第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (12)
ナタコウジ家の屋敷から三人目の医者が辞去したのは明け方近くになってからだった。
その部屋に通じる障子の前に置かれた香炉から、うっすらと白いものが立ち上っている。部屋を囲む四角にも同じ物が配置され、家の中は嗅覚を涼やかに刺激する香りが漂っていた。
今のナタコウジ・エイコは意識もはっきりせず、荒い呼吸とともに床に横たわっている。
ナタコウジ・サダナガは引きも切らず出入りしていた医者や祈祷師たちの応対に追われ、ここ一両日ほとんど睡眠を取っていなかった。エイコの世話を一旦、家人に任せた彼は、縁側に座り朝の冷えた空気を感じながら狩衣の袖を合わせて腕を軽く組んだ。そして睡眠不足の埋め合わせをするかのように、ゆっくりと目を閉じる。
だが疲れのたまった心と体に眠りが訪れることはなかった。胸に去来するのはエイコとの思い出の数々だ。
初めて出会った時から、芯の通った誇り高い女性という印象を強く受けた。しょっちゅう床に臥せる体ではあったが、エイコはいつでも凛とした有りようを崩すことはなかった。ヤコを授かってからは、母親としての強さも兼ね備え、厳しさと優しさをもってヤコを育ててきた。ぱっとしない自分には過ぎた妻だったと、今までの日々を思い返す。
鼻の奥がつんとする感覚は寒さのせいばかりではないのかもしれない。
かさり、と乾いた土を踏む足音にサダナガは視線を向けた。姿を現した相手に、サダナガがほっと顔をほころばせる。
「キュウタ殿か」
大槻キュウタが軽く頭を下げる。
サダナガに促されるまま、キュウタは隣に座った。少年の声には申し訳無さそうな想いがはっきりと現れている。
「すいません、こんな時に。でも、どうしても様子が気になったので」
「お気遣いに感謝します。要らぬ気を使わせてしまったようですな」
声音に疲労の色をにじませるサダナガだったが、悲壮感のようなものはほとんど感じられなかった。キュウタがちらりとエイコの部屋の方向を見やり、静かに言葉を発する。
「何か入用のものがあれば、どうぞ御遠慮なく……」
サダナガは穏やかな微笑みを唇に乗せ、ゆっくりと頭を振る。
「あれも、私も覚悟はできています」
運命を受け入れる準備をした者の顔を、キュウタは数え切れないほど見てきた。だが時々、無性に心のどこかを鷲掴みにされる気分になることがある。
抗いようのない運命にどう向き合うのか。その人物の本質が無情なまでに表に引きずり出される瞬間なのだ。必死にもがき苦しむ者もいれば、どこまでも平静な境地のまま淡々と見送る者もいる。そこに優劣などない。時代や国を問うことなく、人が自由に自分で道を選ぶことのできる数少ない場面なのだ。
「ヤコ殿は?」
「部屋に篭ったきりです。母親が苦しむ姿を見るのは辛いのでしょう。大人びたところはありますが、やはり子供なのだと思います」
でしょうね、とうなずいたキュウタだったが、どこか納得しきれないものを感じてもいた。果たしてそんな普通の子供のような反応をヤコがするのだろうか、とキュウタは微かな疑念を抱く。
そして実際、その疑念は正しかった。
◇
ナタコウジ・ヤコは薄暗い部屋の中で膝を抱え、爛々とした視線を正面に投げかけていた。
先日から食事もまともに取らず、長い黒髪はほつれている。何かに取り憑かれたような、ぎらつく表情は能面のごとく張り付いたまま変化が無い。ぶつぶつと口の中でつぶやかれている言葉は、仮に聞き取れたとしても、その意味まで理解することはミズホ国の誰にも出来ないだろう。
文机の上に撒き散らかされた無数の紙と、そこに筆で書きなぐられた数多の記号や文字列。
