか、男の表情が少し和らいだようにキュウタは感じた。
「それでも『彼ら』なら十分役に立つはずだとも申しておりました」
キュウタは記憶の彼方にある少女の顔を脳裏に浮かべ、ふっと微笑んだ。
「ありがとうございます……ところで、術を発動させる呪文は?」
「もちろん預かっております。こちらに」
男は懐から茶色がかった紙を取り出し、キュウタに手渡す。
キュウタは丁寧に畳まれた古びた紙を広げて、そこに記された呪文を確認する。ふと、紙を透かした裏側に何かが書かれているのを見たキュウタは、何気なしに手紙を裏返す。
そこには舌を出した、おかっぱ少女の顔が描かれ、横に走り書きがなされていた。
『バーカ 私は幸せになってやったぞ こんないい女を振ったことを死ぬまで後悔しろ』
キュウタはそれからしばらく涙が出るほど笑い転げた。




