第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (7)
大槻キュウタは両親の顔をおぼえていない。
キュウタが家族について知っているのは、簡略化された戸籍から辿れる断片的な情報だけだ。名前と生年月日と住んでいた場所。だがそれらの情報は少年が生きる上で何の役にも立っていなかった。
彼が生まれた時代はすでに魔族が存分な暴れっぷりを見せつけ、社会基盤のかなりの部分が機能不全に陥っていた。ネットワーク化された公的記録もその例に漏れることはない。
キュウタの家族が住む町は都市部から離れた山間にあった。魔族との長い戦争によって文明が疲弊しきったこの時代、安定的な食料供給は重大な問題である。比較的魔族の勢力圏から離れた地域では、農業や畜産を営む強制労働的なシステムの導入が半強制的に推し進められた。為政者の都合と民衆からの圧力に抗うことは誰にもできないのだ。
食料生産を担う地域は戦略的にも重要視され、常に少なくない軍が防衛戦力として駐留していた。
だがキュウタが二歳になったころ、ついに町は数体の魔族に襲われた。戦闘の詳細をキュウタは知らない。
だがおおよその見当はつく。いつも通り人間は完全に負けたに違いない。混乱の中でキュウタの両親は死んだらしい。魔族の手にかかったか、友軍の誤射か、あるいはもっとつまらない理由か。
人々が町を放棄し落ち延びる中、誰かがキュウタを保護して軍の養育施設に預けた。養育施設と言っても、実際のところは行き場のない孤児をかき集めて『兵力』の足しにすることが目的だ。
魔族のおかげで孤児は常に増え続け、軍は新兵の頭数に事欠くことはない。もっとも、それ以上のペースで成人兵が『消費』されていたのだが。
何にせよ、キュウタにとって血を分けた家族とは書類の上のただの文字列でしかなく、形のないぼんやりとした概念だ。
施設で共に訓練を受けたり、死地をくぐり抜けてきた仲間との関係の方がよっぽど『家族』と呼ぶにふさわしいかもしれない。
キュウタはそんな風に育ってきたのだ。
◇
扉を開けて澄んだ青空を見上げた。
朝の冷たい空気がキュウタの肌に活を入れてくる。サザレが家の奥から問いかけた。
「今日もナタコウジ家の屋敷へ?」
空を見つめたまま帯を締め直し、キュウタがうなずく。
「うん。一緒に来る?」
サザレが目を伏せて首を左右にふる。彼女の胸の奥を小さなトゲのような何かが刺す。
「いいえ。先日、商人から紹介された刀鍛冶のところへ行ってみるつもりです」
「そう」
それだけを言って歩き始めたキュウタの足をサザレの声が引き止める。彼女は戸口のそばに立ってキュウタを見つめていた。
「キュウタ。すでにミズホ国で魔法が発展する歴史は十分に『定着』しています。これ以上、私たちが介入することに、ほとんど意味はありません」
ほんの少し、普段のサザレとは違う声色。かすかに眉を寄せたキュウタが背中越しにサザレを見る。再び伏せ気味になった彼女の表情は、家の中の暗さもあってよく読めない。
何かが噛み合っていない、そんな感覚がする。キュウタは戸惑いがちに答えた。
「ちょっと軌道修正するだけだよ。あの子はちょっと危なっかしいからさ。分かるだろ?」
耳にかかった茶色混じりの長い黒髪をサザレが指でかき上げる。どこか不安そうな仕草なのはキュウタの気のせいだろうか。
「今後の歴史で、ナタコウジ家とその周辺の家系が魔法研究の中心的な役割を果たすことは『見えて』います。私たちがここに留まる理由をあまり感じません」
頭の後ろを指でかきながらキュウタが小さく息をつく。
「それは、このあいだ聞いたよ。他の国の情勢もあと百年ほどは大きく動かない。それに、ヤコ殿の才能は僕が今まで見てきた魔術士の中でも、かなり高い位置にある。あの力は放ったらかしにするには惜しいよ。少しくらい寄り道してもいいだろ?」
キュウタはサザレの表情の陰りに違和感を拭いきれない。やはりおかしい。彼女のこんな顔を見るのは初めてかもしれない。
サザレが体の前で自分の指を絡ませて言葉を濁す。
「そう、なんですけど……」
「サザレ……どうしたんだ? なんか変だぞ?」
キュウタは少女に向き直り、一歩あゆみ寄った。サザレの肩にそっと手を乗せようとしたキュウタを、彼女の言葉が押しとどめる。
あからさまに作られた笑顔がキュウタに向けられた。青い瞳の上で長いまつげが軽く震える。
「いえ、ごめんなさい。なんでもありません」
サザレは囁くように答え、扉を静かに閉じた。
キュウタは自分が何か間違えたのだろうかと、その場でしばし思案した。だが結局、納得の行く答えは得られなかった。
◇