ヤコの頭脳は彼女の十年ほどの人生の中で前例の無いほどの速さで駆動している。真理へ続く道を力ずくでこじ開けるべく、膨大な仮説と論理の連鎖を超人的な洞察力で篩にかけ続けていた。
時間はもう残り少ない。
だが必ず間に合わせてみせる、という妄執にも似た想いだけがヤコを突き動かしていた。
◇
そして再び夜が訪れた。
下弦の月が東の空に現れた頃、キュウタはナタコウジ家の屋敷の『上空』にいた。『硬化』させた空気の層に腰掛けたキュウタは、黄昏時から油断なく地上をじっと見下ろしている。冷たく澄んだ風が体を切るように吹き抜けた。
何がしかの具体的な確証があったわけではない。だが、消えることのない胸の奥のざわつきが、ここから目を離してはならないと彼自身に告げていたのだ。
気のせいであってくれればいいのだがと内心で思う反面、何かが起きるという予感は刻一刻と強くなっていくばかりだった。
◇
更に夜が深まった頃。
ナタコウジ家に仕える家人は皆、サダナガの言いつけにより自室で休んでいる。
もはや手は尽くした、とサダナガは思った。
これ以上自分がエイコのためにできることは無いと判断したなら、そこから先は運命の導くままに任せる。それがサダナガとエイコが以前から決めていた意志でもあった。
だが、運命を甘んじて受け入れることをしない者がここにいた。
エイコがひとりで床についている部屋の障子がゆっくりと開けられた。白い衣に緋色の袴を身につけた小さな体が闇の中から浮かび上がる。一心に何かを思いつめた眼差しは、病的なまでに歪な光を帯びている。
ヤコは誰に気付かれることもなくこの部屋にたどり着いた。音もなくエイコの枕元へと歩みより、そっと膝をつく。
母の顔をのぞきこむヤコ。浅く荒い不規則な呼吸の中でエイコは眠りについている。土気色の相貌には冬だというのにうっすらと汗がにじんでいた。
ヤコの顔が険しさと微笑が混在する危うい色に彩られていく。彼女はそっとささやいた。
「母上。いま、お助けします」
奇妙なまでに平坦な声音が暗い部屋に静かに響く。
ヤコは懐から数枚の紙束を取り出す。紙面には複雑な魔法陣が筆書きされている。ヤコの淀みない手さばきが、眠ったままのエイコの周りに紙を配置していく。
最後の一枚をエイコの胸の上にそっと載せ、全ての準備は整った。
大きく息を吸い込み、ヤコは意識を集中させる。一瞬たりとも気の緩みの許されない危険な作業になるだろう。だが恐怖は無かった。やるべきことをやるだけなのだから。
枕元に置かれた魔法陣にそっと手を当て、小さな声で呪文を紡ぐ。
エイコの周りに配された魔法陣の描線が淡い青の光を放ちはじめる。そして、部屋の空気の密度がわずかに上がったかのような重苦しさ。魔法陣の輝きは点々とした鬼火のように室内を青く不気味に照らす。
ヤコの瞳にあらん限りの意思の強さが込められる。
収斂された魔力の奔流が魔法陣へと注ぎ込まれ、術式の中に織り込まれた論理構造を現実世界に具象化しはじめた。
魔法によって人を癒やす。
それは確かに困難である。魔法についての見識を深めていくほどにヤコはそう理解せざるを得なかった。
病や怪我の種類はそれこそ星の数ほどある。それぞれの事例に適切に対応するには、正確で高度な医学的知識が必要になるはずだ。そして今の時代の人間の技術ではほぼ不可能な業である。
だが、健康な体を取り戻すというだけなら、抜け道が一つあるとヤコは考えた。
人間という肉体の『あるべき姿』。それに一致しない肉体の部位を、魔法によって『置換』すればいい。
幸いにも、魔法には『人体』を選択的かつ包括的に記述するブラックボックスじみた構造が存在する。これなら医学的知識は必要ない。病の根本原因を考慮せずともいい。異常な肉体部分を、正常なものに再構成してやるだけでいいのだから。煩雑な部分はすべて魔法がやってくれるのだ。
