第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (2)
初冬の空を灰色の雲がのっぺりと覆っている。
庭は寒色に彩られていた。
木々は葉を落とし、この間まで騒がしかった虫の音も草の枯れゆきに足並みを揃えてどこかに引っ込んでいる。
すっと吹き抜けた北風が地面の枯葉をかさりと揺らす。
大槻キュウタは板張りの冷たい縁側に座っていた。ぼんやりと庭を眺める少年の背後にゆらりと影が現れる。
「キュウタ殿。ここは冷えるだろう」
小刀を腰に差した直垂姿の大柄な武士が朗らかな笑顔を向けている。やぎのような髭が印象的な男だった。
両手に持った湯のみからは湯気がうっすらと漂っている。
背を丸めるように会釈するキュウタ。はにかむような笑みが唇に浮かんでいる。
武士がよっこらせ、とつぶやいてキュウタの隣に座った。
少年は相手が差し出した湯のみを受け取る。ちょうどよく温んだ湯を一口すすってからキュウタが隣を見た。
「帝の御機嫌はいかがでしたか?」
武士が髭を軽くしごいて目を閉じる。
彼は公家と武家の双方につながりを持つ由緒正しい家柄の出である。それゆえ彼の家は長年に渡り時の権力者から重宝がられていた。もちろんキュウタにとっても貴重な情報ソースの一人であり、前々から懇意にしているのだ。
「上々だ。長年の混乱にようやく目処がついたのだからな。都がさほど荒れずに済んだのを何より喜ばれておる。それと、風のように現れては消える『奇妙な兵』の話もちらっと出たぞ」
軽く非難をにじませた少年の視線が相手に向く。武士は慌てて首を左右に振った。
「あ、いや。お主の名前は伏せておるぞ。約束だからな」
「……まあ、その辺りはお任せします。特に重要というわけでもないので」
両手で抱えた湯のみをのぞき込み、そこに映る自身の瞳をなんとなしに眺めてみる。ずいぶん長いこと色々な人と出会ってきたが、いまだに自分が他人の目にどう映っているのか、そこがよく分からない。
武士の呆れ混じりの声がキュウタに向けられる。
「しかし……本当にいいのか? 手柄のほとんどを我らに譲ってしまって」
キュウタは首の後ろを手で揉みほぐしながら、この質問は何度目だったかなと心の中で思い返してみる。
「出来るだけ身軽でいたいんです。僕としては都が平和になりさえすれば文句は無いので」
そう言って湯のみに再び口をつけた。
鼻で小さく息をした武士が縁側からしみじみと空を見上げる。
「確かに……お主らのお陰で『決着』が二十年は早まったかもしれんな」
キュウタがからかい半分の笑顔で相手を見る。
「暴れ足りない、ですか?」
「下の連中にはそう言う者もいるな。だが、戦ばかりでは国が保たんさ。『殿』もそこは分かっている」
二年前にキュウタとサザレが手土産として持ち込んだ高名な敵武将の『首級』。それを前にした一人の武士の落ち着き払った所作をキュウタは思い出す。
出自も分からぬ者を味方としてあっさり受け入れた男の度量には、キュウタは正直なところ今でも少なからず感心している。皇家分裂の収拾を目指した帝より任じられた将軍職。それにふさわしい器を持っている、というのがキュウタから男への人物評価であった。
「カガマチ様が御理解のある方で僕らも助かりました」
「あの方は先々を見通した上で人をまとめる手腕がある。今どきの武門の棟梁は腕っ節だけでは務まらん、ということだな」
キュウタが庭を見つめる視線が物思いにふける色を濃くする。歳に不相応な少年の物腰をちらちらと観察しながら、武士は耳の後ろをぽりぽりかく。どう話を切り出したらいいか迷っているようだった。
その様子を察したキュウタが視線で相手をうながす。武士はちらりと周囲を見渡し、人の目が無いのを確認してから声を低めた。
「実はな、殿からお主へ内々に褒美を取らせるよう申し渡されている。金子でも、所領でも構わん。遠慮はいらんぞ。わしも少しはお主に恩義を感じるところがあるでな」
