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第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (11)



 みやこの空はほんのりと青白く、冬の朝の乾いた空気が静かに積もっている。


 ナタコウジ家の書庫は母屋おもやの裏手に継ぎ足すように建てられていた。

 文机ふみづくえの前の少女は、うず高く積み上げられた書物の山の間に埋もれるように座っている。


 ナタコウジ・ヤコはこの数週間、夜明けから日没にかけてほぼぶっ通しで魔法に関する書物を読み漁っていた。まだ十歳かそこらの少女としては超人的な集中力である。

 

 彼女が求めているものは単純だ。

 人の命についての考察。命は何故生まれ、何故死ぬのか。その運命を修正する方法は無いのか。

 

 キュウタは病を癒やす魔法など無いと言った。

 だがヤコはどうしても諦めきれなかった。ただの悪あがきやわらをも掴む思いとはまた違うものが彼女を突き動かしていた。

 方法は必ずある、という直感があったのだ。

 

 魔法とはこの世のことわりから逸れた存在に思えた。ここではないどこかの世界への扉を開けるわざだとヤコは感じている。

 常世とこよから神がかった力を引き出すことが出来れば不可能なことなどないはずだ。ヤコは自身の直感を信じて、ひたすらに魔法の術をきわめようと全身全霊で挑み続けていた。

 

 書物をめくる手を止めて、目をまぶたの上から手のひらで揉みほぐす。少し根を詰めすぎているかもしれないが、のんびりしている暇などない。残された時間は多くないはずだ。


 長々と白い息を吐き出して全身の疲れを一緒に振り落とそうとする。その拍子に、父であるナタコウジ・サダナガから先日伝えられた話が脳裏にちらついた。

 

 キュウタを自分の『婿』として迎え入れたいとは、父もずいぶん思い切ったことを考えるものだ。父の目論見はともかく、あの少年が隠しているかもしれない、魔法についての知識。それを手に入れる機会がやってきたと考えてもいいだろう。

 

 ヤコは別にキュウタに対して自覚ある感情をいだいてはいない。確かに魔法の使い手としては尋常ならざる領域に達しているし、魔力の鍛錬にも親身になって付き合ってくれるし、最近は話し相手としても悪くはない印象だ。


 あれ。ちょっとおかしいなと、ヤコの思考が止まる。


 キュウタのことを好きか嫌いかという観点で考えたことは無い。ヤコは人並み外れた知性の持ち主である。自分のすべきことを本能的に嗅ぎ分けて、常に適切な選択をしてきたつもりだ。つまり、考えたことがないものは、考える必要がないはずだ。

 そうだ、別に誰が婿になろうが考える意味などない。自分が自分でなくなるわけではないのだ。ヤコは自分にとってのキュウタの価値をそう理解した。


 だが、サダナガから婿入りの話を聞いた時に自分の頬を少しだけ熱くしたものの正体は、いかに聡明な彼女でもまだ理解が及ぶものではなかった。

 

 



 朝陽あさひの光が窓から差し込んでいるが、家の中はまだまだ薄暗い。

 静謐せいひつな空気の中でサザレがころもを羽織り、白く透き通るような肌を覆い隠す。流れるような動作で遅滞なく旅支度を整えた彼女は土間に降りる。

 

 腰にいた二刀はナタコウジ・サダナガから預かったものだ。結局、これといって眼鏡にかなう刀を都で見つけることは出来なかった。だがそれは瑣末なことだ。時間ならこれからいくらでもある。じっくりと探せばいいだけの話だ。

