第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (8)
この年の冬は厳しい寒さになった。
大槻キュウタがヤコに魔法の指導をするようになってから二ヶ月ほどが経った。指導と言っても理論的な面でキュウタが教えられることは多くない。
各地の魔法学者たちが導き出した最新の術式や仮説。それを書物としてまとめたものをナタコウジ家に渡している。『魔法学』の専門的能力としては、すでにヤコの方が自分より上のはずだと、キュウタは考えている。
もちろんキュウタ自身も折を見て魔法学の基礎を学ぼうとはしている。だが、自分の固い頭では魔法発展に役立つような業績を上げることはできないとも思っていた。
結局は才能とセンスのある者が創りあげた術式やノウハウを拝借して使うのが手っ取り早いのだ。
というわけで、キュウタがヤコに教えているのは、彼が長年経験してきた魔力の鍛錬方法や、魔法の運用面での小手先の技術くらいである。
「魔力の循環もだいぶ様になってきましたね。あとはじっくりと時間をかけて鍛錬の負荷を上げていけば良いでしょう」
庭に敷いたゴザの上、落ち着いた姿勢で座り瞑目するヤコ。ひたむきな精神の集中は感情の表出をせき止め、彼女の整った顔立ちの魅力をくっきりと浮かび上がらせている。
いつもこんな風にしていればもっと可愛げもあるのに、とキュウタは思うが、それを口にしたりはしない。その程度の分別は持っているのだ。
ゆっくりと目を開いたヤコが、ふうっと大きく息を吐き出す。ここしばらくにおける、彼女の魔力制御の熟練には目を見張るものがある。魔力の強さ以外はキュウタの技量に遜色ないといってもいいくらいだ。
ヤコが目をぱちぱちとさせて自分の手のひらを見つめる。
「何だか妙な気分だな。体の隅々にまで『気』が行き渡る感覚というのは。自分の心と体がどんどん近づいているようだ」
「ヤコ殿は実に覚えがよろしくて、教えるのが楽しくなりますよ」
キュウタの言葉が慇懃無礼に聞こえたのか、あるいはただ子供扱いされていると感じたのか、ヤコが頬を軽くふくらませる。
「ふん。顔の方は『まだまだ未熟者め』と言っているぞ」
気の抜けた苦笑で応じるキュウタ。
「魔力の鍛錬に時間がかかるのは仕方がありません。逆に言うなら、時間さえかければ必ず強くなります」
ぶすっとした顔で、もごもごとヤコが返す。
「……私は別に強くなりたいわけでは無いのだ」
キュウタはヤコの口調に少しだけ視線を曇らせる。彼女が魔法の業を磨こうとする目的は一つしか無い。そしてそれが実現する見込みなどないことをキュウタは知っていた。
ヤコの物憂げな視線が地に向く。
その先には小さな水たまりがあり、薄く氷が張っている。彼女は何気ない仕草で氷に手をかざした。魔力が発現する気配をキュウタが感じ取るのと同時に、氷の表面に幾何学的な模様がじわじわと浮き出してきた。
そしてヤコの退屈そうな声がこぼれる。
「こんなことが出来ても何の役にも立たないだろう」
ヤコの隣に座り込んだキュウタがいくぶんか感心した調子になる。
「『結晶化』魔法ですね。原初魔法としては珍しい方ですよ。術式として再現した例はまだないと思います」
いぶかしげな目がキュウタを見る。
「……ケッショウカって何だ?」
「ええと。物が規則正しく並んでいる様子、ですかね」
正しく説明できているか不安に思いつつキュウタが答えた。それでもイメージは一応伝わったのだろうか、彼女は小さな頭をうんうんとうなずかせる。
「ああ、そういうことか。確かに『力』を働かせる時は、頭の中でそんな風景を描いているな」
キュウタはあごを撫でながら記憶をたぐり寄せた。
「原初魔法として『結晶化』を使う魔術士は何人か見たことがあります。塩や鉄なんかにも使ってましたね」
「ふうん。それは思いつかなかったな。今度試してみよう」