言葉に嘘はないとばかりに自分の胸をとんと叩く。口元に手を当てて少し思案げにしていたキュウタが、やがて面持ちを軽く綻ばせた。
「では……お言葉に甘えさせていただきます。少し前に、カガマチ様が陰陽師やその類の人々を集めている、と聞いたのですが」
話がどこに向かうのかと思いつつ武士は首肯する。
「ん? うむ……おかかえの術士衆を作る話だな? まあ、将軍職に就かれてから占いや祈祷の機会が増えたからな。そのたびに人を探し招く手間も馬鹿にならんのだろう」
理解が早くて助かるという口ぶりでキュウタが言葉を向ける。
「ええ。それで御役目の席に空きが残っていれば、と思いまして」
「ほう。キュウタ殿もそこに加わりたいと言うのか? まあお主らならば……」
相手の言葉を手で制するキュウタ。
「あ、いえ、僕ではなく。『ナタコウジ家』を加えて頂きたいのです」
武士が髭を撫で下ろしながら視線をさまよわせる。
「ナタコウジ……聞き覚えがあるな」
「今の陰陽頭の分家筋にあたる家です」
合点がいったとばかりに膝をぽんと叩いてうなずく武士。
「おう、思い出した。公家衆と暦術の話をした時にちらりと出た名だ」
キュウタが湯のみを置いて腕組みをする。灰色の曇天を見上げて少しだけ難しい顔になった。
「ええ。異国の書物の解釈にも携わっているはずです」
武士は繰り返し小さく頷きながら会話の内容を確認する。
「ふむ。ナタコウジ家の当主を殿に推挙すればいいのだな? まあ、お主の望みであれば殿も喜んで聞き入れるだろう」
「どうかよろしくお願いします。とても大事なことなので」
妙に深刻な口ぶりのキュウタを意外そうに見る武士。彼はキュウタとサザレが敵兵と命のやり取りをしている場面を何度か目の当たりにしたことがある。だが彼らはいつでも決して昂ぶることなく、どこか呑気ささえ感じる立ち居振る舞いだった。
キュウタがこんなに真剣な顔をするのは初めて見たなと武士は胸の内でつぶやく。
「しかと心得た。間違いなく手配しよう。ところでそのナタコウジ家とは知り合いなのか?」
「ええと……面識は無いんですが、何と言いますか……」
言葉を濁すキュウタに、謝るような微笑が向けられる。
「ふむ。ちとお節介だったかな。色々お主にも事情があるのだろう、深くは詮索せんよ……なあ、お節介ついででは無いが、その家の者に紹介してやろうか?」
ほっとした顔のキュウタが頭を下げる。
「ありがとうございます。非常に助かります。実はそれもお願いするつもりでした」
◇
都の中心から少し離れた場所を流れる川。
そこに架かる橋の上で、サザレは欄干にもたれかかって川面を眺めている。人通りは多くない。耳に入るのは控えめなせせらぎと、時折行き交う荷車が橋板を軋ませる音ぐらいだった。
青い瞳に茶色がかった黒髪を背で軽くまとめた少女。黒い瞳と黒髪だらけのこの国では、それなりに目立つ風貌ではある。
だが近づく冬の気配が人々の背を丸めさせ視線も足元に向きがちになる季節であった。そういうわけで男じみた着物を身につけ腰に二刀を差したままのサザレだが、何かの揉め事に巻き込まれることもなさそうだった。
もっともこの少女を相手にしては、揉め事の方が回れ右して帰るのが賢明な選択だろう。
「お待たせ。帰ろうか」
キュウタの声に、少女は飼い主の足音を聞きつけた犬のような反応で振り向く。
一挙動で少年の腕にすがりついてキラキラした瞳で見上げる。
「はい。私たちの愛の巣に帰りましょう。今すぐに」
「あ……ああ。うん、そうね」
戦に加勢する約束と引き換えに無償で用意してもらった住居はここから少し歩いた場所にある。今後もその家は自由に使わせてもらえるという話になっていた。
それはともかく、サザレの言動が年月を追うごとにどんどんひどくなっていくなと彼はため息混じりに思う。空いた片手を何気なくふところに入れてキュウタはサザレを見る。
「ナタコウジ家については予定通り進んでる。今度、当主と顔合わせできることになったよ」
「しばらくは……都暮らしですね」