庭の真ん中に敷いたゴザの上で、ナタコウジ・ヤコは正座のまま瞑目していた。緋色の袴からちょこんと出た足先がもぞもぞと動く。あまり正座が得意ではないらしい。
母屋の縁側に腰を下ろしているキュウタが、ヤコの身動ぎに間髪入れず言葉を飛ばす。
「意識を乱さない。体の中の『力』を隅々(すみずみ)にまで巡らせるんだ」
ヤコは目を閉じたまま顔をしかめて唇を噛む。かれこれ二時間近くこの調子が続いている。
先日、ヤコがキュウタに頼み込んだのは、より強い魔法を使うための『修練』だった。
ミズホ国では魔法の概念自体、ほとんど知られていない。魔法の行使に強く関わる『魔力』やその鍛錬については言うまでもないだろう。そして何故彼女がキュウタにそんなことを志願したのかもわざわざ尋ねる必要はない。
ヤコはまだ諦めていないのだ。魔法を使って母親の病をどうにかするつもりなのは明らかである。そんなことは不可能だと説明しても、きっと彼女は聞く耳を持たないだろう。
キュウタは、ヤコの体内で練られていた『魔力』に揺らぎの気配を感じる。初冬の寒空の下、少女のこめかみを汗が伝う。血の気が引き始めた顔色からもそろそろ限界が近いことが分かる。
少年は縁側から立ち上がって庭に出る。
「そこまで」
だがヤコの意識の集中は止まろうとしなかった。
絞りだすような魔力の集中が、ヤコの小さな体の中を満たす。馬鹿にするな、まだ行ける。この程度で音を上げるつもりなどさらさら無い、と宣言するように。
キュウタは小さくため息をついた。過剰な努力は彼女の体力を無意味に削るだけなのだ。正座したヤコの前にしゃがみこんで、彼女の額を指で軽く弾く。
「いだっ」
思いの外良い音が響き、キュウタの唇が微笑にゆるむ。
そしてヤコの体から魔力の気配がようやく消える。ほんのり赤くなった額を両手でさすりながら、ヤコが相手をじろりと睨む。不満げな少女を気にすることなくキュウタは立ち上がり、縁側を手で指し示す。
キュウタがヤコに魔法の手ほどきをすることを許諾した時の一つの約束。彼の指示には必ず従い、無闇やたらに魔法をぶっ放したりしないこと。それを思い出させるような視線がヤコに向けられた。
ヤコは渋々ながらキュウタの後について縁側に腰掛けた。いつ用意したのか、置かれた二つの湯呑みの中から湯気が立ち上っている。
キュウタが湯呑みを手渡す。
「気分はどうですか、ヤコ殿?」
ヤコは中の湯をふうふうと息で冷ましてから口をつける。
「へっちゃらだ。どうということはない」
キュウタの目で見るかぎり、丸っきりの強がりでも無いように感じられる。
ヤコの才能は大したものだとキュウタは思う。もちろん魔力自体は今のキュウタに比べればささやかである。だがその制御の業について言えば、フィロマ教会の魔法教育機関で並の魔術士が数十年訓練を積んだものに匹敵している。
それに加えて『魔法諸原理』を十歳やそこらで読み解き、あまつさえ自己流の術式を組み上げる聡明さ。百年に一人の才能と言っても大げさでは無いはずだ。
ふと、キュウタはヤコと初めて出会った時のことを思い出す。
「そういえば……あの術式の呪文。最後に何か名前を叫んでいましたが」
首をかしげたヤコが視線をさまよわせてから、膝をぽんと打つ。
「ああ、『蛇嵐哮』か。格好いいだろう。私が名づけた」
「なるほど……あ、いや、そうじゃなくて、『術の名を叫ぶ』ことは、魔法の効果に何か関係があるんですか?」
「無い」
言葉の意味を掴みきれず目を瞬かせるキュウタ。説明するのも面倒そうなヤコの声音が向けられる。
「あるわけ無いだろう。魔法陣と呪文が揃えば術は発動するのだ。お前の方がよく分かっているだろうに」
確かにその通りだ。
二百年ほどの魔法学者たちの研究もそれを裏付けている。魔法を発動させる『呪文』。それは人々が普段使っている言葉とはまったく異なる規則に基づく特殊な言語だ。現存する言語と共通する部分は皆無と言っていい。
よく分からなくなってきたキュウタがヤコをのぞきこむ。
「え、じゃあどうして」
「気分の問題だな。大声を出すと気合が入るし」
キュウタはそれ以上深く考えるのを諦める。天才というやつの理屈は正直理解できない。こんな時は自分が凡人だということを嫌というほど再確認できる。だが増長や油断を防ぐ意味では、才能ある人々と交流することは悪くないとも言えた。強力な魔法を行使できることは、時々思い上がりに近い全能感をもたらすことがある。
あくまでも自分は本質的に『普通』の人間である。そこを忘れるべきでは無いだろう。『不老』や強靭な魔力を持ちはしていても、あっさり足元をすくわれる可能性はどこにでも転がっている。
