第五章 東の国のじゃじゃ馬娘 (1)
満月が輝く夜空に、涼しげな風が二人をなでる。
さえぎる物が何もない広々とした空間。
そこを吹き抜けていく乾いた風音は、辺りの静寂をいっそう際立たせている。
眼下の『争乱』もどこか遠くの他人ごとに思わせるほどだ。
実際それは物理的に遠く離れた出来事である。
大槻キュウタとサザレは上空数十メートルの何もない『空中』で寛いでいるのだから。
二人の横に揃えて並べられた『わらじ』。それは彼らの野次馬気分の度合いを表す印でもある。
キュウタが鼻の下を指でこすった。
「ちょっと冷えてきたかな」
彼がそう言うが早いかサザレが自分の帯をするりとほどく。じろりと睨んだキュウタが仏頂面になる。
「一応聞くけど、何のつもり?」
「人肌で温め……あだっ」
言い終わる前に『本』の背表紙で額をぺしりと叩いて黙らせる。ぶすっとしたサザレが唇をとがらせて抗議の意を示す。
キュウタが人差し指をぐいっと下界に向けて念を押す。
「ちゃんと見張っててよ。今夜の内に終わらせる予定なんだからさ」
「……はあい」
サザレは肩まで肌蹴た麻の衣を渋々ながら元に戻す。
二人が身につけている着物はごく普通の庶民と変わらない。上は七分袖の衣に、下は脚絆で裾を絞った袴である。
サザレの方はあまり女子がする格好ではなかったかもしれない。だが彼女がそこを気にする理由など無い。むしろキュウタとお揃いかどうかを重視している様子だ。
キュウタはあぐらをかいて本をめくっていた。この国の独特の手法で漉かれた紙。どこか懐かしい指ざわりだった。キュウタはこの装丁をかなり気に入っている。頁をめくるたびにぱらりと涼やかな音がした。
墨で書かれた文字も彼が『幼少の頃から』馴染んだ物によく似ている。
サザレは少年の隣で正座し、地上の戦況に視線を向けている。青い瞳はいかなる物も見逃さない猛禽類のような集中力がみなぎっている。
二人の下方に広がっているのは、碁盤の目のように整然とした街並みだ。
夜闇に乗じて仕掛けられた味方側の攻撃は優勢に進んでいる。
目的の屋敷周辺には騎馬を主力とした兵が配置され、数十年続いた争乱の『締めくくり』が近づいている。
そして屋敷の中にあるはずの『品物』への配慮から、兵たちは『火』を放つことを厳しく禁じられていた。
少女の声がぽつりと響く。
「キュウタ」
彼は本を閉じて顔を上げ、少女の視線の先を追う。
屋敷の裏手に、こそこそとうごめく小さな影が見えた。
「ちょっと遠いな。見える?」
ほんの少し身を乗り出したサザレ。意識を闇の向こうに集中させてうなずく。
「牛車が一台、鎧武者が七、八騎。女官も数人見えます」
本の角を唇に当てて思案するキュウタ。
「多分それだな。味方は気付いてるかな?」
「攻め手は屋敷に引きつけられています。おそらく包囲網をすり抜けるでしょう」
キュウタはふところに本をしまってサザレに目だけで合図する。
すでにわらじを履き終えた少女も無言でうなずき返し、かたわらに置かれた二本の刀を腰に差しつつ立ち上がる。
数秒後には、二人は原初魔法『硬化』で作られた『空気の階段』を滑るように駆け降りはじめていた。
◇
ミズホ国。
大陸東端から船で数日の場所にある島国。その対外的な名称である。
海という天然の防壁により、他国との領土のやり取りがほぼ皆無という極めて特異な歴史を持つ。その一方で、大陸から流入する文化が土着の風土と交じり合い、独自の発達を遂げている。
そしてこの土地は大槻キュウタという人間が生を受けた『ミズホ皇国』があった場所でもある。
ここでキュウタにとって一つ大きな『疑問』があった。
国号を始めとした社会や文化の傾向である。
今キュウタとサザレが体験しているミズホの歴史。それは少年が『転移』する以前この土地が辿った『前回の歴史』に酷似しているように思えるのだ。
ただ、キュウタ自身、幼少の頃から受けた教育が兵士としての課程が最優先であった。そのため歴史などについては正規の教育によってなされたものではなく、簡単な教養レベルの物である。
もちろん『前回の歴史』とどれくらい変わっているのか興味もあった。だが、少年がそれを詳細に確認する方法はないだろう。