 サザレは笠を手に持ち、扉を開けた。


「どうしても行くの?」


 家の外、壁に寄りかかっていたのはキュウタである。

 彼は足元に視線を投じたまま、不承不承さを声からにじみ出させていた。


 サザレは笠をかぶりながら答える。今はあまりキュウタの顔を見る気にはなれなかった。優しい言葉をかけられたら決心が鈍ってしまいそうだから。


「西の方で、いくつか気になる『未来視』が見えました。少し様子を調べてくるだけです」

「一人で海を渡らせるのは……心配なんだ」


 キュウタの懸念は正当と言える。

 この時代の大陸をまたいだ航海技術の信頼性は丁半博打といい勝負だった。だから船を使う時は必ずキュウタとサザレは一緒に行動している。キュウタがいれば仮に洋上でトラブルがあったとしても、彼の原初魔法『硬化』なら最悪の状況を脱することはさほど難しくない。

 

「自分の未来もある程度なら見通せます。大丈夫ですよ、キュウタ」


 声に込められたせつない陰に、キュウタは思わず視線を上げた。だが笠にサザレの目元は隠され、キュウタからは微笑を浮かべた唇しか見えなかった。

 キュウタは小さくため息をつく。


「どれくらいかかるんだ?」

「四十年ほどは歴史分岐を監視する必要がありそうです」

「本当にサザレ一人で……」


 キュウタの言葉をさえぎりサザレは返す。

 

「問題ありません。ここ二百年で魔法の技術も色々進んでいますし、私だけで対応できるでしょう」


 サザレがふところに入った小箱を衣の上からぽんと叩く。中に収められた魔法陣をしるしたふだ。魔法学者たちの研究のおかげで、術式のバリエーションは徐々にではあるが増えている。


 もっとも、普通の魔術士の魔力では大した規模の現象を発動させることはまだできていない。術式に洗練の余地があるのか、魔術士の魔力の使いかたや鍛錬法に何か工夫が必要なのか、そのあたりも未だに不透明である。

 だが、キュウタやサザレの常軌を逸した強靭な魔力によって発動された魔法なら、単純な術式でさえ神のごとき力に見えることもあるだろう。

 

 キュウタはサザレの『言葉』と『能力』を信じていた。心酔といっていいかもしれない。危険がない、と彼女がいうのならきっとそうなのだろう。サザレ本来の素質に加え、長年鍛え上げられた戦闘技術と種々の魔法術式。それらを持ち合わせた彼女に危害を加えられる者がそうそう存在するとも思えない。

 

 だが、サザレが都を出立することを選んだ本当の理由は『未来視』など関係ないところにあるのではないか。そうキュウタはうっすらと感じていた。

 