はあっ、とさらに深い呼吸とともに、ヤコは自身の内を巡る魔力を惜しげも無く放出する。
凄まじい精神力がヤコの小さな体から魔力を絞り出す。それは『彼女自身の生命』を『削り取る』ことを意味している。ヤコの視界が蜃気楼のように揺らぎだす。指先がしびれ冷たさを増していく。心臓の動悸が不規則かつ激しいものに変わりゆき、少女の体に容赦ない苦痛をねじ込んでいく。
霞がかかったが如く不鮮明になっていく意識を無理矢理つなぎとめ、ヤコは更に魔力の発現を加速させる。
並の魔術士ならばとっくに意識を失い、倒れ伏すほどの負荷が彼女の心と体にのしかかっている。だが、ヤコの超人的な精神力は決して意識を途切れさせることを許さない。自らの意思によってここまで限界を超えた魔力を発現させるなど、二十万年近い人類の魔法史においても例が無かった。
「うっ、あ……ぐうっ……!」
瞬間、小さな叫びがヤコの唇から漏れる。
まるで全身の皮膚が裏返り、神経がむき出しにされたような激痛が走った。苦痛の波浪はヤコの体の内外を貪欲に責めたてる。すべての器官が等しく磨り潰さていく感覚。
眼球に釘を突き立てられ、肉を裂き骨を砕かれ、臓腑を生きたまま焼かれるような、筆舌に尽くしがたい苦しみ。
ヤコの眦から涙が伝う。
突然生じた喉の異物感に抗えず咳き込む。錆びた鉄の味が口の中に広がる。おそらく喀血したのだろう。膨大な魔力の発現に引きずられ、体組織の部分的な崩壊が始まっていた。
魔法陣に載せた手が痙攣を始める。この手を魔法陣から離してしまえば苦痛から解放されるだろう。だが、そんなことは絶対にしない。
絶対に助けてみせる。
母を救うためなら、この命を賭けることすら惜しいとも思わない。あの笑顔をもう一度見るためならば。
たとえ、自分が死んだとしても。
「やめるんだ」
ヤコの肩に手がそっと置かれた。
今の彼女は、触れられただけでも激痛が走るほど五感に異常をきたしていたが、その手からはどこか穏やかさを感じられた。
「いやだ」
ヤコは魔法陣に視線を向けたまま、震える声を必死で絞りだす。今の彼女には唇を動かすことさえ多大な労力が必要だった。
声で相手が誰なのかは分かる。わざわざ視線を上げて確かめる必要はない。
「君が自分の体を傷めつけることに意味は無い」
キュウタの指先が優しくヤコの肩を包み込む。
ヤコが歯をくいしばった隙間から唸るような声が漏れ出す。
「もう少し……もう少しで母上を治せるのだ」
「駄目だ。君はとっくに魔力の限界を超えている。普通の魔術士なら死んでいてもおかしくない」
ヤコの黒い眼から流れる涙がさらにひとすじ頬を伝い落ち、魔法陣に載せた手の甲で弾けた。
「だから何だ……その手を離せ、キュウタ」
キュウタの唇がきゅっと結ばれた。彼の瞳に複雑な感情の色が波を立てる。
自分の命よりも価値ある物。それを見つけた者の思いは、彼自身も身に覚えのあることだ。それでも、キュウタはヤコの思いを遂げさせるつもりは無い。
「ここで君を死なせるわけにはいかない」
全身を貫く苦痛を振り払うように、ヤコが吐き吠える。
「うるさい! 私の邪魔をするなっ!」
ヤコがぎゅっと目を閉じて心を乱す雑音を振り払い、ただ魔法の発動にのみ意識を向けようとしたその瞬間。
「ヤコ」
魔法陣に載せたヤコの手の上に、優しい感触が生まれた。
「もう、よいのです」
ヤコが生を受けた時から彼女を包んでいた柔らかさと暖かさだ。一日たりとも忘れたことなど無い。
ヤコは半ば呆然としつつ、ゆっくりと目を開けた。
ナタコウジ・エイコが起き上がり、ヤコの前に正座している。危篤にある者とは思えぬほどのしっかりとした瞳の力。彼女の手はそっとヤコの手に当てられている。
エイコはヤコの手を両手で押し包み、魔法陣の上から持ち上げた。魔力の供給が途絶え、魔法陣から発せられていた青い光がふっと消滅する。
