第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (3)
一歩すすむごとに、草鞋越しに伝わる地面の冷たさが季節の移ろいを告げている。
ナタコウジ家は都の東寄り、中堅クラスの公家屋敷が集まる地域にあった。
大槻キュウタとの面会について、すでに向こうに話は通っているとの事だった。というわけで、キュウタはふところに紹介状をしまったまま現地へ向かい歩いている。
ちなみに、この日サザレは朝から別行動である。新しい刀を探すために、早朝からあちこちの商人を訪ね歩くことにしていたのだ。
キュウタがあらかじめ教わった道のりをたどり、目当ての屋敷に到着した頃には昼が過ぎていた。
キュウタはこの時代のミズホ国を訪れて三年に少し足りない。だがあちこちの街並みを観察するうち、建物からおおよその家柄を計れるようになっていた。
そして今、目の前にある屋敷は貴族のそれにしてはどこか寂れた印象を感じずにいられない。
ふむ、と心の中でつぶやくキュウタ。
門は開かれ母屋を臨むことができる。じっくり検分しても、やはり公家の屋敷としてはさほど豪華ではないように思える。
だが同時に質素さの中にある品の良さを感じてもいた。建物も庭も決して荒れ果てているわけではなく、こまめに管理されていることがよくわかる。そんな風情の屋敷だった。
それよりも、とキュウタは門の外から中をきょろきょろと見回している。用事を果たすため取り次いでもらおうにも、家人の気配がまるで感じられないのだ。さてどうしようかと少年は再び門前で思案する。
やがて意を決したキュウタが中に一歩踏み入ろうとした時、背後から声がかけられる。
「もし。当家に御用ですかな?」
振り返ったキュウタの前に、一人の狩衣姿の男が立っている。正直あまりパッとしない第一印象だった。四十に少し届かないくらいの年頃だろう。体格もキュウタとあまり変わりなくどことなく疲れを感じさせる佇まいである。
少々面食らいながらキュウタが答える。
「え、ええ。本日こちらにお伺いさせていただく予定の……」
そう告げつつキュウタがふところから紹介状を取り出そうとした途端に男の表情がぱっと明るくなる。まるで長年恋い焦がれた想い人に出会えたような華やぎだった。
「おお、も、もしや。貴方がキュウタ殿ですかな?」
紹介状を取り出そうとする手を止めてキュウタがうなずく。
「はい。おっしゃる通り、僕はキュウタという者です。あの……僕のことをご存知ということは」
「ああ、これは失礼。私がナタコウジ家の当主、『サダナガ』でございます」
深々と頭を下げるサダナガに少年はいささか戸惑ってしまう。
相手につられるようにキュウタは思わず居住まいを正した。
「サダナガ様、ですね。本日は急な訪問をお許しいただき、ありがとうございます」
「いえいえ滅相もない。この度は当家を『用道衆』に御推挙いただいたそうで。本来ならこちらから御礼に上がらなければならぬところです」
ずいぶんと腰の低い男である。
もともと話が通っているとはいえ、今のキュウタの格好はどこからどうみてもそこらの町民であるのだ。そんな小僧に平身低頭する貴族というのはいささか変わり者の部類に入るのではないだろうか。
少年は相手を観察しながら頭を上げるように身振りで促す。
「あ、いえ、それほどの事でも……」
だがサダナガの低姿勢はまったく頑なに維持されている。
「何をおっしゃいますやら。ささ、こんなところではアレですから、どうぞ屋敷にお上がり下さい」
「そ、そうですか。では失礼します」
何だか調子の狂う相手であった。
だが確かに往来の真ん中で立ち話もないだろうという点は同感だ。せっつかれるままキュウタは門へ進む。深々と頭を下げるサダナガの横を恐縮しつつ通ろうとしたその時。
「こらぁああっ! 無礼者がぁっ!!」
通りの向こうから飛んできた声にキュウタの足がぴたりと止まる。一歩戻って、往来の彼方へと視線を向けた。
同時にサダナガの顔に浮かんだ感情をキュウタが斟酌する暇もなく、声が再び叩きつけられる。
「下賤の身でナタコウジ家の当主を見下ろすとはっ! この痴れ者がぁあっ!!」
声の主を見て、キュウタはぽかんと口が半開きになる。
視線の先には『荷車』があった。引いているのは人の好さそうな老爺であり、この状況に困惑しきりな様子である。だが最前の言葉を発したのは彼ではない。
