第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (5)
カガマチ、というのは都の西を貫く『通り』の名前である。
武家の棟梁を務める家は、世間の人間から『カガマチ殿』、『カガマチ様』などと呼ばれている。それは家や人物の名前ではなく、邸宅がある場所を指す呼称だった。
そしてその邸宅は現在の社会における武家の力の大きさを象徴するように、最上位の家格の公家にも引けをとらない豪華なものである。
ナタコウジ・サダナガは自分の邸宅と桁違いの威容を振り仰ぎ、深くため息をついた。
ため息の理由は屋敷の大きさではない。ナタコウジ家に申し渡された『御役目』の重さである。
今日、サダナガはこの邸宅の主との面会を終えていた。
つまり現在のミズホ国において権勢の一巨頭とも言える将軍職。それに就く男と一対一のやり取りをしていたのだ。
サダナガは頑丈そうな門をくぐりながら相手の姿を思い出してみる。想像よりずいぶんと柔らかな物腰だった。だがそれはきっと彼の本質ではないだろう。
人の上に立ち、政に携わる。それは心の奥にある真意をやすやすと表に出せない仕事だ。自分を隠しきることが出来なければ必ずどこかで破綻する。
ナタコウジ家は家格としてはさほど高くない貧乏公家である。だが権力構造における文法のようなものは、ある程度理解できているつもりだ。
サダナガが門を出ると、そこは大きな通りだった。人の行き来もそれなりにある。
通りの角々に平服の武士が二、三人ずつ、人を待っているかのような何気ない素振りで立っていた。おそらく将軍邸の周囲を目立たぬよう警護している者らであろう。乱れた世が落ち着きつつあるといっても備えは常に必要ということだ。
往来に出たサダナガは左右を見回し従者を探す。
牛車で送迎というわけには行かないが、新しく数人の家人を雇い入れることができていた。『用道衆』としての御役目を得られ、家の台所事情には今後かなり余裕が生まれる見通しだ。キュウタにはまた改めて礼を言わねばならないだろうと思う。
「父上!」
不意に聞き慣れた声が飛んでくる。見れば従者の隣に娘の姿があった。
ヤコが小さな体を小走りに、サダナガの腹に頭を埋めるように飛び込んでくる。
「どうしたのだ、ヤコ。こんなところまで」
「お迎えに上がったのです」
おかっぱに揃えられた黒い前髪の下からニコニコと見上げてくるヤコ。サダナガの視線にため息が混じる。
ヤコがこんな顔をしているとき、それは決まって何かをやらかす前兆なのだ。
「ヤコ、一人で来たのか? 供も連れずに町を歩きまわるなと言っているだろう」
サダナガが後ろに回った従者に荷物を渡し、父娘つれだって歩きはじめる。
ヤコが唇を尖らせた。
「屋敷の中にこもりっきりでは息が詰まります。そんなことより『用道衆』のお仕事はどうなのです?」
「どうもこうもない。今日はカガマチ殿に挨拶しただけだ。御役目はありがたいのだが、どうにも肩身が狭くていかん」
無意識に首のあたりを揉みほぐしていることに気づく。時々、堅苦しいことにどうにも苦手意識が生まれる。あるいは公家という身分が自分の気性にあっていないのではとも思うことがあった。
ヤコが白い衣の両袖を合わせて腕組みして威勢よく言い放つ。
「何を縮こまることがありましょう、父上。どんと構えていればよいのです」
「そう言うがな、ヤコ。我が家は正直、占いや祈祷など専門外なのだぞ。書物を漁るくらいしか能のない私が、一体どう将軍家の役に立つのやらさっぱりだ」
「祈祷など陰陽師あたりに適当に任せておけばよいでしょう」
しゃきっとしない父親にヤコが眉根を寄せる。
エイコの若い頃もこんな感じだったなとサダナガは内心でボヤく。
「だが御役目を頂戴した以上、他人に任せっぱなしというのも……」
わらじを履いたヤコの小さな足が、だんと地面を叩く。
「神頼みなど誰がやっても同じです、父上。相手を見て贔屓するような神などこちらから願い下げです」
