第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (6)
小さな雨粒が静かに、絶え間なく降り注いでいた。
柔らかくなった道を踏むわらじも冷たく湿っている。
サザレは頭にかぶった笠の下から、薄暗く空をおおっている雨雲を見上げた。雨はしばらく止みそうにない。片手に下げた風呂敷包みには、市場で手に入れた野菜やら干し魚が入っている。
あちこちの商人や刀鍛冶を訪ねたサザレは今日も結局、ピンと来るような刀を見つけることは出来なかった。だが折れた刀の詫び代わりにナタコウジ・サダナガから借り受けた物を使うつもりは無い。
ナタコウジ家に伝わる二刀を常に彼女が腰に佩いているのは使うためではない。仮に家に保管したとして、空き巣などが入る可能性を恐れてのことだ。
刀の調達は特に急ぐ必要もない。しばらくは派手な立ち回りの予定もないのだから。
自分が刀を探して都の中をうろうろ歩きまわる理由は別のところにあるという自覚があった。最近、キュウタと顔を合わせることに気まずさを抱くときがあるのだ。
サザレはここ数十年、キュウタとの距離感に微妙な変化を感じている。原因がどちらにあるのかは良く分からない。変わったのが少年か、自分なのか。あるいは両方かもしれない。
道の真ん中でふと立ち止まったサザレ。笠の端を指で傾けて空を見上げる。雨粒がぽつりぽつりと頬ではじけた。
この雨が、心にこびりついた不安を洗い流してくれればいいのに。少女はどこか祈るような思いで空を見つめていた。
◇
キュウタは軒下で雨空を見上げていた。
背にした扉の向こう、つまり家の中からごそごそと物音が続いている。少し冷えてきた体の前で腕を組み背中を丸めた。
そろそろかなと思ったちょうどその時、少女の声がする。
「もういいぞ」
やれやれ、と口をへの字にしたキュウタが扉を開けた。
囲炉裏端にはサザレの替えの着物を羽織ったナタコウジ・ヤコがちょこんと座っている。体格に合っていない着物の胸元から白い肌が危なっかしく覗いている。
キュウタが相手の姿をちらりと見て眉間にしわを寄せる。
「袴も出しておいたはずですが」
「大きさが合わん。衣だけで十分だ」
ちらりと衣の裾を上げてニヤリとするヤコ。際どい位置まで露わになった少女のふとももをキュウタが呆れ顔で見る。どこでそんな表情を学んだのか、ヤコが扇情的な視線を向ける。少女がふざけているのはお見通しだ。
これ以上何を言っても埒が明かないように思え、キュウタはヤコが脱ぎ捨てた衣と袴を拾う。頭の高さに張った紐に、濡れた衣服を吊るして軽く水気を払う。自然に任せて乾かすのでは結構な時間がかかりそうだ。
キュウタはふところから小さな木箱を取り出した。
片手の中に収まる程度の印籠のような拵えである。頭の蓋を外すと、中には厚手の紙でできた『札』が数枚収められている。
その中の一枚を抜き出し、吊るされたヤコの着物の下に置く。札には細かな図形や紋様が円環状に描かれていた。
意識の集中を示すように、キュウタの瞳がすっと細くなる。
彼の唇からささやくように短い『呪文』が紡がれた。声は小さく聞き取ることは難しい。
ヤコの視線がぴくりと反応する。『魔力』の発現する気配は彼女にも感じ取ることが出来たようだ。
床に置かれた札の表面で『魔法陣』がぼんやりと輝く。同時に札の周囲に熱気が生じた。決して焼けつくような熱さではない。初夏の陽を思い出させるカラリとした暖かさだった。
陽炎がゆらゆらと立ち上り、濡れた着物を小さく揺らす。少し待てば乾くだろうか。夜になる前にはヤコをナタコウジの屋敷に送り届けられるはずだ。
キュウタはヤコと向かい合う位置に座り、冷えかけた手を囲炉裏にかざす。
「ヤコ殿。お一人でこんな所に来るのは感心しませんね」
心外な、といった表情で腕組みをしたヤコが胸を張る。
「問題ない。父上にはちゃんと断りを入れている」
どこまで本当か怪しいものだ。娘を持つ父親の気苦労というのは相当なものだろうなと、キュウタは他人ごとながら同情してしまう。
五徳に載せた鉄瓶から湯気が吹き出した。キュウタが湯呑みに湯を注ぎ入れてヤコに渡す。
少女はふうふうと中身を冷ましながら、鉄瓶やその下の炭に目を向けた。庶民にはあまり縁のない高級品である。
ヤコが湯を一口すすり、どこかむっつりとした顔でつぶやく。