「うん。一段落するまでは。そっちは何かある?」
サザレが指を唇に当てて一拍考えこむ。
「『刀』を探そうかと思います。最近少しガタが来ているので」
ああ、と思いいたったような表情でキュウタがサザレの腰のものに目をやる。
「ずいぶん使い込んでるよなあ」
鍔のない細身の二刀は取り回しを重視した造りだ。何の装飾もない簡素な鞘はあちこちくすみ、ささくれ立って老朽化が目立っている。さらに刀身自体にも目に見えない劣化が進んでいることを、それを振るうサザレの手は鋭敏に感じ取っていた。
「都には腕のいい刀鍛冶が集まっているらしいので、あちこち回ってみるつもりです」
「うん。僕の方は一人でも大丈夫だから、納得行くまで探すといい」
キュウタの言葉にサザレが不審げな色をみせる。
「キュウタ。なんか変なこと考えてないでしょうね?」
「変って……何が?」
ずいっと顔を寄せ、じっくりとキュウタの表情を観察するサザレ。取って食われそうな迫力に、少年は思わずたじろいでしまう。
「……いいえ。何でもないです」
サザレがぷいとあらぬ方向を見て黙りこむ。ほんの少しふてくされた表情も、整った相貌の上では可愛らしく思える。
キュウタはふと妙な気分になった。もしかしてこういう思いをそのまま言葉にできれば、色々なことがスムーズに進むのではないだろうか。だが自分の中の何かがそれにブレーキをかけている。
変わるのが怖い。
もしかしたらそう思っているのだろうか。今、いや、もしかしたらもっとずっと昔から、自分の中で一番大きな場所を占めているのは、サザレとの関係性だ。そこにキュウタは気付いている。
自分の心がいつの間にか変わり、『目的』を見失っているのではないか。そんな漠然とした恐れを少年は持ち始めている。
復讐。自分がやるべきことは理解している。一日たりとも忘れたことなどない。歴史を渡り幾つもの人生に干渉しているのはそのためなのだ。
ただ、いつか自分でも知らぬ内に変わってしまった『心』が何もかも放り出し、別の『目的』を選びとったりしないだろうか。それが怖いのかもしれない。
自分が自分でなくなることに対する恐れ。それを彼はどうしても拭いきれなかった。
もやもやとした物を頭の中に抱えたまま、キュウタはサザレをぶら下げたまま家路へと向かった。
◇
畳の上に一人の少女が大の字に寝転がっている。
年の頃は九つか十といったところだろうか。
しかめっつらにも近い表情は彼女本来の小動物的な愛らしさを打ち消してしまっている。
身につけた白い衣と、血のような緋色の袴の対比が鮮やかだ。上等な生地と仕立てであるが、身動きの邪魔にならない程度に袖と裾を処理してある。
屋敷の奥まった薄暗い部屋は静まり返り、紙と墨の匂いが立ち込めていた。
部屋の中でただ一人、少女は天井板の精巧な合わせ目を見つめながら思考を巡らせている。
彼女の周囲には無数の紙がまき散らされていた。それぞれ筆で雑多な文字や絵記号が幾何学的な調和性をもって描かれている。
ごろりと寝返りを打って文机の上の本を手探りで掴み上げる。あおむけのまま仏頂面で頁をぱらぱらとめくっていった。
やがて少女は一つため息をついて本を無造作に放り出す。
いかめしい字体で記された表題は、この国の言葉で『魔法諸原理』と読める。
少女の家は代々この本を読み解くことを一つの務めとして本家より課せられている。
書かれている内容を、少女は一字一句諳んじている。
だが『理解』には程遠いことも承知していた。二百年近く昔に大陸から伝わってきた書物。そこに記述された言説は一分の隙もない論理的整合性を持つ。にも関わらず、それが何の役に立つのか完全に理解されたとは言いがたい。
それでも、少女はこの書物が持つ可能性を鋭敏に察していた。ささやかではあるがいくつかの現象が実際に発動することも確認している。
きっとこれが『問題』を解決する鍵になるはずだと、少女の直感は教えていた。
自分に与えられた『力』はそのためにあるはずなのだ。