一体どうやったら十かそこらの娘がこんな考え方をするのか大いに首をひねりつつ、サダナガがたしなめる。
「……お前は口を開く前に少し考える癖をつけなさい。それはともかく、近いうちにあちこちの陰陽衆にも挨拶回りをせねばならんな。どういう目で見られるやら今から気が重い……」
だが、家と家族に改善するあてのない経済的な苦労をかけ続けるよりは遥かにマシだとも分かっている。このような千載一遇の機会は二度と巡ってこないだろう。
それもこれも、一人の少年の口添えが発端であることをヤコも承知しているだろう。サダナガの胸中を読みでもしたのか、ヤコがふとその名前を口にする。
「ところで父上。あのキュウタとかいう男は何者なのです」
娘の声に何かが隠されているような気がした。嫌な予感を持ったサダナガは無難な答を返す。
「当家をカガマチ殿に推挙して下さった御方だ。大恩人だな。もう無礼なことをしてはならんぞ」
バツの悪い表情になったヤコがもどかしそうに言う。
「それは分かっております。私が知りたいのは、あの男の『魔法』や……」
手のひらを向けて娘を制するサダナガ。
どうにも正体の掴みきれない少年に対し、疑心と感謝が相半ばする感情を拭いきれないのは確かだ。だが彼のことを悪人だとはどうしても思えなかった。
ある時は何もかもを悟りきったような表情。それでいて、見えない何かに向かって頑なに突き進む意思の強さが垣間見えたりもする。
実に興味深い、本当に不思議な人物だった。
「キュウタ殿とサザレ殿、あの二人の事情を知りたくあるのは私とて同じだ。だが、むやみに詮索するのは義理を欠くようで気が引けるのだよ」
ヤコが足元に目を伏せる。少しだけ内にこもった声がこぼれた。
「父上のそういうところ、ヤコも嫌いではありません。ですが、お人好しが過ぎるのも考えものですよ」
「私はこういうやり方しか知らないのだ。とにかくキュウタ殿にも近いうちに改めて挨拶を……」
ヤコの声が一転して溌剌なものになり、サダナガの言葉を途中で断ち切った。
「ではお忙しい父上に代わって、私がキュウタ殿へお礼に参ります」
一瞬ぽかんとしたが、ふむ、とサダナガは口元に手をあてて思案してみる。
これからはほとんどの日を御役目に費やされ、自由にできる時間も限られてくるだろう。
ナタコウジ家の妻であるエイコは体も弱く、ヤコを一人産むのが精一杯だった。そんな家の当主名代としては一人娘が適任と言えなくもない。そう、確かに適任なのだが、とサダナガは猜疑心に満ち満ちた視線を娘に向けた。
「本当にお礼『だけ』なんだな?」
「もちろんです」
しれっと返すヤコの視線はあらぬ方を向いている。
娘の腹の底まで見通そうとするがごとく、覗きこむように顔を寄せたサダナガをヤコは両手で押し返す。
「ご心配なく。私とて父上のお立場を悪くするつもりなどありません」
ヤコが向き直りあどけない笑顔を見せる。
女性の表面をそのまま受け取ることの愚かさ。サダナガはそれを良く知っている。だが、キュウタとサザレの素性に対する好奇心を完全に打ち消しきれないのも確かだった。
◇
囲炉裏の中で炭が小さな音と火花を立てて弾ける。
大槻キュウタは床板の上に敷いたゴザに寝転がり、書物に目を通していた。
家の中に彼以外の人の気配は無い。簡素な住居は一般的な庶民のレベルと言えるだろう。だが最低限の生活に必要なものは揃っており、住み心地自体はキュウタもそれなりに気に入っていた。
書物に細かく書き込まれた文字を頭の中でじっくりと咀嚼してから頁をめくる。
魔法が『学問』として産声を上げてから二百年以上が経っている。キュウタは多くの国を回り、魔法の発展を加速させるべく活動を続けていた。
現時点で大陸西部、つまりイリユヌス教の影響下にある地域では、魔法研究は順調といっていいだろう。
魔法の才能を持つ者を集め、魔法の原理原則についての知識を学ばせ、日々魔力の鍛錬を積ませる。その主導的な役割を果たしているのはフィロマ教会だ。『魔術士』の生活や教育の保障を教会は積極的に行っている。