あえて二つの『ミズホ』が似ている理由を推測するなら、ここが地理的に隔絶されていることが大きいかもしれない。
海によって周囲から隔てられた立地。
したがって大陸方面で行われた歴史改変の影響が比較的少なく、『前回の歴史』に近い道を辿っているのではないか。そういう仮説をサザレは『未来視』から示していた。
だが、どんな歴史を進む国にも争いの火種は必ず存在する。
この時代、それは帝を頂点にした公家と武家による複雑な二重行政構造のささやかな綻びから生まれた。
とある皇位継承に絡む混乱の結果、皇家が『分裂』して既に数十年が経つ。
『都』とその周辺は敵味方が忙しなく入り乱れていた。各地で散発的に起こる合戦と、虚々実々の政治的な駆引き。
人々の心には漠然とした不安が常に付きまとい、混沌とした時代が続いている。
だがこの夜、それはようやく終わろうとしていた。
◇
今宵の都に庶民が出歩く気配はない。乱れた世が数十年続いているのだ。物々しい空気を察することには誰もが長けている。
その一団は、背の高い築地塀に挟まれた道を進んでいる。
牛車の横に並んだ馬上から、大鎧姿の老武士が屋形の方へ顔を寄せる。辺りに注意を払いながら、中にいる人物に小声で注意をうながす。
「どうかお静かに。気付かれては終いです」
とは言え、蹄が道を踏む音はそうそう消せるものではない。無論、屋敷の方から上がる戦の騒がしさに比べれば小さなものではある。それでも徒歩にすべきだったかと老武士は今更ながら悔やんでいた。
だが今はとにかく、夜が明ける前に都から少しでも遠く離れなければならないと気を取り直す。
その時、一行の先頭で色めき立つ気配が生まれる。露払いを務めていた馬が急に暴れだし足を止めたのだと老武士は気付いた。
夜の町にこだまする馬のいななきに彼は気色ばむ。物音を聞きつけられて追手がかかれば、この小勢で凌ぎきることは難しいだろう。
老武士はどうにか感情と声を抑えつつ、先頭を行く若武者に問いを発する。
「何ごとかっ。気取られるぞっ」
「も、申し訳ありません、妙な奴が……」
相手が言い終わる前に、老武士はその人物を見て取った。
暴れる馬の目の前に一人の少年が立っている。両手には何も持っていない。
どこの町にもいるような風体だ。年の頃は十七、八といったところだろう。
だが何かがおかしい。違和感の正体に経験豊かな老武士はすぐさま気付く。
見通しのいい道にもかかわらず何の前触れもなく少年は出現していたのだ。胸の奥を何かがざらりと撫で上げる。
徒歩で牛車に付き従っていた女官たちに手を振って離れるように指示する。
そして彼はほとんど無意識に弓を構えて矢をつがえた。のっぴきならない相手だという直感があったのだ。
他の騎馬武者たちも何かを感じ取ったのかもしれない。みな素早く牛車の周りに馬を寄せて弓を構え、辺りの気配をうかがう。
暴れる馬をようやくなだめた先頭の若武者。彼は刀を抜いて少年に突きつけた。
「どけっ、下郎」
目の前で光る刃先にまったく興味を見せない少年。もの静かだが自身の行動を完全に自覚している視線が、馬に囲まれた牛車に向けられる。
「『神器』は牛車の中ですね?」
その言葉で若武者が相手へ遠慮する理由は消え失せた。
渾身の力で刀を振り下ろす。
まるで刃を激しく打ち合わせたような耳障りな音。牛車から離れて壁際にへばりついている女官たちが悲鳴を上げた。
若武者の顔が歪んだ。
少年の脳天に叩きつけたはずの刀。それが何の間違いか相手に傷ひとつつけられず弾かれたのだ。
小さくため息をついた少年が散歩でもするような足取りで、馬の横を通り過ぎる。
「おのれっ」
声を裏返らせた若武者は狂ったように刀を少年の頭に幾度も叩きつける。だがその全てが目に見えない壁のような何かに阻まれてしまう。
怒りとともに「うおおっ」と一際大きく声を上げて刀を振りかぶった若武者。
だが少年がひょいと片手を振った途端、相手の体が氷の中に閉じ込められたがごとく、ぴたりと身動きを止める。