キュウタは二百年前の、一人の魔術士と行った『戦い』を思い出す。せいぜい数十年生きてきただけの魔術士の魔法が、二十万年近く魔力を鍛錬してきたキュウタを打ち破る能力を見せた。だからといって自分が歩んできた悠久の年月が無駄だったとは、キュウタは全く思わない。
それは紛れもなく『希望』なのだ。
魔法による戦い。
それは魔力の単純な力比べではなく、知恵と技術が勝敗を左右しうる。二百年前にキュウタが体験した戦いは、その可能性を示唆している。
非力な魔力でも、強い魔力に勝利しうるのだ。それを証明したことの意義は、魔族と戦う上でとてつもなく大きい。
黙考するキュウタを怪しむように、ヤコがじっと見ていることに気づく。互いに目を合わせてしばし身動きを止めた。見つめ合ったまま、相手が先に口を開くのを待っているかのようだ。
一瞬のためらいの後、キュウタはふところから一枚の『紙』を取り出した。
二人の間に広げられた紙面には、びっしりと細かな記号や文字が円環状に描き込まれている。興味深げに見つめるヤコの表情を観察しながら、キュウタが言う。
「『魔法諸原理』を書いた人物が作った術式です」
キュウタが言葉を続ける前にヤコが目を輝かせた。
「奇妙な感じだな。まるで術式が重なっているような……」
キュウタの体がぴくりと震え、ざわっと鳥肌が立つ。
二百年ほどあちこちの魔法学者にこの魔法陣を見せてきたが、一目でその本質を見抜いた者は一人もいなかったのだ。
やはりこの少女は『本物』だと確信する。もしかしたら長年の『謎』を解くきっかけになるかもしれないとキュウタは期待を抱いた。
「ええ。この術式は少なくとも三つの効果を『同時』に発動させることが出来ます」
ごく単純な物理的な力、人体のみを破壊する力、魔法的作用に対する障壁。キュウタが二百年前に自分の体で味わったものである。
キュウタの説明に怪訝そうに眉根を寄せるヤコ。
「だが……ひとつの魔法陣には、ひとつの魔法というのが定石だ。三つの術式を同時に安定させることは難しいと思うのだが」
予想通りの反応にキュウタが相槌を打つ。
「ええ。どの国の魔法学者もヤコ殿と同じ意見でした。ですが、この術が行使されるところを僕は見たことがあります。非常に強力な魔法でした。今でも背筋が冷えます」
ヤコの目が不審に彩られる。
キュウタの言葉に潜む意味をどう解釈すべきか考えているのかもしれない。ヤコが唇を結び、覆いかぶさるように魔法陣を食い入るように見つめる。
「キュウタ。この術式の呪文はどうなっているのだ?」
彼は肩をすくめることしか出来ない。
「それが分からないんです。この術の発動を再現した者はまだ一人もいません」
白い衣の両袖を合わせて腕組みし、緋色の袴はあぐらをかく。公家の娘としては少しばかり男前な仕草だ。
ヤコの顔がしかめられる。
「ううむ。それは難儀な話だな」
『魔法陣と呪文』は、『錠前と鍵』のような関係だというのが、各国の魔法学者たちの統一的な見解だ。どちらか片方だけがあっても意味がない。
呪文によって『整えられた』魔力。それを魔法陣へと注ぎ込むことで初めて効果が発動するのだ。
そして魔法陣と呪文は必ず一対一に対応する。だが魔法陣単体から呪文を導き出す、あるいはその逆は極めて困難なのだ。
理論上存在可能な呪文は、単語同士の前後関係や文法上の変形を含めれば、最終的にとてつもなく膨大な数の組み合わせになる。例えば『力』を意味する語だけでも二十種類以上あるのだ。片っ端から組み合わせを試したところで、『当たり』を引くまで何千年かかるか計算する気にもならない。
キュウタが二百年前に目の当たりにした術式。これを解明することが出来れば、人類の魔法技術は長足の進歩を遂げるという確信がキュウタにはあった。
だが全貌どころか一部ですら解明した者はまだいない。現在の魔法研究における難問の一つと言っていいだろう。
ヤコが紙を取り上げてひらひらと振る。心のどこかに火がついたようだ。あるいはこの術式に秘められた何かを直感したのかもしれない。
「これ、借りてもいいか?」
好奇心と探究心にあふれた眼差し。魔術士というやつはどこの国でも似たような顔をするんだなと、キュウタは内心で苦笑いする。
「もちろん差し上げます。まあ、ヤコ殿ではこれを解くのは難しいと思いますが、何か分かったら教えて下さい」
むっと口元を引き結ぶヤコ。こういう安い挑発に乗るところはまだまだ子供だ。
「ふん、言っておれ。目にもの見せてくれるわ」
可愛らしく舌を出して、不敵に微笑むヤコ。その瞳はすでに紙面の上をあちらこちらへと走り、ああでもないこうでもないと考えを巡らせているようだ。
もし自分に妹がいたらこんな感じなのかな、とキュウタはぼんやりと思った。