よくよく見ると、荷車の上は『猪の死体』が乗っている。もちろん口を利いているのはその猪でもない。
猪の死体の上に仁王立ちしている『少女』が声の主であった。
白い衣に赤い袴というめでたい色彩の小さな体。おかっぱに揃えられた前髪の下から、飢えた野犬のような眼がキュウタをにらんでいる。
冬のきざしを告げる冷たい風が、少女の腰のあたりまである黒髪をたなびかせた。
サダナガが上ずりかけた声で片手を前に差し出す。必死になだめるような口調だったが、正直あまり説得力が無い。
「ま、待ちなさい、『ヤコ』。この方はな」
ぴしゃりと返す澄んだ声。
「みなまで言わずとも良いのです、父上」
少女の眼光は更に鋭さを増す。どう見ても十歳かそこらの風貌であるが、実にはきはきとした物言いが乾いた空気に小気味良く通る。
「聞け、下郎。確かに当家は貧乏である」
「えっ?」
キュウタの口から間の抜けた声がもれる。何かが噛み合わない気配のやり取りに少年の思考が固まる。
少女は感慨深げに瞳を閉じ、嘆じるように顔を宙に向けた。澄んだ空に一羽のカラスが通り過ぎて行く。
物悲しさを漂わせる声音がしみじみと紡がれる。
「借りた金子を返す。確かに世の道理である。交わした約定は守るためにあるのだ。そこに当家も異存はない」
何の話をしているのかまるで分からない。
彼の困惑を置き去りにしたまま、少女は目をかっと見開いてキュウタを視線で刺し貫く。
「だが身の程をわきまえよ。どれだけ落ちぶれようとナタコウジ家は紛うことなき名家である。貴様のような町民風情に下げる頭など持ちあわせておらんのだ!」
サダナガがひきつった笑みをキュウタと少女へ交互に向ける。
「ちち、ち、違うのだよ、ヤコ。ま、ま、まず、落ち着きなさい」
挙動不審という単語の体現者となったサダナガを、少女が呆れ混じりの冷たい目で見る。
少女の小さな人差し指がきりりとした仕草でサダナガとキュウタに向けられる。
「父上も。こんな借金取りなんぞにぺこぺこ頭を下げずともよいのです。ヤコは情けなく思いますよ。由緒正しきナタコウジ家の当主として、びしっと言っておやりなさい」
「い、いや、そうではないのだ」
少女の視線がキュウタをまっすぐに捉える。その意志の直情さは一切の迷いがない。
「世間知らずのボンクラに礼儀を躾けてやるのも我ら公家の務めでありましょう」
おろおろとするサダナガの顔色が蒼白になっていく。おぼろげながら状況を理解しはじめたキュウタが一歩前にでる。
「ちょ、ちょっと待って。君、なんか勘違いしてるよ」
腕組みをして「ふん」と鼻息をついた少女の視線がさらに冷たく険しい色に変わっていく。
「ここに来てようやく誰を相手にしているのか分かったか、この三下が。だがもはや言い逃れは許さん。父上への侮辱はナタコウジ家への侮辱である。よってこの私、ナタコウジ・ヤコが直々に成敗してくれる」
言うが早いか、ヤコと名乗った少女が素早い仕草でふところから一枚の紙を取り出す。
大きめの短冊に見えた。
ちらりと見えた表面に描かれた複雑な紋様に、キュウタの直感が警告を訴える。勘が正しければこの間合ではもう制止することはできないだろう。
「サダナガ様。僕の後ろに」
「は、はひっ?」
うろたえるばかりのサダナガの襟もとをつかんで無理やり自分の背後に引っ張り込む。
「失礼」
キュウタがサダナガに向かって片手をかざす。原初魔法でサダナガの周囲の空気を『硬化』させ身動きを封じる。うろうろされるのが一番まずいと判断したのだ。
「へ、へっ? あ、あれ、あれ?」
自身の周囲に生じた異変に理解できずに声を裏返らせる。申し訳ないと思ったが説明している暇はなさそうだった。
少女が指に挟んだ紙でキュウタを真っ直ぐに差す。瞬間、キュウタは『魔力』の発現する気配を感じ取った。
間髪入れず少女の口から滑らかに流れ出す言語はキュウタにもすっかり馴染み深くなった代物だ。
それは紛れもない『呪文』である。
『内なる御霊に願い奉る。力の脈よ息吹と化すべし。大気に集いて爆ぜ給え』
詠唱に呼応して少女の体の周囲の空気が陽炎のように揺らぐ。意識の収斂を反映するように瞳孔が黒一色に塗りつぶされていく。わずかに生じた上向きの空気の流れが少女の髪や衣服を軽くはためかせた。