若武者の口から漏れる混乱と恐慌の声。意味不明な罵声を上げて身をよじるが微動だしない。まるでふざけているようにしか見えない仕草が、彼の鬼気迫る形相とまるでそぐわない。
老武士が少年の頭に至近距離で矢の狙いを定める。表情の機微も読み取れるほどの間合いだ。外すことはあり得ない。
殺気を感じ取った少年がちらりと視線を相手に向けた。声はどこまでも平静で、敵意の欠片も見当たらない。
「戦の趨勢は決しました。これ以上の争いは無意味でしょう」
老武士にもそれは分かっている。だが主に忠を尽くす以外の生き方を彼は知らない。
だから彼は矢を放った。
他の武者も合わせて一斉に矢を射掛ける。妙に小気味良い音とともに全ての矢が弾かれて虚しく地に落ちる。
唇を噛んだ老武士の肩がわずかに下がる。腹の奥から何かが抜けるような気がした。
ほんのわずか眉根を寄せた少年。辺りをなぎ払うように片手を大きく回す。
まわりすべての武者たちから悲鳴に似た声が上がった。
そして老武士の体の周りにも圧倒的な拘束感が生まれる。力の限りに手足を踏ん張るが、文字通り指一本動かせない。
いななきの様子からして、馬も同じ状況に陥っているのだろう。
かろうじて動かせる首から上を回して少年を見る。しわがれた声が紡がれる。
「……二年ほど前から、妖しげな術を弄する者がいると聞く」
少年は何も答えず、老武士に肩をすくめてみせるだけだった。身動き一つ出来ぬ武者たちが響かせる怒声。その間をゆうゆうと通り抜けた彼が牛車の後ろに回りこむ。
御簾を上げて中をのぞき込んだ。
おびえきった女性の顔が少年を見つめる。彼女の上等な装束から伸びる袖や裾。そこに抱えられるように包まれているのはまだ小さな幼子だ。物心も付かぬこの子には、何が起きているのか理解できないだろう。ただきょとんとした顔を少年に向けていた。
女性が震える声を絞りだす。
「ぶ、無礼な……」
相手の反応に目もくれず、少年は屋形の隅に置かれた桐の箱を指差す。
「それが神器ですね?」
目を血走らせた女性の袖口から短刀の柄がちらりとのぞく。少年は忍耐強く言葉を接ぐ。
「御子のお命までは取りません。どうか神器を渡して下さい。それで世は安らかとなります」
互いに睨み合う沈黙がどれくらい続いただろうか。
やがて顔をくしゃりとさせた女性は短刀を放り捨てて、桐箱を少年の方へ押しやる。幼子を両手で抱きかかえた彼女が嗚咽をもらして体を震わせはじめた。
箱を開けて中を確認した少年が牛車の陰から出る。そして宙空を眺めると、指を一本立てて大きく腕を回す。
その視線を追った老武士は戦慄の表情を浮かべる。
屋根ほどの高さの『空中』に立っている女子らしき人影が少年に向かって片手を上げてみせていた。
少女は空中でふところから一枚の厚手の紙を取り出す。
手のひらからややはみ出すくらいの大きさだった。そこには月や星を示す抽象図形や、この国では見かけない文字や記号がびっしりと環状に描かれている。
瞑目した少女が胸の高さに紙を捧げ持つ。
そして歌うような言葉が少女の唇からこぼれだす。その特殊な『言語』を断片的にでも理解できる者は、この国に数人しかいないはずだ。
『この血を巡る力に告げる。鎖の環を解き素に還れ。我に従い光となれ』
紙の上に記された『魔法陣』が『呪文』を契機としてほんのりと青く輝く。
次の瞬間、少女が天にかざした指先から凄まじい『光』が発せられる。夜空に太陽が出現したかのごとく、あたりが昼にも負けぬ輝きに照らされた。相変わらず馬上で謎の力に拘束されたままの武者たちが、驚き声を上げて目をそむけてしまう。
そして老武士は理解した。
これは『合図』なのだ。
この輝きは屋敷を攻めている敵方にも容易に視認できるだろう。ここに敵が雪崩を打って駆けつけるのも時間の問題だ。もはや自分がなし得ることは何一つない。
夜の都を煌々と照らす光を見上げる老武士。長きに渡る戦いに終止符が打たれたことを悟った夜である。
その後、数ヶ月で事態は急速に収束していく。
人々の間にもようやく一息つけるという空気が漂い始める。社会は安定した運営を少しずつ取り戻し始めていた。
だがキュウタとサザレにとってこの争乱の収拾は、ただの事前準備に過ぎなかった。