「サザレ。その『未来視』は、本当にそこまでするほど重要な分岐なんだな?」

「ええ。魔法技術の進歩速度に関わります。介入は必要でしょう」

「未来にどれくらい影響する分岐なんだ? 危険を冒すほどの価値があるのなら、僕も一緒に……」


 キュウタの感覚は正しかった。

 サザレの言葉はまったくの嘘というわけではない。だが実のところ、今回彼女が見た『未来視』は魔法技術の発展においては誤差程度の影響しか与えないだろう。


 サザレはキュウタに嘘をつくことはできない。だから言葉をすり替えることを選んだ。ずるいことは自覚している。だが自分にはお似合いだと彼女は胸の中で自嘲した。


「キュウタ。あなたはヤコ殿のそばにいるべきです」


 笠の下から紡がれるサザレの言葉は、反論を許さぬ固い意思に満ちていた。サザレの声が続けられる。


「ヤコ殿の近い未来が不安定に揺らいでいます。詳しくは見えませんでしたが、何かが起きる予兆です」


 ぴくりと反応したキュウタ。

 そして二人の間に沈黙が降りる。太陽は先ほどよりほんの僅かに高く上がっていた。深々と息をついたキュウタは、観念したかのような声を小さく絞り出す。


「分かった。僕はみやこに残る」


 ふっと笑みを漏らしたサザレの唇が小さく震えた。


「それが最善の選択です」


 キュウタは壁に深くもたれかかり、冬の青空を見上げた。ぼんやりとした視線は気の遠くなるほどの長き日々を思い起こしているのだろう。


「四十年か……今までそんなに長く離れて行動したことは無かったな」


 感傷的なキュウタと対照的に、事務的な口調で応じるサザレ。


「何かあればフィロマ教会に伝言を残しておきます」

「くれぐれも気をつけて。少しでも危ないと思ったら即座に退くんだ」

「やるべきことは必ずやります。私も覚悟を持ってあなたと生きてきましたから」


 言い切ったサザレに、キュウタは眉根を寄せた。彼が知っているいつものサザレとはどこか違うものを感じ取ったのだ。


「この歴史改変は、僕が無理やり付き合わせているだけだ。きみが命を張る理由なんてどこにも無い」


 サザレは笠を更に目深まぶかにした。この人は何も分かっていない。

 やり切れない感情が胸を満たしていくのを、サザレは諦念とともに傍観していた。キュウタのためだからこそ、どんな事でも出来るというのに。

 だが、サザレはそれを言葉にすることは出来なかった。言ってしまえばキュウタは必ず自分自身を責めるだろうから。


「私はキュウタのところに必ず戻ってきます。だから待っていて下さい」


 サザレはいたって穏やかな調子で声を向けた。何かを言おうと口を開きかけたキュウタだったが、結局彼から言葉が出てくることは無かった。


 そしてサザレは歩き出した。

 背中にキュウタの視線を痛いほどに感じながら。徐々に遠ざかる少年の気配が、少女の心の中のほころびを押し広げていく。

 キュウタが力ずくで自分を止めてくれる光景がハッキリとした現実感を持って映し出される。サザレはそんな都合の良い世界を思い描く自分を軽蔑した。


 そしてサザレはその瞬間、理解した。

 自分の思い込みが、キュウタに対する『錯覚』を生み出していたことに。永劫の時間を共に進む内に、いつの間にか少年のことを自分の半身か何かのように勘違いしていた。

 何ものも入り込む余地のない強い絆で二人は結ばれている。そう誤解していた。それは単なる幻想なのだ。


 自分も、キュウタのことを何も分かっていないのだと知った。


 何のことはない。

 キュウタとサザレは二十万年の間ずっと、すれ違い続けていたのだ。





 ナタコウジ家の書庫はあちこちに書物が散乱し、文字通り足の踏み場もない状態であった。


 ヤコは畳に大の字に寝転んだまま、天井をぼんやりと見つめて思索にふけっていた。


 魔法陣から生み出される魔法は、呪文が分からなければ発動すらかなわない。それは魔法学の初歩といってもいい。

『魔法諸原理』を書いた男が作った術式。キュウタがヤコに示したその魔法陣を起動させる呪文は未だに謎に包まれ、世界中の誰一人として発動させることができていない。だが、いくつもの驚異的な洞察の示唆を魔法陣のなかに垣間見ることができる。


 ヤコの興味を特にいたのは、『属性』を記述していると思しき部分である。記号と文字列の巧妙な配置は『人間』という属性を意味しているフシがあったのだ。


 これはヤコが最近よく考えを巡らせる、魔法の『根源』に繋がっているようにも思えた。魔力が体の中からあらわれる力ならば、逆に体に対して何かの効果をもたらすことができるのではないだろうか。


 ヤコはかっと目を見開いて飛び起きた。

 息を殺し、つい今しがた自分の心に湧き上がったものをのがすまいと、身じろぎもせずに考えをまとめていく。

 やがて、彼女はゆっくりと紙と筆をとり、天啓のように舞い降りてきた閃きを書き連ねていく。筆を走らせる手は少しずつ速さを増し、やがて少女の思考もさらに明敏に研ぎすまされていった。


 ついにヤコは着想を得た。

 追い求めてきたものに指先が引っかかったという確信に、彼女の心は歓喜に震えていく。


 だが現実は残酷なまでに、猶予をり潰そうとしている。少女が今まで心血を注いで積み重ねてきた時間が水泡にそうとしていた。


 その夜、ナタコウジ・エイコが病状を急変させ、危篤におちいったのだ。




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