小さな少女の身からあふれだす魔力が一気に膨らむ。体の内で暴れる獣を解き放つがごとく、可憐な唇が大きく開かれる。
「蛇嵐哮っ!!」
キュウタに向かってまっすぐ伸ばされた少女の腕。その周囲の空気が多重螺旋の流れとなり一つの蛇のような塊と化す。もちろん実際に視認できたわけでは無い。だが魔力の発現する気配から、その動きをキュウタは感じ取ったのだ。
来る、と感じた次の瞬間。
キュウタの眼前に不規則な水平軌道を描く透明な『嵐』の流れが瞬時に迫る。まるで蛇が高速でのたうつような感覚だ。
それも当然肉眼で見えたわけではない。不可視の大気の激流である。いずれにしろ目で追うことなど出来ない速度であった。
キュウタが反射的に展開した『空気の盾』に嵐の顎が食らいつく。岩をがりがりと噛み削るような耳障りな騒音がこだまする。
少女の目が驚きに見開かれた。
嵐が『空気の盾』の堅牢さにあっさり跳ね返され散り散りになったのだ。
少女が渾身の力で放った嵐の渦はバラバラに解きほぐされ、周囲の地面や壁に細かな溝を無秩序に刻みつけてから霧消してしまう。
嵐は消え、あたりがしんと静まり返る。
もとより相手を殺すつもりなど少女には無かった。少しばかり足元の地面を吹き飛ばして度肝を抜いてやる、くらいの心づもりだった。だが決して手加減したわけではない。
足元の荷車の上に転がる猪を狩る際も役立った『術』である。それをたやすく防がれたのだ。
この少年は一体何者なのだ、という疑念が少女の胸に広がっていく。
むうと結ばれた少女の唇。その沈黙の間をついてサダナガがはっと我に返る。
「ヤ、ヤコ! いい加減に……」
怒鳴りつけようとするのをキュウタが抑える。
「ご心配なく。もう余力は残っていないはずです」
あっさり見抜かれたことに少女は再び驚愕する。確かにその通りだった。
彼女はこれまで術を色々と試してきた。だが無闇やたらに行使することは出来ないとも分かっている。術の回数や強さの総和がある一点を越えると途端に体が疲労と倦怠感に包まれて身動きもままならなくなってしまうのだ。
少女は何もかもを見透かされた不機嫌さをありありと前面に押し出した顔でキュウタを見つめる。
「貴様、何者だ」
ようやく、ふうと息をついて緊張を解いたキュウタが一歩前に出る。声の調子からしても彼女がこれ以上暴れることもないだろうと判断できたのだ。
「……僕はキュウタ。あの、それでね」
「よかろう。私もナタコウジの娘だ。潔く負けを認めようではないか」
少女はそう言い捨てると、荷車の上からひょいと飛び降りる。つかつかとキュウタの前に進み出る少女が腕組みをして彼をぐいっと見上げた。
同じ高さの地面に立ってみると本当に小さな体で、キュウタは少しばかり感心してしまう。見た目で言えばサザレよりも二つ三つは年下なのは間違いないだろう。高い位置から見下ろしていたせいもあるのだろうが、堂々とした態度は実際の年齢以上に彼女の体を大きく見せていたらしい。
「だがな、何と言われても返す金はどこにも無い。それでもというなら仕方がない、この私が体で払わせてもらおう」
キュウタの返事を聞くまでもなく、少女はするすると帯を解き始める。昼間の道の真中で幼い少女の白くキメ細かな肌があらわになる。
いきなりの展開にキュウタの顔がひきつった。
「ちょちょちょっ、ちょっと!」
キュウタがあわてて衣を押さえる。何とか肩がはだけたあたりで阻止できた。
決意の行動が制止されて不愉快になった少女がキュウタを見上げる。整った顔立ちが眉をひそめた。
「なんだ? もとより覚悟は出来ている。好きにするがよい」
「いや、そうじゃなくて」
ぐいぐいと脱ぎ続けようとする少女を必死で押しとどめるキュウタ。傍から見れば何ごとかと思われる光景であるが、当人同士は至って真剣である。
一体どうしようかとサダナガに助けを求めようかと思いはじめたその時だった。
氷のように冷たい気配がキュウタの背後に現れた。
「……キュウタ?」
サザレがぽつんと立っている。
道の真中で衣を半分脱ぎかけた十歳ほどの少女と、その衣に両手をしっかりかけているキュウタ。サザレの目に自分たちがどう映っているのか少年は想像すらしたくない。
サザレがふらりとよろけた。彼女の顔から心なしか血の気が引き、もともと白い肌にさらなる蒼白さが塗り重ねられていくようにも見える。
「キュウタ」