強力なパトロンの存在は、魔法研究の促進における加速剤として十二分に機能していた。
魔術士は一つの知識階級としての地位を確立しつつある。
肝心の魔法の技術についても、少しずつではあるが確実に進化を始めている。
単純な発火や発光をもたらす術式は実用的なレベルに洗練されていた。教会でもその手の魔法は、宗教儀式に華を添え民衆の心を感銘で揺さぶるための演出技法としても重宝されている。
今はまだ『力』と呼ぶには脆弱な魔法だが、キュウタは可能性の手応えを感じていた。
ここ百年近く、キュウタたちは先進的な魔法研究を行っている学者たちと、国や民族を問わず接触している。主な目的は『情報の共有』だ。魔法学者たちの間をとりもち、手紙や書物を用いて互いの知識を活発に交換させる。あるいは彼ら自身の境遇を改善し、研究に集中できるようにさまざまな『介入』を行ったりもした。今キュウタたちがナタコウジ家に対して行っている作業もそれである。
常日頃からキュウタは魔法発展における一つの『方針』を心に置いていた。
各国の魔法学者たちの興味はさまざまで、正直実用性の欠片もないように思えるものも多い。だからといって彼らの研究方向を修正するのは良策ではないとキュウタは考えている。
有用な技術という物はどこに潜んでいるのか分からない。
一見、何の役にも立たないような知識や発明、あるいはそこに到達する過程で得られたノウハウ。それが回りまわって、思いもかけない場面でとてつもない飛躍的発展のきっかけになったりするのだ。
二十万年近く人類の発展に立ち会ってきたキュウタはそんな場面をいくつも目にしてきた。
キュウタは自分の限界を理解している。
自分一人の偏った見識で方向性を一つに定めた学問知識など砂上の楼閣にすぎない。真に価値ある技術というものは、無駄に思える分野を含めてあらゆる方向に根を張り巡らせ、いかなる状況にも適応できる柔軟性を持っているはずなのだ。
だから、キュウタは自分で魔法そのものの研究をするのではなく、研究者たちの間を橋渡しする存在として自分の力を使うことを選んだ。それは『保険』でもある。万が一、魔族が襲来する時代より前に自分が命を落とすことがあったとしても、魔法が滞り無く進歩する下地を作っておきたかったのだ。
もはやこの世界の歴史は、キュウタが生まれた世界の歴史からは大きく逸脱している。身も蓋もない言いかたをすれば、自分の復讐心に世界と人類を付き合わせてしまった結果だ。
だからせめて、もし自分がいなくても、未来を知らない人類が魔族に対抗できる可能性を残しておきたかった。
きれいに言葉を繕ったところで、どこまでいっても我儘と自己満足と言い訳にすぎない。それは分かっている。皮肉めいた笑みを浮かべたキュウタは書物をぱたりと閉じた。
ふと窓を見るといつの間にか雨が降りだしていた。サザレは今日もあちこちの商人や刀鍛冶を回って、眼鏡にかなう刀を物色しているはずだ。
不意に、扉がどんどんと叩かれる。
びくっと体を起こしたキュウタの耳に外からの声が届く。
「頼もおぉう!」
道場破りにしては可愛らしく聞き覚えのある声だ。
何だか嫌な予感が胸を満たす。正直気は進まなかったが、やむを得ずキュウタは扉をじわじわと開ける。
開いた隙間からひょいと顔をのぞかせた少女がキュウタをじろりと見上げる。
「なんだ、辛気臭い面だな。せっかくこの私が直々に訪ねてやったというのに」
キュウタは引きつりそうになる口元を微笑で抑えこむ。
「……な、何か御用ですか、ヤコ殿?」
ヤコは突然の雨でしっとりと濡れた髪や着物を気にする様子もなく頭を下げた。
「これは失礼した。ナタコウジ家当主の名代として、此度の『用道衆』推挙の礼をしに参ったのだ。もちろん土産もあるぞ。いい野菜が手に入ったのだ、遠慮するな」
手なれた詐欺師のような、立て板に水でまくしたてるヤコ。
扉の隙間から好奇心のかたまりのような視線を家の中に向けるヤコの言葉は実に胡散臭かった。
空き巣の下見というのはこんな感じなんだろうなと、キュウタは仏頂面で少女を見つめていた。