「なかなかに良い暮らしぶりのようだな」
キュウタは自分の分の湯呑みを覗き込み、大して興味もなさそうに答える。
「ええ。皆さんが良くしてくださるので助かっています」
ぱちり、と炭が小さく弾ける音にヤコが眉をひそめる。
「わざわざ炭を買う理由はあるのか? お前ほどの力なら、『火』の術式でどうにでもなりそうだが」
先ほどからヤコの着物を乾かし続けている魔法陣が描かれた札。それを彼女がアゴで指す。術の発動時から魔力の供給は途切れていない。だが、魔力の源であるはずのキュウタは涼しい顔で湯をちびちび飲んでいる。彼から感じられる魔力の『気配』は少女自身のそれよりも桁違いの強さだというのに。
ヤコは自分の力を他の魔術士と比べたことが無い。だがキュウタが行使している魔力の凄まじさは説明されるまでもなく理解できている。
本来、魔法陣と術者の物理的な『距離』が離れるほど、術の維持に必要な魔力量は跳ねあがる。
通常は術者が直接手を触れるなりしなければ、まともな効果を持つ魔法を発動することはできないだろう。にも関わらず、キュウタは部屋の隅に無造作に置いた魔法陣に魔力を供給し続けているのだ。
ヤコは自分が同じことをしようとすれば即座に体力を奪われ、意識を失い倒れるだろうと考える。と同時に、この少年の底知れない力に肝をかすかに冷やす。
キュウタが相手をからかうように、くすりと微笑む。
「多少不便でも、そこに情緒を感じるんです。まあ、旅の時は確かに重宝していますけどね」
そう言いながら、ふところから魔法陣の札を収めている木の小箱を取り出し、手の中でもてあそぶ。黙ってそれを見ていたヤコが探るように声をかける。
「それを見せてもらっていいか?」
おかっぱの前髪の下の目が真剣な輝きを見せている。まっすぐにキュウタを見つめる少女の黒い瞳が、薄暗い家の中にくっきりと浮かび上がっていた。
キュウタは黙ったまま小箱を差し出す。
受け取ったヤコが何かに急かされるように中から札を取り出し、物も言わずじっくりと魔法陣の構造に見入る。一枚、また一枚、心に焼き付けるがごとく目を凝らす。その姿は無数の絶望の中から一粒の希望を探しているようにも見えた。
並々ならぬ姿勢を見せるヤコにキュウタがそっと言い添える。
「そんなに根を詰めずとも、先日サダナガ様に差し上げた書物にそれらの術式の仔細は記されていますよ」
ぴたりと手が止まり、ヤコの目が伏せられる。小さな手の中で心のやり場を失った指が札の角をそぞろに撫でる。明らかな落胆の声がこぼれた。
「……そう、なのか」
言葉からしてヤコは件の書物に目を通しているのだろう。
しぼんだ風船のように肩を落とすヤコをキュウタがじっと見つめる。
「異国の魔法に興味があるんですか?」
ヤコが、ぴくっと肩を震わせる。口を引き結んだ少女がじろりとキュウタに視線を返す。札を戻した小箱をキュウタに返したヤコが、膝の上で居心地悪そうに指をもじもじさせる。
やがて彼女はささやくように言葉を向けた。
「……病を癒やす術式は無いのか?」
沈黙が降りる。キュウタがあぐらの上で頬杖をつく。不誠実なのは分かっているが、彼は答える代わりに質問を返した。
「お母様の具合は思わしくないのですか?」
深く息をついたヤコが湯呑みの縁をそっと指でなぞる。
「ここ数年は床に臥せってばかりだが、落ち着いてはいる。だが……日に日に弱り続けている。私でも分かるほどにな」
期待と不安がないまぜになった瞳がキュウタの答を待っている。はぐらかしても仕方がない。キュウタは小さく息を吐き出した。
「治癒魔法を研究している学者は確かにいます」
キュウタの言葉に、ぎくしゃくと身を乗り出すヤコ。
「それは」
「ですが、医術として役立つ魔法は見つかっていません」
凍りつくように動きを止めたヤコ。
残酷な宣告をしているという自覚はあるが、事実を受け止めるだけの分別はあるはずだ。論理的思考ができなければ魔法は使いこなせない。それはきっと魔術士の性なのだから。
そしてキュウタは言葉を続ける。
「一口に『病』といっても、実際には多くの原因が複雑に絡み合っているものです。万能の薬となる治癒魔法が存在する確証は、今のところ全くありません」
湯を再び一口すすったキュウタが、黙ったままのヤコを見つめる。震えるまぶたが彼女の心内を雄弁に物語っている。
キュウタは追い打ちを掛けるように言った。