気のない応答をしたヤコはキュウタに背を向け、そのまま口をつぐんだ。
氷にかざした手はそのままの位置にある。表面の模様がさまざまに変化していく様子を少女はつまらなそうに眺めていた。今のところ何の実用性もない『結晶化』の魔法。ヤコにとってこれは魔力の鍛錬の一助くらいにしか思えないのかもしれない。
キュウタが彼女の背に問いかける。
「役に立たない魔法は嫌いですか?」
「堅苦しい作法習いよりは好きだ。呪文にしろ魔法陣にしろ、理屈が綺麗に通っているからな」
ヤコはそう言って魔法の発動を終わらせた。氷の表面に浮き出した模様は極めて微細なフラクタル構造を描いている。
彼女はそれを指でそっと撫で、続けてつぶやく。
「身分も貧富も関係なく、つまらん手心の入る余地が無い。そこが面白い。魔法諸原理を書いた『ちえぶる某』とかいう男はなかなか聡い人物だぞ」
十歳の少女にそんな評価を受けたと知ったら、『彼』はどんな顔をするだろうとキュウタは押し殺した含み笑いをする。
そしてヤコの気配と声がやや陰鬱な色を帯びた。
「なあ、キュウタ。魔法とは……何のためにあるのだ?」
大きくは無いが、重く、絞りだすような声が続く。
「この力は妙だ。一から十まで矛盾無く、理に適っている。なのに、歪に思える時がある。世界の有りかたに逆らっているように思えるのだ」
キュウタはヤコの小さな背中を見つめたまま、返すべき言葉を見失う。ある意味、この世界に魔法をもたらした張本人はキュウタである。だが彼はヤコの疑問に対する答を知らない。
キュウタは自分の行動の理由なら説明できる。だが魔法そのものの存在意義を問われたことはついぞ無かったのだ。
ヤコがゆっくりと振り返る。もはや子供の目ではない。一人の人間として確固とした意思を持った者の目だった。
「もし……もし魔法が世の運命に逆らう力があるのなら、私はそれを見つけなければならない。私に宿った力は、そのために使いたいのだ」
キュウタはヤコの強い意思を感じた。彼女は魔法を大切なものを守るために使おうとしている。自分とはまるで正反対の動機だ。キュウタは唐突に自分の足元が揺らぐ気分を味わった。
少女の純粋な想いに、自分が試されているようにキュウタは感じる。ヤコの黒い眼がキュウタの言葉を待っている。キュウタが何かを隠していることを見抜いているかのように。
キュウタはゆっくりと言葉を選ぶ。上っつらの繕った言葉遊びではなく、自分自身の考えをはっきりと形にすべき場面に思えた。
「答はどこかにあるのでしょう。でも、僕には分かりません。正直に言えば、魔法の存在にどんな意味があるかなんて、考えたこともありません。僕はある個人的な理由で魔法と関わってきました。魔法は僕にとって便利な道具以上の何物でもないのです」
ヤコはひざを抱えて、頬を膝頭にのせる。彼女の視線は何もない地面の上をぼんやりと眺めていた。
「お前は……何のために魔法を使うのだ? 欲しいものがあるのか? それとも、大切なものがあるのか?」
『大切なもの』というヤコの問いを聞いた瞬間、キュウタの脳裏に一人の少女の顔が浮かんだ。
予想外な自分の感情にキュウタは戸惑う。いや、予想外というのは嘘だった。認めたくないだけだ。守るべきものを持った瞬間、自分は『弱く』なる気がするからだ。キュウタは物心ついた時から『戦う』ことを生活の一部として育ってきた。魔族との絶望的な戦争。その経験から得た、一つの法則がある。
守勢に回った者から順に死んでいく。
避ける術はただ一つ。何ものをも顧みず、ただひたむきに前へ進み敵と対峙する。その歩みを続けられる者だけが生き残ることができた。これは矜持や信条の問題ではなく、真理であるという確信があった。
キュウタにとって、守るべきものを知ってしまうことは、自分の強さにヒビを入れることなのだ。