部屋は闇が戻り、静まりかえった。ヤコの荒く乱れた吐息だけが聞こえている。
最前までのヤコの苦痛は嘘のように消え去っていた。彼女は涙でくしゃくしゃになった顔のまま、言葉もなく母を見つめる。
エイコが微笑む。
「夢のなかで、あなたのことを思っていました」
ヤコの顔がゆがむ。当てられた手の暖かさが、母の思いを雄弁に語りかけている。しゃくりあげながらヤコが唇を開く。
「はは、うえっ。わたし、は」
「もう、よいのです」
エイコが目を細めて語りかける言葉は昂っていたヤコの心をゆるやかに鎮めていく。
「ヤコ。私はもう十分、あなたから沢山の物を貰いました」
ヤコを抱き寄せて、頭を優しく撫でるエイコ。母にしがみついて胸に顔を埋めたヤコが低い嗚咽を漏らす。
もはや言葉にする必要もないのだろう。母娘は互いの温もりを感じながら、ただ体を寄せあっていた。
キュウタはそっと立ち上がり、部屋から出た。後ろ手に障子を閉める。そして部屋の外、壁際で佇んでいた人物に小さくうなずいてみせた。
サダナガは障子の先の気配に向けていた意識を、キュウタに戻す。沈痛さがにじむ表情のサダナガであったが、必要以上に感情的になる様子はない。
「キュウタ殿」
「ヤコ殿は大丈夫です。しばらく休ませる必要はあるでしょうが」
細々とした息をもらしたサダナガの肩から力が抜ける。部屋の中のエイコの声はサダナガにも聞こえていた。もう二度と目を開けないかと思っていた妻が見せた様子に、サダナガが思案げな色を見せる。
「キュウタ殿。ヤコが作った術式は、よもや本当に病を癒やす力が……?」
サダナガの問いに、キュウタは部屋の中にあった術式の構造を思い返してみる。往々にして困難さを伴うが、魔法陣に描かれた記号だけからもおおまかな術の構造を推測できる場合がある。
キュウタはゆっくりと頭を左右に振る。
「治癒魔法として、あれに近い考え方の術式は他の学者も試しています。ですが、術が成功した例は未だありません。何か足りない要素があるという意見が大多数ですね」
ヤコ以外にも同様の概念に辿り着いた者はいる。だがその試みが成功することは決して無かったのだ。
もしかしたら魔力の『強度』の問題かもしれないという説もあり、何度かキュウタ自身も術式の試験に協力したこともあった。だが、かんばしい成果は得られていなかった。
キュウタは懐の小箱から発熱魔法の術式札を取り出し、ヤコとエイコのいる部屋の中へ術を発動させた。今夜も結構な冷え込み具合だ。ヤコも体を休める必要がある。お節介かもしれないが、暖を取る手伝いくらいはしたかった。
「それでも……エイコ殿を目覚めさせたのは、間違いなくヤコ殿です。きっと魔法は関係ないのでしょう」
人が人を想う行為が生み出すものを、キュウタはこれまで幾度も見てきた。大抵の場合、それは非合理的であり、時として破壊的であったりもした。
だがロジックでは説明できない現象が生まれることもある。キュウタは、今しがた目にしたヤコとエイコの絆に思いを馳せた。あの場面でエイコが目を覚ましたのは、ただの偶然なのかもしれない。
それでも、理を超えたものは確かにこの世界に存在するように思えた。たとえそれが、偶然の事象を自分勝手に都合よく解釈する、人間の思考や認識能力のいい加減さからもたらされた感想だとしても。
ヤコはどうしようもない絶望の中で、糸のようにあやふやで細い希望を見出し、そこに自分の命を投じてみせた。
見込みや実体のない希望であっても、すがるものがあれば人は立つことができるのだろう。それは人間の弱さでもあり、強さであるといえるかもしれない。
ふと何故か、キュウタの脳裏に一人の少女の顔が浮かんだ。
サザレは今、何を思い、何をしているのだろうか。説明できない非合理的な感情が少年の心を押し始めていた。