サザレから表情が消えていく。肌がざわざわとする感覚とともにキュウタはゆっくりと語りかける。
「サザレ……落ち着いて聞いて欲しい。これには事情があるんだ」
サザレは焦点の定まらない瞳で自分とキュウタの間の空間をぼんやりと眺めている。
「なるほど……今までキュウタが私に手を付けなかった理由は『それ』だったのですか」
「えっ」
「そういう小さな子が好みだったのですね」
いけない。この流れは危険だ。キュウタの第六感が警鐘を鳴らす音は大きすぎて思考に集中するのも難しくなるほどだった。
先ほどサダナガからヤコと呼ばれた少女が首をかしげてキュウタとサザレを見る。
「何だ、あの女子は? おい、そこの。私と、この男はこれから色々と忙しい。邪魔をするでない」
状況を紡ぐ糸の絡まり具合が一気に複雑さを増した。余計なことを言うな、とキュウタが目で必死に訴えるが後の祭りだ。
足が深い泥に沈んでいくような絶望感を抱きつつ、キュウタが片手を向けてサザレを落ち着かせようとする。
「いいか。話を聞くんだ、サザレ」
キュウタは、腹をすかせた猛獣に隣人愛を説くような気分になってきた。
ぽつりと返すサザレの言葉は『宣告』と呼ぶにふさわしい響きを持っている。
「残念です、キュウタ。私たちの旅がこんな形で終わるなんて」
「ちょ、ちょっと説明させてくれないかな……」
サザレの手がゆっくりと腰の刀に伸びていく。その声に抑揚は無く淡々と事実だけを告げていく。
「ご心配なく。私もすぐに後を追います。キュウタ……誰にも邪魔されない穏やかな世界で永遠に添い遂げましょう」
脂汗がキュウタのこめかみを伝う。何故こんなことになっているのだろうと自問する。解決策もまるで見当がつかない。
「ま、まず話を聞いてよ」
すでにサザレは言葉も不要と判断したようだ。無言を通す彼女の瞳孔が闇に染まる。
たん、と地面を叩く音と同時に土埃だけを残してサザレが視界から『消えた』。
キュウタの頭上に影が差す。
高々と跳躍したサザレの両手にあるのは抜身の二刀。切っ先がきらりと陽光を反射した。
くるりと一回転し、上空から獲物を爪で狙う鷲のように急降下してくるサザレに、もはや届く言葉は無い。
「おいっ!!」
無駄だと分かっていてもキュウタは思わず声を張り上げる。そして手加減している余裕は無かった。
キュウタが『空気の盾』を全力で展開した。
鋭い衝突音があたりに響く。これは本気の打ち込みだと少年は恐怖とともに理解した。サザレの斬撃はキュウタの脳天数ミリ手前まで届いていた。『硬化』魔法を展開する反応が遅れていたらと、想像するのも寒気が走る。
そして風切り音とともに高速で滑空する二つの光が視界の端に映る。
次の瞬間、ざくりと音を立てて、荷車の上の猪の頭に突き刺さったのは『刀身』の破片であった。
頬をかすめた凶器に「ひええ」と声を震わせ、荷車を引いていた老爺が尻もちをついた。この老人は一体何なのだろうとぼんやり疑問を抱きつつ、キュウタがはっと視線をもどす。目に映った光景に反射的に声が出た。
「あっ」
キュウタの前に着地したサザレは、根元からぽっきりと折れた二刀を見つめていた。
気まずい沈黙。
サザレの大きな青い瞳に浮かぶ光がゆらりと波打った。
足元から頭に向かって順に力が抜けていくように左右に体が揺れる。終いにサザレが道にぺたりと座り込む。
へし折られた二刀が手の中から地面に転がり落ちた。
ひっく、としゃくり上げる声を契機に、大粒の涙がサザレの頬に流れ落ちていく。
やがて幼子が駄々をこねるような泣き声が寒々とした空に響き始めた。
普段の理性的な立ち居振る舞いからは、まるで正反対のサザレの姿。かける言葉も思いつかない。
深いため息とともにキュウタは思考を放棄した。麻痺と疼痛が交互に訪れる頭を押さえつつ、その場に立ち尽くす。一体、何故こんなことになっているのだろう。
ヤコと呼ばれた少女がはだけた衣をそのままに、胡散臭いものを眺める顔でつぶやく。
「まったく……何なのだ、こいつは? いきなり斬りかかってきたかと思えば、赤子のように泣き出しおって」
本当に、この状況は何なのだろう。是非とも誰か教えてほしいものだ。そう願ってキュウタが空を仰ぐ。
だが彼の問いに答を与える者は当然いない。
まあこんな御時勢だ、天の声も色々と忙しいのだろう。そう不承不承ながら諦めるキュウタだった。