「魔法を医術に役立てようとするなら、人体や薬に関する知識の発達と足並みを揃える必要がある。僕はそう思っています。そしてそれは、百年や二百年で成し遂げられる話ではないはずです。自由自在に病を癒やす業などありません。それは魔法ではなく神の領域でしょう」
そう、そんなことが出来るのはまさしく神くらいだ。キュウタは遙か過去の記憶を思い出した。あの時、洞窟の奥でサザレを癒やした神の力。人の魔法があの域に達することは難しく思える。あれこそが奇跡と呼ぶべきものなのだろう。
ぎくしゃくと顔を伏せたヤコから震える声がもれる。
「なぜ……そんなことを、言うのだ」
キュウタは答えなかった。少女は言葉の意味を完全に理解しているからだ。吊るしていたヤコの着物を彼はちらりと見やる。そろそろいい頃合いに思える。
乾きぐあいを確かめるべく立ち上がろうとしたキュウタが、いきなり押し倒された。
「あだっ!?」
したたかに後頭部を床に打ち付け顔をしかめるキュウタの上に、ヤコが馬乗りになっていた。さすがに声を荒らげようとしたキュウタだったが、相手を見て思わず言葉を失う。
彼の肩を床にがっしりと両手で押し付けたヤコの目が潤んでいる。
「私は母上を元気にしたいだけなのだ! 父上も借金してまで方々の医者に見せたが、結局みな匙を投げおった! もう……もう、魔法くらいしか、望みが、ないのだ……」
キュウタに覆いかぶさるヤコが肩を震わせる。垂らされた長い黒髪が少年の頬を柔らかく撫でた。ヤコの今にも泣き出しそうな笑顔がキュウタに向けられる。
「ま、魔法ならきっと何とかなるのだろう? お前が隠しているだけなのだろう? 頼む、キュウタ。教えてくれ。欲しいものは何でもやる。金子でも、私の体でも好きにしろ」
するりと帯を解いたヤコが衣の肩をはだける。白い肌が暗い家の中に浮き上がる。袖から腕を抜こうとしたヤコの肩を、キュウタは強く掴んで押しとどめた。少女の体の震えが指先から伝わってくる。
ぽたりとキュウタの顔に涙が一粒落ちた。
キュウタは横になったまま、ヤコの視線を受け止めて言った。
「魔法は奇跡なんかじゃない。理を超える事は絶対に出来ないんだ」
ぐっと唇を結んだヤコが言葉を詰まらせる。
ヤコも分かっているはずだとキュウタは思う。それだけの聡明さがなければ、あれほどの魔法術式を独力で作り上げることなどできない。やがて少女の体から力がゆっくりと抜けていくのを感じて、彼は安堵して手を離す。
こんなところをサザレに見られたら、また面倒なことになる。さっさとヤコを屋敷に送り届けてしまうのがいいだろう。
そう思ったその時。
外に通じる扉がガラガラと開けられ、絶望的に嫌な予感がキュウタの全身を貫いた。
「ただいま戻りました。すぐに食事の用意をしま……」
そこまで言ったところで、サザレが戸口で固まった。ぽかんと口を開けたままの彼女の手から風呂敷包みが滑り落ち、中から食材が地面に転がり落ちる。
サザレが呆然とするのも無理はないとキュウタは思う。
床に寝転がったキュウタの上に着物をはだけた少女が馬乗りになっているのだから。
さてどうやって説明しようかと、キュウタは額に浮かぶ汗を感じつつ思案を始めた。
◇
必死の弁解はどうにか受け入れられたようだ。
サザレの氷柱のような視線がすっと柔らかいものに戻る。
「事情は分かりました」
キュウタとヤコは、サザレの向かいに並んで正座している。厳しい親に説教される子供のようだ。
何にせよ、とキュウタは内心ほっと胸をなでおろす。ひょっとしたらサザレがいきなり斬りかかってくるかと危ぶんだりもしたが、思いのほか話が通じたのは幸いだった。
目を少し腫らしているヤコが「なぜ私まで」とぶつぶつつぶやいている。
サザレが窓の外に目をやる。雨足は心なしか弱まっている。そろそろ日没も近づく頃合いだ。
「とにかく、僕はこれからヤコ殿を屋敷に送っていくから」
そう言ってキュウタが立ち上がるが、横からクイッと手を掴まれて目を丸くした。
ヤコが上目遣いでキュウタを熱っぽく見つめている。十やそこらの子供にしては妙な色気だ。
「キュウタ、頼みがあるのだが」
そう言ったヤコの表情は固い決意がみなぎっている。
ぎゅっと繋がれたキュウタとヤコの手を見るサザレ。その目が再び冷気を帯びていく。
キュウタは生きた心地がしないままその場に立ち尽くしていた。