それだけは絶対に受け入れられない。混じりけのない強さで自分を満たしておかなければ、魔族に勝つことなど叶わないように思えるのだ。
黙りこんで考えにふけるキュウタ。珍しく内にこもった様子の少年に、ヤコは満足な答を得られないことを悟ったのか、小さく肩をすくめた。
ぐすっと鼻をすすったヤコが空を見上げる。
「しかし今日は冷えるな」
灰色の雲が厚くたれ込め、雪でも降り出しそうな雰囲気だ。ヤコはちらりと隣のキュウタを見た。
「ところで、キュウタ。ちょっと貸してほしい物があるのだが」
◇
夜も更け、ナタコウジ家の屋敷は静まり返っている。寒さはさらに厳しくなっていた。
とある部屋の前、閉めきられた障子に向かいあい座り込む小さな人影があった。
ナタコウジ・ヤコがあぐらをかき、布団を体に巻き付けて何やら意識を集中させている。布団の隙間から出した手は床の上の札に当てられていた。
彼女の顔に浮かぶ疲労と険しさは、闇の中でもはっきりと見て取れるほどだ。
ヤコが深く息を吸い、体に泥のようにまとわりつく倦怠感を振り払う。
彼女の前にはキュウタが以前、着物を乾かすのに使っていた発熱魔法の術式魔法陣が描き込まれた札が置かれている。ヤコはかれこれ一時間ほど、その魔法陣に魔力を注ぎ込み続けていた。
発現する魔法は障子の向こうの室内にささやかな暖気を生み出していた。
この術式が十分な効果を生み出すだけの魔力。それを発現させ続ける作業は、今のヤコにとってかなりの負荷だ。無茶な魔力の消費は意識や肉体に疲労を与え、もはや意識を繋ぎ止められる限界でもある。
「もう少し……もう、少し、だけ……」
もうろうとしはじめた意識に鞭を入れ、ぶつぶつと独り言を自分に言い聞かせる。
凍えるような夜の空気を少しでも和らげ、障子の向こうで病に伏せる人をいたわる。そのためにヤコは自分の心と体を振り絞っていた。
「もう……すこ……し」
だが、そこが限界だった。うつろになった瞳をまぶたが覆い隠す。かくんと下がった頭の重みに逆らえず、小さな体がころりと横になった。間もなくヤコは穏やかな呼吸とともに深い眠りに入り込んだ。
そして闇の奥から、ふっと別の人影が現れる。
布団にくるまって寝息を立てるヤコを見やってから、その人物は彼女の隣に座り込み、床の上にある札に手をかざす。
囁くように『呪文』を唱え、魔力を発現させる。その魔力の強靭さはヤコとは桁違いのものであった。
魔力の発現方向を制御し、障子の先の部屋の内部に再び熱を送る。
徐々に部屋は暖められ、中で眠る人物は寒さに凍えることもなく、朝まで快適に過ごせるだろう。
この魔法に要求される魔力は決して少なくない。一般的な魔術士では三十分とかからず音を上げざるを得ないだろう。術を一時間以上も維持してみせたヤコの能力は驚異的と言えるのだ。
だがこの人物にとっては、これくらいの魔力の発現は何の苦にもならない。その気になればまさに無限にこの魔法を発動し続けることも出来るはずだ。もっとも、現実的には睡眠などの生理的欲求といった、魔力とは無関係な肉体的限界が先に来るのだろうが。
大槻キュウタはここからの長い夜を思い、暇をつぶせる道具を持って来るべきだったかと若干の後悔を心に浮かべた。
その時、目の前の障子が音もなく開けられた。中から暖かい空気があふれ出し、キュウタとヤコを包んでいく。
意表をつかれたキュウタの表情が固まった。てっきり相手は完全に寝入っているものだとばかり思っていたのだ。
ナタコウジ・エイコは白い寝巻き姿で立っていた。透き通るような白い肌が闇の中でも際立った色合いを見せている。
彼女の芯の通った相貌は、確かに娘のヤコに通じるものがあるとキュウタは思った。
エイコの声が問いかける。細い声音は病のせいではなく、ヤコの眠りを妨げまいとする心遣いのように感じられる。
「あなたがキュウタ殿ですね」
キュウタは一つ小さなため息をついた。




